千種忠顕&児島高徳…4月8日の京合戦
元弘三年(1333年)4月8日、打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇配下の千種忠顕が京都に侵攻するも、六波羅探題に阻まれた4月8日の京合戦がありました。
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元弘元年(1331年)に元弘の変で鎌倉討幕を決行するも失敗に終わった(9月28日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇が、元弘三年(1333年)に再び挙兵して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に立て籠り(2月24日参照>>)、河内(大阪府東南部)では、後醍醐天皇の皇子=護良(もりよし・もりなが)親王(2月1日参照>>)や楠木正成(くすのきまさしげ)(2月5日参照>>)が奮戦する中、
六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)が守る京都を奪取せんと転戦していたのが播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵した赤松則村(あかまつのりむら・円心)・・・
これまで、
3月12日の三月十二日合戦(3月12日参照>>) 、
3月15日の山崎の合戦(3月15日参照>>)、
4月3日の四月三日合戦(4月3日参照>>)、
と展開するものの、数に勝る六波羅探題に、その都度、阻まれるのでした。
(くわしくは、個々の合戦のそれぞれのページで…)
そんな現状を打開すべく、後醍醐天皇軍は、千種忠顕(ちぐさ・ちくさただあき)を山陽・山陰道の総司令官に任命し、「則村と協力して六波羅を攻略せよ」と京都へ派遣したのです。
その軍には、途中々々で味方が加わって20万7000余騎(『太平記』の数字です)の大軍となり、さらに、第六の若宮(後醍醐天皇・皇子の静尊法親王と思われる)が加わった事で、忠顕は大いに喜び、官軍の証である『錦の御旗』を掲げて進軍・・・兵の士気も最高潮のまま、4月2日には京の西山に布陣しました。
ですが・・・
そう、先に書いた通り、4月3日には、赤松軍が六波羅を攻撃しているはずなのに・・・
実は・・・
忠顕は、自軍の数の多さに自信を持ったのか?はたまた、その武功を一人占めしようとしたのか?・・・
とにかく、赤松軍と合流どころか、連携する事もなく時を過ごし、元弘三年(1333年)4月8日、こっそりと京都市中への進攻を開始したのです。
しかし、相手の六波羅探題は、しっかりと準備をして千種軍を待ちかまえていたのです。
まずは、六波羅探題が大宮方面へと配置していた先手に、2重3重に構えた千種軍が攻めかかります。
第1陣が退けば、すぐさま第2陣と次々と新手を投入する作戦で千種勢は六波羅を圧倒し、さらに、六波羅側に忍び込んでいた間者が敵の陣に火を放った事で、やむなく六波羅勢は大宮方面から撤退します。
勢いづいた千種軍は、さらに圧し進みますが、そこに、六角時信(ろっかくときのぶ=佐々木時信)ら六波羅の新手・・・実はこっちが本隊・・・
この新手に苦戦した千種軍は、あちこちで敗退し、やがて桂川のあたりまで撤退します。
それでも、名和小次郎と児島高徳(こじまたかのり)(←後醍醐天皇が流罪になった時頑張ってた人デス:3月7日参照>>)の小隊だけは後退せず、何とか踏ん張っておりましたが、忠顕からの全軍撤退の命令が出たために、敵の大将と挨拶を交し、「引き分け」という事で軍勢を退きました。
その後、本陣の峯堂(京都市西京区)にいた忠顕のもとに、すぐさま駆けつけた高徳・・・早速抗議です。
「なんでや!まだ勝機はあるがな!
援軍を出してくれ!俺は、もっかい行く!」
と、忠顕に申し出ますが、忠顕は、首を縦に振らず・・・そのまま、峯堂を動こうとしません。
「あぁ、そうでっか!!わかりましたわ!
けど、気ぃつけなはれや~
敵は、まだまだ力が有り余ってますさかいに、今夜、ここに夜襲があるかも知れまへんよってに…」
と、脅しの捨てゼリフを残して、その場を去った高徳・・・
やがて、その夜も更けた頃・・・高徳が、自らの陣から峯堂の方角を眺めると、星のように輝いているかがり火が、一つ、また一つと消えていきます。
「あのアホ!敵前逃亡か?」
と、疑いながら、慌てて峯堂へと向かう高徳・・・
すると、途中で、ちょうど自らの陣をたたんでいる同僚の荻野朝忠(おぎのともただ)と出会います。
「あぁ、わが大将は昨夜の0時頃、第六の若宮を馬に乗せて、前のめりになりながら慌てて落ちて行きはりましたわ。
しゃーないから、俺らも故郷の丹波に帰ろかなと思て…。
なんやったら、俺らといっしょに来はりますか?」
と朝忠・・・
どうやら忠顕さん・・・高徳の脅しに、本気で怖くなったらしい・・・
「クソッ!あんな臆病者を、大将と頼りにした俺が間違いやったわ!
けど、やっぱ、この目で事実を確かめんと、若宮の事も心配やし、上に報告もできひんし…とりあえずは峯堂まで行ってみるから、君ら、先に行っとってくれるか。
現場を確認した後で追っかけるさかいに…」
そう言って、高徳は、自らの従者を麓に待たせ、ただ一人、退却していく軍勢の中を押し分けへし分け、峯堂まで上っていき、忠顕がいた本堂の中に入ってみると・・・
よほど慌てていたのか?
そこらへんに鎧やら着物やら散乱し、見るも無残な現状・・・しかも、大事な『錦の御旗』まで、そこらへんにほっぽりだしたまま・・・
あまりの現状に
「あのアホ!!
どこぞの堀でも崖でもええから、落ちて死んだらええねん!」
と歯ぎしりしながら、しばし立ち尽くす高徳・・・
しかし、ここは戦場・・・六波羅郡の追撃があるやもしれませんから、ゆっくり立ち尽くしてはいられません。
気を取りなおして『錦の御旗』を回収し、自軍と合流した後、先ほどの朝忠の後を追いながら、丹波へと落ちていきました。
案の定、彼らが撤退した場所には、その後六波羅軍が押し寄せ、西山一帯の神社仏閣を破壊して放火・・・周辺は焦土と化したとの事・・・
赤松軍との連携は乱れ、千種軍は撤退し・・・
もはや、後が無い後醍醐天皇・・・
しかし、ここで、戦の女神は後醍醐天皇にほほ笑みます。
そう、天皇軍の転戦を伝え聞いた鎌倉幕府の元執権・北条高時(ほうじょうたかとき)が、六波羅探題の援軍として派遣した足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)・・・
高時の命を受け3月27日鎌倉を出陣じた高氏が、京都に到着するのは、今回の合戦から8日後の4月16日・・・彼が、後醍醐天皇軍の救世主となるのは、皆様もご存じかと思いますが、そのお話は2012年4月16日のページでどうぞ>>
・・・と、次のページへ行く前に・・・
このままだとあまりにも忠顕さんが気の毒な感じなので、つけ加えておきますと、今回こそカッコ悪さ100%ですが、忠顕さんは、それこそ、後醍醐天皇が隠岐へ流された時もつき従った忠臣で討幕運動に活躍し、後醍醐天皇政権下では『三木一草(さんぼくいっそう)』の『草』に数えられ、伊勢千種家の祖となる人ですので・・・
●三木一草…楠木正成(くすのきまさしげ)・結城親光(ゆうきちかみつ)・名和長年(なわ ながとし)と、いずれも後醍醐天皇のもとで活躍した3人の、「くすのき」「ゆうき」の2つの「き」と、長年が伯耆守(ほうきのかみ)だったので「ほうき」の「き」、合計3つの「き」と、「ちぐさ」の「くさ」を加えて、その隆盛を並び称されたという事です。
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