南朝を支えた無双の勇者…北畠顕家の最期
延元三年・建武五年(1338年)5月22日、北朝の室町幕府軍と戦う南朝方の北畠顕家が阿倍野にて戦死しました。
・・・・・・・
つい先日の続きのお話ではありますが、一応、ここまでの経緯を・・・
鎌倉幕府を倒した後に、第96代後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に、足利尊氏(あしかがたかうじ)が反発した(11月19日参照>>)事で、天皇方の南朝と足利方の北朝に分かれた南北朝時代・・・くわしくは【室町前期・南北朝の年表】でどうぞ>>
後醍醐天皇の側近の公卿=北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)の息子である北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、建武の新政の時には陸奥守(むつのかみ)に任じられ、天皇の皇子=義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州(おうしゅ=東北地方)に下り、東北地方の掌握に尽力していました。
しかし延元二年・建武四年(1337年)8月、畿内の動乱のために東北を出陣し、鎌倉管領=足利義詮(あしかがよしあきら=尊氏の息子で後の2代将軍)の守る鎌倉を奪取した後に上洛を目指して鎌倉を進発し(1月8日参照>>)・・・その後も、追撃軍を撃退しつつ進む顕家でしたが(1月28日参照>>)、そのまま、京への玄関口である近江(滋賀県)へは向かわず、南下して伊勢路を通り奈良へと入りました。
この南下の理由には、その1月28日のページで書かせていただいたように、様々な要因があると思われますが、結果的に、これが顕家の命取りとなってしまいます。
おそらくは、長期に渡る行軍で、兵糧も尽き、軍の疲れもピークに達していた物と思われますが、そこを追撃して来た足利方の桃井兄弟と、奈良でぶつかったいくつかの戦いにことごとく敗れてしまったのです。
やむなく、弟の北畠顕信(あきのぶ)とともに残兵を召集して、八幡山(京都府八幡市)に立て籠って態勢を立て直す顕家・・・
そんな中でも両軍の激突は続きますが、ここで、室町幕府・執事の高師直(こうのもろなお)・・・
「和泉と接する河内(大阪府東部)は、もともと敵の領国やさかいに、それでなくとも警戒しとかなアカン場所や!
この地で顕家が挙兵したなら、天皇方の和田や楠木も加勢するに違いない!
未だ、戦備が整えへん間に、叩き潰してしまうんや!」
と、各地の北朝方にゲキを飛ばし、大軍にて八幡山を包囲させたのです。
そして、師直自らは、敵の大阪への侵入を防ぐがごとく、天王寺(大阪市天王寺区)に陣取ります。
大軍に囲まれた顕家軍は、連戦に次ぐ連戦に疲労困憊しながらも、決死の防戦に努めますが、もはや、数の上では多勢に無勢・・・敗色濃厚となった戦場では、どんどん兵が離散していく一方でした。
もはや挽回は不可能か??と判断した顕家は、後醍醐天皇のおわす吉野の皇居へと参上すべく、わずか20余騎(太平記の数字です)の側近とともに大軍突破を試みます。
そう、あの5月15日付けでしたためた奏状・・・(5月15日参照>>)
もとはと言えば天皇の失政による反乱軍に対し、事あるごとに頼られる自らの武勇・・・最後の最後に、どうしても後醍醐天皇に言いたかった無念の思いが、彼にはあった事でしょう。
果敢にも自ら大軍への突入し、奮戦する顕家でしたが、その勇姿空しく・・・
延元三年・建武五年(1338年)5月22日・・・
「哀れなるかな、顕家卿は、武略・智謀其の家にあらずといへども、無双の勇将にして…」(太平記より)
部門の出身では無かったにも関わらず、無双の勇将とその武勇を讃えられた顕家は、和泉との国境・阿倍野にて、21歳の若き命を散らしたのです。
紀州街道が石津川を越える場所に架かる太陽橋(堺市西区)…実際には、ここが顕家の戦死の地と伝承されています。
顕家の討ち取ったのは、武蔵の国の越生四郎左衛門尉(こしふしろうさえもんのじょう)という者で、兜・太刀などとともに首実検したところ、師直が本物と確認をしたとの事・・・
『太平記』では、このあとに
「股肱(ここう=手足)の重臣あへなく戦場の草の露と消え給ひしかば、南都の侍臣・官軍も、聞きて力をぞ失ひける」
と、南朝落胆の様子を伝えて、この章を締めくくりますが、
まさに、顕家の死は、南朝自身の、その身を削るがごとくの痛手であった事でしょう。
この後、南朝側では、2ヶ月後の7月に、あの新田義貞(にったよしさだ)が・・・(7月2日参照>>)、さらに後醍醐天皇が・・・
一方、北朝側では、逆に尊氏が征夷大将軍に・・・(8月11日参照>>)と、その明暗を分けていく形となって行きます。
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コメント
阿倍野って阿倍野区の事ですか?そういえば、記念の神社があったような無いような?実家の近くです。
投稿: minoru | 2013年6月 1日 (土) 13時44分
minoruさん、こんにちは~
はい、阿倍野区の阿倍野です。
阿倍野区には北畠という地名もあって、阿倍野神社と北畠公園の2ヶ所に顕家のお墓とされる物があります。
神社の場所も古戦場だと伝えられていますね。
投稿: 茶々 | 2013年6月 1日 (土) 14時03分
うーん、彼の関係の神社だったんですね。確かに北畠って地名ありますね、路面電車の駅がそうだったような(ちんちん電車の?)立派な若者の由来の地だったんですね、実家の方面は。知らなかった~地味すぎだからかな~いい話なのに。
投稿: minoru | 2013年6月 3日 (月) 14時43分
minoruさん、こんばんは~
南北朝のあたりは、あまりドラマになりませんから、住んでる方も、なかなか「ご当地」という実感が沸かないかも知れません。
大阪では、古戦場も埋もれた感じになってしまっていますね。
投稿: 茶々 | 2013年6月 4日 (火) 02時20分
地味ですね、地味でないのは美青年に描かれいている彼だけ!ビジュアル系で押せば北畠青年も地元もいけそうなのに。知りませんでした。がんばれ!実家の近く!SHARPだけじゃないぞ。
投稿: MINORU | 2013年6月 4日 (火) 08時10分
MINORUさん、こんにちは~
地元だと応援したくなりますね~
楠木正行さんなんかもカッコイイ気がしますが、太平記の時代は、イロイロあってドラマにし難いのかも知れません。
昨年の平安末期でも、皇室の扱いには賛否両論ありましたから…
投稿: 茶々 | 2013年6月 4日 (火) 13時31分
北畠顕家と足利尊氏の部下高師直(こうのもろなお)達との戦いはwikipediaで検索して頂くとお分りになるとは思いますが、1338年3月13~14日かけて天王寺で戦ったが敗れて3月15日に渡辺
戦いに勝利したものの3月16日阿倍野出の戦いに敗れ和泉国に転機した。3月21日に軍勢を立て直した高師直軍は北畠顕家を追撃する為に南に向かう、其れまで戦を転々としてきた北畠顕家は新田義貞と連携に失敗し北上し和泉で奮戦中を5月22日に堺浦にて両軍が激突(石津合戦)した北畠顕家軍は善戦したものの連戦での疲れが残り追い討ちをかけるように瀬戸内水軍(北朝方に味方)が援軍となってさらに劣勢に回り北畠顕家軍は潰走し顕家公は共回り200ほどと共に石津で北朝方に包囲され顕家達は最後の戦いに挑み奮戦するもついに討ち取られる事となった其のあと首実検のため尊氏の元に献上し尊氏は間違いなく北畠顕家公と確証し今の阿倍野神社に葬りました、石津は其の北畠顕家公最後の戦いがあった場所なのです。
投稿: 古川峰彦 | 2014年12月22日 (月) 18時12分
古川峰彦さん、こんばんは~
wikiは見てませんが、実際の最期の地は、本文でご紹介した写真に写ってる太陽橋の近くと聞いております。
『太平記』の記述とゴッチャになっていて分かり難い書き方でしたね。
申し訳なかったです。
投稿: 茶々 | 2014年12月23日 (火) 02時18分