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2013年5月31日 (金)

アンケート企画:あなたが教えてもらいたい歴史上の先生は?

 

さて、恒例のアンケート企画です!

今回のテーマは・・・歴史上の先生アンケート!!

「いつやるか?」
「今でしょ!」

とばかりに・・・
「あなたが教えてもらいたい歴史上の先生は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

とは言え、今回も選択肢を決めるのに、イロイロ悩みました・・・教えを請いたい歴史上の人物は星の数ほどいますから・・・

なので、今回は、個人的に弟子になる感じは×にして、あくまで、広く門を開けていた・・・つまり、教えてもらいたい者がそこに行けば、ある程度の条件や誓約はあるものの、基本「来る者は拒まず」的なイメージの、剣術なら道場、学問なら塾や学校を開いていたという先生にしぼらせていただきます。

とは言え、それも江戸時代から幕末にかけての藩校や訓練所なんかも入れちゃうと、これまた、ものスゴイ数になってしまうわけですので、そこは、あくまで「公」ではなく、こじんまりした「私塾」といった感じをイメージしております。

独断と偏見満載ゆえ、選択肢の決定に様々なご意見もあろうかと思いますが、とりあえずは、いつものように、個人的に「これは?」と思う選択肢を16個用意させていただきましたので「この教室に行きたい!」「この人が先生だったら…」と思う項目に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 大陸の最先端を見て来た先生
    南淵請安私塾
    中大兄皇子・藤原鎌足を輩出…(参照ページ:10月11日>>)
  2. 多分「来る者拒まず」のはず…
    行基青空仏教教室
    一般庶民が相手…(参照ページ:2月2日>>)
  3. ともに踊ろう!
    空也踊り念仏講座
    神泉苑の老狐もいた?…(参照ページ:9月11日参照>>)
  4. 鬼面伝説の残る
    蓮如吉崎道場
    地元の人が所属…(参照ページ:8月22日>>)
  5. 学問で心を磨きましょう!
    中江藤樹藤樹書院
    又左衛門の美談…(参照ページ:8月25日>>)
  6. 柳生の里に道場があったらしいので…
    柳生宗矩十兵衛三厳道場
    荒木又右衛門を輩出…(参照ページ:3月26日>>)
  7. 「知の怪物」が主催する文化サロン
    木村蒹葭堂蒹葭堂
    司馬江漢と学友に…(参照ページ:1月25日>>)
  8. 長崎で最先端の西洋医学を…
    シーボルト鳴滝塾
    高野長英・二宮敬作らを輩出…(参照ページ:3月29日>>)
  9. 大阪から日本を変える?
    大塩平八郎洗心洞
    「救民」を掲げて盛りあがろう!…(参照ページ:2月19日>>)
  10. 大河ドラマの記憶も鮮やかな
    佐久間象山象山書院
    吉田松陰・勝海舟などを輩出…(参照ページ:7月11日>>)
  11. 大部屋にて切磋琢磨!
    緒方洪庵適塾
    橋本左内・大村益次郎・福沢諭吉らを輩出…(参照ページ:6月10日>>)
  12. 身分を越えて…ともに学ぼう!キミとボク
    吉田松陰松下村塾
    久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文など輩出…(参照ページ:11月5日>>)
  13. 北辰一刀流・免許皆伝を目指せ!
    千葉周作玄武館
    山岡鉄舟・藤堂平助・山南敬介らを輩出…(参照ページ:12月10日>>)
  14. 癒し系歌人に癒されながら…
    橘曙覧黄金舎
    松平春嶽と交流…(参照ページ:8月28日>>)
  15. 教えるのは絵だけじゃないヨ
    河田小龍墨雲洞
    長岡謙吉・近藤長次郎などを輩出…(参照ページ:12月19日>>)
  16. その他
    「やっぱ、アレのあの人でしょう」っていう項目がありましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
アンケートパーツが最大16項目しか選択肢にできないため、なんとか上記の16項目に絞ってみました。

勝手ながら、このアンケートは6月14日締め切りとさせていただきました。

・‥…━━━☆

投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>

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2013年5月29日 (水)

石田三成の館林城・攻防戦と「狐の尾曳伝説」

天正十八年(1590年)5月29日、豊臣方の石田三成らによって、北条方の上野館林城が落城しました。

・・・・・・・・・

織田信長亡き後、その後継者のごとく四国を平定(7月26日参照>>)・・・さらに、天正十四年(1586年)には九州にも手を伸ばす(4月17日参照>>)と同時に、朝廷からは太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜った豊臣秀吉(12月19日参照>>)・・・

もはや、その権勢は揺るぎなく、太閤検地の実施刀狩り令の発布(7月8日参照>>)など、まさに天下人としての政策を行っていくわけですが、そんな中で、天正十四年(1586年)の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布します。

これは、「これまで、戦国の世のおいて武力で以って行われていた領地の奪い合いなど、大名の私的な争いを禁止する」という、まさに、この国を治めるのが秀吉という事を知らしめる物でした。

しかし、天正十七年(1589年)10月23日、北条配下・沼田城猪俣邦憲(くにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城を突然奪った名胡桃城奪取事件(10月23日参照>>)が勃発した事で、秀吉は、かの『惣無事令』に違反したとして、関東に君臨する北条氏を攻める・・・世に言う小田原征伐が開始されるのです。

その城奪取事件から1ヶ月後の11月24日には、北条氏政宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)をした秀吉は、暮れの12月に軍議を開いて(12月10日参照>>)全国の大名に参戦を呼び掛けると同時に準備を開始します。

翌天正十八年(1590年)3月に京を出立した秀吉軍は、3月29日には支城の山中城を陥落させ(3月29日参照>>)、続いて韮山城に進む一方で、4月2日には本拠地の小田原城を包囲します(4月2日参照>>)

そう、この時の北条氏は、本城の小田原城以外に、その周囲に散らばる数多くの支城を備えていたのですね。

なので、秀吉は自らが率いる本隊と、海から小田原城を睨む水軍とで、長期戦の様相を呈する小田原城を包囲し続けると同時に、それらの支城を別働隊に攻撃させます

北陸方面から参戦の加賀(石川県)前田利家越後(新潟県)上杉景勝らが、上野(群馬県)から、江戸城(東京都千代田区)河越城・松山城(ともに埼玉県)・・・さらに5月22日には徳川家康配下の本多忠勝鳥居元忠らも加わって。武蔵・岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)落城させ、次の鉢形城(埼玉県大里郡)へ・・・(6月14日参照>>)

と進む中、ここで、上野館林城(たてばやしじょう=群馬県館林市)への攻撃の指揮官となったのが、大谷吉継(よしつぐ)らとともに関東平野を北上中であった石田三成(みつなり)・・・

途中で合流した佐竹義宣(さたけよしのぶ)をはじめとする宇都宮国綱(うつのみやくにつな)多賀谷重経(たがやしげつね)結城晴朝(ゆうきはるとも)などの北関東の諸将を従えての大軍となって、この館林城に挑みます。

という事で、本日は、その館林城攻防戦にまつわるお話を・・・

・‥…━━━☆

こうして、三成の指揮のもと、館林城攻防戦が始まるのですが、これがなかなかの抵抗ぶり・・・何倍もの大軍で取り囲んで攻撃を仕掛けますが、3日経っても4日経っても、いっこうに落城する気配がありません。

「こんな小城一つに手間取っていては、男=三成、名がすたる!」

Tatebayasizyou300 ・・・とばかりに三成は次なる作戦を模索しますが・・・

実は、館林城は沼地に囲まれた天然の要害・・・沼に足を取られて近づき難いうえに、やっとこさ近づいても足元がぬかるんでいるので、的確に城に攻め入る事ができないのでした。

「それやったら木道を造ろう!」
早速、周辺の山から伐採した木々を沼地に敷きつめ、その木で道を造ったのです。

わずか1日で、この木の道を作り上げた三成軍は
「明日こそは、城も陥落!」
とばかりに、早い目のご就寝・・・翌日の合戦に備えます。

ところが・・・です。

翌朝、起きてみると、なんと、昨日の木の道がこつ然と消えていたのです。

見張りに尋ねても、
「交替で寝ずの番をしていましたが、猫の子1匹見逃してはおりません」
と・・・

何とも不思議な事・・・

実は、この館林城は、別名:尾曳城(おびきじょう)とも呼ばれ、『狐の尾曳伝説』と呼ばれる有名な逸話があったのです。

その昔・・・

後に、この館林城の城主となる赤井照景(あかいてるかげ)なる武将の父に仕えていた城奉行の夢枕に、白い狐が立ち
「城を造るんなら、館林の地にしなはれ~」
とのお告げを告げたのだとか・・・

早速、その城奉行は、築城の候補地を求めてこの地にやって来ますが、その途中の道で、子供たちが子狐を捕えていたぶってる場面に遭遇・・・

明らかに浦島太郎のパクリとおぼしき流れのまま
「かわいそうやから、逃がしたりんしゃい」
と、奉行が声をかけ、子供たちから救って、その狐を解放してやったところ、
いかにも
「ボクについておりでヨ」
と言わんがばかりの雰囲気で、奉行の方を振り返りながら、その子狐が誘います。

半信半疑のままついていくと、ある場所について、地べたに尾っぽを下ろした狐は、その尾っぽで線を引き始めます。

その線が、なんと・・・城の縄張り(基本設計)・・・つまり、その狐の指示通りに構築したのが館林城だと・・・

・・・で、城内には、尾曳稲荷神社が建てられ、この城が苦境にたった時には狐が守り神となって霊験を発揮すると・・・

後に、永禄五年(1562年)の照景の時代に、越後の上杉謙信からの激しい攻撃に遭って城のあちこちに火が放たれた時には、火の手が上がる度に、どこの誰とも知れない援軍が現われて、その火を消して回ってくれたおかげで館林城は落城を免れた事があり、

それは、
「お狐様が出兵してくれた」とか、
「軍団が去った後には、数え切れないほどの狐の毛が落ちていた」
なんて事がまことしやかに囁かれていたのだとか・・・

つまり・・・今回も、
「一夜にして木の道を・・・それも、物音一つ無く消してみせたのは、城の守り神=狐の仕業・・・またしても、この館林城は狐によって守られたのだ」
と、もっぱらの噂になったそうで・・・

とは言え、結局は、その狐のご加護にも限りがあり、天正十八年(1590年)5月29日館林城は陥落してしてしまうのですが・・・

・‥…━━━☆

と、まぁ、こんなお話なのですが、ここに登場した尾曳稲荷神社が現存しているとは言え、その内容でお察しの通り、あくまで伝承の域を越えない物・・・そもそもの狐を助けるお話も、初登場が江戸時代になってからですし、助けるのが、父でも城奉行でもなく、赤井照景本人だったりする場合もあり・・・

なので、100歩譲って、三成の構築した木の道が一夜に消えた話が本当だったとしても、それは、構築時の設計ミスか人為的ミスによる物との見方がされています。

しかし、私個人としては、この木の道構築の話自体が、どうも、三成への責任なすりつけのような気がします。

そうです。

三成が、この館林城の後に攻めるのが、映画『のぼうの城』(映画の感想は11月9日参照>>)で一躍有名になった忍城(おしじょう)・・・結局は、この忍城が、小田原征伐の最後まで落ちなかった事で、三成は「城攻めベタ」のレッテルを貼られる事になりますが、以前、書かせていただいたように、実際には、この忍城の水攻め自体が、あったような無かったような雰囲気(12月11日参照>>)ですし、その攻防戦の内容(6月16日参照>>)となると、それこそ、今回の狐のご加護と同様に、伝説の域を出ない物・・・

何となく、木道の構築失敗自体が、最終的に関ヶ原で負け組となる三成に、「城攻めベタ」の印象を植えつけるがための逸話のような気がしないでもない・・・

まぁ、館林城にしろ忍城にしろ、未だ史料が少ないため、史実に迫るには、もう少し・・・更なる発見に期待しましょう。
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2013年5月27日 (月)

大内政弘の留守を守った若き重臣・陶弘護

 

文明十四年(1482年)5月27日、大内家の第14代当主・大内政弘の開いた酒宴の席で、重臣の陶弘護が斬殺されました。

・・・・・・・・・・

室町時代に、周防(すおう)長門(ながと)を中心に、現在の山口県に勢力を誇った大内氏・・・後に、この山口県が『西の京』と呼ばれるほどに、京都に勝るとも劣らない雅な文化を築きあげる、その文化の基礎を築いたのが、周防の守護大名・大内氏の第14代当主=大内政弘(おおうちまさひろ)でした。

一方、その重臣である陶弘護(すえひろもり)陶氏は、もともとは同じ祖を持つ・・・つまり、大内氏の分家にあたる家柄で、南北朝時代の頃から、大内家内で重きを置くようになり、弘護の父=弘房(ひろふさ)も、政弘の重臣として活躍していたのです。

しかし、そんなこんなの応仁元年(1467年)・・・あの応仁の乱が勃発します(5月20日参照>>)

ご存じのように、この応仁の乱は、将軍家の家督争い(11月13日参照>>)に管領家の家督争い(1月17日参照>>)が加わり、そこに、それぞれを支持する地方の大名を巻き込んで、国内を真っ二つに分けた大乱・・・。

この戦いに大内政弘は、山名宗全(持豊・西軍)(3月18日参照>>)率いる西軍の一人として・・・いや、西国の雄と呼ばれるにふさわしく、むしろ、中心人物の一人として参戦していたのです(10月2日参照>>)

ところが、この応仁の乱で最も激しい戦いとなった相国寺の戦い(10月3日参照>>)・・・応仁元年(1467年)10月3日のこの戦いで、弘護の父=弘房が戦死してしまいます

Suehiromori600 この時、弘護・・・わずか13歳。

父の死を受けて家督を継ぐも、未だ、元服すら済ませていなかった彼は、翌年、主君=政弘の「弘」の一字を受けて陶弘護の名で元服・・・

さらに、その翌年には、正式に周防守護代に任じられました。

しかし、実は、この応仁の乱における大内氏・・・その家内も一枚岩ではありませんでした。

かねてより、大内氏の家督を狙っていた政弘の叔父=大内教幸(のりゆき=道頓)は、その政弘に敵対するがのごとく、細川勝元(かつもと)率いる東軍として応仁の乱に参戦していたのです。

やがて、教幸は、大内軍団の将兵を抱き込んで「打倒!政弘」ののろしを挙げます。

なんせ、かの大乱のために、政弘は、ほとんと京都に行きっぱなしですから・・・そこを、チャンスとばかりに狙っての挙兵です。

もちろん、この時には弘護のもとにも、教幸からのお誘いがあったわけですが、留守を預かる弘護は、ピシャリとその誘いをはねのけ、逆に、教幸の討伐を開始するのです。

とは言え、上記の通り、多くの将兵が教幸についてる現状では多勢に無勢・・・弘護はたびたびのピンチを味わう事になるのですが、その度になんとか切り抜けて、やがて形勢逆転・・・

文明三年(1471年)の暮れには教幸を追い詰め、最後には、その逃亡先である豊前馬ヶ岳城(うまがだけじょう=福岡県行橋市)にて自害に追い込んだのです。

弘護、わずか17歳の大仕事・・・

やがて、最後まで京都に残っていた(11月11日参照>>)主君=政弘が帰国した時には、この才気あふれる少年の武功を絶賛した事は言うまでもありません。

当然の事ながら政弘政権下での弘護の地位は確固たる物となり、その後も、軍事面で、政治面で政弘を支えていく事になるわけですが・・・

お察しの通り・・・あまりに若い出世は、いつの世も、周囲の反感をかう物でありまして・・・

まして、先の大内道頓の乱で、教幸に加担した者などは、その領地も大幅に削られて弘護やその配下に与えられたばかりか、その家の存続すら危ぶまれる状態となっていたわけで・・・

そんな中の一人が吉見信頼(よしみのぶより)・・・彼は、疑心暗鬼のすえ、いつしか弘護が吉見家を潰そうとしていると思い込むようになり・・・

とうとう・・・
文明十四年(1482年)5月27日、政弘が家臣の慰労のために山口館で開いた酒宴の最中、ついに信頼は弘護を斬殺してしまったのです。

弘護・享年・・・28歳。

宴の席で犯行に及んだ信頼は、同席していた大内氏の家老=内藤弘矩(ないとうひろのり)によって、その場で成敗されます。

そう・・・実は、犯人の信頼も、その犯行直後に死んでしまいますので、先に書いた「弘護が吉見家を潰そうとしていると思い込んでした」などという犯行動機などは、あくまで憶測・・・実際には、その理由については諸説あってはっきりとはしないのですが、この日に先がけて、信頼は、その家督を弟の頼興(よりおき)に譲っていたという事もあり、理由はともあれ、犯行そのものは、おそらく計画的であったと考えられています。

そして、この二人の因縁は、それぞれの孫&甥っ子の代に受け継がれ、再びの戦いに巻き込まれていく事になります。

そう、事実上、陶氏が、主君の大内氏に取って代わる事になる大寧寺(だいねいじ)(8月27日参照>>)を勃発させる陶隆房(すえたかふさ=晴賢)弘護の孫・・・

そこに、いち早く反旗を翻して、あの毛利元就(もうりもとなり)の参戦を誘った吉見正頼(よしみまさより)(4月8日参照>>)は、信頼の後を継いだ弟の頼興の息子です。

この戦いが、あの戦国屈指の奇襲戦=厳島の戦い(10月1日参照>>)・・・ご存じのように、その勝利によって、元就は陶氏どころか、大内氏にとって代わる西国の雄となる(4月3日参照>>)わけですから・・・

歴史は・・・つながるつながる~~~
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2013年5月23日 (木)

織田信長VS斉藤龍興…美濃十四条の戦い

 

永禄四年(1561年)5月23日、墨俣にいた織田信長が、十四条村に押し寄せた斉藤龍興と戦った「美濃十四条の戦い」がありました。

・・・・・・・・

弘治三年(1557年)に弟=信行(のぶゆき)排除して織田家をまとめ(11月2日参照>>)、永禄三年(1560年)には、あの今川義元(よしもと)桶狭間に破った(5月19日参照>>)織田信長でしたが、一方では未だ、尾張(愛知県西部)統一も成されておらず、隣国の美濃(岐阜県)との関係も微妙・・・

というのも、美濃とは、父=信秀の代から攻防を繰り返していた(9月23日参照>>)のを、信長が斎藤道三(どうさん)の娘=濃姫(2月24日参照>>)と結婚する事で同盟を結んで終止符を打っていたのですが、その道三が息子の義龍(よしたつ)に討たれてしまう(4月20日参照>>)・・・つまり、政権交代してしまったわけで・・・

その時、一説には、道三は、娘婿である「信長に美濃を譲る」の遺言状をしたためた(4月19日参照>>)と言われ、結局は間に合わなかったものの、実際に、信長は、道三を援護すべく出陣していたわけですから、当然、その後に誕生した義龍の新政権とは敵対する事になる・・・

とは言え、この義龍さん・・・以前、書かせていただいたように(10月22日参照>>)なかなかの名将であったようで、信長とて簡単に美濃へは手を出せない・・・

Saitoutatuoki300 ところが、その義龍が、永禄四年(1561年)5月11日、35歳の若さで急死します。

後を継いだのは、未だ14歳の息子=龍興(たつおき)・・・

早い!!!早いゾ!信長~

わずか2日後の永禄四年(1561年)5月13日に、信長は木曽川と飛騨川を渡って西美濃へと侵入・・・勝村(岐阜県海津市平田町)という場所に陣を構えます。

この動きに対して、早速反応した美濃勢は、翌14日、豪雨の中、墨俣(すのまた=岐阜県大垣市墨俣町)から森辺(森部=岐阜県安八郡安八町)まで進出・・・そこを、信長勢が一気に突き、この戦いを勝利に納めます。(5月14日参照>>)

ちなみに、森部(森辺)の戦いと呼ばれるこの戦いの時、、「首取り足立」の異名を持つ斉藤家の猛将=足立六兵衛を討ち取った事で、事件を起こして追放されていた前田利家(12月25日参照>>)織田家家臣に復帰しています。

・・・で、この戦いに勝利して墨俣を奪った信長が、早速、そこに要害を築いて、長期に渡る滞陣の雰囲気を醸し出したところ、当然、それを黙って見過ごすはずの無い美濃勢・・・

永禄四年(1561年)5月23日・・・態勢を立て直した美濃勢は、墨俣の北方に位置する十四条(岐阜県本巣市)に軍勢を揃えて、戦闘準備に入ります。

もちろん、これを見過ごせぬ信長は、すぐさま墨俣を出て迎え撃ちますが、形勢は劣勢・・・名だたる武将が何人か討ち取られたところで、やむなく、信長は兵を退きますが、そこを追い撃ちをかけるように、美濃勢が南下・・・

何とか軍の態勢を保ちながら戦闘を続ける信長・・・
この勢いで一気にかたずけたい斉藤勢・・・

やがて、戦いは夜へと突入しますが、ここで転機が・・・真木村牛介なる武将を先頭に攻め寄せて来た美濃勢を、織田方が撃退する事に成功したのです。

これで形勢逆転となった織田勢は勢いづき、暗闇の混戦の中、家老の稲葉又右衛門(いなばまたえもん=稲葉一鉄の叔父とも)を撃ち取り、やがて、形勢不利と判断した美濃勢は、夜のうちに撤退していったのでした。

こうして、龍興との序盤戦=美濃十四条の戦いを勝利で終えた信長・・・

翌年には、ようやく尾張一国を統一(11月1日参照>>)し、さらに4年後の堂洞合戦(8月28日参照>>)を経て、ようやく美濃を完全攻略するのは、その2年後の事(8月15日参照>>)ですが、おそらく、義龍の死をキッカケに美濃攻めのエンジン全開になった事は確かなのではないでしょうか?

ところで、『信長公記では、かの稲葉又右衛門を討ち取ったくだりで・・・
「池田勝三郎・佐々内蔵佐、両人として、あひ討ちに討ちとるなり」
と、池田恒興(つねおき)佐々成政(さっさなりまさ)二人が同時に討ち取ったという事だけが書かれていますが、

『続武者物語』『校合雑記』によれば・・・

この時、信長の前で行われた首実検の際、
恒興は「成政殿ひとりで討ち取った」と証言し、
成政は「恒興殿ひとりで討ち取った」と申告し、
両者ともに互いに手柄を譲り合ったらしいのですが、

そのやり取りがひたすら長く、さらに、言い回しが見事なもので、だんだんイヤミに見えて来る・・・

・・・で、その光景を見ていた信長が、だんだん機嫌が悪くなり、イライラし始める・・・それでも両者は譲らない・・・

次第に空気が凍りつき、周囲の無関係の武将らは
「信長さんの、堪忍袋が満杯やんけ!」
「お前ら、何とか、はよ収めろよ」

と、心の中はハラハラドキドキ・・・

と、そこに登場したのが、鴻蔵主(こうぞうす)というお坊さん・・・彼は、トンチの効いた会話をするのが得意で、様々な名言を言う事で有名な僧でした。

ふと見て、信長さんのイライラがピークに達している事を察した鴻蔵主・・・

「信長さん・・・この首は、お二人のどちらが取ったものでも無いので、どちらの言い分も正しいと思いますわ」
とひと言・・・

「なんやと??」
と、信長は不審な顔して
「この二人が取ったもんやないねやったら、いったい誰が取ったっちゅーねん」

「きっと、瓜のように、自然に落ちたんとちゃいますか」

少しの間をおいて、こらえきれずにクスクスと笑いだす小姓衆・・・それにつられて皆がドッと笑い、その場の雰囲気も和んで、信長さんのご機嫌も、すっかりなおったのだとか・・・

まぁ、現代の感覚でいけば、「敵将の首の話で・・・??」ってとこもありますが、世は取ったり取られたりの戦国ですし、少なくとも、爆発寸前の雰囲気を和ませたという事で・・・
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2013年5月22日 (水)

南朝を支えた無双の勇者…北畠顕家の最期

 

延元三年・建武五年(1338年)5月22日、北朝の室町幕府軍と戦う南朝方の北畠顕家が阿倍野にて戦死しました。

・・・・・・・

つい先日の続きのお話ではありますが、一応、ここまでの経緯を・・・

鎌倉幕府を倒した後に、第96代後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に、足利尊氏(あしかがたかうじ)反発した(11月19日参照>>)事で、天皇方の南朝と足利方の北朝に分かれた南北朝時代・・・くわしくは【室町前期・南北朝の年表】でどうぞ>>

Kitabatakeakiie400 後醍醐天皇の側近の公卿=北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)の息子である北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、建武の新政の時には陸奥守(むつのかみ)に任じられ、天皇の皇子=義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州(おうしゅ=東北地方)に下り、東北地方の掌握に尽力していました。

しかし延元二年・建武四年(1337年)8月、畿内の動乱のために東北を出陣し、鎌倉管領足利義詮(あしかがよしあきら=尊氏の息子で後の2代将軍)の守る鎌倉を奪取した後に上洛を目指して鎌倉を進発(1月8日参照>>)・・・その後も、追撃軍を撃退しつつ進む顕家でしたが(1月28日参照>>)、そのまま、京への玄関口である近江(滋賀県)へは向かわず、南下して伊勢路を通り奈良へと入りました

この南下の理由には、その1月28日のページで書かせていただいたように、様々な要因があると思われますが、結果的に、これが顕家の命取りとなってしまいます。

おそらくは、長期に渡る行軍で、兵糧も尽き、軍の疲れもピークに達していた物と思われますが、そこを追撃して来た足利方の桃井兄弟と、奈良でぶつかったいくつかの戦いにことごとく敗れてしまったのです。

やむなく、弟の北畠顕信(あきのぶ)とともに残兵を召集して、八幡山(京都府八幡市)立て籠って態勢を立て直す顕家・・・

そんな中でも両軍の激突は続きますが、ここで、室町幕府・執事の高師直(こうのもろなお)・・・

「和泉と接する河内(大阪府東部)は、もともと敵の領国やさかいに、それでなくとも警戒しとかなアカン場所や!
この地で顕家が挙兵したなら、天皇方の和田や楠木も加勢するに違いない!
未だ、戦備が整えへん間に、叩き潰してしまうんや!」

と、各地の北朝方にゲキを飛ばし、大軍にて八幡山を包囲させたのです。

そして、師直自らは、敵の大阪への侵入を防ぐがごとく、天王寺(大阪市天王寺区)に陣取ります。

大軍に囲まれた顕家軍は、連戦に次ぐ連戦に疲労困憊しながらも、決死の防戦に努めますが、もはや、数の上では多勢に無勢・・・敗色濃厚となった戦場では、どんどん兵が離散していく一方でした。

もはや挽回は不可能か??と判断した顕家は、後醍醐天皇のおわす吉野の皇居へと参上すべく、わずか20余騎(太平記の数字です)の側近とともに大軍突破を試みます。

そう、あの5月15日付けでしたためた奏状・・・(5月15日参照>>)

もとはと言えば天皇の失政による反乱軍に対し、事あるごとに頼られる自らの武勇・・・最後の最後に、どうしても後醍醐天皇に言いたかった無念の思いが、彼にはあった事でしょう。

果敢にも自ら大軍への突入し、奮戦する顕家でしたが、その勇姿空しく・・・

延元三年・建武五年(1338年)5月22日・・・
「哀れなるかな、顕家卿は、武略・智謀其の家にあらずといへども、無双の勇将にして…」(太平記より)
部門の出身では無かったにも関わらず、無双の勇将とその武勇を讃えられた顕家は、和泉との国境・阿倍野にて、21歳の若き命を散らしたのです。

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紀州街道が石津川を越える場所に架かる太陽橋(堺市西区)…実際には、ここが顕家の戦死の地と伝承されています。

顕家の討ち取ったのは、武蔵の国の越生四郎左衛門尉(こしふしろうさえもんのじょう)という者で、兜・太刀などとともに首実検したところ、師直が本物と確認をしたとの事・・・

『太平記』では、このあとに
「股肱(ここう=手足)の重臣あへなく戦場の草の露と消え給ひしかば、南都の侍臣・官軍も、聞きて力をぞ失ひける」
と、南朝落胆の様子を伝えて、この章を締めくくりますが、

まさに、顕家の死は、南朝自身の、その身を削るがごとくの痛手であった事でしょう。

この後、南朝側では、2ヶ月後の7月に、あの新田義貞(にったよしさだ)が・・・(7月2日参照>>)、さらに後醍醐天皇が・・・

一方、北朝側では、逆に尊氏が征夷大将軍に・・・(8月11日参照>>)と、その明暗を分けていく形となって行きます。
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2013年5月20日 (月)

大河ドラマ:八重の桜…第20回「開戦!鳥羽伏見」を見て

 

つい先日も、ドラマの進行状況を意識して、【山本覚馬の建白書『管見』】について(5月13日参照>>)書かせていただいたばかりで恐縮ですが・・・

本日は、大河ドラマ「八重の桜」について、少し、私の思うところをお話させていただきたいと思います。

これまで、5ヶ月間拝見させていただいた感想としては・・・ひと言で言えば「良い」ですo(*^▽^*)o

以前、第1回の時の感想で、「批判の嵐となった『平清盛』の轍を踏むまいと、無難なところに置きに行った感がある」(1月7日参照>>)なんてエラそうな事を書かせていただきましたが、言いかえれば、そのぶん安心して見ていられ、特別悪い印象を持つ事無く、ドラマに没頭できます。

それこそ、ドラマなのですから、創作ありきは当然で、たとえば、昨日=19日放送の第20回「開戦!鳥羽伏見」でも、

未だ会津戦争が始まってもいないのに中野竹子さん(8月25日参照>>)が辞世の句を詠んじゃったり(←開城の際の八重の歌への伏線?)

家老の嫁の二葉さんが、初対面の見知らぬ人に、すぐさま身分を明かしちゃったり(←たまたま旦那の知り合いで良かった…)

海のものとも山のものともわからない初陣の山本三郎くんが遅れて来たヒーローのように扱われたり(←主役の弟の特権です)

鳥羽伏見が終結した後の1月10日に亡くなったはずの林権助さん(6月27日の冒頭部分参照>>)が初日=3日の戦場で立ち往生で逝かれたり(←その方がカッコイイ最期かも)

・・・てなツッコミをしながら見てましたが、おそらく、それらは、ドラマをおもしろくするためには必要な創作でしょうし、それこそ、史実に忠実なばかりではドラマとは言えませんからね。

そんな事よりも、いよいよ鳥羽伏見が始まって、物語も佳境に・・・って、実は、1番ツッコミたいのはそこですww

確かに、幕末はおもしろいですし、いろんな事が立て続けに起こるし、ここをちゃんと描いていないと、後々の出来事でつながっていかないのも重々承知・・・

さらに、松平容保(まつだいらかたもり)役の綾野さんはステキだし、私自身が「カッコイイ姿をもっと見ていたい」ていう気持ちもあります。

ただ、主役の八重さんは昭和七年(1932年)まで生きる人です。

鳥羽伏見の頃は23歳か24歳くらい??・・・あと64年ほどあります。

以前、八重さんの生涯についてサラっと書かせていただきましたが(6月14日参照>>)、86歳という長寿を全うされた事で、明治に入ってからでも、出来事が目白押しです。

明治や大正の八重さんが見たい私としては、5月後半になっても鳥羽伏見では、京都時代が少なくなる気がして、ちょいと不安なのです。

まして、今回、八重さんが主役に抜擢されたのには、「東北にエールを贈る」意味があるとか・・・それならば、なおさら、朝敵としてどん底に落ちた会津藩の女性が、夫と共に大学を設立し、日清日露で看護婦として貢献し、最後には皇族以外の女性で初めて勲六等を受章するまでに至る、ガンバリの部分を見てみたくて仕方が無いのです(←あくまで個人的希望です)

是非とも、後半は、そんな頑張る八重さんでお願いします!

あと、個人的な希望と言えば、八重さんの性格も・・・

確かに、ドラマの場合、見ている人が主人公に共感するためには、「イイ人」でないと・・・いつぞやの姫みたいに、ワケのわからん一貫性の無い自分本意の主張ばかりをのたまう人では、とても視聴者の共感は得られないわけですが、

やはり、今の八重さんは、イイ人過ぎる?・・・

私、個人的には、本来の八重さんはかなりクセのある人で、自己主張が激しくて、一見すると嫌な女・・・でも、よ~くつき合って、その心の奥底を見た人にとっては、最高にイイ女

なんせ、皆が「珍しい」と見上げる「春にさきだつ梅の花」ですから・・・

ただ、そんな設定、描くに、かなり難しい・・・(>0<)

一つ間違えば、何の共感も得られないキャラになってしまいますから・・・

でも、だからこそ、造り手の皆さまの腕の見せどころであるわけで・・・

大河ドラマも、もうすぐ折り返し地点・・・この後、夫・新島ジョーだけが理解するステキな八重さんの頑張る姿を、思う存分見せていただける事と期待しますm(_ _)m

なんせ、今はまだ、彼と出会ってもいないのですからね。

追記:改めて、このブログの
会津戦争関連のページをリンクさせていただいときます

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2013年5月19日 (日)

金ヶ崎撤退~逃げる織田信長を狙撃した杉谷善住坊

 

元亀元年(1570年)5月19日、金ヶ崎城攻めからの窮地を脱して京にたどり着いた織田信長が、岐阜へと戻る途中に狙撃されました。

・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛をを果たした尾張(愛知県西部)の戦国大名・織田信長・・・(9月7日参照>>)

畿内を制した事で、その勢力を徐々に大きくする信長は、「将軍様に挨拶を…」と義昭をダシに使って、各地の戦国大名に上洛を求めますが、それを拒否し続けていたのが越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)・・・

すでに、ともに上洛した義昭ともギクシャク感満載(1月23日参照>>)となっていた信長は、その義昭が、義景に近づきつつある事を踏まえ、元亀元年(1570年)4月25日、朝倉氏の手筒山城&金ヶ崎城(敦賀市金ヶ崎町)を攻めたのです(4月26日参照>>)

しかし、ここで大誤算・・・

かの上洛の際に、岐阜から京都への道筋を確保するため、自らの妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけていた(6月28日の前半部分参照>>)北近江(滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)が、朝倉氏に寝返った・・・いや、浅井氏は、もともと朝倉氏とは昔ながらの同盟者でしたから、今回の「長年の同盟=朝倉」と「新規の同盟者=織田」との戦いにおいて、朝倉を選んだという事・・・

しかし、そうなると、福井(朝倉)と滋賀(浅井)に挟まれてしまった形になる信長・・・決死の覚悟で撤退を開始し、琵琶湖の西岸の山道を越え、4月30日、何とか京都へとたどり着きました。

これが世に言う金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)・・・
「一に憂(う)きこと金ヶ崎、二に憂きこと志賀の陣、三に福島・野田の退き陣」(『武家事紀』より)と、信長の三大苦難の一つに数えられています。

ちなみに、この時、殿(しんがり=最後尾)を努めた事で大出世する後の豊臣秀吉の話も有名ですね【信長ピンチの「金ヶ崎の退き口」で殿の木下藤吉郎秀吉は…】参照>>)

とは言え、当然の事ながら、京都に戻っただけでは安心してられません。

いや、むしろ、ここからが正念場・・・

態勢を整えなおすためには、本拠の岐阜城まで戻らねばなりませんが、なんたって、信長がわずかの兵で命からがら撤退して来たニュースはまたたく間に広がってるわけで、かの上洛の際に、信長に追いやられた武将なんかは、これ幸いとチャンスをうかがう・・・

特に、以前は南近江(滋賀県南部)一帯に勢力を誇っていた六角承禎(じょうてい=義賢)(9月12日参照>>)などは、それこそ、昔々は近江を巡って浅井氏と犬猿の仲だったにも関わらず、敵の敵は味方とばかりに、反信長の一点で浅井と手を組みます。

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この時、承禎は琵琶湖南半の東岸に位置する鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市)に居ましたから、逃げる信長としては完全に道を塞がれた感じ・・・

かと言って、東山道(中山道)八風街道(はっぷうかいどう=鈴鹿越えの道)を堂々と行くのは、あまりに危険・・・やむなく、六角氏の勢力圏内である事を承知のうえ、千草峠越えで伊勢へと向かい、そこから美濃へと入る道を選択します。

かくして5月9日、京都を出発した信長ご一行・・・

しかし元亀元年(1570年)5月19日、千草山中の甲津畑(こうづばた)付近を通過した時、突然、あたりに銃声が鳴り響きます。

わずか25mほどの場所から放たれた鉄砲の弾が、信長の着ていた衣の袖に命中!

あわや!という場面ではあったものの、幸いな事に、弾は、その体には当たらず、怪我もありませんでしたが、側近たちは大慌て・・・
「信長様!大丈夫ですか?」
「どこから放たれたのだ!」
と騒ぎ立て、狙撃者を追跡しようとしましたが、

信長は
「放っておけ!先を急がなアカン!」
と、側近たちを制止し、そのまま、美濃への道を急ぎ、5月21日、ようやく、岐阜城へとたどり着きました。

このあとの展開としては、六角氏との最前線となった長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市)を任された柴田勝家(しばたかついえ)野洲川の戦いでの奮戦があるのですが、そのお話は2010年6月4日の【瓶割柴田の野洲川の戦い】のページ>>でご覧いただくとして・・・

この事件の時、山中では危険なので深追いませんでしたが、当然の事ながら、自らの命を狙った犯人を、あの信長さんが放っておくはずはなく・・・

やがて、鉄砲を放った主が、六角氏からの依頼を受けた杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)なる者である事がわかり、続いて、その身の捜索へ・・・

この善住坊なる人は、その身の上を一切明かさずにいた事から、鉄砲の名手であったという以外の人物像はまったくわからず、甲賀五十三家の一つである杉谷家出身の忍者か猟師なんて事も言われますが、定かではありません。

とにもかくにも、現場から逃走して、その身を隠していた善住坊でしたが、天正元年(1573年)9月、近江高島郡阿弥陀寺に隠れていたところを、すでに浅井から信長方となっていた高島郡の領主=磯野員昌(いその かずまさ)によって捕えられて岐阜に送られました。

しばらくの尋問の後、処刑される事になった善住坊・・・

そして・・・
有名なお話なので、ご存じの方も多いかと思いますが、その処刑の方法が鋸挽き(のこぎりびき)・・・

生きたまま、首だけを出した状態で地中に埋め、竹制のノコギリで少しずつ首を切断するという、書くのも怖い、最も重い刑罰・・・

5日間ほど苦しんだ善住坊は、9月10日に息をひきとったという事です。
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2013年5月17日 (金)

公認の不倫?明治に浮上した「権妻」の話

 

昭和二年(1927年)5月17日、大審院において、「夫が家を出て他の女性と内縁関係を結び、妻を顧みない事は貞操義務に違反する」との判決が下されました。

・・・・・・・・・・

大審院(だいしんいん)とは、現在の最高裁判所・・・

で、つまりは、旦那さんが、不倫をして、その不倫相手の家に入り浸りで、奥さんの所に戻らなかったために、「夫としての義務を果たしてない!との判決が下された」って事で、現在の一般常識として見れば、当然の事なわけですが・・・

ただ、このブログでも何度か書かせていただいているように、その一般常識という物は、時代とともに変化していく物でありまして、少々厄介・・・

現在の常識の尺度で、そのまま昔の出来事を計ってしまうと、どこぞの戦国ドラマの姫みたいに柴田勝家と結婚するお市の方に向かって、「母上は、好きでも無いのに結婚するのですか?私は反対です!」てな事をのたまう事になってしまうわけで・・・

それはさておき・・・
現在のように、一人の夫に対して一人の妻・・・つまり一夫一婦制が確立されるのは、明治三十一年(1898年)の民法によって・・・

なので、冒頭の昭和二年なら、完全に夫としての義務を果たしてない事になるわけですが、逆に言えば、それか確立される明治三十一年より以前なら、奥さんが二人いても三人いてもOKって事になってしまう・・・て事?

かと言って、これまた、時代や身分によって一律とは言い難い・・・

たとえば、先ほどの江姫(言っちゃった(^-^;)の戦国時代・・・以前も書かせていただいたように、豊臣秀吉と、その正室のおねに対して、淀殿(浅井茶々)を側室とする同年代の史料は存在せず、むしろ、おねと淀殿の両方を正室と見ていた事が予想されます(5月8日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、正室が一人で、それ以外は側室と定められるのは江戸時代の武家諸法度からですが、これもまた、側室として輿入れするお姫様方は、婚家と実家との架け橋となる政治的な役目があったり、高貴な家の後継ぎを生んで次世代へつなぐ役目があったり、何かしらの役目をおびての結婚であり、単に殿様が「この子が好き!」って感じで側室にするわけでは無いわけで・・・

とは言え、一方で、単に殿様が「この子が好き!」って感じで側に置く女性・・・いわゆるお妾さんもいたわけで・・・

なので、江戸時代の頃には、奥さんの他にお妾さんを囲うことは、上流武士社会や富裕な町人層では普通に行われていましたし、それが「金持ってんゾ」「権力あるゾ」的なええかっこでもあったわけです。

ただ、禁止では無いにしろ、いわゆるお妾さんは、多くの時代で日陰の身であり、何の権利も無いのが普通でしたが、これが、明治の一時期だけ、正式に認められた事があったんですね~

明治三年(1870年)に制定された『新律綱領しんりつこうりょう)・・・これは、江戸幕府や中国の刑法典をもとにして、明治政府のもとで作成された最初の刑法典なので、もちろん、このお妾さんの事以外にも、身分制度など様々な事が定められているわけですが、その中で、妻とお妾さん(二親等)の二人の妻の持つ事が公認されていたのです。

このお妾さんは権妻(ごんさい)と呼ばれました。

権妻の「権」というのは、明治の廃藩置県(はいはんちけん)の時に置かれた知事と権知事(ごんのちじ)の関係を見てもわかるように、権知事というのは、知事の下にいる副知事というのではなく、知事と同等の職務権限を持った知事に代わる役職だったわけで・・・

つまりは、正妻に対する権妻は副妻ではあるけれども、ほぼ同等に扱うみたいな意味が込められていた物と思われます。

これには、欧米化を急いでいた明治政府の下で、婚姻における男女平等が叫ばれ、公娼制度の廃止が議論になっていた一方で、古くからある家族体制の「家を存続させるためには跡取りが必要」という観念を、明治政府が打破しきれず、それならば、お妾さんも妻と同等の地位に押し上げて、堂々と後継ぎを産んでもらおうと考えた?てな事情が背景があったようですが・・・

とは言え、一方では、明治八年(1875年)、私塾・商法講習所(現在の一橋大学)を開設した森有礼(もりありのり)が、一夫一婦制男女同権を唱えて、福澤諭吉の証人のもと、奥さんと日本初の契約結婚なる物を行って話題になったりもしました。

・・・で、結局、刑法では明治十三年(1880年)に、戸籍法では明治十九年(1886年)にというわずかな期間だけで、権妻なる物は姿を消すことになるのですが、その間、「結婚条例とか配偶規制とかの発布以来、本妻を迎えるのに手間がかかり過ぎる」として、土日だけ権妻を雇い入れる『日曜権妻』なる物が大流行するという変な現象まで起こったのだとか・・・

今となってはおかしな話ですが、それだけ、明治の世というのは、世の中が急激に変化して、法律を定めるのにも紆余曲折、人の意識を変えるにも紆余曲折で、最終的な明治三十一年(1898年)の一夫一婦制の確立に至るまで、それこそ、文字通りの紆余曲折があったという事なのでしょう。

なんせ、冒頭に書いた通り、昭和二年(1927年)でさえ、今となっては何の事は無い不倫裁判の判決が話題になるくらいなんですからね~

その時代時代によって「何が普通なのか?」というのは、なかなか、一朝一夕にはいかない物ですね。
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2013年5月16日 (木)

函館戦争に散ったサムライ…中島三郎助

 

明治二年(1869年)5月16日、幕末に活躍した幕臣で、あの函館戦争で徹底抗戦の主張した中島三郎助が、49歳で戦死しました。

・・・・・・・・・

現在の函館市には、中島町という地名があります。

そこは、幕末維新の動乱の中で、最後の戦いとなった函館戦争の時に『千代ヶ岡陣屋(後に津軽藩陣屋)が置かれていた場所で、最後まで徹底抗戦を訴え、この地で戦死した中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)にちなんで命名された町名なのだとか・・・

Nakazimasaburousuke600 浦賀奉行所与力であった中島清司の息子として生まれた三郎助は、嘉永二年(1849年)の20歳の時に、父の後を受け継いで、彼もまた浦賀奉行所与力として召し抱えられました。

浦賀と言えば・・・そう、嘉永六年(1853年)6月の、あのペリー来航です(6月3日参照>>)

この時、三郎助は、(与力だと身分が低いので…)副奉行とウソついて、通訳の堀達之助(ほりたつのすけ)を伴って、たった二人で旗艦=サスケハナ号に乗り込み、使者との対応に当たったと言います。

しかも、この時、その船体の構造や搭載された大砲や蒸気機関の仕組みを入念にチェックし、アメリカ人乗組員たちは、彼を、交渉人ではなく、スパイだと思ったくらいだったとか・・・

おかげで、ペリーの帰国後に提出した『国産の軍艦建造に関する意見書』が老中の阿部正弘(あべまさひろ)に認められ、日本初の洋式軍艦として建造される事になった『鳳凰丸』製造の中心人物として活躍・・・完成後には、その副将にも任命されました。

その後、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所の第一期生として、造船学や機関学・航海術を学んだ後、安政五年(1858年)頃からは、逆に築地軍艦操練所で教授として教える立場となって活躍する一方で、浦賀には、日本初の船舶の修理&整備場(ドライドック)を建設し、あの咸臨丸(1月13日参照>>)の修理をしたりしています。

しかし、30歳を越えたばかりの元治元年(1864年)頃から体調を崩して病気がちになり、様々な出仕を依頼されるも、それをこなす事が出来ず・・・普通の与力に戻って、さらにその後は、その与力の職も息子に譲って、しばし、おとなしくしているしかありませんでした。

しかし、そんなこんなの慶応四年(1868年)・・・あの鳥羽伏見の戦いが勃発します(1月3日参照>>)

ご存じのように、この時、京都での敗戦を悟った15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)が速やかに大坂城を退去して江戸に戻り(1月6日参照>>)、その後は恭順姿勢を貫いた(1月23日参照>>)事により、新政府軍は、ほぼ無傷のまま東上・・・さらに、西郷隆盛(さいごうたかもり)勝海舟(かつかいしゅう)の会見によって、江戸城無血開城が決まります(3月13日参照>>)

これに反発したのが、幕府海軍副総裁だった榎本武揚(えのもとたけあき)・・・江戸城開け渡しの4ヶ月後の8月19日、幕府戦艦・開陽丸(かいようまる)ほか、艦隊をごっそり引き連れて、品川沖を脱出したのです(8月19日参照>>)

そう、三郎助は、この榎本とともに、北を目指すのです。

この榎本の艦隊は、途中、未だ交戦中の東北へ立ちよりながらも、もはや風前の灯となっている会津若松城(8月23日参照>>)を目の当たりにして東北での抗戦をあきらめ、大鳥圭介(おおとりけいすけ)や新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)箱根戦争(5月27日参照>>)で奮戦した遊撃隊人見勝太郎ひとみかつたろう)などなど、東北の緒戦で生き残ったの精鋭たちを加えて、さらに北=蝦夷(えぞ・北海道)を目指して北上・・・10月20日に、警備の厳しい函館湾を避けて、噴火湾に面した鷲ノ木から上陸を開始し、函館を奪取して独立を計ったのです(10月20日参照>>)

こうして誕生した蝦夷共和国(12月15日参照>>)政権下では、箱館奉行並&砲兵頭並となった三郎助ですが、翌年3月の宮古湾海戦(3月25日参照>>)の敗戦を皮切りに、攻撃しどきの春を待っていた新政府軍が蝦夷へと押し寄せ、ご存じの函館戦争へと突入します(4月29日参照>>)

この時、かの千代ヶ岡陣屋を任され、隊長として奮戦する三郎助でしたが、勢いを増す新政府軍は5月11日に、函館への総攻撃を開始(5月11日参照>>)・・・土方をはじめとする多数の幹部クラスの死者がでるとともに、四稜郭権現台場が陥落した事で、榎本軍の基地は、本営の五稜郭千代ヶ岡陣屋弁天岬台場の3箇所のみとなってしまいました。

そして、翌12日から、新政府軍・参謀の黒田清隆(くろだきよたか)(8月23日参照>>)による榎本への降伏勧告が開始され、蝦夷共和国の軍議でも降伏が決定されますが、未だ陥落していない千代ヶ岡陣屋を守る三郎助は、徹底抗戦を訴えて、五稜郭への撤退も降伏勧告も拒否・・・「千代ヶ岡陣屋にて討死する」事を表明するのです。

かくして明治二年(1869年)5月16日午前3時、仕掛けられた新政府軍からの攻撃に、砲兵隊50名とともに立ち向かいますが、予想通りの多勢に無勢・・・

「もはや、これまで!」
と悟って、近づいて来た敵もろとも自爆しようとしますが、雨のために爆弾に点火できず、やむなく、22歳の長男、19歳の次男とともに、刀を振り上げて敵に突入・・・壮絶な最期を遂げたのでした。

かつて榎本艦隊と合流する時、三郎助は
『北軍同盟ノ諸侯公会ヲ助テ義兵ヲ起シ 実ニ天下騒乱 戦国ノ世トナル
因テ三郎助 恒太郎 英次郎三人 主家報恩ノ為ニ出陣スル也』

と、まさに戦国武将のような決意で挑んだ事を記しています。

おそらく、その時から徹底抗戦・・・何かあれば死ぬ覚悟ができていたのでしょう。

その辞世の句と言われる物も、
♪郭公(ほととぎす) 我も血を吐く 思ひかな♪
と、まるで戦国武将のようです。

この後、5月18日に、結局、榎本が降伏を受け入れて函館戦争は終結する(5月18日参照>>)のですが、かつて、三郎助の尽力によって謹慎処分を撤回してもらった恩のある福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、後に、「父子ともども討死した人もいるのに…」と、この時の榎本の行動を批判しています。

同じく、かつて三郎助の家に下宿させてもらってまで兵術を教えてもらった事のある木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)も、後に政府高官として千代ヶ岡陣屋を訪れた際に、かなり取りみだして号泣していたと言います。

そう、三郎助は、敵味方の区別なく、ともに日本の未来を見つめる有能な若者を支援した温情あふれる人でもあるのです。

もちろん、潔く死ぬのがかっこよく、降伏する事がかっこ悪いとは限りません。

榎本が、この18日で降伏する事により、それ以上の死者を出さずに済んだ事も確かでしょう。

歴史においては、「どちらが正解」という事を決めかねる出来事が多々あります。

ただ、函館の地にその名を残したように、一方の浦賀でも毎年『中島三郎助祭』なるお祭りが行われているように、そのサムライとしての生き様に感銘を覚える中島三郎助ファンが多い事も確か・・・

幕末において外せない魅力的な人物なのです。
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2013年5月15日 (水)

後醍醐天皇に苦言…北畠顕家の奏状

 

延元三年・建武五年(1338年)5月15日、最期の出陣を覚悟した北畠顕家が、後醍醐天皇に向けて、親政批判を込めた奏状を呈しました。

・・・・・・・・・・

第96代後醍醐(ごだいご)天皇に協力して鎌倉幕府を倒した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、その後に天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して挙兵・・・(11月19日参照>>)

尊氏軍に京都を制圧された後醍醐天皇は、楠木正成(くすのきまさしげ)湊川(みなとがわ)の戦いで失い(5月25日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)二人の皇子も北国落ち(10月11日参照>>)・・・やむなく、一旦、尊氏との和睦を結んだ後醍醐天皇でしたが、ころあいを見計らって脱出し、大和(奈良県)は吉野にて南朝を開きました(12月11日参照>>)

これが南北朝の始まり・・・くわしくは【室町前期・南北朝の年表】でどうぞ>>

この畿内の様子にたまりかねて東北から馳せ参じたのが後醍醐天皇の側近である北畠親房(きたばたけちかふさ)の息子=北畠顕家(きたばたけあきいえ)でした。

Kitabatakeakiie400 顕家は、かの建武の新政が成った元弘三年(1333年)に陸奥守(むつのかみ)に任じられ、天皇の皇子=義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州(おうしゅ=東北地方)に下り、その義良親王を将軍に、自身をを執権に据えた後醍醐政権配下の奥州幕府とも言うべき物を構築する役目を帯びていたわけですが、さすがに、本家本元の都が奪われていては本末転倒ですから・・・

ここに来て、北国に落ちた義貞の奮戦(3月6日参照>>)を聞きつけた顕家は、延元二年・建武四年(1337年)8月、10万の大軍を率いて、鎌倉管領足利義詮(あしかがよしあきら=尊氏の息子で後の2代将軍)の守る鎌倉を奪取・・・さらに、翌・延元三年・建武五年(1338年)1月8日、上洛を目指して鎌倉を進発します(1月8日参照>>)

とは言え、負けた義詮とて、さすがは未来の2代将軍・・・北畠軍の進発とともに、すぐさま攻撃を仕掛けて鎌倉を奪回し、後方からの追撃を開始します

追う義詮と迎え撃つ顕家・・・1月28日には両者が美濃青野原(あおのがはら=岐阜県大垣市)にてぶつかり、顕家は見事、追撃をかわしました(1月28日参照>>)

一方、ここのところ北陸の新田軍を相手にしていた尊氏も、この敗戦の報を受けて「顕家は、このまま上洛するもの」と睨み、美濃から京への玄関口である近江(滋賀県)に精鋭を派遣して守りに当たらせますが、なんと、ここで、顕家は京都へは向かわず南下・・・伊勢路を通って奈良へと入るのです。

が、しかし、ここ奈良では、もはや長期の行軍に疲れ果てていた北畠軍・・・態勢を整えなおして追撃して来た足利方の桃井兄弟の軍に敗れてしまいます。

やむなく、顕家は、残った将兵を集め直して、京都の南にある八幡山(京都府八幡市)に立て籠りますが、後世、「この時の北畠軍の奈良方面への迂回が最大の失策」と言われる事でもお察しの通り、もはや劣勢の雰囲気は拭えない状況となってしまっていたのです。

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顕家の籠った八幡山(八幡市男山)

かくして、「このまま、河内(大阪府東南部)へ入れてはならぬ!」とばかりに、尊氏は、その八幡に、執事の高師直(こうのもろなお)率いる大軍を派遣するわけですが、その後のお話は、またいずれかの日づけでご紹介させていただくとして、

本日ご紹介するのは、このような状況下であった延元三年・建武五年(1338年)5月15日の日づけで、後醍醐天皇に向けて顕家がしたためたとされる奏状・・・

  1. 速やかに人を選んで九州・東北・山陽・北陸に派遣し反乱に備える事
  2. 租税を3年間免除するとともに、土木工事など、贅沢に金銭を使う事を止めて倹約する事
  3. 官僚の登用は慎重にすべき
  4. 恩賞は公平にすべき
  5. 臨時の行幸(天皇の移動)や宴会は、即座に止めてください
  6. 決めた法令は厳しく実行してください…何か事があるたんびに改正してたら混乱するばっかりです
  7. 現在、中心にいてる貴族や僧侶や女官は、ちゃんと政務をせんと私利私欲に走ってるヤツばっかし…ちゃんと政治ができる人以外は排除すべき

・・・と、七カ条にわたるこの文・・・完全に後醍醐天皇への政治批判です。

以前、顕家のお父さん親房さんのページ(5月10日参照>>)で書かせていただいたように、この顕家の北畠家は武士ではなく、村上源氏の流れを汲む8代め=雅家(まさいえ)を祖とする立派な公卿・・・

まさに、天皇の側近中の側近なわけで、そんな彼が、大いなる上司=天皇に、これだけの苦言を呈するなんて・・・どれだけの覚悟が必要だった事でしょう。

おそらく、顕家は、今度の戦いを最期の戦いと決意していたものと思われます。

この7ヶ条を示した後には、
「もし、この提言が認められず、太平の世に戻らへんのでしたら、僕は辞職して山林に身を隠します」
と記しています。

さらに、その末尾を
『伏して願わくば、いにしえの聖人の戒(いまし)めに照らし、下愚(かぐ=顕家自身の事)の懇情(こんじょう)を察したまえ』
という言葉で締めくくります。

あまりにも正当な、その内容に、未だ21歳の青年貴族のくやしい思いが伝わって来るようで、何とも悲しい思いがします。

・・・が、戦いは時を待ってはくれません。

顕家が決意した最期の戦い・・・もうすぐ、その時がやって来るのですが、そのお話は、やはり「その日」=5月22日のページでどうぞ>>m(_ _)m
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2013年5月13日 (月)

新政府へ物申す…山本覚馬の建白書『管見』

 

慶応四年(1868年)5月、当時薩摩藩邸に幽閉されていた会津藩士・山本覚馬が、新政府に向けて建白書を提出しました。

・・・・・・・・・・・・

5月という話もあれば6月という話もあり、
「いや、それは写しができた日で、原本はすでに3月に提出されていた」
なんて話もあり、日づけについては曖昧なのですが、例の大河ドラマ「八重の桜」が、そろそろこのあたりの状況に突入するという事で、本日書かせていただく事にしました。

当然ですが、ドラマのこの先の内容は知りませんので、歴史の通説としてのご紹介・・・よく言えば予備知識ですが、言いかえればドラマの「ネタバレ」にもなりますので、まっさらな形でドラマを楽しみたい方は、しばらくしてからお読みくださいm(_ _)m

・‥…━━━☆

あの山本勘助(かんすけ)(9月10日参照>>)の流れを汲むと言われる山本家・・・幕末当時、会津藩の砲術指南役だった山本権八(ごんぱち)の長男として生まれた山本覚馬(山本覺馬=やまもと かくま)は、ご存じ、本年の大河ドラマの主役=新島(旧姓:山本)八重さん(6月14日参照>>)のお兄さん・・・

Yamamotokakuma400 6歳で藩校の日新館に学んだ時から、すでに「秀才」の誉れ高く、20歳で江戸に出て、最高頭脳と言われた天才思想家=佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)の塾で学びました。

当時、この塾にいたのは、あの吉田松陰(しょういん)(11月5日参照>>)勝海舟(かつかいしゅう)(1月21日参照>>)橋本左内(はしもとさない)(10月7日参照>>)に・・・と、とにかく、そうそうたるメンバー・・・

後に、覚馬が「尊敬する人物」に象山や海舟の名を挙げている事でもわかるように、彼の人生においてのこの塾の影響は大きく、ここで、日本全体を見渡せるような、大きな先見の明を養っていく事になります。

やがて、28歳になって会津に戻った覚馬は、早速、藩校に蘭学所を設けるように進言・・・さらに軍隊を様式にする事なども提案しますが、その激しさに保守派からの批判を受け、いち時謹慎処分を喰らったりします。

しかし、会津藩も頭の固い人ばかりでは無い・・・やがて許され、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されます。

そんなこんなの文久二年(1862年)、京都守護職に就任した藩主・松平容保(まつだいらかたもり)に従って京に上ります。

京都では洋学所を主宰しますが、そこは在京中の会津藩士はもちろんの事、藩の枠を越えて学べるようにと、門を広く開けました。

とは言え、そもそもは京都の治安が悪くなっての京都守護職・・・ここらあたりから、幕末の動乱の足音が、いよいよ近くなってきます。

皆様もご存じのように・・・
文久三年(1863年)8月18日の八月十八日の政変(8月18日参照>>)で中央政界から追われた長州藩(山口県)が、翌・元治元年(1864年)6月の池田屋騒動(6月5日参照>>)でさらに窮地に立ち、7月19日の禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)・・・

この時、砲兵隊を率いて活躍した覚馬は、その功績から要人として扱われるようになり、他藩の名士と交流する事も多くなりますが、一方では、この頃から、視力の低下が始まったと言われます。

原因は、禁門の変において目を負傷したからとも、持病の白内障が悪化したからとも・・・

とにかく、慶応四年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では、失明のために京都とに留まっており、そこを薩摩藩にて捕えられ、薩摩藩邸に幽閉の身となってしまいます。

この時、自らの洋学所の生徒たちに、覚馬は、
「ええから…君らは、気にせんと学問を続けなさい」
と言ったのだとか・・・

しかし、あの禁門の変の時は同盟を組んでいた仲でもあり、以前からの交流で覚馬の優秀さを知っていた薩摩藩では、決して彼を罪人として扱う事は無く、幽閉とは言え、かなり良い待遇だったそうで・・・

ここで、覚馬が執筆したのが、新政府への建白書=『管見(かんけん)です。

それは22項目に渡る政治や経済、教育等における日本の将来について新政府がやるべき事を論じた物・・・

三権分立にはじまり、2院による議会政治学校の建設女子教の大切さ、果ては西洋暦の採用まで・・・

もちろん、欧米列強の植民地にならないためにも富国強兵(国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策)が重要という事も・・・

これまで、討幕に力を入れるあまり、今後の国家運営に関しては、未だ手探り状態だった新政府・・・この建白書を見た岩倉具視(いわくらともみ)西郷隆盛(さいごうたかもり)大いに驚いたと言います。

やがて、維新が成った後、釈放されて自由の身となった覚馬は、後に京都府知事となる槇村正直(まきむらまさなお)のもとで京都府顧問となり、京都の殖産興業の発展に力を注ぐ事になります。

そう、実は、あの禁門の変の時、京都は「どんどん焼け」と呼ばれる戦火に見舞われ、その3分の2が燃えてしまう事になるのですが、まもなく見えなくなるその目で、悲惨な光景を目の当たりにした覚馬には、「何とか、この町を復興させたい」という思いがあったのです。

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舎密局

しかも、ここに来て、天皇まで去ってしまった京都は、寂れる一方・・・

覚馬は、自宅にて政治学や経済学についての講義を行うとともに、化学技術の研究や教育を行う舎密局(せいみきょく)の設置や、内国勧業博覧会の誘致にも尽力・・・それは、この後の琵琶湖疏水の完成(4月9日参照>>)日本初の路面電車(2月1日参照>>)京都・岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会(4月1日参照>>)など、京都復活への足がかりとなっていくのです。

・・・と、その一方で、キリスト教への信仰を深めていく覚馬・・・後に、妹=八重の夫となる新島襄(にいじまじょう)が、「キリスト教の学校を設立したい」と願っている事を知った覚馬は、自らの土地=6000坪を襄に譲ります。

この場所に建てられたのが、現在の同志社大学(今出川校)・・・

その後、同志社の臨時総長を務めた覚馬は、明治二十五年(1892年)12月28日に65歳でこの世を去りますが、その生涯は、京都の活性化に多大なる貢献を残し、明治新政府の、そして近代日本の指針になった事は確かでしょう。
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2013年5月11日 (土)

ロシア皇太子襲撃!大津事件…その後

 

明治二十四年(1891年)5月11日、来日中のロシア皇太子・ニコライ2世が、警備中の巡査・津田三蔵に斬りつけられて負傷するという『大津事件』が発生しました。

・・・・・・・・・・・

これは、来日中のロシア皇太子ニコライ2世が、明治二十四年(1891年)5月11日琵琶湖で遊覧を楽しんだ後、京都のホテルに戻る途中の滋賀県・大津にて、突然飛び出して来た暴漢=津田三蔵(つだ さんぞう)に襲われた事件ですが・・・

その事件の経緯や与えた影響などは2008年の5月11日のページに>>
その後の裁判のモロモロ翌日の5月12日のページに>>
前・後編という形で書かせていただいておりますので、そちらでご覧いただくとして、本日は、事件の犯人である津田三蔵についてと、蛇足ではありますが、更なるその後について、チョコッとご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

その以前のページで、三蔵が、ニコライ2世を襲撃した動機について、
「ロシア皇太子は、日本を植民地にするため、その視察に訪れたと思った」
と供述している事を書かせていただいていますが、

それと同時に、巷では、
「今回の来日には、西郷を伴っており、それによって、かつての西南戦争での受章がはく奪される可能性がある」
との噂がたっていて、三蔵は、この噂を信じていた・・・という話があります。

これは、ずいぶん前の「西郷さんの銅像建立」のページ(12月18日参照>>)にも書かせていただきましたが、当時は、新聞報道までされて、まことしやかに囁かれていた話で、

「城山で死んだ西郷隆盛(9月24日参照>>)は影武者」
「実際には生きてロシアに逃亡した」

と言われ、
「今度、呼び戻されて政界に復帰する」
なんて事も言われていたのです。

西郷さんが政界に復帰するという事は、イコール、西南戦争での功績は無かった事になるわけで・・・

そう、実は、かの津田三蔵は、その西南戦争で功績を挙げていたのですね。

もちろん、彼は一兵卒なので、戦争全体で見ると大した功績でも無いのでしょうが、それこそ一兵卒の彼にとっては、命を賭けて戦った証であり、その生涯で最も誇れる物だったわけで・・・

Tudasanzou500 近年になって、ある個人のお宅から、母や兄弟・知人に送ったとおぼしき三蔵直筆の手紙が53通も発見され、その事が明らかになったわけですが、

その中の明治十年(1877年)9月25日付けの手紙の中で、三蔵は

『(略)…当月二十四日午前第四時ヨリ大進撃ニテ大勝利
魁首西郷隆盛・桐野利秋ヲ獲斃
(とらえたお)
大愉快之戦ニテ 残賊共斬首無算ナリ…(略)』

「24日午前4時からの大進撃で勝利しましたヨ!
西郷と桐野を捕えて倒し、ホンマ愉快…斬首された賊軍は数え切れんくらいですわ」

と、未だ興奮気味で、高揚感そのままの気持ちを書き残しています。

まぁ、実際には、西郷と桐野は捕えられたわけではなく、討死・・・という事ですが、ご存じのように、城山で討死した西郷隆盛と称される遺体には首は無かった事から、これまで書いていますように、西南戦争直後から、その生存説が囁かれていたわけですが・・・

で、この西南戦争の時に、22歳だった三蔵は、別働旅団として従軍し、戦後に勲七等と報奨金100円を下されています。

三蔵は、この西南戦争で銃弾を左手に受けて負傷し、いち時は入院生活を送ったものの、鹿児島戦線で復帰して勝利を収めたわけで、まさに、彼にとっては命がけで獲得した人生最高の栄誉だったわけです。

それが、ここに来て
「ロシア皇太子が西郷を連れて日本に来る?」
「戻った西郷が政界に復帰?」

となると、その栄誉も水の泡となる可能性があるわけで・・・

犯罪を犯した人の方を持つわけではありませんが、そんな不安にかられた気持ちは、わからないではありません。

・・・で、その結果、皇太子を襲撃という行為に出てしまった三蔵・・・

その裁判の行方については、かの後編のページ>>で書かせていただきましたが、当時、大審院長を務めていた児島惟謙(こじまこれかた)の判断により、
「謀殺未遂在・・・刑法第292条、第112条、第113条により、被告・津田三蔵を無期徒刑(無期懲役)に処す」
という判決となりました。

ところが、そのページにも書かせていただいたように、三蔵はそのわずか3ヶ月後に、釧路の監獄で獄中死・・・死因は「病死」と記録されていますが、何となく後味悪く、加害者が一転、被害者となってしまった感がぬぐえません。。。

・・・で、さらに、その後のお話があるのですが・・・

実は、かの襲撃事件の時、即座に反応して、犯人=三蔵を捕獲したのは、近くにいた、向畑治三郎(むかいばたじさぶろう)北賀市市太郎(きたがいちいちたろう)という二人の人力車の車夫だったのですが・・・

当然の事ながら、襲撃が未遂に終わったのは彼らが即座に反応してくれたおかげであり、言わば、ニコライ2世の命の恩人でもあるわけですから、それはもう、ものすご~く感謝されます。

日本政府からは終身年金36円、ロシア政府からは一時金2500円と終身年金1000円・・・これが、今の価値にしてどのくらいなのかは、私にはよくわかりませんが、とにかく、いきなり大金持ちとなった事は確かで、さらに、終身年金って事は、その先の人生の幸せも約束されたようなもの・・・

しかも、堂々の新聞報道もされちゃってますから、まさに彼らは時の人・・・英雄としての賛美も味わう事となり、全国的な人気者となったのです。

しかし・・・
そう、明治三十七年(1904年)からの、あの日露戦争(9月5日参照>>)です。

彼らが助けたニコライ2世は、まさに、この日露戦争勃発時のロシア皇帝なのです。

当然ですが、日本からもロシアからも終身年金はストップ・・・また、世の常として一度英雄に祭り上げられた人物が、一転して、紙クズのように追い落とされる状況は、いつの時代も同じ・・・

それでも、北賀市市太郎の方は、速やかに故郷へと戻り、その後は、ひっそりと暮らすので、まだ良かったのですが、向畑治三郎の方は、すでに、あの報奨金でバクチに手を出しており、借金まみれの悲惨な末路となってしまったのだとか・・・

なんとも・・・やるせない思いです。

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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2013年5月 9日 (木)

加賀百万石を実現させた中興の英主…前田綱紀

 

享保九年(1724年)5月9日、加賀百万石を実現させた中興の英主=前田綱紀が82歳で死去しました。

・・・・・・・・

前田綱紀(まえだつなのり)は、あの加賀藩の4代め藩主・・・

Maedatunanori120 戦国武将として有名な前田利家(としいえ)の息子=利長(としなが)が加賀藩の初代藩主で、その利長の弟=利常(としつね)が2代め、そして、その利常の息子=光高(みつたか)が3代めで、本日主役の綱紀さんは、その光高の息子という事になります。

しかし、その光高は正保二年(1645年)に31歳の若さで亡くなってしまい、綱紀はわずか3歳で前田家の家督を継ぐことになります。

当然ですが、3歳の幼児に藩政を行えるわけはないので、隠居したとは言え、未だ健在だった祖父の利常が後見人となって藩の運営に当たる事になります。

とは言え、このジッチャンの利常という方が・・・そう、以前に書かせていただいたように(10月12日参照>>)この方が見事なキレ者・・・

幼い綱紀にしっかりとした教育をほどこす一方で、戦国武将の武勇の気質も教え込むという養育方法で、彼を文武両道の見事な青年に育て上げます。

さらに、綱紀が年頃になったところで、徳川御三家にコレと言った人材いない事を見切った利常は、2代将軍=徳川秀忠(ひでただ)の実子なのに日蔭の身として育ちながらも、見事な名君に成長した会津藩主=保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)の娘を、綱紀の妻に迎えさせます。

おかげで、万治元年(1658年)に、その利常が亡くなった後も、この会津の名君が若き綱紀を後見人としてサポートし、様々な藩政改革を成功に導いていく事になるのです。

新田開発農政制度の改革・・・飢饉の時には生活困窮者を助けるための公共施設を設置し、妊婦のための出産補助施設も設立しました。

この頃、世間では「一加賀、二土佐」と称され、加賀は、今で言うところの「住みたい町日本一」「幸福度No.1」の都市だったのですね。

逆に、あまりの繁栄ぶりに、下層の農民たちまでもが、都会の生活ぶりを真似て浪費に走ったために批判を受けた・・・なんて事も聞きますが、それこそ、それは、いかに綱紀の治世が順調で、加賀が繁栄していたかの証とも言えるもの・・・

また、上記の通り、しっかりとした教育を受けていた綱紀は、学問にも精通していて、京都の五山をはじめ、皇族の家々に残る貴重な蔵書を預かって整理したり、破損した物には修復を加えて、目録とともに桐箱に入れて、完璧な形にして返却したと言います。

代表的な物では、古刹=東寺に残っていた平安期から室町期までの荘園資料・・・綱紀のまとめた物は『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)と呼ばれます。
(*注:現在、国宝となっている百合文書のすべてが綱紀によるものでは無いとの見方もありますが…)

まぁ、これには、その預かってる間に、その内容をことごとく写し取ってから返却していた=「書籍盗人の疑いあり」(『土芥寇讎記』)なんていう話もありますが、そんなこんなで預かった文献の中での、「必要な物か」「必要で無いか」の判断を、綱紀自身が、しっかりと中身を読んで選定していたというのですから、その知識たるや、大したものです。

また、自身の著書も多く残していて、その種類は、木鳥獣の図鑑から、藩の制度に関する物、地元の出来事をまとめた風土記的な物や、地元名産品を網羅した工芸品ガイドブックのような物・・・と多種多様です。

他にも、学者や文化人などを招いては録を与えて長期滞在させ、更なる文化向上にも力を注ぎました。

おかげで、元禄二年(1689年)には、5代将軍=徳川綱吉(つなよし)から、御三家に準ずる待遇を与えられ、加賀藩は、100万石を誇る日本最大の藩として、その頂点に達します。

そう、ここに、いわゆる『加賀百万石』が実現したのです。

なので、その評判はすこぶる良く、加賀藩中興の英主と称される綱紀さん・・・

とは言え、そんな綱紀さんも人間ですから、おそらくは欠点もあっただろうとは思いますが、本日のとことは、ご命日故の主役獲得ページという事で、褒めて褒めて褒めまくって終わらせていただく事にします。
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2013年5月 8日 (水)

大坂の陣・落城記念~大阪城の怖い話

 

慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城が炎に包まれ落城豊臣秀頼淀殿母子が自刃・・・ここに豊臣家は滅亡し、冬と夏の二度に渡った「大坂の陣」は終結しました。

・・・・・・・・・・

・・・と、大阪城の近くで生まれ育ち、今も昔も大阪城大好き少女(今は少女ではない(^-^;)の茶々としては、これまで、大阪城の事をいっぱい書いて来ましたが、そんなこんなの歴史上の事は、以前のページでご確認いただくとして・・・
●【大坂の陣の年表】からどうぞ>>

本日は、ちょっと趣向を変えて、大阪城に伝わる怖い話を・・・

Dscf0642a800 大阪城ベストショット

と言いますのも、以前も、そんな秀吉の怨霊ガラミなお話で、大阪城のたどった歴史を書かせていただいたのですが(「秀吉の怨念?大阪城の不思議な話」参照>>)

古くは、初代天皇となった神武天皇が上陸を果たした(以前は現在の大手門のあたりに生國魂神社がありました)後、しばらくして本願寺の本拠として人が集まり(8月2日参照>>)豊臣秀吉を経て徳川家康の手に渡り(1月23日参照>>)、徳川300年の後に戊辰戦争によって明治新政府へと引き継がれ(1月9日参照>>)、その後は第2次世界大戦が終了するまで、東洋一とうたわれた軍事施設(6月7日参照>>)だった大阪城・・・

日本の歴史の転換期の度に戦場となった大阪城ですが、なぜか、怨霊的なお話は豊臣が多いのです。

豊臣大坂城好きの茶々としては、そこに、「いかに徳川家がムリヤリ豊臣家をぶっ潰した感があったか」てな事を妄想してしまうのですが・・・

とにもかくにも、落城記念という事で、今なお大阪城に伝わる怖いお話のいくつかをご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

Oosakazyoukaidan 大阪城・怖い話マップ↑クリックして大きくして見てね

①奥座敷の宴会

大坂の陣で豊臣家が滅び、すっかり徳川の世となった後も、その噂は絶えませんでした。

「城内では、人気のない奥座敷から、夜な夜な酒盛りの音が聞こえて来る」
と・・・

「おのれ!亡霊め!成敗してやる!」
とばかりに、ある時、未だ血気盛んな若い家臣が、夜の更けるのを待って、奥座敷の方へと向かいました。

ぬき足さし足で近づいて行くと・・・なるほど、噂通りにざわざわと酒宴の音らしき物が聞こえてきます。

しかも、人の声だけではなく、何やら管弦の音まで・・・

息を殺して勇気を振り絞り、若者はガバッと襖を開けます。

すると、座敷の向こうにぼんやりと・・・この世のものとは思えぬ美しいうちかけを身にまとった女性を囲んで、何人かが宴会の真っ最中!

「亡霊め!」
大きく声を挙げた若者が、その声と同時に近づくと、

すかさず、輪の中にいた女性が・・・
「静かにしよし!
わらわは、淀じゃ!
今宵は、久しぶりの祝宴じゃ!」

と鬼のような形相で一喝!!

しかし、その途端、すっと表情を変え
「そなたも、もっとちこう寄れ…
わらわの盃をしんぜよう」

とニッコリ・・・

凍りつくような笑顔には、ありえないほどの妖気がこもり、一瞬にして気が遠くなり、若者は動けなくなったのだとか・・・

しばらくして我に返った時には、すでに亡霊の姿は無く、ただ、広い座敷にポツンと、若者が一人で座っていた状態だったのです。
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②陰火の舞い

陰火(いんか)とは人魂=火の玉の事・・・

現在、桜門の前のお堀は空堀となっていますが、豊臣時代の大坂城でも、このあたりに空堀があったとか・・・

で、ご存じのように、大坂の陣では数多くの豊臣の兵が討死し、その血が空堀に流れ、土にしみこんだ・・・

やがて、いつのほどからか、雨の降る夏の夜には、一つ、また一つと、恨みを残して死んだ豊臣の兵たちの怨念が火の玉となって現われ、それがピークに達する頃、城内から「ワーッ」という争乱の声が沸きあがるとか・・・
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③胎衣の松

江戸時代の大坂城は徳川の直轄となったので、城主というのは徳川将軍・・・で、その代役として、大名や旗本から、城代:1名定番(じょうばん):2名大番(旗本頭):2組加番(かばん):4名が指名され、彼らが家臣を率いてやって来て大坂城に常駐していたわけですが・・・

そんな中の西大番頭の屋敷の書院の庭には、高さ一丈(約3.8m)、横十間(18m)もある大きな松があったのですが、ある時、大番頭から、その松の枝を切るように命じられた家臣が枝を切ったところ、その夜、夢に貴人が現われます。

「我こそは、大坂城主・豊臣秀頼であ~る。。。
その松のたもとには、我の胎衣
(えな=胎盤)が埋めてあるぞよ~
今後は、切ってはならぬぞえ」

と告げたのです。

以来、その松を切る事は無く、お神酒を供えて大切にしたのだとか・・・(って、コレ怖いか??)
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④京橋口の幽霊屋敷

江戸時代、京橋口には定番の屋敷がありましたが、ここには古くから妖怪が住むとの噂があり、任期を全うした大名はいなかったのだとか・・・

そんな中、享保十年(1725年)に着任した足利藩主・戸田忠囿(ただその)は、これまでの代々の定番役が、着任早々、ここに稲荷のほこらを建てて鎮魂していた事を聞くのですが、
「そんな古い習慣、
俺には関係あれへん!
なんやったら、これまでの古いほこらも、全部まとめて近所の玉造神社に遷してしまえ!
屋敷に一つも残すなよ」

と強気満々のご発言・・・

案の定、すべてのほこらを移転して10日ほどたった頃・・・
家臣たちの間に、いきなりの高熱を発する病気がまん延したり、
「化物を見た!」
と恐怖におののく者が続出・・・

しかし、当の忠囿さんは落ち着いたもの・・・

逆に、その化物を退治せんとばかりに書院に引き籠ります。

やがて3日目・・・忠囿の目の前に白髪をふり乱した化物が現われます。

自らも重傷を負いながらも、何とか鎌で化物を仕留めた忠囿・・・死んだその姿は巨大な古狐だったとか・・・(って退治しとるがな!!(゚ロ゚屮)屮)

・‥…━━━☆

以上、まだまだあるのですが、残りは真夏の夜のお楽しみという事で、本日のところは、このへんで・・・
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2013年5月 7日 (火)

備中高松城~水攻めと吉川元長

 

天正十年(1582年)5月7日、織田信長の命を受けて備中高松城を攻撃していた羽柴秀吉が、水攻めを開始しました。

・・・・・・・・・・

天正元年(1573年)7月に将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を追放(7月18日参照>>)、続く8月には浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)、天正四年(1576年)には安土城を構築して(2月23日参照>>)、天正八年(1580年)8月には最大最強の敵だった石山本願寺を落とし(8月2日参照>>)、天正十年(1582年)の3月に甲斐武田を滅亡させ(3月11日参照>>)ほぼ中央部を押さえつつあった織田信長・・・

これらの戦いと同時進行で行われていたのが地方の攻略ですが、この時点で信長を阻む強敵となっていた大物は、北陸戦線上杉(6月3日参照>>)中国地方毛利輝元(てるもと=元就の孫)・・・

で、その命を受けて、中国地方の攻略を担当していたのが羽柴(後の豊臣)秀吉です。

この頃の毛利氏は、周辺諸国にも影響を及ぼす西日本一の大大名・・・なんせ、京都を追放された義昭が頼って身を寄せていたくらいですから・・・

とは言え、その腕前で、徐々に播磨(はりま=兵庫県南西部)の領主たちを味方につけた秀吉は、天正五年(1577年)に西播磨上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を攻略し(11月29日参照>>)、翌・天正六年(1578年)には三木城を干殺しにし(3月29日参照>>)、天正九年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし(7月12日参照>>)、天正十年(1582年)4月27日、いよいよ、備中高松城(岡山県岡山市)への攻撃を開始します。

Koutukizyoukankeizucc (←以前の上月城のページでupした図ですが、位置関係がわかりやすいので…)

しかし、高松城は、低地で湿地という利点を最大限に活かした天然の要害・・・南側には川が流れ、残る三方は広大な沼地で、なかなか中に踏み入る事は困難・・・

周囲に展開されていた支城は、アッと言う間に落として、城の東方にある竜王山に陣を置き、即座に高松城を取り囲んで孤立させた秀吉でしたが、いざ、高松城への攻撃を開始しても、堀や沼地に阻まれて、逆に、コチラが痛手を受けるばかり・・・

そこで天正十年(1582年)5月7日、低地の沼地という守りの利点を逆に利用した水攻めを決行する事になるのです。

周辺の一般農民を法外な金額で雇って昼夜を問わずに土俵の運搬をさせ、わずか12日で、高さ:7m、幅:20m、全長:3km余の堤防を完成させたのたとか・・・(ホンマかいな?)

Takamatuzyoufuzinzucc_2 (2008年6月4日にupした図ですが→)

旧暦の5月・・・梅雨真っただ中のこの作戦は見事成功し、雨で水かさが増した川から、水路を伝わって流れる水により、わずか数日で、高松城は大きな湖の中に浮かぶ状態となってしまったと言われています。

・・・で、結局、高松城は、約1ヶ月後の6月4日に開城される事になるのですが、ご存じのように、そこには、あの本能寺の変との絡みもあり・・・って事で、そのお話は2008年6月4日の【備中高松城・落城~清水宗治・自刃】のページ>>でご覧いただくとして、本日は、『陰徳太平記』にある毛利側の逸話を、チョイとご紹介・・・

・‥…━━━☆

この時、秀吉勢に囲まれた高松城を救うため、1万5000の兵を率いて駆けつけた吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)が、現地に到着したのは5月21日・・・

そう、すでに、高松城は湖上の城となり、孤立した状態でした。

城の西南の位置にある山に登って眼下を見下ろしながら、元春と息子の元長(もとなが)、そして隆景らが、今後の作戦について話し合います。

しかし、その軍議の席で出て来たのは、
三沢為虎(ためとら)をはじめとする多くの家臣が、すでに秀吉側に内通している」
との噂・・・

さらに
「そのような状況で、決戦を挑むのは難しい」
「いや、もし、内通の噂が本当なら、むしろ、秀吉側がコチラを攻めに来る可能性も…」
「そうなれば、決死の覚悟で本陣めがけて突入するしかない」
などなど、チョイとばかりネガティブな意見ばかり・・・

結局、その場は、何も出ないまま解散となりましたが、この時、未だ30歳半ばの血気盛んなお年ごろだった元長は、
「皆々の士気を高めるためにも、どうにかせねば!」
と思ったのか、軍議を終えたその足で、噂の為虎の陣へと立ち寄ったのです。

そして、堂々と為虎のそばに腰をおろし
「お前が、秀吉に内通してるって聞いたんやけど…それがホンマかどうか確かめに来た!
もし、それが本当やねんやったら、今すぐ俺を討ち取って、その首を秀吉に届けてみろ!」

と・・・

その話を聞いた為虎は、非常に驚いて、
「そんなアホな!
そんな事、まったくありません!
ウチらを混乱させようと、誰かが噂を流してるに違いないですわ!」

と、地面に頭をこすりつけながら完全否定し、その場で誓紙をしたため、元長に差し出しました。

こうして、元長は無事帰還したわけですが、なんと、その後、和睦が成立した後に、秀吉が毛利に対して提出した『内通者リスト』には、しっかり為虎の名が記してあったのだとか・・・

・‥…━━━☆

ただ、『陰徳太平記』では、「名前はあったが、それは為虎の預かり知らぬ事」として、為虎の内通は、本人の申し出通り否定していますが、果たして真相は・・・

こういう話は、軍記物によく登場しますが、コレって、「そんな事はございません」と家臣が否定して無事帰って来るから良いものの、本当に内通していて斬られちゃったらどうなるんでしょうね???

って事で、何となく話半分な感じの逸話ではありますが、高松城に関して、もはや、打つ手もなさげな毛利側に、ちょっぴりイイ話を・・・という事なのかも知れませんね。
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2013年5月 6日 (月)

「地黄八幡」の闘将…北条綱成

 

天正十五年(1587年)5月6日、婿となって北条氏を支えた闘将・北条綱成が、この世を去りました。

・・・・・・・・・

今川家の家臣だった福島正成(くしままさしげ・まさなり)の息子とされる北条綱成(ほうじょうつなしげ・つななり)・・・

とは言え、このお父さんの正成という人の存在がはっきりせず、父親は別人説もあり・・・しかも、その父が討死したとされる戦いも、大永元年(1521年)10月の飯田河原の戦い(11月3日参照>>)とも、天文五年(1536年)6月の今川家の内紛=花倉の乱(6月10日参照>>)とも言われており、結局は、北条氏に仕えるまでの綱成の事はよくわからないのですが・・・

とにもかくにも、いずれかの戦いで父を亡くした綱成は、それをキッカケに北条氏を頼る事になるのですが、この時の北条氏の当主が、あの北条早雲(そううん=伊勢盛時)を父に持つ2代め=北条氏綱(うじつな)・・・

Houzyoutunasige300 おそらくは、名将の素質的な物をプンプンと匂わせていたのでしょうかねぇ~

あるいは、この時には、もう20歳を過ぎていた綱成ですから、記録には無いものの、それなりの功績を残していたのかも知れませんね。

なんせ、敗軍の将を父に持つ新参者の綱成を、氏綱は快く迎え入れたばかりか、自らの娘(大頂院殿)を嫁がせて北条姓を名乗らせ、北条一門の一人としたのですから・・・

そう、綱成の「綱」は、氏綱の一字を与えた物・・・(「成」が父の文字だとしたら、やっぱり父親は正成なのかしら?)

『小田原旧記』によれば、当時の北条家では、その軍団を『五色備(ごしきぞなえ)と呼ばれる5種類の色で識別する5つの部隊に分けていたのですが、綱成は、その中の黄色の部隊=『黄備(きぞなえ)』を担当する大役も仰せつかっています。

ものすンごい期待!!

もちろん、その期待に応えるがのごとく、綱成は大いに活躍するわけで・・・

そんな彼は、黄色の絹に「八幡第菩薩」と大きく書かれた『地黄八幡(じおうはちまん)と呼ばれる旗印をなびかせて颯爽と戦場を駆け抜け、自らが先頭となって戦うタイプだったとか・・・カッコイイなぁ(*゚ー゚*)

それでいて勇み足となる事なく、見事な合戦作法を身につけていたというのですから、スゴイ!!

天文七年(1538年)10月と永禄七年(1564年)1月の2度に渡って繰り広げられた関東の派遣を巡る国府台(こうのだい)の戦い(第一次:10月7日参照>>)(第二次:1月8日参照>>)をはじめ、多くの合戦で、その才能を発揮・・・

天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(かわごえよいくさ)では、娘婿として守りを任された武蔵河越城(埼玉県川越市)を、山内上杉憲政(のりまさ)扇谷上杉朝定(ともさだ)らの攻撃から守り続けたうえ、氏綱の救援部隊が到着した途端に、見事な連携プレーで完膚無きまでに打ちのめしました(4月20日参照>>)

そう、この河越夜戦は、包囲されている側が、城外に到着した援軍と合わせて、何倍もの大軍を討ち果たした事から、毛利元就(もとなり)厳島(10月1日参照>>)織田信長桶狭間(5月19日参照>>)と並べて、戦国の三大奇襲なんて呼ばれたりもします。

さらに、元亀二年(1571年)3月に起こった深沢城(静岡県御殿場市)攻防戦でも、あの武田信玄を相手に、堂々の抵抗を見せています(3月27日参照>>)

この元亀二年の10月には、北条3代め当主=北条氏康(うじやす)が病死した(10月3日参照>>)ため、綱成は出家して、その家督を嫡子の氏繁(うじしげ)に譲りますが、北条家からの信頼度は、その後も、親子ともども変わりなく・・・常に、北条家の最前線で、その守りを固める役どころをこなしていきます。

とは言え、冒頭に書かせていただいたように、綱成は、天正十五年(1587年)5月6日73歳の生涯を終えますし、ご存じの通り、主君の北条家も、天正十八年(1590年)に、あの豊臣秀吉に難攻不落の小田原城を攻められ、100年5代に渡って続いた栄華を終える(7月5日参照>>)事になるのですが・・・

いや、しかし・・・
闘将=綱成さんのDNAは、しっかりと受け継がれていました!

江戸時代に入って、小幡景憲(おばたかげのり)(2月25日参照>>)から甲州流軍学を学び、それを、さらに改良した北条流軍学を興した後、江戸の都市計画にも参加するほどの軍学者となる北条氏長(うじなが)・・・

そう、彼は、氏繁の孫・・・つまり、綱成の曾孫にあたる人なのです。
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2013年5月 1日 (水)

大坂夏の陣~真田幸村の平野・地雷火伝説

 

元和元年(慶長20年・1615年)5月1日、大坂方の後藤基次が道明寺付近での合戦を視野に入れて平野郷へと出陣し、真田幸村毛利勝永らが天王寺方面に陣を整えました。

・・・・・・・・・・・・

いよいよ、大坂夏の陣・・・

つい先日の樫井の戦い(4月29日参照>>)でも書かせていただきましたが・・・

関ヶ原の合戦に勝利して征夷大将軍になった徳川家康(2月12日参照>>)が、自らの天下取りの最後の障害となった豊臣秀吉の遺児・豊臣秀頼を、京都・方広寺の鐘銘にイチャモンつけて(7月21日参照>>)大坂城を攻めた大坂冬の陣は、城の南東に構築した真田丸の攻防(12月4日参照>>)などありつつも、一応の和睦となり(12月19日参照>>)ますが、かりそめの講和はすぐに解消となり、翌・元和元年(慶長20年・1615年)、大坂夏の陣へ・・・

この夏の陣の戦端を開くのが、現在の泉佐野市で展開された、先の樫井の戦いですね。
*くわしい経緯は【真田幸村と大坂の陣の年表】で>>

で、その樫井の戦いの後、結果的に、5日後の5月6日に決戦する事になる道明寺・誉田の戦い(2016年4月30日参照>>)に向けて、元和元年(慶長20年・1615年)5月1日後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)が平野郷に入った・・・という事です。

遠方の方には、その位置関係がわかり難いかも知れませんが、樫井(かしい)が現在の大阪府泉佐野市で、道明寺・誉田(こんだ)というのは同・藤井寺市平野郷というのは、現在の大阪市平野区・・・

以前にお話しましたが、難攻不落とうたわれる大坂城を、もし攻め落とすとすれば、おそらく南からの攻撃・・・このために、先の冬の陣では、かの真田幸村(信繁)が、あの真田丸を構築した(12月17日参照>>)わけですが、この夏の陣の直前に京都の二条城に入った徳川家康が、やはり南から攻めるとすれば、おそらく大和(奈良県)を経由して大坂に入って来るわけで・・・

その道筋にあるのが道明寺・誉田、さらにその先の、攻撃準備に入る拠点となるのが徳川に味方する地元民がいる平野郷(11月5日参照>>)だったわけです。

・・・で、長い前置きになりましたが(←前置きやったんかい!)
本日は、そんな平野郷に残る伝説・・・真田幸村の地雷火のお話・・・

実は、コレ、日づけがはっきりわからないもので(*´v゚*)ゞ

書面の形では、『大阪府全志』『平野郷町誌』などといった比較的新しい文献にしか登場しませんが、つまりは平野郷に伝わる伝説として語られているお話です。

・‥…━━━☆

この時、「おそらく家康は、大和路から大坂に入り、一旦、この平野郷に陣を置くはずだ」とにらんだ幸村は、本町一丁目一番地にあった地蔵堂の下に地雷火を埋めて、ほぼ抵抗せず、大坂城へと撤退します。

Dscf1338a600 この地雷火というのは、ここに家康がやって来て火を焚けば爆発するという仕掛けのもの・・・

案の定、まもなく家康は平野に入り、戦闘準備とばかりに火を放ち、平野の町を焼き払うのですが、数時間経って、かの地蔵堂にも火が回って来ます。

しかし、まさに、その火がついて爆発しようとした瞬間・・・家康は、にわかに「小」をもよおし、その場を離れて用を足しに・・・

おかげで、家康は命拾いしますが、そこを間髪入れず、幸村の用意した伏兵が攻めかかります。

これまた、命からがら、わずかの側近とともに逃走した家康は竹淵堤(たこちつつみ)という場所まで逃げて来ますが、そこに、「この付近に潜伏しているはず」とにらんだ幸村が登場・・・

「もはや、これまで…」
と、覚悟を決めた家康でしたが、ふと見ると、そばにうっそうとした薮が・・・後に「塩川の薮」と呼ばれるその薮に身を潜めて、何とか幸村をやり過ごし、その後、百姓姿に身を変えて、肥船に乗って平野川から逃走したのだとか・・・

・‥…━━━☆

『平野郷町誌』では、家康は無事逃走した事になってますが、

『大阪府全志』では、この後、家康は後藤基次に見つかって槍で突かれて死亡(7月10日参照>>)・・・その命日を4月27日としていますが、ご存じのように、おそらく4月27日には、家康はまだ二条城を出発していない・・・

『堺市史』では、この出来事での家康の命日を5月7日としていますが、こちらはこちらで、家康は平野にいたかも知れませんが、後藤基次が、その前日の道明寺の戦いで討死してますので、家康を槍で突く事ができません。

てな事で、あくまで、今回の地雷のお話自体も、伝説の域を越えないお話ではありますが、その現場となった地蔵堂は、現在も平野の塩尻口に残り(上の写真です)、その爆発の勢いで飛んでしまったお地蔵様の首が境内に落ちて来たとされる全興寺には、その首だけのお地蔵様が、「首地蔵」として祀られています。

Dscf1353a800
「首地蔵」のある全興寺(大阪市平野区)

果たして・・・と、またまた、茶々の妄想は膨らむばかりです。
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