« 滋賀県・湖北の昔話~「腰折雀」と「舌切り雀」 | トップページ | 千種忠顕&児島高徳…4月8日の京合戦 »

2013年4月 6日 (土)

大友宗麟~豊臣秀吉への救援要請in大坂城

 

天正十四年(1586年)4月6日、豊後の戦国大名=大友宗麟自らが、大坂城にて豊臣秀吉に対面し、島津討伐の救援を願い出ました。

・・・・・・・・・・

九州のキリシタン大名の代表格として「豊後(大分県)の王」と呼ばれ、あの『天正遣欧少年使節』の派遣(6月20日参照>>) にも関わった大友宗麟(そうりん)・・・

徐々に力をつけて来た薩摩(鹿児島県)島津に攻め込まれた日向(宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)が助けを求めて来た時、すでに息子の義統(よしむね)に家督を譲って隠居していた宗麟は、
「日向を奪い返したあかつきには、無鹿(むしか・務志賀=宮崎県延岡市無鹿)を拠点にキリスト教の理想の王国を造る」と大ハリキリ(8月12日参照>>)だったわけですが、残念ながら、その島津と相まみえた耳川の戦いに大敗を喫してしまいます。
11月11日「高城川の戦い」参照>>
11月12日「耳川の戦い」参照>>

さらに、その大友の大敗をチャンスとみた肥前(佐賀県)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が、筑前(福岡県西部)豊前(福岡県東部と大分県北部)などの周辺の国人領主を巻き込んで、反大友をあらわにし、九州を南下する兆しを見せ始めます。

そうなると、大友の家臣団にもなにやらグラつきが見えはじめたわけですが、天正十二年(1584年)3月の沖田畷(おきたなわて)の戦い(3月24日参照>>)で、かの隆信が島津に敗れて戦死してくれたおかげで、龍造寺からの脅威は無くなったものの、逆に、勢いづいた島津と、真っ向からぶつかる事になるわけで・・・

耳川の敗戦以来、衰退していく一方で、絶体絶命となった大友氏・・・

「もはや、自力では守りきれない」と判断した宗麟は、得意の外交手腕を活かす事を決意・・・天正十三年(1585年)、大坂の羽柴(後の豊臣)秀吉に救援を求めたのです。

天正十三年の秀吉と言えば・・・
4月に、あの小牧長久手の戦いを何とか講和に持ちこんだ(11月16日参照>>)後に、その戦いで敵に回った紀州を征伐(3月21日参照>>)、7月には、亡き主君の織田信長が手つかずだった四国を平定し(7月26日参照>>)、閏8月には、やはり小牧長久手で敵対した富山城佐々成政(さっさなりまさ)を降伏に追い込み(8月29日参照>>)、まさに、全国制覇にまっしぐらの上り調子・・・

このタイミングでの九州からの救援要請は、まさに渡りに船・・・早速、天正十三年(1585年)10月に大友氏と島津氏に対して、停戦命令を出したのです。

しかし、島津中興の祖と呼ばれる島津貴久(たかひさ)の血を受け継ぐ、絆バッチリの島津四兄弟(6月23日参照>>)・・・昨日や今日に勢いづいた足軽あがりの秀吉の命令なんかに聞く耳持たず!

そんな秀吉の停戦命令を無視して、さらに大友氏への圧迫を強めていくのです。

この状況にたまりかねた宗麟・・・自らが臼杵(うすき)から海路で大坂へと向かい、天正十四年(1586年)4月6日直接秀吉に謁見し、じきじきに島津討伐を懇願したのでした。

Ca3e0022a1000 大阪城天守閣と極楽橋

『天正十四年卯月六日付 古荘丹後入道・葛西周防入道・斎藤紀伊入道宛 大友宗麟書状』によると・・・

前日5日にに到着した宗麟は、6日の夜明けとともに、堺から住吉を経て大坂城下へ・・・

門をくぐってから、秀吉のいる場所まで、なにやら人々が大石を運んで普請中の様子の中、「見事結構」「比類無き」「仰天申候」と、さすがの宗麟も大坂城のスゴさに驚く・・・

やがて、通された部屋には、秀吉の弟=羽柴秀長(ひでなが)宇喜多秀家(うきたひでいえ)細川幽斎(ゆうさい・藤孝)ら・・・一方に、前田利家安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らが居並ぶ中央の一段高い所に秀吉・・・

「う~~ん、こんなトコに連れていかれたら緊張するぅ~Σ(;・∀・)」

しかし、さすがは、人たらしの秀吉・・・どうやら、ここで、あの黄金の茶室を宗麟に見せて、その緊張を和ませると同時に、自らの権力をアピールしたようです。

『…天井、壁、其外皆、金あかり、障子のほね迄も、黄金、赤紗にて、はり申候、見事さ、結構、不及申…』
しかも、そこで、千利休(せんのりきゅう)がお茶を点て、その後、秀吉は静かに
「宗麟くんは、お茶とか、好きなんか?」
と聞いたと・・・

とは言え、さすがは交渉上手の宗麟・・・かねてより用意してあった秘蔵の茶器を秀吉にプレゼント・・・これに大いに喜んだ秀吉は、上機嫌で、自ら親しく大坂城内を案内して回り、大友氏を全面的にバックアップする事を約束したのです。

これが、ご存じ、九州征伐・・・

翌・天正十四年(1586年)11月の戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)こそ足踏みしたものの、さらに翌年の高城・根白坂の戦い(4月12日参照>>)で、島津を降伏に追い込む事になります。

また、ここで、宗麟をはじめとするキリシタン大名によって神社仏閣が壊され、ポルトガルやスペインの植民地のようになってしまっている北部九州の現状を目の当たりにした秀吉は、更なる展開へ(6月19日参照>>)・・・となるのですが、

ここで、一つ、ちなみのお話を・・・

戦国好きの皆さんなら、
「内々のことは宗易(利休) に、公儀のことは宰相(秀長)に…」
というフレーズをお聞きになった事があるかも知れません。

これは、豊臣政権下で、いかに、弟の秀長と利休が重用されていたかを表す例文のように用いられる事があるのですが、これが出て来るのが、今回の宗麟の書状・・・

上記の通り、秀吉から救援の約束をとりつけた宗麟は、
「全部、秀長に、任せてあるから、心配せんと、何でも聞きや!」
と言ってくれた秀吉と別れた後、その秀長と行動をともにするのですが、その時に、秀長が両手で、宗麟の手をギュ~っと握りしめながら・・・
『何事も何事も、美濃守如比候間、可心安候、内々の儀者、宗易、公儀之事者、宰相存候、御為ニ悪敷事ハ、不可有之候』
つまり、
「私的な事は利休に、公的な事は僕に…何でも言うてね」
と言ったと・・・

うむむむ、
これは、秀長さんも、なかなかの人たらしですゾ・・・

兄弟揃って、宗麟のハートをバッチリとキャッチした、天正十四年(1586年)4月6日でした。。。
 .

あなたの応援で元気100倍!


    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 滋賀県・湖北の昔話~「腰折雀」と「舌切り雀」 | トップページ | 千種忠顕&児島高徳…4月8日の京合戦 »

戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちは~

信長といい秀吉といい、茶器とはそんなにも魅力的なのですね。
本能寺の変の直前にも、信長を釣る餌だったのか、三大茶器(信長が二つ)の一つを所有する武将も参加する茶の催しがあったとかですね。堺の商人が関係していたでしょうから、やはり光秀と利休に何らかの脈が...?
それにしても、私事は全て、と言わしむるとは、利休恐るべし。

いや~、南蛮人の絡みも面白いですね~

投稿: 達田ニャン | 2013年4月 7日 (日) 11時06分

茶々様

島津は鎌倉殿以来の薩摩大隅の国の守護ですから,途中で危ない時期もあったですけど,秀吉なんて,「何それっ」という感じがあったでしょうね(か?)。

それにしても,秀吉の実弟「秀長」のことは実はあまり私は知りません。この方が秀吉よりも長命であれば,IFはだめでしょうが,歴史の流れは変わっていたかもしれませんね。あの「朝鮮出兵」に対しても,「異」と唱えられる立場だったかもしれません。

大友宗麟,なかなかの人物でしょうね。ここで,中央に政権を打ち立てた(つつある)秀吉に対して「泣き付く」というのは今見たら当たりまでに見えるけど,当時はどうだったのでしょうか? 秀吉が日本の「警察」になっていたということでしょうね。(アメリカが世界の「警察」を自負するように!)

投稿: 鹿児島のタク | 2013年4月 7日 (日) 13時13分

達田ニャンさん、こんにちは~

ハイ、私も、本能寺の変と堺の商人の関係>>
について書かせていただいてますが、そこは、やはり、ちょっとアヤシイですね~

投稿: 茶々 | 2013年4月 7日 (日) 17時59分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

以前、どこかでも書きましたが…
秀長さんに関しては、「譜代の家臣のいない秀吉に、よく、こんなナイスな人材が、弟として存在したな」
と思えるほどスゴイ人だと思います。
「もし生きていたら…」と考えると妄想は泊らなくなりますね。

大友宗麟も…
大友氏も鎌倉時代から続く家柄なのに、よく、ふっ切ったと思います。
戦国の世にしたたかに生き残るためには必要な事だと思います。

投稿: 茶々 | 2013年4月 7日 (日) 18時06分

秀吉さんと秀長さん。

どこにでもいる兄弟のように
顔といい、声といい、うしろ姿といい、そっくりだったのかな?
妄想スイッチ・オンです^^

今、大和郡山城の桜が、見事です♪

投稿: 真田丸 | 2013年4月 7日 (日) 23時11分

真田丸さん、こんばんは~

似てたのかな??
(同じく妄想に入りました~)

桜、一気に咲きましたね~

投稿: 茶々 | 2013年4月 8日 (月) 03時15分

秀吉というと、大河ドラマの臭い芝居のせいで好きになれず、あまり気に掛けてきませんでしたので、知らないことばかり。
秀吉は農民出といいますけど、実際、兄弟で天下を目指すだけの何か精神的背景が、家系とかあったのですか?

投稿: ダルタ湾 | 2013年4月 8日 (月) 06時31分

茶々様、こんにちは~

歴史に名を残す人間には、必ず下に有能な人材がいますねぇ・・・
そういえば、今でさえ、現存する城郭を見れば「凄いな~」となるのですから、全盛期の大阪城なんか見たら大友さんも「足軽上がりに頭を下げる事になるとは・・・」という考えがすっ飛んで「こんな城建ててしまう秀吉とは・・・」となってしまうんでしょうかね・・・

投稿: キスケ | 2013年4月 8日 (月) 09時54分

ダルタ湾さん、こんにちは~

秀吉の出自や前半生は謎ですよね~
父親すれ、「そう言われてる」だけで、よくわからないし、秀長と同父なのか?異父なのかも…

本人は、「天皇のご落胤」と言ってますが…

投稿: 茶々 | 2013年4月 8日 (月) 14時43分

キスケさん、こんにちは~

細かな部分まで全部金の黄金の茶室ですからね~

「屈する」というよりも、「これを利用しない手はない」てな感じがあるかも知れませんね。。。
秀吉も、それを見越してのアピールでしょうが…

投稿: 茶々 | 2013年4月 8日 (月) 14時47分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大友宗麟~豊臣秀吉への救援要請in大坂城:

« 滋賀県・湖北の昔話~「腰折雀」と「舌切り雀」 | トップページ | 千種忠顕&児島高徳…4月8日の京合戦 »