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2013年4月 3日 (水)

赤松VS六波羅探題…四月三日合戦の名勝負

 

元弘三年(1333年)4月3日、打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇配下の赤松則村が再度京都に侵攻した四月三日合戦がありました。

・・・・・・・・・

元弘元年(1331年)に鎌倉幕府の討幕元弘の変を勃発させるも失敗に終わった後醍醐(ごだいご)天皇(9月28日参照>>)・・・

しかし、元弘三年(1333年)1月、敗戦の後に行方不明となっていた後醍醐天皇の皇子=護良(もりよし・もりなが)親王再起をはかり(2月1日参照>>)、同時に、死んだと思われていた楠木正成(くすのきまさしげ)千早城に籠城(2月5日参照>>)・・・これを受けて、後醍醐天皇も流刑先の隠岐から脱出し(2月24日参照>>)伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に立て籠ります

一方、鎌倉幕府の元執権・北条高時(ほうじょうたかとき)も、都を死守せんと苦戦する六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)への援軍として、足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らの畿内への派遣を決定します。

Akamatunorimura600 この時、京都を狙う後醍醐天皇側の最前線として戦ったのが、播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵した赤松則村(あかまつのりむら・円心)でした。

やがて、今回の京都攻めの拠点として構築した摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を幕府軍に囲まれた則村は、果敢にも撃って出て、その勢いで桂川を渡河・・・3月12日には、一旦京都市中になだれ込みますが、幕府軍の数の多さはいかんともし難たく、あえなく撤退・・・(3月12日参照>>)

続く3月15日には、京都⇔大阪間の物資の補給路を断つべく、淀川を挟んた西岸の山崎、東岸の八幡に陣を構えて封鎖・・・これを崩すべくやって来た幕府軍と一進一退の攻防をくり返し、何とか幕府軍を追い返しました(3月15日参照>>)

2週間後の3月28日には、護良親王の要請を受けて、これらの動きに同調した比叡山の僧兵が、総勢1万6000騎で六波羅攻撃に向かいますが、油断と準備不足を突かれて幕府軍の逆襲に遭い、早々に退散するという小競り合いもありつつ・・・

元弘三年(1333年)4月3日再び、則村率いる赤松勢が京都に攻め寄せます。

とは言え、これまでの複数の合戦で多数の犠牲者を出した赤松勢・・・もちろん、一方の六波羅探題も多数の犠牲者を出してはいますが、なんたって彼らは幕府軍ですから、おおもとの軍勢の数が違うわけで・・・

ここに来て、今なお3万騎以上の兵力を持つ六波羅探題は、少しも騒がず・・・3方に分かれた赤松勢を見透かすように、自らの手勢も3隊に分けて、彼らを迎え撃つ体勢となります。

午前10時・・・その3ヶ所で、一度に合戦が開始されました。

3ヶ所とも一進一退の攻防戦が続き、結局は勝負の着かないまま日暮れを・・・しかし、「このまま終わらせてはならぬ」と踏ん張る六波羅勢は、奇襲作戦を決行・・・

まずは木幡(こわた=京都府宇治市木幡)にいた1隊を破り、続いて東寺(とうじ=京都市南区九条町)の手前にいた1隊も撤退させます。

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舞台となった京都・東寺

残るは則村自身が率いる3000騎・・・

他を破って3方から攻めかかる六波羅勢を相手に、奮戦し、なんとか踏みとどまる則村隊・・・

そんな則村隊の中にいたのが、頓宮(はみや・とんぐう)又次郎孫三郎・父子、そして田中盛兼と弟の盛泰・兄弟の4人の勇者・・・

決死の形相で前へ進み出て、おそらく数千騎はいるかと思われる大軍を相手に堂々名乗りを挙げます。

それに応えて六波羅勢から進み出たのは島津安芸前司(島津忠信?)父子3名・・・

ここに、西国一の太刀の名人とされる田中組と、北国無双の騎射の達人とされる島津組とが繰り広げる名勝負に、息を呑む戦場・・・お互いに追いつ追われつするさまを、周囲は前代未聞とばかりに、誰も乱入せず、むしろ見物状態です。

しかし、さすがに太刀と弓では・・・やがて、頓宮父子・田中兄弟4名は、2~30本の矢を浴びせられ、その最期は立ち往生となったのです。

また、赤松勢の中には、妻鹿(めじか・めが)孫三郎長宗なる怪力の持ち主がおりました。

彼は幼い頃から体格が良く、相撲を取れば負け知らず・・・しかも、彼の一族・17名が、これまた、皆揃っての体格&怪力の持ち主であった事から、この日も、他の軍勢とは合流せず、自分たちの一族だけで市中へと突入し、六条坊門(現在の五条大宮付近?)まで攻め込んでおりました。

とは言え、先ほどからの展開でお解りの通り、はなから多勢に無勢なわけで・・・結局、このあたりで、妻鹿一族は3000騎の六波羅勢に囲まれてしまいます。

やむなく撤退を開始する妻鹿一族でしたが、その17名が次々と討死・・・孫三郎はただ一人となって奮戦しながら逃走します。

そこを、印具(いぐ)駿河守の50騎が「逃してなるものか!」と追いかけます。

すると、その中から、20歳くらいの若武者一人・・・軍団から飛びぬけて、組み撃ちせんとばかりに孫三郎に近づいて来ました。

力自慢の孫三郎は、馬上から片手を出したかと思うと、その若武者を鎧ごと片手でワシ掴みにし、彼を左手にぶら下げたまま、なおも逃走・・・

追う印具勢が、
「あれ(若武者)を討死させるな!」
と、互いに声を挙げると、

孫三郎は、キッと睨み返し
「たった1騎やと思てナメんな…俺に近づいたらケガするゾ!
欲しいねやったら、やるわ!」

と、左手の若武者を右手に持ち替えて、ホイっと投げると、若武者の体は数騎の騎馬武者の頭上を越えて泥田の中へ・・・

これを目の当たりにした印具の追手たちは、さすがに、もう追うのを止め、その場から引き返し、孫三郎は、なんとか無事生還します。

とは言え、この日の合戦で更なる犠牲者を出してしまった赤松則村・・・しかも、今回の戦いでは、頼りにしていた精鋭たちの多くも討死してしまった事で、八幡・山崎へと撤退する則村の心も沈み、これらの京都での合戦の様子を伝え聞いた後醍醐天皇も、心を痛めます。

ただ、一つの希望は、これを受けて、船上山にて、自ら戦勝祈願をする後醍醐天皇が、祈願成就の吉兆を得た事・・・

こうして、後醍醐天皇の鎌倉討幕への道は、更なる展開を見せる事になるのですが、そのお話は、次なる展開の「その日」にご紹介させていただきます。
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コメント

いつも楽しくブログを拝見しています。

学生のころは、あまり歴史に関心がなかったのですが、社会人になって戦国ものの小説や伝記を読み出しハマりました。

司馬遼太郎の作品がきっかけかもしれないですね。

ところで、摩耶城なんですが、神戸市灘区のどのあたりにあったんでしょうか?
ご教示頂ければ有難いです。

灘区に城の下通や城内通という地名があって、その由来がやはり城があったからなのかなぁと疑問に思っていました。
摩耶城と聞き、それかと思い当たったのですが、果たしてそうでしょうか?

阪神間に住みながら、そんな身近なことが分からず、お恥ずかしい次第です。

投稿: オルガ | 2013年4月 4日 (木) 11時49分

オルガさん、こんにちは~

神戸にはいくつかお城があったようですが、灘区と言えば、やはり摩耶城ですし、地図的に見ても近いようなので、おそらくそれらの地名は摩耶城ゆかりの地名なのだと思います。

実際の城郭は、現在の摩耶山ロ-プウェイの「虹の駅」周辺にあったそうで、そこから登山道を登ると、土塁や堀が確認できる場所もあるそうです。
私も、まだ現地に行った事無いので、あくまで、いずれ城郭巡りをしたいがための予備情報ですが…

投稿: 茶々 | 2013年4月 4日 (木) 13時40分

早速のご返事有難うございます。

昔の城郭って、意外と広範囲なんですね〜!

現代のように高層建築物が無いから、かなり遠くまで見渡せるので、城郭や陣地構築に我々が想像する以上にスケールがデカかったんでしょうね!

投稿: オルガ | 2013年4月 4日 (木) 17時57分

オルガさん、こんばんは~

そうですね…想像以上に大きいかもです。
戦国の城でもひと山全部っていうのがありますからね。
この頃は、そこまで規模は大きく無かったかも知れませんが…

投稿: 茶々 | 2013年4月 5日 (金) 02時40分

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