新政府へ物申す…山本覚馬の建白書『管見』
慶応四年(1868年)5月、当時薩摩藩邸に幽閉されていた会津藩士・山本覚馬が、新政府に向けて建白書を提出しました。
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5月という話もあれば6月という話もあり、
「いや、それは写しができた日で、原本はすでに3月に提出されていた」
なんて話もあり、日づけについては曖昧なのですが、例の大河ドラマ「八重の桜」が、そろそろこのあたりの状況に突入するという事で、本日書かせていただく事にしました。
当然ですが、ドラマのこの先の内容は知りませんので、歴史の通説としてのご紹介・・・よく言えば予備知識ですが、言いかえればドラマの「ネタバレ」にもなりますので、まっさらな形でドラマを楽しみたい方は、しばらくしてからお読みくださいm(_ _)m
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あの山本勘助(かんすけ)(9月10日参照>>)の流れを汲むと言われる山本家・・・幕末当時、会津藩の砲術指南役だった山本権八(ごんぱち)の長男として生まれた山本覚馬(山本覺馬=やまもと かくま)は、ご存じ、本年の大河ドラマの主役=新島(旧姓:山本)八重さん(6月14日参照>>)のお兄さん・・・
6歳で藩校の日新館に学んだ時から、すでに「秀才」の誉れ高く、20歳で江戸に出て、最高頭脳と言われた天才思想家=佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)の塾で学びました。
当時、この塾にいたのは、あの吉田松陰(しょういん)(11月5日参照>>)に勝海舟(かつかいしゅう)(1月21日参照>>)に橋本左内(はしもとさない)(10月7日参照>>)に・・・と、とにかく、そうそうたるメンバー・・・
後に、覚馬が「尊敬する人物」に象山や海舟の名を挙げている事でもわかるように、彼の人生においてのこの塾の影響は大きく、ここで、日本全体を見渡せるような、大きな先見の明を養っていく事になります。
やがて、28歳になって会津に戻った覚馬は、早速、藩校に蘭学所を設けるように進言・・・さらに軍隊を様式にする事なども提案しますが、その激しさに保守派からの批判を受け、いち時謹慎処分を喰らったりします。
しかし、会津藩も頭の固い人ばかりでは無い・・・やがて許され、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されます。
そんなこんなの文久二年(1862年)、京都守護職に就任した藩主・松平容保(まつだいらかたもり)に従って京に上ります。
京都では洋学所を主宰しますが、そこは在京中の会津藩士はもちろんの事、藩の枠を越えて学べるようにと、門を広く開けました。
とは言え、そもそもは京都の治安が悪くなっての京都守護職・・・ここらあたりから、幕末の動乱の足音が、いよいよ近くなってきます。
皆様もご存じのように・・・
文久三年(1863年)8月18日の八月十八日の政変(8月18日参照>>)で中央政界から追われた長州藩(山口県)が、翌・元治元年(1864年)6月の池田屋騒動(6月5日参照>>)でさらに窮地に立ち、7月19日の禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)・・・
この時、砲兵隊を率いて活躍した覚馬は、その功績から要人として扱われるようになり、他藩の名士と交流する事も多くなりますが、一方では、この頃から、視力の低下が始まったと言われます。
原因は、禁門の変において目を負傷したからとも、持病の白内障が悪化したからとも・・・
とにかく、慶応四年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では、失明のために京都とに留まっており、そこを薩摩藩にて捕えられ、薩摩藩邸に幽閉の身となってしまいます。
この時、自らの洋学所の生徒たちに、覚馬は、
「ええから…君らは、気にせんと学問を続けなさい」
と言ったのだとか・・・
しかし、あの禁門の変の時は同盟を組んでいた仲でもあり、以前からの交流で覚馬の優秀さを知っていた薩摩藩では、決して彼を罪人として扱う事は無く、幽閉とは言え、かなり良い待遇だったそうで・・・
ここで、覚馬が執筆したのが、新政府への建白書=『管見(かんけん)』です。
それは22項目に渡る政治や経済、教育等における日本の将来について新政府がやるべき事を論じた物・・・
三権分立にはじまり、2院による議会政治、学校の建設に女子教育の大切さ、果ては西洋暦の採用まで・・・
もちろん、欧米列強の植民地にならないためにも富国強兵(国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策)が重要という事も・・・
これまで、討幕に力を入れるあまり、今後の国家運営に関しては、未だ手探り状態だった新政府・・・この建白書を見た岩倉具視(いわくらともみ)や西郷隆盛(さいごうたかもり)は大いに驚いたと言います。
やがて、維新が成った後、釈放されて自由の身となった覚馬は、後に京都府知事となる槇村正直(まきむらまさなお)のもとで京都府顧問となり、京都の殖産興業の発展に力を注ぐ事になります。
そう、実は、あの禁門の変の時、京都は「どんどん焼け」と呼ばれる戦火に見舞われ、その3分の2が燃えてしまう事になるのですが、まもなく見えなくなるその目で、悲惨な光景を目の当たりにした覚馬には、「何とか、この町を復興させたい」という思いがあったのです。
しかも、ここに来て、天皇まで去ってしまった京都は、寂れる一方・・・
覚馬は、自宅にて政治学や経済学についての講義を行うとともに、化学技術の研究や教育を行う舎密局(せいみきょく)の設置や、内国勧業博覧会の誘致にも尽力・・・それは、この後の琵琶湖疏水の完成(4月9日参照>>)や日本初の路面電車(2月1日参照>>)、京都・岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会(4月1日参照>>)など、京都復活への足がかりとなっていくのです。
・・・と、その一方で、キリスト教への信仰を深めていく覚馬・・・後に、妹=八重の夫となる新島襄(にいじまじょう)が、「キリスト教の学校を設立したい」と願っている事を知った覚馬は、自らの土地=6000坪を襄に譲ります。
この場所に建てられたのが、現在の同志社大学(今出川校)・・・
その後、同志社の臨時総長を務めた覚馬は、明治二十五年(1892年)12月28日に65歳でこの世を去りますが、その生涯は、京都の活性化に多大なる貢献を残し、明治新政府の、そして近代日本の指針になった事は確かでしょう。
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コメント
はじめまして。yonezawaemonnと申します。1年程前から羽柴茶々さんのブログを拝見し、楽しみながら勉強させて貰っています。
現在、私は世界の女性史についてブログを書いています。更新は不定期ですが見て頂ければ嬉しいです。
最期に、何時も楽しみにしているので、これからも頑張って下さい。
投稿: yonezawaemonn | 2013年5月14日 (火) 15時07分
yonezawaemonnさん、こんにちは~
キャハ、世界史は苦手でおます…(。>0<。)
勉強させていただきます。
投稿: 茶々 | 2013年5月14日 (火) 18時19分
山本覚馬についての記事ありがとうございました。
この人に光をあてたのは今年の大河の功績ですね。ただ,今のところ政治経済について有能であることを示す描写があまりないのが残念ですが。
さて,「どんどん焼け」は「鳥羽伏見の戦いの時」ではなく,蛤御門の変のときだったように思うのですが。
投稿: 徳左衛門 | 2013年5月14日 (火) 18時33分
いつも楽しく読ませていただいてます。ちゃちゃさまのおかげで、少し歴史にくわしくなり、だんなさまと話がかみあうようになってきました。6.7年前は全然興味もてなかったのに、世界が広がりました。本当にうれしいです。ありがとうございます。これからもずっと読ませてください。お願いします。
投稿: しっぽなし | 2013年5月14日 (火) 20時10分
徳左衛門さん、こんばんは~
あう、ホントですね~
慌てて気づいてませんでした。
ありがとうございます。。。訂正しておきます。
投稿: 茶々 | 2013年5月15日 (水) 01時31分
しっぽなしさん、こんばんは~
旦那様と歴史について…
イイですね~
これからも、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2013年5月15日 (水) 01時33分
山本覚馬さん、敵方なのに、幽閉されて殺害されないのは、有能な方だったですね。薩摩藩は人を見る眼がすごいです。八重さんの前夫さんも注目を浴びているそうです。記念館も誕生して、本人もびっくりかも。
投稿: やぶひび | 2013年5月17日 (金) 11時11分
やぶひびさん、こんにちは~
>八重さんの前夫さん…
この方は残ってる史料が少ないと聞いていましたが…記念館ができたのですか?
うれしいですね。
投稿: 茶々 | 2013年5月17日 (金) 13時20分
川崎尚之助さんの記念館はありません。
すみません、間違いです。
豊岡市のHPに川崎尚之助のページが
あります。
http://shounosuke.jp/
出石って桂小五郎さんの隠れ家があった
所だそうですね。
投稿: やぶひび | 2013年5月18日 (土) 10時03分
やぶひびさん、こんにちは~
でも、生家が残っているのですね~
おっしゃる通り、出石は桂小五郎が潜伏していた場所で、幾松が着物を売り売り会いに行きましたね~
投稿: 茶々 | 2013年5月18日 (土) 14時09分
薩摩藩がよい待遇をしたと書いてあって「ほっ」としました。
私は鹿児島の人間ですから…。それにしても,大河ドラマ「八重の桜」を見るのは「ちょとつらい」です。福島の方々に申し訳ない気持ちで…。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年5月19日 (日) 12時38分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
やはり、主役が会津ですからね。。。
ドラマでは維新を成す側が少し黒く描かれても致し方無いでしょうが、実際には会津にも黒い部分もあり…
しかし、日本の未来のためには手段を選んでいる場合で無かった事も確かで、皆が命を賭けていた時代でもあったと思います。
投稿: 茶々 | 2013年5月19日 (日) 12時59分
【菅見】のルーツは
福沢諭吉の
【西洋事情】
にあり
http://aoimon.blog7.fc2.com/blog-entry-3006.html?cr=1e3d34c3d8ef3332a5693398f8f93647
投稿: 開明派 | 2013年5月25日 (土) 15時58分
開明派さん、こんにちは~
おっしゃりたい事はよくわかります。
なので、今回、書かせていただいているのも、『管見』の内容が、「山本覚馬が発案した物だ」という事ではなく、あくまで「建白書として提出した」という事だけに留めております。
そもそも、福沢諭吉の『西洋事情』もそうですが、幕府が派遣した海外視察の成果は、ほとんど活かされないまま、明治維新となってしまいます。
玉蟲左太夫の『航米日録』>>なんかは『西洋事情』よりも客観的に細かく描写されていますが、仙台藩に提出されたままお蔵入りとなってしまい、公表されるのは随分と後の事ですね。
小栗忠順>>なんかも、彼らとともに渡米した一人ですから、かなり前向きな改革を頭の中に描いていたようですが、新政府側に抹殺された事により、その夢は実現できませんでした。
結局、新しい制度の多くが、新政府が岩倉使節団を派遣して、実際にその目で見てから…てな展開になってしまってます。
しかし、人の口に戸は立てられませんので、おそらくは、それらの幕府から派遣された人たちの経験談は、早いうちから口から口へと広まっていっていたでしょうから、そこから、この先の未来の政府のあり方を、覚馬を含め、それぞれが考えていたという事だと思います。
投稿: 茶々 | 2013年5月25日 (土) 18時15分