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2013年4月29日 (月)

豊臣滅亡を決定づけた?大坂夏の陣・樫井の戦い

 

慶長二十年(元和元年・1615年)4月29日、事実上、戦国最後の戦いとなる大坂夏の陣において、和泉南部で両者がぶつかったの樫井の戦いがありました。

・・・・・・・・・

ご存じの大坂の陣・・・くわしくは、【大坂の陣の年表】>>で、一つ一つの出来事を見ていただくとありがたいのですが、とりあえず、その経過をサラッとおさらいさせていただくと・・・

まずは、関ヶ原の合戦に勝利して征夷大将軍になった徳川家康(2月12日参照>>)にとって、最後の目の上のタンコブは、亡き豊臣秀吉の後を継いで大坂城に君臨する遺児・豊臣秀頼・・・

ちなみに、何度か書かせていただいておりますが、私個人的には、この頃の豊臣家は、一般的に言われているような徳川配下の一大名ではなく、未だ家康よりは上位であったと考えております。
【関ヶ原~大坂の陣~徳川&豊臣の関係】>>
【秀吉が次世代に託した武家の家格】>>
【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】>>
【家康×秀頼~二条城の会見と軍師・白井龍伯】>>
など、参照してくださいm(_ _)m

・・・で、何とか、そんな豊臣家をぶっ潰そうと、その秀頼が寄進した京都・方広寺の鐘銘に(7月21日参照>>)、家康がイチャモンをつけたところから始まった大坂冬の陣では一応の和睦となる(12月19日参照>>)ものの、翌・慶長二十年(元和元年・1615年)3月15日、京都所司代板倉勝重(かつしげ)から「大坂方に謀反の企てアリ」の報告を受けた家康は、翌・4月4日に、名古屋の息子の婚儀に出席するという名目で駿府を出発して10日には京都に入り、続く21日には、すでに家康から将軍職を譲られて2代将軍となっていた徳川秀忠も京都に入り、

いよいよ4月26日・・・豊臣方の主将格の大野治長(はるなが)の采配により、自らの弟・大野治房(はるふさ)と、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)配下の兵を含む約2000に大和郡山城を落し、大坂夏の陣の火蓋が切られ(4月26日参照>>)、続く翌・27日には、和泉の岸和田城を攻撃し、徳川方の兵の待機場所となっていた堺の町に火を放ち、さらに2日後の慶長二十年(元和元年・1615年)4月29日樫井(かしい・泉佐野市)にて両者がぶつかったというワケです。

この樫井の戦いに関しては、すでに3年前の同じ日づけで、これまでの経緯や、この日討死する塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)について、チョコッと書かせていただいているので(2010年4月29日参照>>)、少々内容がかぶるかも知れませんが、本日は『大坂御陣覚書』に沿ってのお話をご紹介させていただきます。

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樫井の戦いの戦場となった樫井川に架かる明治大橋(泉佐野市)

この日、徳川方に属する紀州(和歌山県)浅野長晟(ながあきら)を攻める先鋒として山側の熊野街道を行く団右衛門は、海側の紀州街道を行く岡部則綱(おかべのりつな・岡部大学)の軍が自分たちを追い越そうとしている事に気づき、声をかけます。

「おいおい、この合戦の先鋒は俺らや!
何、先に行っとんねん」

と・・・

すると則綱の配下の者は・・・
「いやいや・・・これでも、僕ら遅れてますねん。
大将は、手勢の2~3騎だけ連れて、もっと先に行ってはりますさかいに、僕ら、急がんといけませんねん」

「大将がルール違反なら、お前らもルール違反やないかい!」
と怒り心頭の団右衛門・・・

和泉路の案内人・淡輪重政(たんのわしげまさ)、紀州路の案内人・山口兄弟(兵内・兵吉)に先導されながら進んで行くと、やがて行く先で則綱を目に留めた団右衛門は
「お前…ルール違反して先越して、さぞや、ドエライ手柄をたてた事やろなぁ。
どんな手柄たてたか聞かしてくれへんか?」

と則綱に声をかけます。

「アホか!まだ、敵にも会うてへんのに、手柄なんかあるわけないやろ!」
と則綱・・・

「ルールを破ってまで抜け駆けするくらいやったら、相当の手柄が無いと済まされんわなぁ…是非とも、その手柄とやらを聞いてみたいもんやわ!」
と団右衛門が言い放つと、まさに、その場は一触即発状態で、今にも、二人の間で合戦が起きそうな気配・・・

慌てて、淡輪と山口兄弟が間に入り
「味方同士でモメてどないしますねん。
どっちがスゴイかの勝負は、これからの合戦でつけなはれ~~」

と、二人を静止し、なんとか、その場を納めます。

Dscf2550a650 やがて敵が近づいて来たところで、おもむろに兜をかぶって、何となく抜け駆けっぽい雰囲気で馬を前に出す則綱・・・

それを見た団右衛門は
「コラ!イザという時には一緒に行こなって約束してたやろ!」
と言いながら、さらに一歩前へ出て則綱の方を振り向くも、そのまま挨拶なしに駆けだしていきました。

それを見た則綱・・・
「団右衛門に遅れをとるな!」
と、自軍に声をかけ、いざ勝負・・・両軍入り乱れての合戦と相なります。

Dscf2594a600 ・・・で、合戦の結果は、以前(先の2010年4月29日のページです>>)に書かせていただいた通り、淡輪重政も塙団右衛門も討死・・・岡部則綱は、何とか戦場を離脱して落ち延びますが、その後は歴史の表舞台に登場する事の無い隠遁生活を送りました。

という事で、豊臣方の敗北となった樫井の戦い・・・
この後、5月6日
道明寺・誉田の戦い
【後藤又兵衛基次・起死回生の夏の陣】>>
【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】>>
若江の戦い
【若江に散った四天王=木村重成】>>
大坂夏の陣・八尾の戦い
【夏の陣・八尾の戦い~ちょっとイイ話】>>
と来て、

その翌日=5月7日大坂城総攻撃での真田幸村(信繁)が討死
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>

さらに翌日=5月8日大坂城炎上
【夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】>>

と、この樫井の戦いから、わずか9日で豊臣家が滅亡してしまう事で、その後の歴史を知ってる私たちから見れば、何やら、大坂夏の陣は、堀を埋められて裸城になった大坂城に、プライドの高い淀殿と秀頼が、負けを認めたくなくてムリヤリ籠り続けた、敗戦ありきの戦いだったように感じ、ドラマなどでもそのように描かれる事が多く、一般的にもその見方が強いのですが、

実は、今回取りあげた『大坂御陣覚書』では、本来なら勝っていたかも知れないこの樫井の戦いに負けた事が、豊臣滅亡につながるターニングポイントだった事が書かれています。

本来なら勝ってたかも知れない?
裸城の大坂城で、日雇い浪人ばっかりで?

と、お思いかもしれませんが、実は、兵の数には入らない地元周辺の民衆が豊臣家の味方だったのですね。

そう・・・この樫井の戦いの戦いに合わせて、地元住民が一揆を起こしていたのです(4月28日【紀州一揆】参照>>)

いや、地元住民だけではありません。

紀州はもちろん、熊野など、水軍を含む紀伊半島一帯が、豊臣方として一揆を起こしており、この戦いが決するまでは、むしろ、徳川方の浅野長晟の方が、紀州にて孤立無援だったのです。

ところが、その『大坂御陣覚書』では
「夫故一揆悉静り申候」
と、岡部則綱と塙団右衛門に代表される豊臣配下でのゴタゴタによって指揮命令系統が乱れた大坂勢は、統率が取れなくなり、軍が乱れて敗北につながったと・・・

さらに、ここで負けた事によって、一揆勢が一気に、大坂方から離れていったと・・・

果たして、夏の陣における豊臣家の勝算はいかほどだったか・・・という事は未だ謎ですが、少なくとも、一般的に言われているような
「何、意地はってんねん!絶対、徳川の圧勝やん」
てな戦いでは無かった可能性大
のようですね・・・
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2013年4月28日 (日)

藩の政府の財政建て直しに尽力した由利公正

 

明治四十二年(1909年)4月28日、幕末維新の動乱で、政治家・実業家として活躍した福井藩士=由利公正が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

文政十二年(1829年)に福井藩士・三岡義知の嫡男として福井城下に生まれた由利公正(ゆりきみまさ・こうせい)・・・

Yurikimimasa400 福井藩士時代は三岡八郎(みつおかはちろう)という名前で、由利公正は維新後に名乗った名前なのですが、このページでは由利公正さんで通させていただきますね。

公正の家は、藩士と言えど、決して裕福では無く・・・というより、この幕末の時代、ほとんどの藩が財政難なわけで、その影響は、当然、一般の藩士にモロ降りかかるわけで・・・

しかし、そんな中でも父の義知は息子をきちんと教育し、母も、家庭菜園を行って野菜類をまかないながら家計のやりくりをこなすしっかり者・・・という事で、公正も幼い頃から家の仕事を手伝いつつ、両親の背中を見て学ぶ好青年に育って行きます。

やがて天保九年(1838年)に松平春嶽(しゅんがく=慶永)が福井藩主に就任し、その後の初のお国入りの時に藩の財政再建を目指す新たな人材登用を実施した事で、公正はそのメンバーの一人に抜擢される事になります。

また、嘉永四年(1851年)に福井を訪れた熊本の儒学者・横井小楠(よこいしょうなん)(1月5日参照>>)実践的な殖産興業(産業の育成)策での経済再生に大いに興味をを持ち、その財政学を学びました。

嘉永六年(1853年)には、父の急死を受けて家督を継ぎますが、この年に起こったのが、あのペリー来航(6月3日参照>>)・・・藩の命令により、品川砲台場(8月28日参照>>)の警備についた公正は、ここで、あの黒船を目の当たりにし、「かの国に対抗するためには富国強兵(国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策)こそが重要」と実感し、故郷に帰ってからは、本格的な藩政改革に乗り出します。

もちろん、それは、以前からある「財政難だから倹約」という従来の政策ではなく、藩札を発行し、それを元手に生糸を買い、長崎のオランダ商館を通じて輸出・・・など、とにかく、お金を回して回して、、、困窮する藩財政を見事建てなおすのです。

もはや春嶽の右腕となった公正は、その春嶽が幕府の政治総裁職につくと側用人を務めますが、あの長州征伐の時に、出兵に反対して列藩会議を開く事を建白したために蟄居謹慎処分となってしまいます。

・・・が、この謹慎処分中、公正に会いたくて福井を訪れた人がいます。

あの坂本龍馬です。

当時、福井城下を流れる足羽川のほとりにあった公正の屋敷を訪れた龍馬は「三岡に話したい事がいっぱいある!」と言って、夜遅かったにも関わらず、かの小楠をともなって小船を横付け・・・その勢いのまま話はじめて、またたく間に意気投合し、3人は囲炉裏を囲んで、朝までしゃべりっぱなしの飲みっぱなしだったとか・・・

実は、この時に出た言葉が、あの「ニッポンを洗濯」だったり、その内容が、後に出来上がる「船中八策」(6月22日参照>>)のもとになったり?なんて事も言われています。

この時、あまりの楽しさに感極まった龍馬が
♪君がため 捨つる命は 惜しまねど
 心にかかる 国の行く末 ♪

と歌ったのだとか・・・

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「由利公正の邸宅跡」(福井市)

現在、足羽川に架かる幸橋のたもとの土手部分に「由利公正の邸宅跡」を示す石碑がありますが、その横には、この龍馬の歌碑もあります。

・・・で、結局、この夜に話した「新しい政府のやるべき経済政策」についての事が評価され(生前の龍馬が強く推していたとも…)、公正は、維新が成った後、参与として、明治新政府に出仕する事になります。

新政府では御用金取り扱いを担当する会計事務掛となり、太政官札を発行したり、大阪の問屋商人からの基金を集めたりなどして、新政府の財政的な基盤を作りました。

とは言え、さすがに、すぐさま結果が出るという類いの物では無いため、批判にさらされた結果、わずかの間で辞職に追い込まれていまいますが・・・

しかし、一方ではこの間、あの『五箇条の御誓文』(3月14日参照>>)の原本作成という大役もこなしています。

その後、明治四年(1871年)には東京府知事となり、その翌年には、アメリカやヨーロッパを訪問したあの岩倉使節団(10月8日参照>>)にも随行・・・晩年には貴族議員も務めた後、明治十七年(1894年)には、京都府知事・中井弘の助力を得て京都に設立した有隣(ゆうりん)生命保険会社の初代社長にも就任し・・・

やがて明治四十二年(1909年)4月28日81歳に及ぶ、その生涯を閉じたのです。

・・・と、そう、実は、これだけの手腕を持ちながら、公正は、新政府では大臣にすらなっていない・・・

これには、政略には長けていても、公正ほどの経済に関する手腕を持たない、大久保利通(おおくぼとしみち)木戸孝允(きどたかよし)など、薩長の派閥からの嫉妬があった、なんて事も言われますが、果たして???

さぁさぁ・・・今こそ財政再建!
派閥になんぞにこだわらない、平成の由利公正の出番ですゾ!
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2013年4月26日 (金)

DVに自殺未遂?…暴れまくりの後円融天皇

 

明徳四年(1393年)4月26日、南北朝時代の北朝第5代天皇・後円融天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・

南北朝時代の北朝・第4代・後光厳(ごこうごん)天皇の第2子として誕生した後円融(ごえんゆう=後圓融)天皇は、
(諱は緒仁=おひとですが、ややこしいので、今回は後円融天皇という呼び名で統一させていただきます)
建徳二年=応安四年(1371年)の3月21日に親王宣下を受けて立太子し、わずか2日後に北朝第5代天皇として即位しました。

南北朝時代の天皇様は、その動乱の渦に巻き込まれ数奇な人生を歩まれる方が多いですが、この後円融天皇も例外ではなく、このスピード即位には理由がありました。

そう、北朝内で、その後継者を巡っての対立が起こっていたのです。

実は・・・
すでにブログにも書かせていただいていますが、この後円融天皇の父である後光厳天皇・・・神器なし指名なしの前代未聞の即位をしたあの天皇です。

そもそも、南北朝でモメてるさ中に、室町幕府初代将軍である足利尊氏(あしかがたかうじ)と、その右腕として活躍した弟の足利直義(ただよし)が起こした大いなる兄弟ゲンカ=観応の擾乱(かんおうのじょうらん)10月26日参照>>)の時、この足利兄弟が相次いで南朝に降った事で、擾乱が終結した後に、いち時は正平一統(しょうへいのいっとう)という南北朝統一が成されていたのですが、その講和を結んだ第97代後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)が、完全武装で京都へやって来て、留守を預かっていた義詮(よしあきら=尊氏の息子)を都から追い出して制圧・・・(3月24日参照>>)

その後、巻き返した足利勢によって、再び南朝の本拠地へと撤退するものの、その時に、天皇経験者である光厳上皇・光明上皇・崇光上皇そして、皇太子に決まっていた直仁親王までを、南朝の本拠地である賀名生(あのう)へと連れ去ってしまったのです。

仰ぐ天皇がいなくなってしまった北朝では、急きょ、北朝第3代の崇光上皇の弟で、すでに仏門に入る準備をしていた弥仁(いやひと・みつひと)を呼んで、前代未聞の即位をさせたわけですね(1月29日参照>>)

こうして北朝に天皇が誕生した事で、拉致している意味がなくなった先の天皇経験者の方々は、まもなく、北朝側に戻されるわけですが、南朝とかりそめの講和を結ぶ際に拉致の状態にあった崇光上皇にとっては、その後のゴタゴタで異例の即位をした後光厳天皇は、急きょ即位しただけの1代限りの天皇だとの考えがあり、当然、その次に即位するのは、自分の系統の皇子であると思っていたわけです。

ところが、急きょとは言え天皇になった後光厳天皇だって、皇位は自分の皇子に譲りたいと思うわけで・・・

Goenyutennou600 で、結局、幕府管領細川頼之(よりゆき)の決定により、後光厳天皇の皇子が後円融天皇として即位し、崇光上皇の皇子は、新たに創立した伏見宮(ふしみのみや)家の初代当主という事になりました(1月13日参照>>)

この時、後円融天皇は14歳・・・この後円融天皇の時代に将軍職を務めていたのは、あの金閣寺で有名な第3代の足利義満(よしみつ)なのですが、実は、二人は3ヶ月違いの同年齢で、しかも、お母さん同志が姉妹・・・つまり従兄弟(いとこ)同志だったのですね。

以前書かせていただいたように、父の死を受けて、わずか11歳で将軍となった義満ですから(12月20日参照>>)、この時に同い年という事は、将軍とは言え、彼も、まだ14歳なわけで、その実権は、管領の細川家がほぼ握っていたわけですが、当然、その成長とともに頼之から離れて実力を発揮しはじめ、皆さまご存じのように、室町幕府の全盛期を築きあげて行く大将軍に、彼はなっていく・・・

と、そうなるとお察しの通り・・・

もともと、幕府にとっての天皇家は「錦の御旗」でしかない中で、ここに来て、もはや南朝は虫の息・・・おおむね北朝有利な展開に南北朝の動乱も沈静化して来れば、そのぶん、幕府の力は増大していくわけで・・・

関白を務めた事もある近衛道嗣(このえみちつぐ)などは、その日記『後深心院記』
「近日左相之礼(義満の事)、諸家の崇敬君の如し」
と書き残していて、まるで義満がこの国の王かと思えるほどの威勢だった事がうかがえます。

で、結局、あのスピード即位から11年後の弘和二年=永徳二年(1382年)4月、義満は後円融天皇に退位を迫り、拒否する天皇を尻目に、摂政の二条良基(にじょうよしもと)と結託して、後円融天皇の第1皇子である後小松天皇の即位式を強行するのです。

こうして、形としては上皇となって院政を開始する事になる後円融上皇ですが、それは、まさに形だけ・・・あらゆる事に義満が介入し、もはや朝廷には実権無し・・・

当然ですが、鬱憤が溜まりまくる後円融上皇・・・

翌・弘和三年=永徳三年(1383年)2月には、出産を終えて宮中に戻って来たばかりの正室の通陽門院厳子(つうようもんいんいつし=三条公忠の娘で後小松天皇の母)を、義満と浮気してるんじゃないか?と疑って、刀の峰(みね)で殴打しまくり、あやうく出血多量で命が無いかと思われるほどの重傷を負わせるという事件を起こします。

さらに、その10日後には、後円融上皇の愛人だった按察局(あぜちのつぼね)が、これまた義満と浮気してるんじゃないか?と疑い、彼女を出家に追い込みます。

身に覚えの無い義満が困り果て、弁明しようと使者を派遣すると、今度は
(義満が)自分を流罪にしようとしているのではないか?」
と、疑い、恐怖のあまり持仏堂に籠って切腹・・・自殺未遂を計りました

結局、自殺はできなかったものの、もはや後円融上皇に対する周囲の信頼度は失墜しまくり・・・その後は表だって抵抗する事も無くなりました。

やがて、元中九年・明徳三年(1392年)10月5日、南朝の第99代・後亀山天皇(後村上天皇の皇子)が北朝の後小松天皇に譲位する形で、ようやく南北朝が合一(10月5日参照>>)・・・

その世紀の瞬間を見届けるかのように、翌・明徳四年(1393年)4月26日後円融上皇は仙洞御所にて36歳の生涯を閉じました。

書に優れた才能を持ち、勉強が大好きで『後円融院御記』『後円融御百首』などの著作も残した後円融天皇・・・

その腕を奮いたい気持ちが強いからこそ、傀儡(かいらい=あやつり人形)としての自分自身に、我慢が出来なかったのかも知れませんね。
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2013年4月24日 (水)

柴田勝家自刃…福井・九十九橋の怨霊伝説

 

天正十一年(1583年)4月24日、越前北ノ庄城は炎に包まれ、柴田勝家とその妻・お市の方が自刃して果てました

・・・・・・・・・・

ご存じ、天正十年(1582年)の本能寺の変(6月2日参照>>)で亡くなった織田信長の後継者を巡っての争いで、信長の三男の神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)を推す織田家家臣筆頭の柴田勝家(かついえ)と、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)を倒して(6月13日参照>>)主君の仇を討った事で発言権を増したうえ、次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)を味方につけ、嫡孫の三法師(さんほうし)を推す羽柴(後の豊臣)秀吉・・・

事実上、勝家VS秀吉の覇権争いとなる中で、6月27日の清州会議(6月27日参照>>)で後継者は三法師に決定するも、納得がいかない勝家側・・・(10月15日参照>>)

やがてそれは、あの賤ヶ岳の戦いへと発展(3月9日参照>>)しますが、中国さながらの美濃の大返し(4月20日参照>>)で戻ってきた秀吉に、勝家は敗北・・・(4月21日参照>>)

本拠地の越前(福井)へと撤退して(2009年4月23日参照>>)北ノ庄城に籠城しますが、4月23日の夜に最後の酒宴を開いて(2010年4月23日参照>>)、翌日=天正十一年(1583年)4月24日妻のお市の方(信長の妹もしくは姪)とともに自刃して果てました(2007年4月24日参照>>)

・・・と、これらの一連の経緯は、上記のそれぞれの出来事のリンク先でくわしく見ていただくとして、本日は、その勝家自刃の後に起こった、、、こわ~~~いお話・・・(あくまで噂=都市伝説です)

・‥…━━━☆

ご存じのように、勝家亡き後、この北ノ庄城に入ったのは徳川家康の次男で秀吉の養子になっていた結城秀康(ゆうきひでやす=当時は羽柴秀康、後に松平姓)(11月21日参照>>)・・・

その秀康が大幅な改修工事を行って、北ノ庄城を巨大な城郭に変貌させたわけですが、3代め藩主となった松平忠昌(ただまさ)が、「北」は「敗北」に繋がって縁起が悪いとして、その名を「福居」、さらに「福井」と、城の名を改めたのです(4月11日参照>>)

しかし、異変は、この改名の頃から起こりはじめます。

毎年、勝家&お市の方の命日・・・つまり、旧暦の4月24日の丑三つ時(夜中の2時頃)になると、数百騎にもなる騎馬武者の行列が九十九橋を渡って南へと進んで行くのですが、なんと!その騎馬武者は全員首が無く、乗っている馬も首が無く、その傷口からは真っ赤な血がしたたり落ちているのだとか・・・

しかも、その翌朝は、決まって数人の死者が出るほか、夜中にその行列を見た者、あるいは、その話を誰かにしゃべった者&聞いた者も、ほどなく血を吐いて死ぬ・・・と噂されました。

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現在の九十九橋

九十九橋(つくもばし)という橋は、現在も、福井県内を走る北陸道が足羽川に交差する地点に架かっている、言わば交通の要衝となる橋なのですが、朝倉氏の時代からあったこの橋を、勝家が、南半分が石造、北半分が木造という半石半木に造り変えたと言われています。

これは、もし合戦があった時に、北半分の木造部分を壊して、敵の侵入を防ぐ意味があったとされていますが、この半分半分の橋は江戸時代にも、珍しい橋として有名だったのだとか・・

もちろん、現在の九十九橋は昭和六十一年(1986年)に架けられた物ですが、当時の雰囲気をイメージして再現された物が、「北ノ庄城址・柴田公園」に復元されています。

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柴田公園に再現された九十九橋

ところで、「見た者は死ぬ」なのに、なんで、騎馬武者や馬の首が無い事がわかるのか??

実は、それにはこんな話が・・・

享保十七年(1732年)、近くで表具屋を営む佐兵衛という者が、その好奇心から、「どうしても噂の首なし武者を見てみたい!」と思うようになりますが、絵も上手だった彼は、何とかその光景を絵に残せば、「万が一自分が死んでも絵が残る」と考え、死を恐れず、見る決意を固めたのです。

やがて、やって来たその夜・・・柳の影に隠れて見たその様子は、まぎれもなく首が無い噂通りの姿・・・しかも、柴田の馬印(決戦の時に大将の居場所を示す印)も確認しました。

まさに、勝家の亡霊・・・

慌てて自宅に戻り、見た光景を絵にしたためた左兵衛は、それを、ある武士から修理を頼まれていた桐の箱に隠しますが、案の定、彼は翌朝死体で見つかります。

佐兵衛の葬儀の後、箱の修理を依頼していた武士は、中に入っていた絵に気づきますが、「不吉な絵」だとして、すぐに庭先のたき火の中に投げ捨てます。

ところが、その途端に、火がついたまま宙に舞い上がった絵から、首なし武者の姿が浮かび上がったと思うと、絵はそのまま屋敷へと飛んでいき、武士の屋敷はもちろん、周囲の民家まで巻き込む大火事になったのだとか・・・

以来、江戸時代の福井の人々は、勝家の命日である4月24日の夜は、決して外出せず、灯りを消してうずくまり、万が一外でくつわの音がしても、決して外を見ないでやり過ごすようにしたのだそうです。

1度、その日が4月24日であった事を忘れて外出した老婆が、やはり首なし武者に遭遇・・・しかし、老婆は翌朝死ななかったので、「これは迷信だ」と思って家族に話した後、結局、1年後に水死体で発見されたなんて話も・・・

Dscf1118ab600 そんなこんなの九十九橋も、明治になって木造トラス橋(←写真)に架けかえられてからは、首なし武者が出現する事はなくなったとの事なので、ご安心を・・・

ただ、未だに噂があり、都市伝説として語られているこのお話・・・

・・・で、一つ、回避方法を・・・
もし、あなたが、福井で、この「首なし武者」に会い、武者から「何者か?」と問われたら、「勝家公の家臣にて…」と答えると、命までは奪われないとの事・・・

信じるか信じないかは、あなた次第ですm(_ _)m
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2013年4月23日 (火)

気はやさしくて力持ち…大井子の力石伝説

 

今日は、『古今著聞集』に残る、オモシロイお話を・・・

琵琶湖の西にある、現在の滋賀県高島市安曇川町安閑神社に、水口石あるいは力石と呼ばれる石があります。

ちなみに、その石の隣には、神代文字とおぼしき、見た事も無い文字が刻まれた石が鎮座していて古代史ファンにはけっこう知られた神社らしいのですが、今回のお話は、神代のお話ではなく、平安時代のお話・・・

・・・・・・・・・・・

その高島に住む大井子(おおいこ・おいね)という女性は、なかなかの器量よし・・・

あたり一帯に広い水田を所有していた彼女ですが、ある時、近所の村人たちと水の事で言い争いになってしまい、彼女の水田には水が割り当てられなくなってしまったのです。

もちろん、それでは、広大な水田は維持できないわけで・・・

やむなく、その夜に彼女は、闇にまぎれてひと作業・・・六~七尺(一尺=約30cm)四方はあるかという大石を担いで水門の所まで行き、その大石を横向きに置いて、他方へ行く水をせき止め、全部の水が、自分とこの田んぼに流れるようにしたのです。

翌朝、この光景を見た村人たちはびっくり仰天・・・あわてて大勢を呼び集めて、その大石をどかそうとしますが、100人がかりでも(そんなオーバーな(^-^;)その石はビクともせず・・・

また、これを大井子が一人で動かした事を思うと、もし、勝手にどかして、彼女が怒りでもしたら・・・と、恐ろしくなって、一同相談の結果、彼女にワビを入れる事に・・・

「水は使っても良いので、どうか石をどけてくれんか?」
と・・・

その申し出を快諾した大井子は、その日の夜に、またまた一人で大石を動かし、それ以来、広大な田んぼが干上がる事はありませんでした。

また、その後は水争いもなくなり、村も平和に・・・と、つまり、この大石が、安閑神社に残る石との事なのです。

Ooikohokusaimanga
北斎漫画に描かれた大井子の物語

一方、そんなこんなの高島に、一人の男が通りかかります。

彼の名は佐伯氏長(さえきうじなが)・・・越前(福井県)の人で、この7月に行われる宮中での相撲大会に参加すべく、京の都を目指して旅している途中の力自慢の男でした。

そんな彼が、ふと見ると、目の前には川の水を桶に汲んで頭の上に乗せて運ぼうとしている美目麗しい少女・・・

ひと目でその少女に心奪われ、素通りできなくなった氏長は、馬から降りて、その少女が桶をささえる腕をつかんだところ、彼女は微笑みを浮かべて、嫌がる様子でも無い・・・

「おぉ!これイケるんちゃうん?脈ありやん」
と、さらに腕を強く握りしめる氏長・・・

すると、彼女は、桶から手を放して、氏長の腕を小脇にかかえ、ギューっと挟みこみます。

好意を持ってる美目麗しい少女にそんな事されて、もう氏長は心ウキウキ(≧∇≦)

しばらく、そのままでいましたが、少女がいつまでたっても手を離さないのにたまりかね、彼女の小脇から腕を引き抜こうとしますが、これがビクともしない・・・

それどころか、逆に、腕を小脇に挟んだ彼女にグイグイと引っ張られ、いつしか彼女の家の中へ・・・

家に到着して片手に持っていた桶を置いた彼女・・・
「それにしても、真昼間から、いたいけな少女に、とんだお戯れを・・・いったい、あんたはんは、どこのどなたはんで?」

聞かれた氏長は
「僕は越前の者です。
今度、宮中で相撲大会があるんで、国々から力の強い者が召しだされて都へ行くんですが、僕は福井代表で、そこに参加するんですわ」

と、答えました。

「そうですかいな。
けど、危ない危ない・・・あんたは、もうちょっとでケガをするところやったで・・・」

「?」

「都は広いでっせ・・・しかも、今回は全国大会やないですか。
どんだけ強い人間が集まって来るか。
あんたはんは、弱いことはおまへんけど、そないに強い事もなく、全国大会に出られるほどの力量は持ってはりませんわ。。。
 

ここでウチに会うたんは、何かのご縁・・・
もし、相撲大会まで日にちがあるようでしたら、ここに20日間ぐらいいときなはれ。
その間に、ウチが鍛えてあげますさかいに・・・」

そう、彼女が先の大石伝説を持つ大井子だったのです。

まだまだ日数に余裕があった氏長は、言われるままに、ここに滞在する事に・・・

「どんだけハードなメニューが用意されてんねやろ?」

ちょっとドキドキの氏長でしたが、意外にも大井子が用意したのは、運動メニューではなく、食事のメニュー・・・

なんと、彼女の怪力で、思いっきり固く握った握り飯を食べるというもの・・・

ところが、これが・・・
食べるというより食べさされる・・・

始めは、固くて固くて、食べ割る事すらできなかった大井子特製握り飯・・・
やがて1週間経った頃、ようやく食べ割る事が出来るように、さらに次の1週間が経つと、もはや、普通に食べられるように・・・

こうして、20日間・・・彼女は毎日食事の世話をしました。

やがて約束の日・・・
「よう、頑張らはりました!
これまでになりはったら、めったな事で負ける事はおまへんやろ。
急いで、都へ行っといなはれ~」

送りだされた氏長は、その後の相撲大会で大いに活躍して名を挙げたのだとか・・・

・‥…━━━☆

「気はやさしくて力持ち」は、男性に対する褒め言葉・・・

今でこそ、女性アスリートも絶賛されますが、残念ながら、この日本でも、長い間、女性は非力でおしとやかなのが魅力的とされ、強い女性は敬遠され、疎外される傾向にありました。

上記の物語の中で、「大井子の田んぼには水をやらない」という一件も、おそらくは、そんな偏見から・・・

しかし、一方で、やさしく叱咤激励する母にも似たほんわかな雰囲気が感じられる大井子のお話は、そんな偏見にもめげず、頑張りながら強く生きた女性たちがいた事を物語っているのでしょうね。
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2013年4月22日 (月)

筒井順慶から羽柴秀長…大和郡山城

 

天正十一年(1583年)4月22日、筒井順慶の居城=大和郡山城の天守閣が完成しました。

・・・・・・・・・・・

この大和(奈良)の地に最初に郡山城を構築したのは、郡山衆と呼ばれる地元の土豪(どごう=特定の地にに根をはる小豪族)たちで、古くは平安時代頃から集団を形成して、何かしら城的な物を建てていたと言われています。

場所的には、あの平城京の都の西南端に位置する部分で、現在の郡山市内には、平城京の羅城門跡も確認されています。

そんな群雄割拠する土豪たちに対抗して来たのが、興福寺の僧兵だった筒井順昭(じゅんしょう)・・・

天文年間(1532年~54年)に周辺の土豪たちを次々と倒して傘下に組みこみ、大和一国をほぼ掌握ます(9月25日参照>>)

その順昭の息子が筒井順慶(つついじゅんけい)で、郡山衆を配下にした後に、居城である筒井城の支城として郡山城を構築しました。

しかし、父の死を受けてのわずか2歳での家督相続・・・その後、長きに渡って、大和へと進攻して来る松永久秀(ひさひで)の攻撃に悩まされ、防戦一方の順慶は、度々、その筒井城を奪われたりなんぞしてました(11月18日参照>>)

そんな中、その久秀が織田信長に反旗をひるがえしてくれたおかげで・・・

と、実は、それ以前・・・信長が、あの足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した際、いち早くすり寄って傘下に入った久秀に対して、順慶は遅れをとってしまったために傘下に入る事を断られ、当初は、その信長配下となった久秀に苦戦していたわけですが、そんな久秀が裏切ったとなると、逆に、信長からのお誘いは、順慶の方に向いて来るわけで・・・

もともと望んでいた信長からのお誘いを快く(←個人の心の中は見えないのであくまで想像ですが…)受けた順慶は、その後、信長の配下として一向一揆の鎮圧などに参加して、天正四年(1577年)には信長から大和の守護を命じられました

やがて久秀は、最終的に信貴山城に籠って爆死(10月3日参照>>)・・・その後は、信長の力を借りながらも、順慶は名実ともに大和の支配者となるわけですが・・・(10月7日参照>>)

そんな中で、信長が行ったのが例の城割です。

戦国時代には居城となる城の周囲に網の目のように張り巡らされていた支城・・・それを廃止して、一国一城と決め、その主となる城にて領主は領国を経営する・・・と、戦う城から統治する城への転換を計ったのが城割・・・(8月19日参照>>)

で、その城割のページでも書かせていただきましたが、この時、順慶が大和を治めるための城としたのが、自らの名がついた筒井城ではなく、この郡山城・・・

そこは、純粋に大和を治めるに良い点、また、防御に優れている点などを考慮しての選択だった事でしょう。

その城割から2年後に起きた、あの本能寺の変での順慶の動向は皆さまもご存じの事と思いますが(6月11日参照>>)、ここで、勝利した羽柴(後の豊臣)秀吉の配下となった順慶は、その翌年の天正十一年(1583年)4月22日、その郡山城に天守閣を完成させたのです。

しかし、そんな順慶は、これまた、その翌年の天正十二年(1584年)に若くして病死(8月11日参照>>)・・・

後を継いだ養子の定次は、まもなくの天正十三年(1585年)に伊賀上野へ転封となり、さらに、関ヶ原の後に突如として改易され、戦国大名としての筒井氏は幕を閉じる事になるのですが・・・

Kooriyamazyousi800
大和郡山城址

一方、定次が転封となった後の郡山城に入ったのは、ご存じ、秀吉の弟の羽柴秀長(ひでなが)ですね(1月22日参照>>)

豊臣政権下でNo.2の役どころである秀長が、その官位も大納言に出世し、郡山城を大きく拡張・・・現在に残る城の様子や城下町も、この秀長の時代の物と言われています。

ただ・・・
その権勢ゆえ築城に関わる人材は豊富であったものの、石の少ない大和では、築城のための石をめぐって争いが起きたとも言われ、現在残る天守閣の石垣を見ると、知らずに行った方は、一瞬、ドキッとされるかも知れません。

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は、天守台の石垣ですが、ご覧の通り、おびただしい数の石仏が使用されているのです。

これらは、道端にあった野仏や、城下町の都市開発工事で掘り出された物を、誰とはなしに、ここに運んできた物だそうです。

ちなみに、石垣には、かの平城京の羅城門の礎石も使用されているのだとか・・・

豊臣秀長の死後は、養子の豊臣秀保(ひでやす)が継ぎますが、彼も早くして亡くなったために、豊臣五奉行の一人=増田長盛ましたながもり)が入城しますが、豊臣秀吉(ひでよし)の死後に起こった関ヶ原の戦いの後は、建物の多くが伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)に移築され、城のあった場所に奈良奉行所が設けられ、徳川家康(とくがわいえやす)配下の大久保長安(おおくぼながやす)が在番しました。

大坂の陣の時には、その夏の陣の口火を切る戦いの戦場となった郡山城(4月26日参照>>)・・・

やがて、江戸時代は享保九年(1724年)に、柳沢吉里(やなぎさわよしさと)甲斐甲府(こうふ=山梨県)から移転して、現在に至る城下町を形成しました(3月3日参照>>)

ちなみに、現在有名な「郡山の金魚」は、この柳沢さんがペットとして、ともに連れて来た事から盛んになったと言われています。

🐟 

*郡山城址への行き方は、城下町の散策を含め、本家HP:奈良歴史散歩「大和郡山・散策」>>でご紹介していますので、よろしければご覧くださいm(_ _)m

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2013年4月20日 (土)

会津戦争の呼び水…世良修蔵の暗殺

 

慶応四年(1868年)閏4月20日、長州藩出身で奇兵隊の総督を務めた事もある世良修蔵が、仙台・福島藩士の急襲を受けて斬首されました。

・・・・・・・・

周防国大島(山口県大島郡)の大地主で庄屋も務める名家に生まれた世良修蔵(せらしゅうぞう)は、その裕福さゆえ、幼い頃から有名な漢学者や儒学者の教えを受け、さらに17歳の時には藩校=明倫館(めいりんかん)に学んで高い教養を身につけ、自他ともに認める秀才に成長します。

さらに、同じ周防大島出身の僧=月性(げっしょう)の影響で海防論(海岸線における国防に関する論議)に目覚めた彼は、熱心な攘夷論者(外国を排除したい派)となり、20歳を過ぎた安政二年(1855年)の頃からは、吉田松陰(よしだしょういん)(11月5日参照>>)梅田雲浜(うめだうんびん)(9月14日参照>>)らとも交流し、長州藩内でも有名な存在となっていきます。

Serasyuuzou500 やがて江戸に出て、さらに学問を磨き、文久三年(1863年)には、長州藩の重臣である浦靱負(うらゆきえ・元襄)の養子となり、後に、その浦家から世良姓を賜って、世良氏を継いだ事で、その後は世良修蔵と名乗ります。

同時期に、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)が結成した奇兵隊(12月16日参照>>)に入隊して書記を務めますが、やがて、その活躍から、その奇兵隊の軍監にまで上り詰め、慶応二年(1866年)に勃発した第二次長州征伐=四境戦争では地元=大島口(6月13日参照>>)で奮戦します。

結局、この第二次長州征伐は、江戸幕府第14代将軍=徳川家茂(いえもち)の病死(7月20日参照>>)を受けて終結する事になりますが(7月27日参照>>)、ここで、長州というたった一つの藩を相手に、幕府が大いに手間取ったのを諸藩が目の当たりにした事、さらに、この年の暮れに孝明天皇が崩御された(12月25日参照>>)事などを受けて、時代が倒幕へと大きく動いて行く事になります。

翌・慶応三年(1867年)10月14日に第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)による「大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)・・・と前後して下った「討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)

さらに12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・そして、その翌年の正月3日には、あの鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)が勃発するわけです。

修蔵は、この鳥羽伏見の戦いでも奇兵隊や遊撃隊の兵士たちを率いて最前線で活躍・・・やがて、1月6日の将軍・慶喜の敵前逃亡(1月6日参照>>)を受け、戦いは1月9日の大坂城開城を以って終了しますが(1月9日参照>>)、ご存じのように、この戦いは、ここから戊辰戦争と名を変えて、官軍となった薩長(薩摩と長州)軍によって、さらに東へと移動していく事になります。

この時、東海道や中山道を進んだ官軍は、3月の勝沼戦争(3月6日参照>>)を経て江戸に到着し、ご存じの江戸城無血開城へと進んで行く(3月9日参照>>)わけですが、一方で、その矛先は、北陸や東北へも向けられる事になり、奥羽鎮撫(おううちんぶ)総督となった九条道孝(くじょうみちたか)参謀として、修蔵は奥羽の征討に派遣される事になったのです。

一説には、この修蔵の参謀就任を京都にて聞いた同郷の品川弥二郎(しながわやじろう)(4月14日の後半部分参照>>)が、
「えらいヒドイやつを任命したもんや」
と、ポツリと言ったとか・・・

実はこの修蔵さん・・・ご命日に悪口っぽい事を書くのは心苦しいのですが、あまり評判がよろしくない・・・

今回の東北への出兵の際にも、事前に味方となる事を表明している仙台藩主・伊達慶邦(だてよしくに)や重役などに対して、官軍を笠に着た横柄な態度で接してみたり、

あるいは、行く先々の宿でも、やはり官軍の名を出して朝から芸者をあげての酒宴三昧で大騒ぎしてみたり・・・

そんな中、この頃の東北の諸藩では、トカゲのしっぽ切りのごとく慶喜から見捨てられ、征討の対象となってしまった会津藩(2月10日の前半部分参照>>)を、近隣のよしみで何とか救おうと、官軍側に立っている仙台藩や米沢藩が中心となってイロイロと方法を模索していたのです。

閏4月11日には、東北の14藩の重臣が仙台藩領の白石城(宮城県白石市)に集結し、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)も同意しての『会津藩救済の嘆願書』が作成され、仙台・米沢両藩から奥羽鎮撫総督府へと提出されました

ところが、その嘆願書を受け取った修蔵は、それを握りつぶして徹底抗戦を主張し、逆に、それらの東北諸藩へ、会津討伐の催促をしたのです。

それでも、東北での戦争を回避したい諸藩・・・当然、修蔵の存在が、その大きな障害として認識され「アイツさえいなければ…」といった感情が徐々にこみあげて来るわけですが・・・

そんなこんなの閏4月19日・・・修蔵は、同じく奥羽鎮撫総督府の参謀となっている薩摩の大山綱良(つなよし)宛てに密書を送るのですが、それが、送付を依頼された福島藩を通じて、仙台藩の重役の手元に渡ってきます。

しかも、その手紙の中には『奥羽皆敵』の文字・・・「特に仙台藩や米沢藩には油断するなよ」と・・・

当然、この内容を知った仙台藩士たちは激怒します。

かくして慶応四年(1868年)閏4月20日未明・・・福島城下の金沢屋なる宿で遊女とシッポリやっていた修蔵を、仙台藩士の姉歯武之進(あねはたけのしん)十数名が襲撃します。

彼らの襲撃を知った修蔵はピストルで反撃しますが不発・・・ボコボコにされながら裏口に引きずりだされた際には、震えながら命乞いをしたと言いますが、当然、もはや時遅し・・・

阿武隈川の河原にて斬首されました。

これをキッカケに田中左内(たなかさない)率いる会津部隊と、それに賛同した旧幕府軍生き残りが、奥州街道の要所・白河城を包囲して、会津戦争の幕明けとなる白河口攻防戦(5月1日参照>>)が開始されるです。

一説には、その家族まで悲惨な末路となったと言われる世良修蔵・・・最終的に勝利者となった官軍の人でありながら維新の立役者にはなれなかった・・・

自業自得と言えばそれまでですが、本日の主役なので、あえて一つ弁解をさせていただくならば、おそらく、彼は、裕福な庄屋の家に育った事で、高い教養は身につけていたかも知れませんが、武士のたしなみといった感じの教育を、ほとんど受けていなかったのではないかな?なんて思います。

幕末という猛スピードで進む時代の中で、何も身につけないまま、いきなり出世して、いきなりサムライの・・・それも上層部の人たちを相手にせねばならない立場に立ったわけで・・・

もし、彼が、もっと幼い頃に武士の養子となり、それなりの教育を受けていたら、その態度も変わっていて、こんな悲惨な末路にはならなかったのかも知れません。

あくまで、もし・・・ですが
 .

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2013年4月19日 (金)

アンケート企画「最高の「女傑」は誰?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケート「あなたが思う日本史上、最高の『女傑』『烈女』は誰?」結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
というより、今回は、すべての時代を一気にやっちゃったのがちょっと・・・という感じでしたね~

もう少し、時代を限定するか、あるいは武勇優れた人、政治家としてスゴイ人など、ジャンルに分けたほうが良かったかも知れません。

そこのところは反省しながらも、とりあえずは、結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
29票
北条政子
やはり、知名度がハンパ無いぶん、多くの票を獲得しましたね。。。さすがです!
2位
15票
巴御前
やはり…強さではダントツですからね
3位
9票
高台院(おね)
こちらも知名度バツグン…豪快な雰囲気で人当たりもよさそうです
4位
8票
神功皇后
意外?と言っては失礼ですが、4位とはなかなかのものですね~
5位
7票
日野富子
くわしく知らなくてもお名前は有名ですから、知恵で男をしのぐというところでの票の獲得ですかね?
6位
6票
井伊直虎
知名度のワリになかなかのガンバリ…ブログで推した甲斐がありました!
7位
5票
成田甲斐姫
新島
(山本)八重
奇しくも話題の映画と話題のドラマのヒロインが並びました~どちらも武勇優れたカッコ良さ
9位
2票
吉岡妙林尼
龍造寺慶誾尼
八百屋お七

夫亡き後に家を守った尼さんお二人と恋に生きた乙女…ちょっと伸び悩みました
12位
1票
和気広虫
青岳尼
今川寿桂尼

スンマセンm(_ _)m完全に個人的好みで選択肢に入れた方々…
15位
0票
赤松洞松院
少々、知名度が低すぎましたか…残念ながら0票でした
その他 25票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他 持統天皇ってダメでしょうか…(40歳代/女性/静岡)
「いえいえ、むしろ選択肢に入れなかったコチラのミスでおますm(_ _)m」
北条政子 知ってる人が少なくて、ごめんなさい。(50歳代/女性/茨城)
「やはり時代劇の主役は男性が多いですからね~」
その他 小松姫はどうでしょうか。才色兼備だけに有らず、筋を通す人柄、良妻賢母の誉も高い…のか…?(贔屓が過ぎるかも…?…です。)(40歳代/男性/大阪)
「小松姫もスゴイです!さすがは忠勝の娘、真田の嫁…」
妙林尼 女性ならではの戦いをした妙林尼はあっぱれ!(60歳代/男性/神奈川)
「見事!手玉に取ったって感じですね~」
その他 鵜野讚良皇女こと持統天皇に一票です!(30歳代/女性/神奈川)
「ハイ!今度は皇室関連の女性限定でアンケートやってみます!」
その他 小松姫に一票。東国無双譲りの勇敢さと明治維新まで続く真田家の基盤を作った内政手腕はまさに女傑と言えると思う。(10歳代/男性/大阪)
「そうです!真田家を守ったのは、お兄ちゃんと小松姫ですから…
その他 持統天皇かな。大津皇子の抹殺とか中々できないと思います。(30歳代/男性/岐阜)
「まさに女帝…ですね
神功皇后 国を守ろうとした、ということでこの方(50歳代/男性/福井)
「海外まで…ですからね」
甲斐姫 実在したと言う前提で。父を城主に返り咲きさせた剛毅さ。(50歳代/女性/埼玉)
「美しい姫の颯爽とした姿を妄想してしまいます~」
巴御前 茶々サンとこですから…当然ですよね。(50歳代/男性/静岡)
「おぉ!知っていてくださいましたか!私の義仲&巴好きを…」
神功皇后 八幡と共に祀られた伝説の武人ですから。格が違います(20歳代/男性/秋田)
「海の波まで味方につけますからね~」
北条政子 我が子さえも一族のためなら切り捨てる冷血さがかなりすさまじく感じるので
「尼将軍ですもんね~」
巴御前 一騎打ちと最後の別れる所がカッコいいです(20歳代/男性/滋賀)
「木曽殿にお見せする最後の戦!!あの天冠の姿がたまりませんなぁ」
八百屋お七 狂おしく逢いたい心が放火へと走らせた また逢うためには町も犠牲にしてしまう凄まじき女心がいじらしい
「ドラマとして見るぶんには、これほどドラマチックな話もないですもんね~
慶誾尼 鍋島家の発展はこの人のお陰(40歳代/男性/千葉)
「ハイ!ゴッドマザーですね」
北条政子 承久の乱の時に,御家人の前で行ったという「演説」がすごい。これは「東鑑」が原典だと思うが,本人の起草ではないかもしれないけど,素晴らしい。さすが「尼将軍!」(40歳代/男性/鹿児島)
「チラリと涙を見せるところもニクイ!」
その他 誰が何と言おうと持統天皇が日本史上、最高の女傑です。(40歳代/女性/愛知)
「やはり女傑と言えば!!って感じですか」
北条政子 手段を選ばぬ所に凄みを感じます。(30歳代/男性/神奈川)
「夫に父に息子に…妻・娘・母より政権を守った人ですから」
その他 天照大御神、卑弥呼(50歳代/男性/東京)
「女性は太陽ですからね」
その他 すまん ほぼわからん
「スンマセンm(_ _)mちょっと個人的好みに走り過ぎましたかね~」
北条政子 この人が一番有名って気がする…(30歳代/女性/愛知)
「確かに、教科書でもその名が光ってますから…」
北条政子 有名な女性ですし・・・(40歳代/男性/千葉)
「知名度バツグンですね
神功皇后 八幡社の氏子と神功皇后さまに一票。今必要な事は國學の復興。具體的には日本国憲法といふ占領下の取り決めは即刻無効確認せねばなりません。(30歳代/男性/大分)
「教科書から消えて久しいですね~」
その他 樹木希林(男性)
「確かにドッシリしてます」
巴御前 女傑・・・となれば(60歳)
「強いですからね~」
その他 卑弥呼(60歳代/男性/大阪)
「謎に包まれ具合が魅力的?」
井伊直虎 戦乱の時代、内外に脅威が蠢く中で家を領地を守り抜いたのは(ましてや男社会の中で)女傑に相応しいかと(30歳代/男性/埼玉)
「次世代へつなぎましたから…」
その他 前田まつ。武勇伝は聞かないが、自ら人質として江戸に入り、加賀百万石を救った事で。家康はオドオドしてたらしい。
「ドッシリしたおカミサンのイメージがあります」
甲斐姫 妙印尼の孫で東国無双の美人、忍城や岩代福井城での活躍、秀吉の側室、天秀尼の側近として東慶寺に入り、会津騒動にもかかわっていたら面白いのにね(50歳代/男性/埼玉)
「そうそう、会津の話も…伝説通りだとウレシイですね」
北条政子 なんとないイメージで。(60歳代/男性/兵庫)
「やはり、そうですね」
巴御前 痛快なのは甲斐姫ですが、女武将ならやはり巴御前でしょう。その他なら、大山祗神社に残る唯一の女性胴丸を着た鶴姫。(50歳代/男性/兵庫)
「村上水軍の鶴姫もいいですね~」
新島八重 巴御前と迷った。けど、今大河ドラマにどはまり中やし、幕末の動乱を駆け抜けたから。生き様に惚れる。(10歳代/女性/大阪)
「今年の主役ですからね~」
巴御前 「ねじ切って捨ててんげり。」やっぱインパクト強いです!!!(10歳代/男性/東京)
「大の男を素手で『ねじ切って』…ですからね~」
新島八重 自分を持ってるってカッコ良すぎです(40歳代/女性/宮城)
「大河ドラマも。そろそろ見どころに入りましたね
甲斐姫 戦国一の女傑と思っております(50歳代/男性/東京)
「美人ですしね」
その他 光明皇后。藤原氏に闇に葬られた人達には悪いですが(南無南無)、悲田院と施薬院の面で一票です(女性/岐阜)
「確かに…福祉の点では日本初の試みですからね
井伊直虎 井伊家再興の肝っ玉母さん!(40歳代/男性/愛知)
「天海さんには、信長ではなく、こっちをやってほしかったです」
その他 持統天皇でしょうか。大津皇子ファンなので複雑ですが、信念の為にはぶれない姿勢に女傑を感じずにはおれません。(40歳代/女性/兵庫)
「孫へのバトンタッチのために氷の女帝に徹しましたね」
その他 なぜいない・・立花ぎん千代 別居しても敗戦した夫を迎える・・・力や権力だけが女傑じゃない、戦国を生きる女として覚悟を決めた意味での女傑(30歳代/男性/埼玉)
「おぉ、そうです~選択肢ミスですね~またジャンルや時代を設定してやってみます」
その他 持統天皇も、なかなかのお方かと・・・。(40歳代/女性/愛知)
「なかなかどころか…スゴイです」
高台院 主観も入っていますが・・・下剋上の象徴たる秀吉を支え続けただけでなく、秀吉亡き後のふるまいも品格があると思います(^^)/(40歳代/女性/兵庫)
「日本のオカミサンですね」
巴御前 義仲は討死をせんずるなり。最期の軍に女を具したりなど云われん事、くちをしかるべし……平家物語が語る悲傷の別れですね。(60歳代/男性/東京)
「武勇優れて情がある…ホント魅力的です」 
慶誾尼 主流からはずっと離れていますが一応は押しかけ先の末裔なので…(;^_^A(40歳代/男性/埼玉)
「やはりご先祖様は推したいですね~」
その他 県犬養橘三千代を推薦します。藤原女子の皇后→生まれた皇子を幼帝に という日本中世の基礎を作った女傑ですから。(30歳代/女性/鳥取)
「橘という姓を賜った女傑ですからね~」
その他 小松姫に1票です。容姿端麗にして剛毅。されどきめ細やかな性格でもあり魅力的な女性だったと思います。(40歳代/男性/兵庫)
「強いけど、気のつく嫁でもありましたから」
その他 真っ先に頭に浮かんだのが片倉喜多です、独眼竜を育てた方ですから…斜め路線で行ってみました。(女性)
「独眼竜ののそばに片倉あり…ですね」
巴御前 嫁に貰えばセコム不要(30歳代/男性/茨城)
「逆に、ご機嫌をそこねないよう注意を払わねば!」
北条政子 女傑と聞いて真っ先に思いついたのが政子さんでした(30歳代/女性/兵庫)
「初めての武士政権も政子さんあればこそ!」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧こださい)
その他 大浦慶(高来郡司さん)
北条政子 (レッドバロンさん)
神功皇后 神功皇后(マー君さん)
北条政子 (からあさん)
日野富子 (清花さん)
巴御前 (清花さんの娘さん)
その他 英勝院(やぶひびさん)
山本八重 (伊集院みちこ さん)
巴御前 (アルプスさん)
和気広虫 (ティッキーさん)
その他 華岡青洲の妻(ティッキーさんのお母様)
その他 春日局(千さん)
その他 立花誾千代(ぱふさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2013年4月16日 (火)

奈良の昔話「楠の木の秘密」…金閣寺・建立にちなんで

 

応永四年(1397年)4月16日、第3代室町幕府将軍・足利義満が建立した金閣寺の棟上式が行われました。

・・・・・・・・

って事で、本日は、その金閣建立にまつわる昔話・・・奈良は大和高原地方に伝わる『楠の木の秘密』を・・・

と、その前に・・・

足利義満(あしかがよしみつ)については
【将軍権力の確立に生涯をかけた足利義満】>>

有名な、金閣と銀閣の違いについては
【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】>>

など、ご覧いただけるとありがたいですo(_ _)oペコッ

・‥…━━━☆

昔々、伊賀の国に、たいそう腕のたつ木こりがおりました。

その頃、都では、金閣寺の1枚天井を作るのに必要な、大きな楠の木を探していましたが、その一報は、その伊賀の木こりのもとにも届いていて、

「よっしゃぁ!きっと俺が、立派な楠の木をい見つけて、金閣寺の天井をふいて見せるゾ!」
と、はりきって、伊賀街道のあっちへこっちへと、立派な楠の木を探し求めて歩いておりました。

そんなある日、堂が谷と呼ばれる場所まで来ると、まわりが八間(1間=約1.8m)ほどある、それこそ見上げるような、立派な楠の木を見つけます。

「キタ━(゚∀゚)━! キタ━、これこそ、探しとった木やないかい!」

早速、仲間の木こりたちを呼んで、ギーコ ギーコ…と木を切りはじめます。

すると、切った場所から、ポタリポタリと、赤い血のような液体がこぼれ落ちはじめました。

「なんや不思議やな」
「きしょくわるいな」

と思いながらも、何とか、皆で切り倒して、とうとう最後の一息・・・というところまできます。

ところが、その時・・・
突然、枝の1本がパシッという音を立てて折れ、一人の木こりの目を直撃・・・その木こりは倒れてしまいます。

しかし、それと同時に、ともかく木は切り倒したわけですから、
「ほな、今日はここまでにして、続きは明日にしようや」
と、その日の仕事を終えました。

そして次の日の朝・・・

再び、楠の木のところに行ってみると、あら不思議・・・枝も幹も葉っぱも根っこも、皆、もとどおりにしっかりとひっついて、何事も無かったかのように、スクッと立っています。

「なんでや?
倒したはずの木がもとどおりになってるやないかい!」

不思議がる木こりたち・・・

しかし、考えても理由なんてわかりません。

「とにかく、昨日の仕事終わりから、今朝にかけての間に何かあったわけや」

・・・と、そこで、例の木こりは、その日の夜は、家に戻らず、その木のそばで夜通し過ごして、様子を観察する事にします。

落ち葉を集めて、居心地の良い布団を作り、そこに寝っ転がって、一夜を過ごす事にしました。

やがて夜の林の中は、真っ暗闇・・・時おり、フクロウがホウホウと鳴き、まさに静まり返っていきます。

しかし、そんな中、その静けさを破るかのように、ゴウゴウと聞いた事も無いような音がしてきました。

「なんや?なんの音や?」
木こりは身構えながら、葉っぱの影に身を隠し、木の葉の間から、ソ~ッと楠の木に方を観察します。

「んん?」
と思いながら、その目を上の方へ向けると・・・なんと、空から天狗が降りて来るではありませんか!

「楠の木さん、楠の木さん。。。ほんま、びっくりしたでぇ~具合はどないやねん」
と天狗・・・

すると楠の木は
「おやおや天狗さん、見舞いに来てくれたんかいな。
ありがとな~
けど、ご覧の通り、ワシは、なんぼ切られても大丈夫や!
元気!元気!」

「ほな、良かったわ」
「けどな、ナイショやけど、実は、ワシにも苦手なもんがあってな」

「ほう、そうかいな」

「それはな、アラメ(昆布の1種)を炊いた汁や。。。
あのだし汁だけは、どーもアカンのや。
あれをかけられたら、ワシもおしまいやねんけど、その事は誰も知らんさかいに、まぁ、安心やけどな」

「そうか、そうか、とにかく無事で何よりや!
ほな、お大事にな~」

当然、この会話を草の影で聞いていた木こり・・・

「しめしめ、ええ事聞いたゾ!
アラメの汁か…なるほどな」

次の明け方、木こりは早速、伊賀の自宅に戻り、せっせとアラメを炊き、そのだし汁を大きな壺に詰めて、堂が谷の楠の木のもとへ・・・

その木の根元に、アラメの煮汁を、一振り二振り・・・と振りかけると、木の中からした「チチチ…」という音とともに、葉っぱがハラリと落ち、幹が灰色に変色したかと思うと、ひとりでに、大きな楠の木がポッキリと折れ、ド~ンという音とともに倒れました。

Dscn1990a800 鹿苑寺・金閣

そうして、この木は都へと運ばれ、金閣寺の1枚天井になりましたと・・・さらに、この木を手に入れた木こりたちも、たいそう出世したそうな。。。

おしまい

・‥…━━━☆

う~~ん。なんとも複雑なお話ですね~

それこそ、誰かの作によるおとぎ話ではなく、口伝えで伝えられている昔話なので、そこに、勧善懲悪や感動美談ばかりを望んではいけないのでしょうが、なんとなく、切られた楠の木の味方をしたくなりますね~

これも、室町幕府という権力に対しての、ちょっとした抵抗?・・・相手の印象を悪くするネガティブ・キャンペーン?なのかも
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2013年4月15日 (月)

将軍・家光に苦言を呈した傅役・青山忠俊

 

寛永二十年(1643年)4月15日、徳川家に仕えた譜代の家臣・青山忠俊が66歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・

後に、常陸国江戸崎藩(茨城県稲敷市江戸崎)の初代藩主となる青山忠成(ただなり)の次男として生まれた青山忠俊(あおやまただとし)・・・

以前、弟の青山幸成(よしなり・ゆきなり)のページ(2月16日参照>>)で、同じような話が残るお兄さんの話としてチョコッと紹介させていただいたのですが、本日は、そのご命日という事で忠俊さんのお話を・・・

忠俊の青山氏は、もともと三河国額田郡百々村(愛知県岡崎市)出身の国人で、祖父=忠門の時代から、三河岡崎城主松平清康(きよやす)(12月5日参照>>)、その息子の松平広忠(ひろただ)(3月6日参照>>)、そして、さらにその息子=徳川家康に仕えていた事から、忠俊も家康に仕え、その後、第2代江戸幕府将軍となった家康の3男=徳川秀忠(ひでただ)に仕えるようになります。

やがて慶長八年(1603年)には5000石を与えられ、慶長十二年(1607年)には、後に第3代将軍となる徳川家光(いえみつ)傅役(もりやく=後見人)を務めるようになるのですが、

とにかく、この方・・・気性が強く、信念を曲げないところがある・・・

もちろん、それには、その自信に伴う実力もあったわけですが、幕末の館林藩士=岡谷繁実(おかのやしげざね)がまとめた『名将言行録(めいしょうげんこうろく)によれば・・・

1度会った人物の名は、そのたった1度で覚え、2度と忘れる事は無く、次に会う時には、必ず名前を呼んで挨拶するという驚異の記憶力の持ち主だった彼に、ある人が、「どうやったらそんな事が出来るのか?」と聞いたところ、

「意地の奇麗と黒(きたな)きにて、覚らるゝと覚られざるあり」
と答えたと・・・

つまり、誰だって気を使わねばならない上司や、仕事の取引先の相手など、大切だと思う人の名前は1発で覚えるはず・・・しかし、相手が取るに足らない人間だとバカにしているから、その相手の名前を覚えられない・・・自分は、どんな下っ端の人物に対しても、大切な人物と平等に考えられるので、1回でバッチリ覚えるのだ・・・
というような事を、笑いながらあっさりと言ってのけたのだとか・・・

とは言え、それを言いかえれば、上司にだって、下の者と同じように接するという事なわけで・・・

そう、実は、傅をしてる家光に対しても、思うところがあれば、歯に衣着せぬ言いまわしで叱咤していたのだとか・・・

Tokugawaiemitu600 『徳川太平志』によれば・・・
家光に苦言を投げかける時には、まず、両刀を投げ捨て、もろ肌脱いで、家光のもとにすり寄り、
「この事を聞いてくれはれへんねやったら、僕を斬り刻んでください!」
と、迫ったのだそうで・・・

ただ、そこには上記の通り、私利私欲はなく、その苦言は、それこそ「家光のため…」なわけで、そこは家光自身も感じとっていたのか?
元和六年(1620年)には5万5000石に封じられて岩槻城主となり、家光政権下では老中まで務めました。

ところが・・・です。

いきなり、元和九年(1623年)10月19日に、家光の命によって老中を免職され、上総国大多喜藩:2万石に減転封・・・さらにその後、寛永二年(1625年)には除封され、下総国千葉県北部)網戸から相模国(神奈川県)溝郷、さらに遠江国(静岡県西部)小林を経て、最後には、相模国今泉村にて隠居の身となりました。

この理由については、徳川の公式記録には「ゆえあって…」としか書かれておらず、本当のところは藪の中なのですが、

先ほどの『名将言行録』によれば・・・

ある時・・・
家光が、ハヤリの短い羽織を着て、髪を、やはりハヤリの「白紙の引裂」で結んで外出しようとしたところ、それを見つけた忠俊が駆け寄って来て、その「白紙の引裂」取ってしまった・・・とか、

また、ある時・・・
踊りが大好きで、伊達男(オシャレ男子)に憧れる家光が、派手派手な着物に身を包み、丁寧に髷を結い、前後に鏡を置いて、その合わせ鏡に自身を映して、ウットリしながらお化粧していたところ、その鏡を取りあげて庭に投げつけてひと言・・・
「天下を治めよかという人が、そんなはしたない事して!世が乱れまっせ!」
と・・・

それこそ、『名将言行録』は後世に書かれた物なので、どこまで信憑性があるかは定かではありませんが、細かな事は別として、左遷の原因と思われる物は、やはり、忠俊の家光に対する苦言の数々であったのだろうと言われています。

しかし、最終的に、あのような結果になった後も、忠俊は、家光の事を恨む事も、悪く言う事も無く、
「今は、若気の至りで遊んではるだけやと思いますわ。
いずれは、堂々たる将軍になりはる器やと、常々思てますよって、心配はしてません」

と言っていたのだそうです。

やがて、秀忠も亡くなり、大人になって一皮むけた家光は、おそらく、大いに反省・・・処分が厳し過ぎたと感じ、忠俊に再出仕を要請しますが、

忠俊は、
「過ちを悔い改める事はええ事です。
よう、間違いに気付きはりました。
もう、僕が側におらんでも大丈夫ですやん」

と言って、その出仕要請を断ったのだとか・・・

寛永二十年(1643年)4月15日忠俊は要職には戻らないまま、この世を去りますが、その5年後の慶安元年(1648年)、父の代わりに・・・とばかりに、家光は、忠俊の息子の宗俊(むねとし)信州小諸(長野県小諸市)4万2000石を与えて大名に取りたて、その時、彼に、こう言ったと言います。

「君のお父さんが僕に仕えてくれたように、君も竹千代(後の4代将軍・家綱)に仕えたってな…頼むで」
と・・・

後に、この宗俊は、大坂城代にまで出世します。

冒頭にリンクした、以前の弟=幸成さんのページでも書かせていただきましたが、ちょうどこの頃は、2代将軍=秀忠から3代将軍=家光へ権力が移行する時期でもあり、どこまで・・・と疑い出したらキリがない話ではありますが、とりあえずはイイ話なので、ヨシとしましょう。
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2013年4月14日 (日)

大阪人・騒ぎすぎ?~家康&幸村の陣跡=茶臼山の立入禁止令

 

浜松歌国 (はままつうたくに)が書いた江戸後期の随筆『摂陽奇観(せつようきかん)「巻之三十一・宝暦九年の条」に、大阪天王寺の茶臼山(ちゃうすやま)についてのオモシロイ記述があります。

4月中旬の事・・・と書いてあるので、本日、ご紹介させていただきますね。

★子供の頃から「茶臼山古墳」と呼んでいたので、以前の記事では「茶臼山古墳」と書いてましたが、最近小耳に挟んだ情報によりますと、「古墳の証拠となる物が未だ発見されていない」事がら、「古墳では無い」との意見が主流という事ですので、本日は「茶臼山」と呼ばせていただきます。

Tyausuyama900
茶臼山と河底池:こんもりした森が茶臼山…右奥に見える橋が和気橋です。

大阪の天王寺にある茶臼山については、以前、和気清麻呂(わけのきよまろ)ゆかりの(2月21日参照>>)・・・と書かせていただいたのですが、そのページにも書かせていただいた通り、ここは、あの大坂の陣ゆかりの場所でもあるのです。

Oosakanozinfuzinzu そう、大坂冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村(信繁)陣を置いた場所なんですね。
大坂冬の陣(左)と夏の陣(右)布陣図→

Ca3e0042a900 上の写真の正面には池がありますが、その反対側の麓には、
←こんな感じで案内板もあります。

 .
・・・で、現在は、この反対側には、階段になってる登り口があり、頂上まで登れるようになっています。

Dscf2237ap1000
池の反対側にある茶臼山への登り口

Ca3e0045a800 これが頂上→

大坂冬の陣の時、ここに、家康は本陣を置いたわけですが、『大坂御合戦絵巻』などによれば、家康は、あの名大工の一族中井家(9月21日参照>>) を伴っており、その命を受けた中井家は、またたく間に木材を用意して仮の砦を構築しますが、それが、仮とは思えないほどの・・・もはや城と呼ぶにふさわしい立派な物だったのだとか・・・

そして、その半年後の夏の陣では、幸村がここに陣取って、南からやってくる徳川軍を迎え撃ったわけですが、最終的に勝利した徳川家にとっては、「大坂の陣で最初に神君家康公が陣を敷いた場所」として、ここは言わば記念の場所となっていたわけですね。
(くわしくは【大坂の陣の年表】を参照>>)

・・・で、今回の『摂陽奇観』での記述ですが・・・
(長い前置きでスンマセンm(_ _)m)

「当四月一日より六月一日迄逢坂一心寺ニ於て京嵯峨の清涼寺釈迦如来其外宝物等開帳ニ付参詣人群集せり…」
つまり・・・
宝暦九年(1759年)の4月1日から6月1日まで、京都の清涼寺の仏像が出張して来て、大阪の一心寺にて公開されるイベントがあり、多くの見物客が訪れた・・・という事ですね。

この一心寺というのは、現在も茶臼山とは道を挟んだ斜め向かい側にあり、上記の池とは反対側の出口から出ると、すぐ目の前にあるお寺です。
(くわしい場所は本家HP:大阪歴史散歩「上町台地を歩く」でどうぞ>>別窓で開きます

・・・で、文献によると、その時に、「せっかく近くに聖地があるのだから…」と、一心寺の境内と茶臼山を結ぶ橋を架けて、一緒に見てもらおうという計画に発展したのです。

ちなみに、この橋・・・渡るのに、一人につき二文支払う=有料です。

もちろん、徳川幕府が開かれて、もはや100年以上経ってる時代ですから、すでに茶臼山は庶民にも聖地として認識されていて、頂上には、それとわかる竹垣が組んであって、皆が観光に訪れる場所だったわけですが・・・

何たって、今回は、一心寺のイベントと重なり、しかも「行って下さい」と言わんばかりの橋が架かっているわけですから、珍し物好きの大阪人は、これをキッカケに、我も我もと訪れたわけです。

すると、またたく間に、茶臼山の麓には茶店が建ち、飲み屋が建ち・・・当然の事ながら、あの阪神優勝の道頓堀ダイブのごとき光景が展開される事になるのです。

ほんでもって・・・出ちゃいました~

「四月中旬 公儀より此山へ猥(みだり)ニ人を登セ茶屋を建る事停止ニ仰付られ…」
本来なら6月1日までのイベントだったはずが、4月中旬に中止となって、茶屋や飲み屋は撤去・・・しかも、それまでは頂上のほんの1部のみだった竹垣を、山の麓から全体に張り巡らせて、山には入れないようにしてしまったのだとか・・・

「神君御陣所の跡なれば…」

怒られちゃいました・・・大阪人(ρ_;)

なんか・・・
同じ大阪人として、おもしろいやら恥ずかしいやら、でも、「やっぱ大阪やな」って思ったり・・・

何やら、今も昔の変わらぬ庶民の雰囲気が垣間見える出来事でした~
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2013年4月12日 (金)

不肖羽柴茶々、いざ!関ヶ原古戦場へ…

 

先日、あの関ヶ原にて、古戦場巡りをして参りました。

恥ずかしながら、この私・・・ブログではエラそうにイロイロ書いてますが、関ヶ原の古戦場を、ちゃんと見て廻ったのは今回が初めて・・・

とは言え、移動は徒歩なうえに(レンタサイクルもありますが…)、各所での妄想つきゆえ、一日で回れる箇所も、それほど多くは無いのですが、とりあえずは、写真とともにご紹介して行きたいと思います。
(写真はすべてクリックして大きく見られます)

Dscf2436a800 まずは、JR関ヶ原駅を降りた近くにある「東首塚」

ここは関ヶ原の戦い直後に、このへん一帯の領主だった竹中家 が築いたもので、合戦終了時に家康のもとに運ばれて首実検された諸将の首が眠っています。

Dscf2411a600 次に「田中吉政の陣跡」を確認しつつ、何たって、東軍総大将の「徳川家康の陣跡」へ・・・

ちなみに、この田中吉政という武将は、関ヶ原当日は、ここから撃って出て、笹尾山から下りて来る石田三成の兵と白兵戦を展開した人で、合戦後に、潜伏していた三成を逮捕する人です(2月18日参照>>)

そして、広い公園となっている「徳川家康の陣跡」・・・
Dscf2454a800
ここは、はじめは南宮山の麓に陣を置いていた家康が、西軍優勢なのをはねのけるべく、自ら前へ進み出て、最後に陣を置いた場所です。

道路を挟んで向かい側には「歴史民俗資料館」もあるので、そこも要チェック!

次に関ヶ原バイパスを越えて、「黒田長政陣跡」「竹中重門陣跡」へ・・・

Dscf2444a600 ここは「岡山(丸山)烽火場」と呼ばれ、合戦の時にはこの山頂に長政と重門が陣を敷き、開戦の合図の烽火(のろし)を上げた場所です。

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この二人が、ともに、ここに陣を置いた事・・・きっと偶然ではありませんよね?(10月16日の後半部分参照>>)

続いて、ハイキングコースを歩きながら「決戦の地」の石標へ・・・

Dscf2488a600 葵の御紋が大きくはためく「決戦の地」・・・

この「決戦の地」というのは、「勝敗が決した場所」という意味で、つまりは、東軍がここまで迫って来た事を笹尾山から確認した三成が、自らの敗戦を悟って兵を退いた・・・という事ですね。

写真を大きくしていただくと、葵の旗の左奥に、笹尾山への登り口が確認できると思いますが、思えば、こんなに近くまで兵が迫ったという事・・・

こういうのは現地に行かないと確認できないので、ちと興奮してしまいました!

そして、いよいよ笹尾山の「石田三成の陣跡」へ・・・
Dscf2496pa1000
決戦前夜に大垣城を離れた三成は(9月14日参照>>)関ヶ原が一望できる笹尾山に陣を敷きます。

この笹尾山に登ると・・・まさに、見事に関ヶ原が眼下に
Sekigaharakosenzyouzu
以前にupした関ヶ原の合戦の布陣図(↓)とは上下が反対なので、ちと解り難いかも知れませんが、

Sekigaharabyoubucc ←関ヶ原の布陣図

上の写真の中で武将の名前のある所が、大まかではありますが、その武将の陣のあった場所です。

そして、笹尾山から見ると、間近に見える、先ほどの「決戦の地」・・・まさに、ここまで迫って来たんですね~

もちろん、ここでしばし、妄想にふける茶々でした~
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2013年4月11日 (木)

おんなおんなしてる『女信長』の感想

 

遅ればせながら・・・
先日、フジテレビ系列で4月5日と6日に放送された2夜連続ドラマ『女信長』についての感想など・・・(あくまで個人的な感想ですので、そこのところはご理解をいただきながら…)

とは言っても、フジテレビが数億円の予算を投入して社運を賭けたスペシャルドラマだったワリには、視聴率は1ケタ=9%にも及ばず「危うく同時間帯で最低の視聴率になるところだった」てな事なので、ドラマ本編をご覧になった方は少なく、むしろ、この大コケのニュースの方をご覧になった方の方が多いのではないか?と思いますが・・・

・・・で、見た感想をひと言で言わせていただくなら
「とても残念なドラマでした」

この残念というのは・・・
ここのところ話題の書籍『残念な人の○○』の残念と同じ定義で、この場合の「残念な人」というのは、決してバカとかアホとかという意味ではなく、「本当はデキる人物なのに、何かしらの歯車のちょっとした狂いで残念な結果になっている」・・・つまり「惜しい人」という意味で、この書籍シリーズでは、そのような人の言動や習慣を見聞きして、「そこのところを改善して行こう」というコンセプトなわけですが・・・

このドラマも、やはり「惜しい」という意味での「残念なドラマ」でした。

あらすじとしては、『女信長』という題名でお解りの通り、「もし信長が女だったら…」という設定で、この発想自体は、歴史好きの妄想を膨らませるに充分な、かなり良い発想と思います。
(くわしいあらすじは、公式サイトで>>…別窓で開きます

「織田信長の奇抜な発想は女だからこそできた!」
てなところはオモシロイ
ですし、

さらに、信長最大の謎である本能寺の変・・・(6月2日参照>>)

  • 新参者でありながら最も信長のお気に入りで出世街道まっしぐらだった明智光秀が、なぜ?謀反を起こしたのか?
  • 天下目前の信長が、なぜに?あれだけ無防備で上洛し、あっさりと討たれてしまうのか?
  • 6月2日に信長が、6月13日に光秀が…二人とも遺体が見つからず生存説がある・・・にも関わらず、その後の歴史の舞台には登場しない(光秀=天海説はあくまで噂なので…)

これらの謎を、
信長と光秀が男女の関係にある中、幼い頃から男として育てられた事に苦悩する信長の手かせ足かせを拭い去るために、信長を暗殺=死んだ事にして、信長が一人の女性(劇中ではお長)として生きる道を光秀が開く・・・

そして、それを知った秀吉が、これまた、光秀を討って=死んだ事にして歴史の舞台から葬り去る・・・

その後、二人は、ただの男と女になって異国へ旅立つ・・・(ここは、最後に異国船に乗る二人が映っただけですが…)

この本能寺の変の謎解きには、なかなかおもしろいものがありますが、やはり、これまでの流れがあまりに残念なので、このハッピーエンドにも違和感が漂います。

そもそも、「信長が女」という荒唐無稽な設定のもとに話しを進めて行くのですから、信長最愛の吉乃(きつの=生駒の方)(9月13日参照>>)という女性も登場しなければ、彼女が産んだ子供たちも登場しない・・・つまり、物語はフィクション満載でも問題無いはずなのに、意外に、歴史の流れを無視せず、しかも、それを「信長が女だったからそうなった」という感じに、無理やりこじつけてるような???

というのも、このドラマの中で、最初に信長が恋をするのが、北近江浅井長政なのですが、その長政と肉体関係にありながら、自分が表向き男であるために、その関係を妹の御市(おいち)に言わないまま、自分の身代わりとして浅井家に嫁がせ、

しかも、後で、御市が、長政と信長が恋人同士であった事を知って責めると、はっきりと、本人(御市)に向かって「身代わりのくせに!」なんて事をのたまいます。

もちろん、信長が小谷城を攻撃して浅井家を滅亡させる(8月28日参照>>)のは、好きで好きで「私が天下を取ったら、アナタに譲ってあげるワ」と約束していた長政が裏切って朝倉氏についた事への、女としての逆ギレから・・・つまり痴話げんか?

さらに、2番目の恋人となる明智光秀も、本来、昔から濃姫(信長の正室)(2月24日参照>>)が、光秀に片思いをしている事を充分に知りながらの略奪愛、「私の気持ちを知りながら…」と泣く濃姫に「それの何が悪い」と言わんばかりに平気でイチャつきます。

御市と濃姫は、早いうちから信長が女である事を知っていて、男として生きねばならぬ苦悩を和らげてあげようと、陰に日向に親切にしてくれる二人なので、言わば、親友を裏切る行為・・・しかも、行動のほとんどが、恋した男のため・・・

つまり、この『女信長』の信長は、女から見て「ムカつく女」であり「女に嫌われる女」なのです・・・なので、散々まわりを傷つけて振り回した二人が結ばれるハッピーエンドには違和感が漂う・・・

なんか、
この作者の方は、女性をバカにしたいのか?、女性を貶めようとしてるのか?と思うくらい・・・・なんと言うか・・・「おんなおんなしてる」んですね・・・信長が・・・

いや、ひょっとしたら、作者の方には、そんな悪意はなく、逆に、こんな「おんなおんなしてる」女性が好きで、魅力的だ思ってのキャラ設定なのかも・・・
(おんなおんなしてるタイプはモテるので…)

この「おんなおんな(女女)してる」っていうのは、あんまり他で聞いた事ないので、もしかして大阪弁なのかしら??

わからない方いるといけないので、ちょっと説明しますと・・・
「女々(めめ)しい」というのは男性に使う言葉ですが、この「おんなおんなしてる」っていうのは女性に対して使う言葉・・・まさに、女の中の女で、ものすご~く女っぽい、あるいは女性ならではのキャラが濃い時に使いますが、いわゆる「女らしい」というのとも違っていて、あまり良い意味で使われる事はなく、

たとえば・・・
『優柔不断で決めかね“あなたか決めてよ”と言ったワリには、後で、その決定に文句を言う』みたいな??
男「晩御飯何食べる?」
女「何でもイイ」
男「じゃ、中華にしよう」
女「えぇ~!!ちゅーかぁ?」
男「なんでもええて言うたやないかい!」
っていうアレとか

洋服選びに彼氏を連れて行き、長時間つきあわせて
女「どっちがイイ?」
男「どっちもええやん」
女「あなたに選んでほしいの」
男「ほな、黄色いほうかな?」
女「ええ?趣味悪い~絶対ピンクじゃん」
男「決まってねんやったら聞くなや!」
っていうアレとか

また、休み時間にトイレにまで一緒に行く仲だった親友同志が、片方が別の誰か(女友達)と仲良くしていたというだけで絶交まで行くほど憎しみ合うとか・・・

嫁×姑のじわじわイヤミ言うドロドロ感とか・・・

もちろん、ドラマの中で信長が洋服買いに行ったり中華食べに行ったりしませんが、そんな「おんなおんなした感じ」の性格を匂わせるキャラ設定なのです。

確かに、『歴女』という言葉が一般的になるほど、最近は歴史好きの女性が溢れていますが、それこそ、個人的な印象ですが、歴史を好きになる女性って、たぶん「おんなおんなしてる」女性では無いし、「おんなおんなしてる」女性があまり好きでは無いタイプだと思うのですね(特に戦国好きは…)

もちろん、戦国時代は今と違って女性が生き難い時代だったかもしれませんが、だからこそ強くしたたかに生きたのが戦国女性であり、平素は夫を影になって支えながらも、窮地に立った時には、男顔負けの手腕を発揮する・・・先日から展開させていただいてるアンケート3月31日参照>>…もうすく締切です!)にて候補に挙げさせていただいてるような、いわゆる「女傑」「烈女」と呼ばれる女性が、歴史上には数多くいた事を歴史好きの女性は知っているわけで・・・

女性を主役にするなら、共感できるそんな彼女たちのドラマを見たいのであって、決して「昼メロのような男取り合いドラマ」を見たいわけじゃないと思うのです。

「信長が女だったら」という発想や「本能寺での展開」が良かっただけに、この主人公のキャラ設定が、本当に残念でした。

しかも、何たって主役の天海さんをはじめとする映画を思わせるような豪華な俳優陣が素晴らしい・・・

確かに、タカラヅカ男役感は満載でしたが、それこそ、女の信長を演じられる人など他に思いつきませんし、それは小雪さんの顔のテカテカ感を差し引いても、みなさん良い配役で、見ごたえのある演技だったと思います。

さらに、ステキな衣装に東福寺の緑が美しく・・・スタッフさんの力の入れようも、ひしひしと感じました。

個人的に、特に印象に残ったのは、武田氏が滅ぶ時の「日の丸の旗」ですね。

これ、以前、日の丸のページ(7月9日参照>>)で書かせていただきましたが、今のところ、現存する最古の日の丸の旗は、武田氏の遺品から発見された物・・・しかも、戦場での傷跡つきですから・・・

そんな細かなところにまで気を配って、「良い物を作ろう」と頑張るスタッフさんの姿勢が垣間見えたぶん、例の「おんなおんなしてる」キャラが残念無念・・・

どうせなら、歴史にこだわらず、完全昼ドラのオールフィクションのほうが、笑って見られる娯楽時代劇になったかも知れません。

本当に本当に惜しい・・・残念です!としか言いようの無いドラマでした。
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2013年4月10日 (水)

逃げの小五郎を捕まえた…幾松・生涯の恋

 

明治十九年(1886年)4月10日、維新三傑の一人・桂小五郎=木戸孝允を支えた幾松こと木戸松子が43歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・

後に桂小五郎(かつらこごろう=木戸孝允)の奥さんとなる幾松(いくまつ)こと木戸松子(きどまつこ)の生い立ちは、若狭(わかさ)小浜出身という事以外は諸説あってよくわかっていません。

8歳か9歳の頃に京都へ出て来ますが、それも、小浜藩士だった父が出奔して京都にいると聞いて母や兄弟とともに後を追ったとも言われますし、一説には、小浜での暮らしに見切りをつけ、自らたった一人で上京したとも言われます。

とにもかくにも、京都にやって来た松子は、難波常二郎恒次郎)という人物の養女となり、その人の妻が、以前に三本木(さんぼんぎ=京都市上京区)の芸妓で幾松と名乗っていた事から、安政三年(1856年)の14歳の時に、三本木の料亭「吉田屋」から舞妓としてデビューし、2代目・幾松を名乗る事になります。

Ikumatu500 姿形が美しく、聡明で笛の名手だったと言われる幾松は、またたく間に人気の芸妓に成長していきますが、そんな彼女に目をつけたのが小五郎・・・

二人が出会ったのは、小五郎:30歳バツ1、幾松:20歳の文久二年(1862年)頃と言われますが、その頃は、未だ、そこまで動乱は激しく無く、御所に近い「吉田屋」は、各藩士たちが接待や酒宴に利用する事も多く、そんな中で小五郎が幾松を・・・というよくある流れなわけですが、

人気芸妓の幾松には、すでに山科の富豪というご贔屓(ひいき)がいたのを、小五郎が、その富豪と張り合って大金を継ぎ込んだあげく、それでも退かない富豪を、伊藤博文(いとうひろぶみ)が最後に刀で脅してあきらめさせ、やっとこさ幾松をモノにしたと言います。

こうして、周囲も認めた恋人同士となった二人ですが、まもなく、小五郎の長州藩(山口県)は、幕末動乱の渦中に呑みこまれる事になります(3月12日参照>>)

文久三年(1863年)の3月に江戸幕府将軍としては230年ぶりとなる上洛を果たした第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が、時の孝明(こうめい)天皇に謁見した際に攘夷(じょうい=外国を排除)の決行を約束しますが、その約束の日が文久三年(1863年)5月10日・・・

この日に、長州藩は瀬戸内海の海運の要所である下関(馬関)海峡を封鎖し、そこを通りかかったアメリカ商船・ペンブローク号に向けて砲撃したのを皮切りに、続く23日には、フランス通報艦、さらに26日にはオランダ東洋艦隊と次々に砲撃して、攘夷運動の牽引者である事を見せつけたのです(5月10日参照>>)

しかし、そんな過激な攘夷を嫌う朝廷内の保守派が、長州藩とともに朝廷内の攘夷派を一掃・・・これが、八月十八日の政変(8月18日参照>>)です。

政変で中央政界から追われた長州藩士は、何とか復権しようと京都に潜伏し、あれやこれやと計画を練る・・・そこを新撰組が襲撃したのが、翌・元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件(6月5日参照>>)

たまたま、その日、池田屋に行っていなかった小五郎は難を逃れましたが、そのひと月半後に、先の八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州が、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛・・・これが禁門(きんもん=蛤御門)の変(7月19日参照>>)ですが、ここで、長州の発砲した砲弾が御所に命中した事で、長州は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となり、当然、長州藩士は追われる身・・・小五郎も、身を隠しての逃亡生活を送る事になります。

この頃、「二条大橋の橋の下で身を隠していた小五郎に、毎朝、ご来光を拝むフリをした幾松が、橋の上からおにぎりを投げていた」なんて逸話が語られていますが、実際には、小五郎が二条大橋の下にいたのは1週間足らずだったとか、幾松以外にも食べ物を持ってくる女が2~3人いたとか、てな話も・・・

また、「吉田屋」に探索に訪れ、そばにあった大きな長持(ながもち=衣類を入れる箱)の中に小五郎が隠れているのではないか?と疑って「見せろ!」と迫る新撰組の近藤勇(こんどういさみ)に、
「中には、ウチの下着が入ってますのや…
もし、よその男はんに見られたら、ウチ、死ぬほど恥ずかしおす。
見たいて言わはんねやったら、見はってもよろしおすけど、もし、何も無かった時は、近藤はんにも、切腹してもらわんと…」

と、ズゴんで追い返したなんてエピソードも・・・

どこまで信憑性があるのかは疑問ですが、ここは一つ、二人の純愛と幾松のキップの良さを信じましょう。

やがて、危ない京都を離れて身を隠す小五郎・・・さすがに、この時は幾松も小五郎の居場所を知らず、長州藩邸とは御池通を挟んで向かい側にあった対馬藩邸にてお世話になりつつ・・・

しかし、そのうち、幾松自身に危険が及ぶようになった事、また、「小五郎は萩にいるのでは?」と考えた事もあり、幾松は長州へと向かいます。

その後、小五郎の京都脱出を手伝った広戸甚助 (ひろとじんすけ=対馬藩士とも対馬藩邸出入りの出石の商人とも) から、小五郎が出石(いずし=兵庫県豊岡市)に潜伏中であるとの情報を得た幾松は、甚助とともに一路、出石へ・・・

ところが、この旅の途中で、その甚助が、旅費全額をバクチですってしまい「会わせる顔がない」とトンズラ・・・やむなく、幾松は、ただ一人、かんざしを売り、着物を売りしながら出石へと向かい、ようやく出石に到着した時には、もはや襦袢1枚の姿だったのだとか・・・

ここで幾松は、小五郎と250日ぶりの再会を果たします。

とは言え、この時、二人が出石で過ごした期間は、たった20日間・・・実は元治元年(1864年)12月16日に、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)功山寺で挙兵して(12月16日参照>>)勝利した事で、長州藩の上層部は攘夷派が牛耳る事になり、小五郎を呼び戻そうと長州藩も彼を探していたわけですが、幾松が小五郎の居所を知ったように、藩も同時期にその居所を知る事となり、長州へ戻る事となったわけです。

しかし、ご安心を・・・今度は、ちゃんと、二人一緒に・・・しかも、この出石滞在中の間には、二人で城崎温泉に旅行したとの事・・・

小五郎ファンの皆様にとっては、
「これは、あの坂本龍馬より早い、日本初の新婚旅行!」と、ご自慢のエピソードです。

二人の正式な結婚時期に関しては諸説あるものの、その後の明治元年(1868年)に京都に戻る時には、小五郎の親戚一同に妻として紹介されていますから、それまでには正式に結婚をしていたのでしょう。

一旦、長州藩士・岡部富太郎(おかべとみたろう)の養女となってから婚姻・・・その後は、木戸松子と名乗ります。

その翌年には東京へと移り住んで、新政府の要人として多忙な夫を影で支えますが、料理が得意だった彼女が、邸宅に遊びに来た同僚たちに手料理をふるまう事もあったようです。

しかし・・・
明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(1月30日参照>>)・・・その鎮圧のために京都へ出張していた孝允(小五郎から改名)が病に倒れたのです。

5月6日に「木戸孝允・危篤」の一報を聞いた松子は、取るものもとしあえず京都へ・・・京都の別邸にて寝ずの看病を続けましたが、明治十年(1877年)5月26日、夫・孝允は45歳で、この世を去りました(5月26日参照>>)

夫を亡くしてからの彼女は翠香院(すいこういん)と号し、京都の木屋町に移り住みますが、これは出家して尼さんになったというよりは、「夫亡き後に再婚する事なく、夫の墓を護り続ける」という決意の意味で号したようで、朝な夕なに夫の眠る霊山を眺め、時に参拝しながら邸宅で静かに暮らしていたようです。

追われる恋人を体を張って守った若き日々・・・
死と背中合わせの中で身分を越えて結ばれた恋・・・

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木戸孝允&松子の墓(京都霊山護国神社)

夫の死から9年後の明治十九年(1886年)4月10日松子は病に倒れ、43歳の生涯を閉じますが、その身は今現在も、霊山墓地に眠る夫のそばに・・・

●霊山護国神社への行き方は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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2013年4月 8日 (月)

千種忠顕&児島高徳…4月8日の京合戦

 

元弘三年(1333年)4月8日、打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇配下の千種忠顕が京都に侵攻するも、六波羅探題に阻まれた4月8日の京合戦がありました。

・・・・・・・・・

元弘元年(1331年)に元弘の変倉討幕を決行するも失敗に終わった(9月28日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇が、元弘三年(1333年)に再び挙兵して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に立て籠り(2月24日参照>>)河内(大阪府東南部)では、後醍醐天皇の皇子=護良(もりよし・もりなが)親王(2月1日参照>>)楠木正成(くすのきまさしげ)(2月5日参照>>)が奮戦する中、

六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)が守る京都を奪取せんと転戦していたのが播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵した赤松則村(あかまつのりむら・円心)・・・

これまで、
3月12日の三月十二日合戦(3月12日参照>>)
3月15日の山崎の合戦(3月15日参照>>)
4月3日の四月三日合戦(4月3日参照>>)
と展開するものの、数に勝る六波羅探題に、その都度、阻まれるのでした。
(くわしくは、個々の合戦のそれぞれのページで…)

Tigusatadaaki600 そんな現状を打開すべく、後醍醐天皇軍は、千種忠顕(ちぐさ・ちくさただあき)山陽・山陰道の総司令官に任命し、「則村と協力して六波羅を攻略せよ」と京都へ派遣したのです。

その軍には、途中々々で味方が加わって20万7000余騎(『太平記』の数字です)の大軍となり、さらに、第六の若宮(後醍醐天皇・皇子の静尊法親王と思われる)が加わった事で、忠顕は大いに喜び、官軍の証である『錦の御旗』を掲げて進軍・・・兵の士気も最高潮のまま、4月2日には京の西山に布陣しました。

ですが・・・
そう、先に書いた通り、4月3日には、赤松軍が六波羅を攻撃しているはずなのに・・・

実は・・・
忠顕は、自軍の数の多さに自信を持ったのか?はたまた、その武功を一人占めしようとしたのか?・・・
とにかく、赤松軍と合流どころか、連携する事もなく時を過ごし元弘三年(1333年)4月8日こっそりと京都市中への進攻を開始したのです。

しかし、相手の六波羅探題は、しっかりと準備をして千種軍を待ちかまえていたのです。

まずは、六波羅探題が大宮方面へと配置していた先手に、2重3重に構えた千種軍が攻めかかります。

第1陣が退けば、すぐさま第2陣と次々と新手を投入する作戦で千種勢は六波羅を圧倒し、さらに、六波羅側に忍び込んでいた間者が敵の陣に火を放った事で、やむなく六波羅勢は大宮方面から撤退します。

勢いづいた千種軍は、さらに圧し進みますが、そこに、六角時信(ろっかくときのぶ=佐々木時信)六波羅の新手・・・実はこっちが本隊・・・

この新手に苦戦した千種軍は、あちこちで敗退し、やがて桂川のあたりまで撤退します。

それでも、名和小次郎児島高徳(こじまたかのり)(←後醍醐天皇が流罪になった時頑張ってた人デス:3月7日参照>>の小隊だけは後退せず、何とか踏ん張っておりましたが、忠顕からの全軍撤退の命令が出たために、敵の大将と挨拶を交し、「引き分け」という事で軍勢を退きました。

その後、本陣の峯堂(京都市西京区)にいた忠顕のもとに、すぐさま駆けつけた高徳・・・早速抗議です。

「なんでや!まだ勝機はあるがな!
援軍を出してくれ!俺は、もっかい行く!」

と、忠顕に申し出ますが、忠顕は、首を縦に振らず・・・そのまま、峯堂を動こうとしません。

「あぁ、そうでっか!!わかりましたわ!
けど、気ぃつけなはれや~
敵は、まだまだ力が有り余ってますさかいに、今夜、ここに夜襲があるかも知れまへんよってに…」

と、脅しの捨てゼリフを残して、その場を去った高徳・・・

やがて、その夜も更けた頃・・・高徳が、自らの陣から峯堂の方角を眺めると、星のように輝いているかがり火が、一つ、また一つと消えていきます。

「あのアホ!敵前逃亡か?」
と、疑いながら、慌てて峯堂へと向かう高徳・・・

すると、途中で、ちょうど自らの陣をたたんでいる同僚の荻野朝忠(おぎのともただ)と出会います。

「あぁ、わが大将は昨夜の0時頃、第六の若宮を馬に乗せて、前のめりになりながら慌てて落ちて行きはりましたわ。
しゃーないから、俺らも故郷の丹波に帰ろかなと思て…。
なんやったら、俺らといっしょに来はりますか?」

と朝忠・・・

どうやら忠顕さん・・・高徳の脅しに、本気で怖くなったらしい・・・

「クソッ!あんな臆病者を、大将と頼りにした俺が間違いやったわ!
けど、やっぱ、この目で事実を確かめんと、若宮の事も心配やし、上に報告もできひんし…とりあえずは峯堂まで行ってみるから、君ら、先に行っとってくれるか。
現場を確認した後で追っかけるさかいに…」

そう言って、高徳は、自らの従者を麓に待たせ、ただ一人、退却していく軍勢の中を押し分けへし分け、峯堂まで上っていき、忠顕がいた本堂の中に入ってみると・・・

よほど慌てていたのか?
そこらへんに鎧やら着物やら散乱し、見るも無残な現状・・・しかも、大事な『錦の御旗』まで、そこらへんにほっぽりだしたまま・・・

あまりの現状に
「あのアホ!!
どこぞの堀でも崖でもええから、落ちて死んだらええねん!」

と歯ぎしりしながら、しばし立ち尽くす高徳・・・

しかし、ここは戦場・・・六波羅郡の追撃があるやもしれませんから、ゆっくり立ち尽くしてはいられません。

気を取りなおして『錦の御旗』を回収し、自軍と合流した後、先ほどの朝忠の後を追いながら、丹波へと落ちていきました。

案の定、彼らが撤退した場所には、その後六波羅軍が押し寄せ、西山一帯の神社仏閣を破壊して放火・・・周辺は焦土と化したとの事・・・

赤松軍との連携は乱れ、千種軍は撤退し・・・
もはや、後が無い後醍醐天皇・・・

しかし、ここで、戦の女神は後醍醐天皇にほほ笑みます。

そう、天皇軍の転戦を伝え聞いた鎌倉幕府の元執権・北条高時(ほうじょうたかとき)が、六波羅探題の援軍として派遣した足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)・・・

高時の命を受け3月27日鎌倉を出陣じた高氏が、京都に到着するのは、今回の合戦から8日後の4月16日・・・彼が、後醍醐天皇軍の救世主となるのは、皆様もご存じかと思いますが、そのお話は2012年4月16日のページでどうぞ>>

・・・と、次のページへ行く前に・・・

このままだとあまりにも忠顕さんが気の毒な感じなので、つけ加えておきますと、今回こそカッコ悪さ100%ですが、忠顕さんは、それこそ、後醍醐天皇が隠岐へ流された時もつき従った忠臣で討幕運動に活躍し、後醍醐天皇政権下では三木一草(さんぼくいっそう)『草』に数えられ、伊勢千種家の祖となる人ですので・・・

●三木一草…楠木正成(くすのきまさしげ)結城親光(ゆうきちかみつ)名和長年(なわ ながとし)と、いずれも後醍醐天皇のもとで活躍した3人の、「くすの」「ゆうの2つの「き」と、長年が伯耆守(ほうきのかみ)だったので「ほう「き」合計3つの「き」と、「ちぐさ」の「くさ」を加えて、その隆盛を並び称されたという事です。
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2013年4月 6日 (土)

大友宗麟~豊臣秀吉への救援要請in大坂城

 

天正十四年(1586年)4月6日、豊後の戦国大名=大友宗麟自らが、大坂城にて豊臣秀吉に対面し、島津討伐の救援を願い出ました。

・・・・・・・・・・

九州のキリシタン大名の代表格として「豊後(大分県)の王」と呼ばれ、あの『天正遣欧少年使節』の派遣(6月20日参照>>) にも関わった大友宗麟(そうりん)・・・

徐々に力をつけて来た薩摩(鹿児島県)島津に攻め込まれた日向(宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)が助けを求めて来た時、すでに息子の義統(よしむね)に家督を譲って隠居していた宗麟は、
「日向を奪い返したあかつきには、無鹿(むしか・務志賀=宮崎県延岡市無鹿)を拠点にキリスト教の理想の王国を造る」と大ハリキリ(8月12日参照>>)だったわけですが、残念ながら、その島津と相まみえた耳川の戦いに大敗を喫してしまいます。
11月11日「高城川の戦い」参照>>
11月12日「耳川の戦い」参照>>

さらに、その大友の大敗をチャンスとみた肥前(佐賀県)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が、筑前(福岡県西部)豊前(福岡県東部と大分県北部)などの周辺の国人領主を巻き込んで、反大友をあらわにし、九州を南下する兆しを見せ始めます。

そうなると、大友の家臣団にもなにやらグラつきが見えはじめたわけですが、天正十二年(1584年)3月の沖田畷(おきたなわて)の戦い(3月24日参照>>)で、かの隆信が島津に敗れて戦死してくれたおかげで、龍造寺からの脅威は無くなったものの、逆に、勢いづいた島津と、真っ向からぶつかる事になるわけで・・・

耳川の敗戦以来、衰退していく一方で、絶体絶命となった大友氏・・・

「もはや、自力では守りきれない」と判断した宗麟は、得意の外交手腕を活かす事を決意・・・天正十三年(1585年)、大坂の羽柴(後の豊臣)秀吉に救援を求めたのです。

天正十三年の秀吉と言えば・・・
4月に、あの小牧長久手の戦いを何とか講和に持ちこんだ(11月16日参照>>)後に、その戦いで敵に回った紀州を征伐(3月21日参照>>)、7月には、亡き主君の織田信長が手つかずだった四国を平定し(7月26日参照>>)、閏8月には、やはり小牧長久手で敵対した富山城佐々成政(さっさなりまさ)を降伏に追い込み(8月29日参照>>)、まさに、全国制覇にまっしぐらの上り調子・・・

このタイミングでの九州からの救援要請は、まさに渡りに船・・・早速、天正十三年(1585年)10月に大友氏と島津氏に対して、停戦命令を出したのです。

しかし、島津中興の祖と呼ばれる島津貴久(たかひさ)の血を受け継ぐ、絆バッチリの島津四兄弟(6月23日参照>>)・・・昨日や今日に勢いづいた足軽あがりの秀吉の命令なんかに聞く耳持たず!

そんな秀吉の停戦命令を無視して、さらに大友氏への圧迫を強めていくのです。

この状況にたまりかねた宗麟・・・自らが臼杵(うすき)から海路で大坂へと向かい、天正十四年(1586年)4月6日直接秀吉に謁見し、じきじきに島津討伐を懇願したのでした。

Ca3e0022a1000 大阪城天守閣と極楽橋

『天正十四年卯月六日付 古荘丹後入道・葛西周防入道・斎藤紀伊入道宛 大友宗麟書状』によると・・・

前日5日にに到着した宗麟は、6日の夜明けとともに、堺から住吉を経て大坂城下へ・・・

門をくぐってから、秀吉のいる場所まで、なにやら人々が大石を運んで普請中の様子の中、「見事結構」「比類無き」「仰天申候」と、さすがの宗麟も大坂城のスゴさに驚く・・・

やがて、通された部屋には、秀吉の弟=羽柴秀長(ひでなが)宇喜多秀家(うきたひでいえ)細川幽斎(ゆうさい・藤孝)ら・・・一方に、前田利家安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らが居並ぶ中央の一段高い所に秀吉・・・

「う~~ん、こんなトコに連れていかれたら緊張するぅ~Σ(;・∀・)」

しかし、さすがは、人たらしの秀吉・・・どうやら、ここで、あの黄金の茶室を宗麟に見せて、その緊張を和ませると同時に、自らの権力をアピールしたようです。

『…天井、壁、其外皆、金あかり、障子のほね迄も、黄金、赤紗にて、はり申候、見事さ、結構、不及申…』
しかも、そこで、千利休(せんのりきゅう)がお茶を点て、その後、秀吉は静かに
「宗麟くんは、お茶とか、好きなんか?」
と聞いたと・・・

とは言え、さすがは交渉上手の宗麟・・・かねてより用意してあった秘蔵の茶器を秀吉にプレゼント・・・これに大いに喜んだ秀吉は、上機嫌で、自ら親しく大坂城内を案内して回り、大友氏を全面的にバックアップする事を約束したのです。

これが、ご存じ、九州征伐・・・

翌・天正十四年(1586年)11月の戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)こそ足踏みしたものの、さらに翌年の高城・根白坂の戦い(4月12日参照>>)で、島津を降伏に追い込む事になります。

また、ここで、宗麟をはじめとするキリシタン大名によって神社仏閣が壊され、ポルトガルやスペインの植民地のようになってしまっている北部九州の現状を目の当たりにした秀吉は、更なる展開へ(6月19日参照>>)・・・となるのですが、

ここで、一つ、ちなみのお話を・・・

戦国好きの皆さんなら、
「内々のことは宗易(利休) に、公儀のことは宰相(秀長)に…」
というフレーズをお聞きになった事があるかも知れません。

これは、豊臣政権下で、いかに、弟の秀長と利休が重用されていたかを表す例文のように用いられる事があるのですが、これが出て来るのが、今回の宗麟の書状・・・

上記の通り、秀吉から救援の約束をとりつけた宗麟は、
「全部、秀長に、任せてあるから、心配せんと、何でも聞きや!」
と言ってくれた秀吉と別れた後、その秀長と行動をともにするのですが、その時に、秀長が両手で、宗麟の手をギュ~っと握りしめながら・・・
『何事も何事も、美濃守如比候間、可心安候、内々の儀者、宗易、公儀之事者、宰相存候、御為ニ悪敷事ハ、不可有之候』
つまり、
「私的な事は利休に、公的な事は僕に…何でも言うてね」
と言ったと・・・

うむむむ、
これは、秀長さんも、なかなかの人たらしですゾ・・・

兄弟揃って、宗麟のハートをバッチリとキャッチした、天正十四年(1586年)4月6日でした。。。
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2013年4月 5日 (金)

滋賀県・湖北の昔話~「腰折雀」と「舌切り雀」

 

近畿地方も桜が咲いて、本日はポカポカ陽気でした(゚ー゚)

・・・で、今日は、滋賀県の湖北地方に伝わる、こんな春のポカポカした日に、恩返しに来たスズメの昔話「雀の瓢箪」をご紹介しましょう。

・‥…━━━☆

昔々、ある山奥に、一人のお婆さんが住んでおりました。

ある時、そのお婆さんの家に、雀が巣を作りはじめます。

しかし、それに気づいた近所の悪ガキたちが、オモシロがって棒で巣を突き壊して、下へ落としてしまいます。

イタズラで腰の骨を折られた雀は、痛そうに「チュンチュクチュン…」

可哀そうに思ったお婆さんは、その雀を籠に入れて飼う事にし、毎日、やさしく手当てをしてやりました。

その甲斐あって、やがて元気になった雀は、籠を飛びだして、どこへともなく飛んでいきました。

それからしばらく経った、春のポカポカ陽気の日、お婆さんが、気分良く日なたぼっこをしていると、どこからか、あの雀がやって来て、ぽ~いっと、口にくわえてした種をを一つ、庭に落として、また、帰っていったのです。

「ありゃ?
何や…これは、ひょうたんの種やないかい?
けど、せっかく、あの雀が落として行ったんや…どうせなら、植えてみよ!」

と、庭に、その種を植えてみます。

すると、どうでしょう。。。

またたく間に芽が吹いたと思ったら、あれよあれよと言う間にグングン背丈が伸びて行き、ツルを伸ばし、見る間に大きな花を咲かせました。

やがて、そこにぶら~~んと、大きなひょうたんがなります。

その大きなひょうたんは、風が吹くとゆさゆさと揺れ、その揺れとともに、カラカラと不思議な音をたけます。

「こりゃ、おかしなひょうたんやな??」
と、不思議に思いながらも、ころあいを見計って、その大きなひょうたんを収穫・・・

しかし、これが、とてつもなく重いのなんのって・・・

「ひょうたんっちゅーもんは、中が無いよって、軽いもんやねんげどなぁ??
ま、とりあえず、ひょうたんはひょうたんやねんさかい、乾かして、酒でも入れて使おかいな」

と、その重いひょうたんを、必死のパッチで、家の中に入れて乾かして・・・さて、いざお酒を入れようとすると、これが、まったく入れる事が出来ず、注いだしりから、ドボドボとこぼれ出てしまいます。

「ありゃま、なんぎなひょうたんやなぁ」
と、グチをこぼしながら・・・

なんせ、「物が入れられない」となると使い道に困るひょうたん・・・とりあえず、お婆さんは割ってみる事に・・・

ポ~~ン!!と大きな音をたてて、そのひょうたんを割ってみると、アラ不思議・・・中からは真っ白なお米がザクザク・・・

それも、出るのなんのって・・・朝から晩まで、ザックザクのドックドク

ずっと出続けて、いつしかお婆さんの家が、お米で埋まってしまうほどでしたとさ。。。
ほんで、しまい

・‥…━━━☆

と、実は、これとほぼ同じお話が、13世紀頃成立の『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)「雀報恩の事(腰折雀=こしおれすずめ)として登場します。

宇治拾遺物語のほうは、この後に、意地悪婆さんが登場して、自ら石を投げてケガさせた雀を相手に、同様の事をやりますが、予想通り、出来上がったひょうたんからは毒虫やら何やらが出てきて、それらに襲われ、意地悪婆さんが死んでしまう・・・という、勧善懲悪なストーリーとなってますが、上記の通り、地方に伝わる昔話は、のほほんとした感じで終わります。

ところで、スズメの登場するおとぎ話と言えば「舌切り雀」が有名ですが、実は、「舌切り雀」も、この湖北地方に伝えられている昔話・・・

全国ネットの「舌切り雀」は、ご承知のように、明治の頃に、「子供に話して聞かせるにはふさわしく無い場面をカット」して、おとぎ話として全国に広がった物ですが、湖北地方に伝わる昔話では、やはり、ちょっと表現し難い場面も、残っています。
(ご存じだと思うので全国ネットの筋書きは省きますm(_ _)m)

Sitakirisuzume900
河鍋暁斎が描いた「舌切り雀」

糊をなめた事で、お婆さんに舌を切られた雀のいる「雀のお宿」を、お爺さんが探しに行く場面では、その場所のヒントを教えてもらう代わりに、竹を噛まされたり、肥(こえ)を飲まされたり・・・

また、「雀のお宿」のおみやげに小さい箱を貰って帰って来たお爺さんに不満を持って、自らお宿を訪ねて、大きい箱を貰ってきたお婆さんが、途中で箱を開けて、中から出て来た妖怪に食べられてしまうところまでは同じですが、昔話では、その後に・・・

帰って来ないお婆さんを探しに行って、妖怪に食べられた後のお婆さんの遺体を見つけたお爺さんが、そのお婆さんのドクロを持って、とぼとぼと一人で帰路につきますが、途中で日暮れに・・・

やむなく、「どこか泊めてくれる所は無いか?」と探しますが、「ドクロと二人じゃ泊められない」と断わられる・・・

なので、仕方無く、「一人です」と嘘をついて、ようやく1軒の家に泊めてもらう・・・ところで、お話が終了という、それこそ、口伝えの昔話ならではの、ちょっと心残りな終わり方となっています。

こうしてみると・・・
おおもとの一つのお話から、口から口へと伝わる昔話ちょっと大人向けの説話集子供向けのおとぎ話・・・と、様々に枝分かれする過程で変化する様が、とても興味深いですね。
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2013年4月 4日 (木)

徳川家康・未知との遭遇…「肉人」と「虚舟」の話

 

慶長十四年(1609年)4月4日、徳川家康の居る駿府城の庭園に「肉人」が出現しました。

・・・・・・・・・・

それは、あの関ヶ原から9年後の慶長十四年(1609年)の事・・・

すでに、将軍職を三男の秀忠に譲って「大御所」と呼ばれるようになった徳川家康は、自らの隠居の城として構築した駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市葵区)にて、東の秀忠との二極政治を調整しつつ、西の豊臣家の動きに目を光らせるという、「それは隠居か?」的な生活を送っていたわけですが・・・(2月17日参照>>)

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そんなこんなの3月4日・・・

春とは言え、未だ肌寒い季節・・・漆黒の夜空に四角い月が現われ、人々を仰天させました。

「何か不吉な事が起こるかも知れない」
と、巷では口々に気味悪がりましたが、その時は何事も無く、いつしか、その月も消えてしまいました。

ところが、その1ヶ月後の慶長十四年(1609年)4月4日・・・駿府城の庭園に、見た事も無い奇怪な「ヒト」が、突然、現われたのです。

(その姿は)小児のごとくにて、肉人ともいうべく、手はありながら指はなく、指なき手をもて、上を指して立たるものあり」

とにかく、庭園は大騒ぎ・・・
「なんや!アレ?」
「化物か?妖怪か?」
と、ドタバタするものの、誰もどうして良いかわからず、右往左往するばかり・・・

中には、捕まえようと試みる者もいましたが、これがけっこうすばしっこくて、それもできず・・・

やがて、庭の大騒ぎが城中に聞こえるようになり、さすがに、
「これは家康公の耳に入れておいたほうが…」
となって、
「いかが、取り計らいましょうか?」
と、お伺いをたてる事に・・・

すると家康は・・・
「別に…何をしたってワケでもないよって、どこか、人の見ぃひん山奥にでも、追いやったらエエがな」
と・・・

そこで、皆の力を結集して、何とか「その者」を捕まえ、城から追い出して、少し離れた山奥に連れて行って、そこに捨てたとの事・・・

ちなみに、その日は、午後2時頃から4時頃にかけて、空に奇怪な光を放つ雲が東西にたなびいて、やがて東から消えていった・・・なんて事もあったとか・・・

後に、その話を聞いた薬師が
「なんとも惜しい事をしたもんやなぁ…
お前らがガクが無いさかいに、家康公が仙薬を手に入れる千載一遇のチャンスを逃してしもたやないかい!
そいつは、、『白沢図
(はくたくず=古代中国の伝説上の妖異鬼神を紹介した物)にある『封(ほう)っちゅー者に違いない!
その肉を食べたら、力が強なって武勇も優れるっちゅー話や。
例え家康公が食べへんでも、家臣の誰かが食べたら、絶大な効果を発揮できたもんを…あぁ、もったいない!!」

と悔しがったのです。

しかし、それは体の弱い人間が、なんだかんだと健康になる薬に頼ってばかりするのと同じ・・・もともと元気な人は、薬なんか飲まなくても長生きするもの・・・

記紀神話に登場する武勇優れた神様だって、薬に頼ってばかりする事はヨシとしないはず・・・

家康も、そして家臣たちも、きっと『封』の事は知ってたのでしょうが、「奇妙な物を口にして強くなっても、それは卑怯な事…武士として誇れる物ではない!」とばかりに、棚ボタの幸運、他力本願な考えをする事無く、あえて捨てたに違いない・・・。

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てな事だそうですが、これは江戸時代後期の学者=秦鼎(はなかなえ)が書いた随筆『一宵話(ひとよばなし)に登場するお話・・・

徳川家康が宇宙人と遭遇した話として、知る人ぞ知るお話なのですが・・・どうなんでしょう??

実は、幕府の公式記録である『徳川実記』にも、このお話が出て来るわけですが、そこでは
「手足に指がないボロをまとった乞食が、駿府城内に現われたので、斬らずに追いだした」
という事になってます。

なので、いわゆる「肉人」などではなく、単に、普通の誰かが庭にいただけかも知れないわけですが、それはそれで、別の意味で勘ぐりたくなる・・・

そもそも、
駿府城の庭って、そんなに簡単に入る事ができたのかどうか?
 

仮に入れたとして、そんな単なる進入者(間者・不審者なら逮捕・拘束するはず)の侵入を、公式記録に書き残すものなのか?

しかも、この頃の家康って、自分で調合するほど薬に頼りっぱなしじゃなかたっけ?

なんか・・・
『徳川実記』に載ってる事が、逆に、『一宵話』の不思議な話の信憑性を高めている気がしないでもないですね~

ところで、「江戸時代の未知との遭遇」とくれば、おそらく、皆さまも思い起こされるであろうと思い、「ついで…」と言っては何ですが、滝沢馬琴(たきざわばきん=曲亭馬琴)『虚舟(うつろぶね)のお話もご紹介しておきましょう。

これは、その馬琴が自らが会員だった文化人の集まり=「兎園会(とえんかい)の中で語られた奇談・怪談をまとめて、『兎園小説』と題して刊行した物の中にあるお話ですが・・・

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Uturobune600 それは享和三年(1803年)2月22日の事・・・

常陸国(茨城県)「はらやどり」という浜の沖合いに、舟のようなものが見えたので、村の漁民たちが多くの小舟を漕ぎ出して捕まえ、浜辺まで引き寄せて来ました。

その舟の形は、直径3間(約5.5m)ほどのお香の入れ物のような丸い形で、上部がガラスと障子を張ったような感じ・・・船底は金属jの板を筋のように張りつけてあったのだとか・・・

すると、中から赤い髪の、いかにも異国っぽい女性が、何やら手に箱のような物を持って出て来ますが、事情を聞こうにも、まったく言葉が通じません。

村の長老は
「きっと異国で罰を受けて流されたのだろう」
と、推測し、事件として「幕府に届け出よう」との声もありましたが、届け出たら出たで大事になるのもめんどくさいので、そのまま、また沖へ流してしまった。

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って事で、実をいうと、コチラの『虚舟』の話も、何の事はない、単なる外国人の漂着のような気がしないでも無いですが、上記の画像を見る通り、挿絵に書かれた船の絵が、いかにも、現代人が想像するUFOっぽい物なので、「宇宙人との遭遇」という妄想をかきたてられるわけです。

とは言え、『兎園小説』の中でも、この舟が空を飛ぶ事はありませんし・・・てか、飛ぶどころか、自力で動く事もなく、ただ、海面に浮いていただけのようです。

第一、これは、実際に見た目撃証言ではなく、おそらく、例の「友達の友達が…」の類いの話で、実際にたどっていっても、いっこうにその友達の友達には出会えないであろう的な話・・・

ただ、『肉人』にしろ『虚舟』にしろ、不思議な話としては興味が沸くお話で、「宇宙人だったらイイなぁ」という希望は大いにあります。

広い宇宙には、きっと、同じような進化を遂げた宇宙人がいるはずですからね。

ただね・・・
冷静に考えてみると、現在の私たちが宇宙人に出会うのは、我が家に住みついてるとある1匹のゴキちゃんが、アメリカはニューヨークのとある1匹のゴキちゃんに出会うような物・・・

たまたま、私がニューヨークに行く事になり、その準備をしていうるスーツケースの中に、たまたまゴキちゃんが侵入し、そのまま渡航すれば「絶対にない話」では無いわけですが、そんな事になる可能性は非常に低いわけで・・・

しかも、ゴキちゃんの一生にも限りがあり、少しでも時間(年代)がズレていれば、もう出会えないわけで・・・

個人的には、宇宙人よりも、「タイムマシンに乗って未来から来た人」の可能性のほうが高い気がしないでも無いですが、それも夢物語・・・

でも、この妄想がたまらない!!o(*^▽^*)o
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2013年4月 3日 (水)

赤松VS六波羅探題…四月三日合戦の名勝負

 

元弘三年(1333年)4月3日、打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇配下の赤松則村が再度京都に侵攻した四月三日合戦がありました。

・・・・・・・・・

元弘元年(1331年)に鎌倉幕府の討幕元弘の変を勃発させるも失敗に終わった後醍醐(ごだいご)天皇(9月28日参照>>)・・・

しかし、元弘三年(1333年)1月、敗戦の後に行方不明となっていた後醍醐天皇の皇子=護良(もりよし・もりなが)親王再起をはかり(2月1日参照>>)、同時に、死んだと思われていた楠木正成(くすのきまさしげ)千早城に籠城(2月5日参照>>)・・・これを受けて、後醍醐天皇も流刑先の隠岐から脱出し(2月24日参照>>)伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に立て籠ります

一方、鎌倉幕府の元執権・北条高時(ほうじょうたかとき)も、都を死守せんと苦戦する六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)への援軍として、足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らの畿内への派遣を決定します。

Akamatunorimura600 この時、京都を狙う後醍醐天皇側の最前線として戦ったのが、播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵した赤松則村(あかまつのりむら・円心)でした。

やがて、今回の京都攻めの拠点として構築した摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を幕府軍に囲まれた則村は、果敢にも撃って出て、その勢いで桂川を渡河・・・3月12日には、一旦京都市中になだれ込みますが、幕府軍の数の多さはいかんともし難たく、あえなく撤退・・・(3月12日参照>>)

続く3月15日には、京都⇔大阪間の物資の補給路を断つべく、淀川を挟んた西岸の山崎、東岸の八幡に陣を構えて封鎖・・・これを崩すべくやって来た幕府軍と一進一退の攻防をくり返し、何とか幕府軍を追い返しました(3月15日参照>>)

2週間後の3月28日には、護良親王の要請を受けて、これらの動きに同調した比叡山の僧兵が、総勢1万6000騎で六波羅攻撃に向かいますが、油断と準備不足を突かれて幕府軍の逆襲に遭い、早々に退散するという小競り合いもありつつ・・・

元弘三年(1333年)4月3日再び、則村率いる赤松勢が京都に攻め寄せます。

とは言え、これまでの複数の合戦で多数の犠牲者を出した赤松勢・・・もちろん、一方の六波羅探題も多数の犠牲者を出してはいますが、なんたって彼らは幕府軍ですから、おおもとの軍勢の数が違うわけで・・・

ここに来て、今なお3万騎以上の兵力を持つ六波羅探題は、少しも騒がず・・・3方に分かれた赤松勢を見透かすように、自らの手勢も3隊に分けて、彼らを迎え撃つ体勢となります。

午前10時・・・その3ヶ所で、一度に合戦が開始されました。

3ヶ所とも一進一退の攻防戦が続き、結局は勝負の着かないまま日暮れを・・・しかし、「このまま終わらせてはならぬ」と踏ん張る六波羅勢は、奇襲作戦を決行・・・

まずは木幡(こわた=京都府宇治市木幡)にいた1隊を破り、続いて東寺(とうじ=京都市南区九条町)の手前にいた1隊も撤退させます。

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舞台となった京都・東寺

残るは則村自身が率いる3000騎・・・

他を破って3方から攻めかかる六波羅勢を相手に、奮戦し、なんとか踏みとどまる則村隊・・・

そんな則村隊の中にいたのが、頓宮(はみや・とんぐう)又次郎孫三郎・父子、そして田中盛兼と弟の盛泰・兄弟の4人の勇者・・・

決死の形相で前へ進み出て、おそらく数千騎はいるかと思われる大軍を相手に堂々名乗りを挙げます。

それに応えて六波羅勢から進み出たのは島津安芸前司(島津忠信?)父子3名・・・

ここに、西国一の太刀の名人とされる田中組と、北国無双の騎射の達人とされる島津組とが繰り広げる名勝負に、息を呑む戦場・・・お互いに追いつ追われつするさまを、周囲は前代未聞とばかりに、誰も乱入せず、むしろ見物状態です。

しかし、さすがに太刀と弓では・・・やがて、頓宮父子・田中兄弟4名は、2~30本の矢を浴びせられ、その最期は立ち往生となったのです。

また、赤松勢の中には、妻鹿(めじか・めが)孫三郎長宗なる怪力の持ち主がおりました。

彼は幼い頃から体格が良く、相撲を取れば負け知らず・・・しかも、彼の一族・17名が、これまた、皆揃っての体格&怪力の持ち主であった事から、この日も、他の軍勢とは合流せず、自分たちの一族だけで市中へと突入し、六条坊門(現在の五条大宮付近?)まで攻め込んでおりました。

とは言え、先ほどからの展開でお解りの通り、はなから多勢に無勢なわけで・・・結局、このあたりで、妻鹿一族は3000騎の六波羅勢に囲まれてしまいます。

やむなく撤退を開始する妻鹿一族でしたが、その17名が次々と討死・・・孫三郎はただ一人となって奮戦しながら逃走します。

そこを、印具(いぐ)駿河守の50騎が「逃してなるものか!」と追いかけます。

すると、その中から、20歳くらいの若武者一人・・・軍団から飛びぬけて、組み撃ちせんとばかりに孫三郎に近づいて来ました。

力自慢の孫三郎は、馬上から片手を出したかと思うと、その若武者を鎧ごと片手でワシ掴みにし、彼を左手にぶら下げたまま、なおも逃走・・・

追う印具勢が、
「あれ(若武者)を討死させるな!」
と、互いに声を挙げると、

孫三郎は、キッと睨み返し
「たった1騎やと思てナメんな…俺に近づいたらケガするゾ!
欲しいねやったら、やるわ!」

と、左手の若武者を右手に持ち替えて、ホイっと投げると、若武者の体は数騎の騎馬武者の頭上を越えて泥田の中へ・・・

これを目の当たりにした印具の追手たちは、さすがに、もう追うのを止め、その場から引き返し、孫三郎は、なんとか無事生還します。

とは言え、この日の合戦で更なる犠牲者を出してしまった赤松則村・・・しかも、今回の戦いでは、頼りにしていた精鋭たちの多くも討死してしまった事で、八幡・山崎へと撤退する則村の心も沈み、これらの京都での合戦の様子を伝え聞いた後醍醐天皇も、心を痛めます。

ただ、一つの希望は、これを受けて、船上山にて、自ら戦勝祈願をする後醍醐天皇が、祈願成就の吉兆を得た事・・・

こうして、後醍醐天皇の鎌倉討幕への道は、更なる展開を見せる事になるのですが、そのお話は、次なる展開の「その日」にご紹介させていただきます。
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2013年4月 1日 (月)

鎌倉幕府、初の皇族将軍…宗尊親王

 

建長四年(1252年)4月1日、後嵯峨天皇の第1皇子である宗尊親王が、鎌倉幕府の第6代将軍に就任・・・初の皇族将軍の誕生です。

・・・・・・・・・

「初の皇族将軍の誕生」と聞けば、何やら、鳴り物入りで意気揚々と、希望に満ち溢れた雰囲気がしますが、残念ながら、今回将軍となられた宗尊(むねたか)親王・・・自らの預かり知らぬところで、その人生を翻弄されるお方です。

そもそも、父の第88代後嵯峨(ごさが)天皇からしてややこしい・・・

話は、かなり戻りますが・・・
そのおおもとは、そう、あの源平の合戦の際、都を落ちる平家は、第80代高倉(たかくら)天皇と、平清盛(たいらのきよもり)の娘=徳子(とくこ)の間に生まれた第81代安徳(あんとく)天皇を奉じて西海へと落ちました(7月25日参照>>)

そのため、天皇不在となった都では、高倉天皇の第4皇子で、平家と行動をともにしていなかった尊成(たかひら)親王第82代天皇とします・・・この方が後鳥羽(ごとば)天皇・・・

で、ご存じのように、源平の合戦に勝利した源頼朝(みなもとのよりとも)は、その後鳥羽天皇のもと、初代の征夷大将軍となって鎌倉幕府を開く(7月12日参照>>)わけですが、この頼朝の直系の将軍が、第2代の頼家(よりいえ)(7月18日参照>>)、第3代の実朝(さねとも)(1月27日参照>>)と、わずか3代で絶えてしまいます。

そのため、事実上幕府の実権を握る頼朝の嫁=政子と、その弟で第2代執権の北条義時(よしとき)は、頼朝の妹=坊門姫(ぼうもんひめ)の曾孫にあたる九条家藤原頼経(よりつね)を、亡き頼家の娘=竹御所(たけのごしょ)と結婚させて、第4代将軍として迎えたのです。

ところが、このゴタゴタをチャンスとみた後鳥羽天皇が、討幕を計画・・・これが承久の乱ですが、ご存じのように天皇側が敗れ、逆に、幕府の勢力が拡大する結果となってしまいます(6月14日参照>>)

首謀者の後鳥羽天皇はもちろん、乱に関与した後鳥羽天皇の皇子・第83代順徳(じゅんとく)天皇、第84代土御門(つちみかど)天皇流罪に・・・順徳天皇の皇子で、当時わずか4歳だった第85代仲恭(ちゅうきょう)天皇まで廃帝となります(4月20日参照>>)

当然ですが、乱に関与した天皇の血筋を、次の天皇にしたくない幕府は、やむなく、あの源平合戦の時に、安徳天皇とともに西海へ落ちたものの、母が徳子ではない高倉天皇の第3皇子であった守貞(もりさだ)親王の息子=茂仁(ゆたひと)親王を、第86代後堀河(ごほりかわ)天皇として即位させたのです。

さらに、皇位は、後堀河天皇の皇子=第87代四条天皇へと譲られますが、この四条天皇が、わずか12歳で後継ぎもいないまま亡くなってしまったために・・・さぁ、幕府は困った・・・

仕方なく幕府は、承久の乱には参加したけれど、最も消極的だった土御門天皇(10月11日参照>>)の第3皇子を天皇とする事に・・・これが、後嵯峨天皇なのです。

一方、幕府将軍のほうは・・・

上記の通り、将軍自身は、完全にお飾りの傀儡(かいらい=あやつり人形)だったわけですが、やはり、どうしても、その近親者の権威は強くなるわけで・・・いつしか、将軍・頼経の父である九条道家(みちいえ=藤原道家)朝廷内で実権を握るようになります。

北条氏としては、この九条家が強くなり過ぎても困るわけですが、そうこうしているうちに将軍・頼経と時の第4代執権=北条経時(つねとき)との関係が悪化・・・あるいは、その関係を見計らった頼経自身の意志により、寛元二年(1244年)、将軍職は嫡男の頼嗣(よりつぐ)に譲られます。

しかし、その頼嗣も、建長三年(1251年)に起こった謀反未遂事件に父の頼経が関与していたとして将軍職を追われ、建長四年(1252年)4月1日、代わって第6代将軍に就任したのが、後嵯峨天皇の第1皇子である宗尊親王というわけです。

Munetakasinnou500 実は、この宗尊親王・・・後嵯峨天皇の第一子ではありますが、後嵯峨天皇は、この同じ年に西園寺姞子(さいおんじきつし)を中宮に迎えていて、まもなく、その姞子との間にも男子(後の第89代後深草天皇)が誕生・・・
つまり、母の身分が低いため、長男と言えど、おそらく宗尊親王が皇位を継ぐ事はないわけで・・・

その事を、かねがね不憫に思っていた後嵯峨天皇と、例の九条家の力を、これ以上大きくしたくない北条氏の利害関係が一致して、ここに、初の皇族将軍の誕生とあいなったわけです。

しかし、それはイコール・・・「宗尊親王が将軍として何かをするという事が無い」という事を意味しています。

政治に関与する事のない、まったくのお飾り・・・歌が大好きだった宗尊親王は、折に触れて何度も歌会を催し、鎌倉歌壇でかなりの影響を持つ歌の名手とされたようですが、趣味の世界に生きるしか道が無いというのも、ツライ物があるかも知れません。

しかも、結局、25歳となった文永三年(1266年)6月、些細な事から謀叛の疑いをかけられ、後に第8代執権となる北条時宗(ときむね)らによって将軍職を解任され、京の都へと送還されるのです。

この時、この人事に強く反対した名越流北条氏(なごえりゅうほうじょうし=北条義時の次男・北条朝時の流れ)は、後に、謀反を企てたとして文永九年(1272年)の二月騒動で幕府から排されますので、おそらくは、名越流を排除したい時宗ら得宗家(とくそうけ=義時の嫡流)が、まずは名越流と仲の良い宗尊親王を排除したという事なのでしょう。

結局は、周囲の思惑によって祭り上げられ、周囲の思惑によって終止符を打たされた宗尊親王の将軍生活・・・

♪いにしへを 昨日の夢と おどろけば
 うつつの外に けふも暮れぬる ♪

「昔の事は、昨日の夢みたいやな~って思うんやけど、夢から覚めても現実味の無いまま、一日が終わってしまう」

これは、宗尊親王が将軍職を廃されて、京の都に戻ってから詠まれた歌だそうですが、なんとも物悲しい・・・お気の毒な気がします。
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