天正十八年(1590年)5月29日、豊臣方の石田三成らによって、北条方の上野館林城が落城しました。
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織田信長亡き後、その後継者のごとく四国を平定(7月26日参照>>)・・・さらに、天正十四年(1586年)には九州にも手を伸ばす(4月17日参照>>)と同時に、朝廷からは太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜った豊臣秀吉(12月19日参照>>)・・・
もはや、その権勢は揺るぎなく、太閤検地の実施や刀狩り令の発布(7月8日参照>>)など、まさに天下人としての政策を行っていくわけですが、そんな中で、天正十四年(1586年)の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布します。
これは、「これまで、戦国の世のおいて武力で以って行われていた領地の奪い合いなど、大名の私的な争いを禁止する」という、まさに、この国を治めるのが秀吉という事を知らしめる物でした。
しかし、天正十七年(1589年)10月23日、北条配下・沼田城の猪俣邦憲(くにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城を突然奪った名胡桃城奪取事件(10月23日参照>>)が勃発した事で、秀吉は、かの『惣無事令』に違反したとして、関東に君臨する北条氏を攻める・・・世に言う小田原征伐が開始されるのです。
その城奪取事件から1ヶ月後の11月24日には、北条氏政宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)をした秀吉は、暮れの12月に軍議を開いて(12月10日参照>>)全国の大名に参戦を呼び掛けると同時に準備を開始します。
翌天正十八年(1590年)3月に京を出立した秀吉軍は、3月29日には支城の山中城を陥落させ(3月29日参照>>)、続いて韮山城に進む一方で、4月2日には本拠地の小田原城を包囲します(4月2日参照>>)。
そう、この時の北条氏は、本城の小田原城以外に、その周囲に散らばる数多くの支城を備えていたのですね。
なので、秀吉は自らが率いる本隊と、海から小田原城を睨む水軍とで、長期戦の様相を呈する小田原城を包囲し続けると同時に、それらの支城を別働隊に攻撃させます。
北陸方面から参戦の加賀(石川県)の前田利家や越後(新潟県)の上杉景勝らが、上野(群馬県)から、江戸城(東京都千代田区)・河越城・松山城(ともに埼玉県)・・・さらに5月22日には徳川家康配下の本多忠勝や鳥居元忠らも加わって。武蔵・岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を落城させ、次の鉢形城(埼玉県大里郡)へ・・・(6月14日参照>>)
と進む中、ここで、上野館林城(たてばやしじょう=群馬県館林市)への攻撃の指揮官となったのが、大谷吉継(よしつぐ)らとともに関東平野を北上中であった石田三成(みつなり)・・・
途中で合流した佐竹義宣(さたけよしのぶ)をはじめとする宇都宮国綱(うつのみやくにつな)、多賀谷重経(たがやしげつね)、結城晴朝(ゆうきはるとも)などの北関東の諸将を従えての大軍となって、この館林城に挑みます。
という事で、本日は、その館林城攻防戦にまつわるお話を・・・
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こうして、三成の指揮のもと、館林城攻防戦が始まるのですが、これがなかなかの抵抗ぶり・・・何倍もの大軍で取り囲んで攻撃を仕掛けますが、3日経っても4日経っても、いっこうに落城する気配がありません。
「こんな小城一つに手間取っていては、男=三成、名がすたる!」
・・・とばかりに三成は次なる作戦を模索しますが・・・
実は、館林城は沼地に囲まれた天然の要害・・・沼に足を取られて近づき難いうえに、やっとこさ近づいても足元がぬかるんでいるので、的確に城に攻め入る事ができないのでした。
「それやったら木道を造ろう!」
早速、周辺の山から伐採した木々を沼地に敷きつめ、その木で道を造ったのです。
わずか1日で、この木の道を作り上げた三成軍は
「明日こそは、城も陥落!」
とばかりに、早い目のご就寝・・・翌日の合戦に備えます。
ところが・・・です。
翌朝、起きてみると、なんと、昨日の木の道がこつ然と消えていたのです。
見張りに尋ねても、
「交替で寝ずの番をしていましたが、猫の子1匹見逃してはおりません」
と・・・
何とも不思議な事・・・
実は、この館林城は、別名:尾曳城(おびきじょう)とも呼ばれ、『狐の尾曳伝説』と呼ばれる有名な逸話があったのです。
その昔・・・
後に、この館林城の城主となる赤井照景(あかいてるかげ)なる武将の父に仕えていた城奉行の夢枕に、白い狐が立ち
「城を造るんなら、館林の地にしなはれ~」
とのお告げを告げたのだとか・・・
早速、その城奉行は、築城の候補地を求めてこの地にやって来ますが、その途中の道で、子供たちが子狐を捕えていたぶってる場面に遭遇・・・
明らかに浦島太郎のパクリとおぼしき流れのまま
「かわいそうやから、逃がしたりんしゃい」
と、奉行が声をかけ、子供たちから救って、その狐を解放してやったところ、
いかにも
「ボクについておりでヨ」
と言わんがばかりの雰囲気で、奉行の方を振り返りながら、その子狐が誘います。
半信半疑のままついていくと、ある場所について、地べたに尾っぽを下ろした狐は、その尾っぽで線を引き始めます。
その線が、なんと・・・城の縄張り(基本設計)・・・つまり、その狐の指示通りに構築したのが館林城だと・・・
・・・で、城内には、尾曳稲荷神社が建てられ、この城が苦境にたった時には狐が守り神となって霊験を発揮すると・・・
後に、永禄五年(1562年)の照景の時代に、越後の上杉謙信からの激しい攻撃に遭って城のあちこちに火が放たれた時には、火の手が上がる度に、どこの誰とも知れない援軍が現われて、その火を消して回ってくれたおかげで館林城は落城を免れた事があり、
それは、
「お狐様が出兵してくれた」とか、
「軍団が去った後には、数え切れないほどの狐の毛が落ちていた」
なんて事がまことしやかに囁かれていたのだとか・・・
つまり・・・今回も、
「一夜にして木の道を・・・それも、物音一つ無く消してみせたのは、城の守り神=狐の仕業・・・またしても、この館林城は狐によって守られたのだ」
と、もっぱらの噂になったそうで・・・
とは言え、結局は、その狐のご加護にも限りがあり、天正十八年(1590年)5月29日、館林城は陥落してしてしまうのですが・・・
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と、まぁ、こんなお話なのですが、ここに登場した尾曳稲荷神社が現存しているとは言え、その内容でお察しの通り、あくまで伝承の域を越えない物・・・そもそもの狐を助けるお話も、初登場が江戸時代になってからですし、助けるのが、父でも城奉行でもなく、赤井照景本人だったりする場合もあり・・・
なので、100歩譲って、三成の構築した木の道が一夜に消えた話が本当だったとしても、それは、構築時の設計ミスか人為的ミスによる物との見方がされています。
しかし、私個人としては、この木の道構築の話自体が、どうも、三成への責任なすりつけのような気がします。
そうです。
三成が、この館林城の後に攻めるのが、映画『のぼうの城』(映画の感想は11月9日参照>>)で一躍有名になった忍城(おしじょう)・・・結局は、この忍城が、小田原征伐の最後まで落ちなかった事で、三成は「城攻めベタ」のレッテルを貼られる事になりますが、以前、書かせていただいたように、実際には、この忍城の水攻め自体が、あったような無かったような雰囲気(12月11日参照>>)ですし、その攻防戦の内容(6月16日参照>>)となると、それこそ、今回の狐のご加護と同様に、伝説の域を出ない物・・・
何となく、木道の構築失敗自体が、最終的に関ヶ原で負け組となる三成に、「城攻めベタ」の印象を植えつけるがための逸話のような気がしないでもない・・・
まぁ、館林城にしろ忍城にしろ、未だ史料が少ないため、史実に迫るには、もう少し・・・更なる発見に期待しましょう。
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