後醍醐天皇に苦言…北畠顕家の奏状
延元三年・建武五年(1338年)5月15日、最期の出陣を覚悟した北畠顕家が、後醍醐天皇に向けて、親政批判を込めた奏状を呈しました。
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第96代後醍醐(ごだいご)天皇に協力して鎌倉幕府を倒した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、その後に天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して挙兵・・・(11月19日参照>>)
尊氏軍に京都を制圧された後醍醐天皇は、楠木正成(くすのきまさしげ)を湊川(みなとがわ)の戦いで失い(5月25日参照>>)、新田義貞(にったよしさだ)と二人の皇子も北国落ち(10月11日参照>>)・・・やむなく、一旦、尊氏との和睦を結んだ後醍醐天皇でしたが、ころあいを見計らって脱出し、大和(奈良県)は吉野にて南朝を開きました(12月11日参照>>)。
これが南北朝の始まり・・・くわしくは【室町前期・南北朝の年表】でどうぞ>>
この畿内の様子にたまりかねて東北から馳せ参じたのが後醍醐天皇の側近である北畠親房(きたばたけちかふさ)の息子=北畠顕家(きたばたけあきいえ)でした。
顕家は、かの建武の新政が成った元弘三年(1333年)に陸奥守(むつのかみ)に任じられ、天皇の皇子=義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州(おうしゅ=東北地方)に下り、その義良親王を将軍に、自身をを執権に据えた後醍醐政権配下の奥州幕府とも言うべき物を構築する役目を帯びていたわけですが、さすがに、本家本元の都が奪われていては本末転倒ですから・・・
ここに来て、北国に落ちた義貞の奮戦(3月6日参照>>)を聞きつけた顕家は、延元二年・建武四年(1337年)8月、10万の大軍を率いて、鎌倉管領=足利義詮(あしかがよしあきら=尊氏の息子で後の2代将軍)の守る鎌倉を奪取・・・さらに、翌・延元三年・建武五年(1338年)1月8日、上洛を目指して鎌倉を進発します(1月8日参照>>)。
とは言え、負けた義詮とて、さすがは未来の2代将軍・・・北畠軍の進発とともに、すぐさま攻撃を仕掛けて鎌倉を奪回し、後方からの追撃を開始します。
追う義詮と迎え撃つ顕家・・・1月28日には両者が美濃青野原(あおのがはら=岐阜県大垣市)にてぶつかり、顕家は見事、追撃をかわしました(1月28日参照>>)。
一方、ここのところ北陸の新田軍を相手にしていた尊氏も、この敗戦の報を受けて「顕家は、このまま上洛するもの」と睨み、美濃から京への玄関口である近江(滋賀県)に精鋭を派遣して守りに当たらせますが、なんと、ここで、顕家は京都へは向かわず南下・・・伊勢路を通って奈良へと入るのです。
が、しかし、ここ奈良では、もはや長期の行軍に疲れ果てていた北畠軍・・・態勢を整えなおして追撃して来た足利方の桃井兄弟の軍に敗れてしまいます。
やむなく、顕家は、残った将兵を集め直して、京都の南にある八幡山(京都府八幡市)に立て籠りますが、後世、「この時の北畠軍の奈良方面への迂回が最大の失策」と言われる事でもお察しの通り、もはや劣勢の雰囲気は拭えない状況となってしまっていたのです。
かくして、「このまま、河内(大阪府東南部)へ入れてはならぬ!」とばかりに、尊氏は、その八幡に、執事の高師直(こうのもろなお)率いる大軍を派遣するわけですが、その後のお話は、またいずれかの日づけでご紹介させていただくとして、
本日ご紹介するのは、このような状況下であった延元三年・建武五年(1338年)5月15日の日づけで、後醍醐天皇に向けて顕家がしたためたとされる奏状・・・
- 速やかに人を選んで九州・東北・山陽・北陸に派遣し反乱に備える事
- 租税を3年間免除するとともに、土木工事など、贅沢に金銭を使う事を止めて倹約する事
- 官僚の登用は慎重にすべき
- 恩賞は公平にすべき
- 臨時の行幸(天皇の移動)や宴会は、即座に止めてください
- 決めた法令は厳しく実行してください…何か事があるたんびに改正してたら混乱するばっかりです
- 現在、中心にいてる貴族や僧侶や女官は、ちゃんと政務をせんと私利私欲に走ってるヤツばっかし…ちゃんと政治ができる人以外は排除すべき
・・・と、七カ条にわたるこの文・・・完全に後醍醐天皇への政治批判です。
以前、顕家のお父さん親房さんのページ(5月10日参照>>)で書かせていただいたように、この顕家の北畠家は武士ではなく、村上源氏の流れを汲む8代め=雅家(まさいえ)を祖とする立派な公卿・・・
まさに、天皇の側近中の側近なわけで、そんな彼が、大いなる上司=天皇に、これだけの苦言を呈するなんて・・・どれだけの覚悟が必要だった事でしょう。
おそらく、顕家は、今度の戦いを最期の戦いと決意していたものと思われます。
この7ヶ条を示した後には、
「もし、この提言が認められず、太平の世に戻らへんのでしたら、僕は辞職して山林に身を隠します」
と記しています。
さらに、その末尾を
『伏して願わくば、いにしえの聖人の戒(いまし)めに照らし、下愚(かぐ=顕家自身の事)の懇情(こんじょう)を察したまえ』
という言葉で締めくくります。
あまりにも正当な、その内容に、未だ21歳の青年貴族のくやしい思いが伝わって来るようで、何とも悲しい思いがします。
・・・が、戦いは時を待ってはくれません。
顕家が決意した最期の戦い・・・もうすぐ、その時がやって来るのですが、そのお話は、やはり「その日」=5月22日のページでどうぞ>>m(_ _)m
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コメント
茶々様、こんばんは。
うわー、引っ張りますね。
私は戦国時代が得意なので、南北朝時代はよく分からないのですよ。
続きが楽しみです。
ども、それまでに他で調べちゃいますけどね(笑)。
でも、茶々様の語り口でどう語られるのかが楽しみです。
投稿: エアバスA381 | 2013年5月16日 (木) 20時39分
エアバスA381さん、こんばんは~
一応「今日は何の日」なので、その日づけでご紹介させていただきますね。
投稿: 茶々 | 2013年5月17日 (金) 01時03分
立派な若者ですね、見習わないと。
投稿: MINORU | 2013年6月 1日 (土) 13時55分
MINORUさん、こんにちは~
まだ21歳ですからね~
スゴイです!
投稿: 茶々 | 2013年6月 1日 (土) 14時08分