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2013年4月28日 (日)

藩の政府の財政建て直しに尽力した由利公正

 

明治四十二年(1909年)4月28日、幕末維新の動乱で、政治家・実業家として活躍した福井藩士=由利公正が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

文政十二年(1829年)に福井藩士・三岡義知の嫡男として福井城下に生まれた由利公正(ゆりきみまさ・こうせい)・・・

Yurikimimasa400 福井藩士時代は三岡八郎(みつおかはちろう)という名前で、由利公正は維新後に名乗った名前なのですが、このページでは由利公正さんで通させていただきますね。

公正の家は、藩士と言えど、決して裕福では無く・・・というより、この幕末の時代、ほとんどの藩が財政難なわけで、その影響は、当然、一般の藩士にモロ降りかかるわけで・・・

しかし、そんな中でも父の義知は息子をきちんと教育し、母も、家庭菜園を行って野菜類をまかないながら家計のやりくりをこなすしっかり者・・・という事で、公正も幼い頃から家の仕事を手伝いつつ、両親の背中を見て学ぶ好青年に育って行きます。

やがて天保九年(1838年)に松平春嶽(しゅんがく=慶永)が福井藩主に就任し、その後の初のお国入りの時に藩の財政再建を目指す新たな人材登用を実施した事で、公正はそのメンバーの一人に抜擢される事になります。

また、嘉永四年(1851年)に福井を訪れた熊本の儒学者・横井小楠(よこいしょうなん)(1月5日参照>>)実践的な殖産興業(産業の育成)策での経済再生に大いに興味をを持ち、その財政学を学びました。

嘉永六年(1853年)には、父の急死を受けて家督を継ぎますが、この年に起こったのが、あのペリー来航(6月3日参照>>)・・・藩の命令により、品川砲台場(8月28日参照>>)の警備についた公正は、ここで、あの黒船を目の当たりにし、「かの国に対抗するためには富国強兵(国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策)こそが重要」と実感し、故郷に帰ってからは、本格的な藩政改革に乗り出します。

もちろん、それは、以前からある「財政難だから倹約」という従来の政策ではなく、藩札を発行し、それを元手に生糸を買い、長崎のオランダ商館を通じて輸出・・・など、とにかく、お金を回して回して、、、困窮する藩財政を見事建てなおすのです。

もはや春嶽の右腕となった公正は、その春嶽が幕府の政治総裁職につくと側用人を務めますが、あの長州征伐の時に、出兵に反対して列藩会議を開く事を建白したために蟄居謹慎処分となってしまいます。

・・・が、この謹慎処分中、公正に会いたくて福井を訪れた人がいます。

あの坂本龍馬です。

当時、福井城下を流れる足羽川のほとりにあった公正の屋敷を訪れた龍馬は「三岡に話したい事がいっぱいある!」と言って、夜遅かったにも関わらず、かの小楠をともなって小船を横付け・・・その勢いのまま話はじめて、またたく間に意気投合し、3人は囲炉裏を囲んで、朝までしゃべりっぱなしの飲みっぱなしだったとか・・・

実は、この時に出た言葉が、あの「ニッポンを洗濯」だったり、その内容が、後に出来上がる「船中八策」(6月22日参照>>)のもとになったり?なんて事も言われています。

この時、あまりの楽しさに感極まった龍馬が
♪君がため 捨つる命は 惜しまねど
 心にかかる 国の行く末 ♪

と歌ったのだとか・・・

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「由利公正の邸宅跡」(福井市)

現在、足羽川に架かる幸橋のたもとの土手部分に「由利公正の邸宅跡」を示す石碑がありますが、その横には、この龍馬の歌碑もあります。

・・・で、結局、この夜に話した「新しい政府のやるべき経済政策」についての事が評価され(生前の龍馬が強く推していたとも…)、公正は、維新が成った後、参与として、明治新政府に出仕する事になります。

新政府では御用金取り扱いを担当する会計事務掛となり、太政官札を発行したり、大阪の問屋商人からの基金を集めたりなどして、新政府の財政的な基盤を作りました。

とは言え、さすがに、すぐさま結果が出るという類いの物では無いため、批判にさらされた結果、わずかの間で辞職に追い込まれていまいますが・・・

しかし、一方ではこの間、あの『五箇条の御誓文』(3月14日参照>>)の原本作成という大役もこなしています。

その後、明治四年(1871年)には東京府知事となり、その翌年には、アメリカやヨーロッパを訪問したあの岩倉使節団(10月8日参照>>)にも随行・・・晩年には貴族議員も務めた後、明治十七年(1894年)には、京都府知事・中井弘の助力を得て京都に設立した有隣(ゆうりん)生命保険会社の初代社長にも就任し・・・

やがて明治四十二年(1909年)4月28日81歳に及ぶ、その生涯を閉じたのです。

・・・と、そう、実は、これだけの手腕を持ちながら、公正は、新政府では大臣にすらなっていない・・・

これには、政略には長けていても、公正ほどの経済に関する手腕を持たない、大久保利通(おおくぼとしみち)木戸孝允(きどたかよし)など、薩長の派閥からの嫉妬があった、なんて事も言われますが、果たして???

さぁさぁ・・・今こそ財政再建!
派閥になんぞにこだわらない、平成の由利公正の出番ですゾ!
 .

あなたの応援で元気100倍!


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コメント

茶々様、こんばんは。

幕末のことは事象が多すぎて、研究途上なので、知らないことばかりです。
こう言う人がいたのですね。
確かに今こそこう言う人物が出てきて欲しいです。

投稿: ジラルデリ | 2013年5月 5日 (日) 19時28分

ジラルデリさん、こんばんは~

私も…特に近世は知らない事だらけです。
でも、それを、一つ一つ知って行く事も楽しみなんですよね!

投稿: 茶々 | 2013年5月 5日 (日) 23時55分

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