織田信長VS斉藤龍興…美濃十四条の戦い
永禄四年(1561年)5月23日、墨俣にいた織田信長が、十四条村に押し寄せた斉藤龍興と戦った「美濃十四条の戦い」がありました。
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弘治三年(1557年)に弟=信行(のぶゆき)を排除して織田家をまとめ(11月2日参照>>)、永禄三年(1560年)には、あの今川義元(よしもと)を桶狭間に破った(5月19日参照>>)織田信長でしたが、一方では未だ、尾張(愛知県西部)統一も成されておらず、隣国の美濃(岐阜県)との関係も微妙・・・
というのも、美濃とは、父=信秀の代から攻防を繰り返していた(9月23日参照>>)のを、信長が斎藤道三(どうさん)の娘=濃姫(2月24日参照>>)と結婚する事で同盟を結んで終止符を打っていたのですが、その道三が息子の義龍(よしたつ)に討たれてしまう(4月20日参照>>)・・・つまり、政権交代してしまったわけで・・・
その時、一説には、道三は、娘婿である「信長に美濃を譲る」の遺言状をしたためた(4月19日参照>>)と言われ、結局は間に合わなかったものの、実際に、信長は、道三を援護すべく出陣していたわけですから、当然、その後に誕生した義龍の新政権とは敵対する事になる・・・
とは言え、この義龍さん・・・以前、書かせていただいたように(10月22日参照>>)、なかなかの名将であったようで、信長とて簡単に美濃へは手を出せない・・・
ところが、その義龍が、永禄四年(1561年)5月11日、35歳の若さで急死します。
後を継いだのは、未だ14歳の息子=龍興(たつおき)・・・
早い!!!早いゾ!信長~
わずか2日後の永禄四年(1561年)5月13日に、信長は木曽川と飛騨川を渡って西美濃へと侵入・・・勝村(岐阜県海津市平田町)という場所に陣を構えます。
この動きに対して、早速反応した美濃勢は、翌14日、豪雨の中、墨俣(すのまた=岐阜県大垣市墨俣町)から森辺(森部=岐阜県安八郡安八町)まで進出・・・そこを、信長勢が一気に突き、この戦いを勝利に納めます。(5月14日参照>>)
ちなみに、森部(森辺)の戦いと呼ばれるこの戦いの時、、「首取り足立」の異名を持つ斉藤家の猛将=足立六兵衛を討ち取った事で、事件を起こして追放されていた前田利家(12月25日参照>>)が織田家家臣に復帰しています。
・・・で、この戦いに勝利して墨俣を奪った信長が、早速、そこに要害を築いて、長期に渡る滞陣の雰囲気を醸し出したところ、当然、それを黙って見過ごすはずの無い美濃勢・・・
永禄四年(1561年)5月23日・・・態勢を立て直した美濃勢は、墨俣の北方に位置する十四条(岐阜県本巣市)に軍勢を揃えて、戦闘準備に入ります。
もちろん、これを見過ごせぬ信長は、すぐさま墨俣を出て迎え撃ちますが、形勢は劣勢・・・名だたる武将が何人か討ち取られたところで、やむなく、信長は兵を退きますが、そこを追い撃ちをかけるように、美濃勢が南下・・・
何とか軍の態勢を保ちながら戦闘を続ける信長・・・
この勢いで一気にかたずけたい斉藤勢・・・
やがて、戦いは夜へと突入しますが、ここで転機が・・・真木村牛介なる武将を先頭に攻め寄せて来た美濃勢を、織田方が撃退する事に成功したのです。
これで形勢逆転となった織田勢は勢いづき、暗闇の混戦の中、家老の稲葉又右衛門(いなばまたえもん=稲葉一鉄の叔父とも)を撃ち取り、やがて、形勢不利と判断した美濃勢は、夜のうちに撤退していったのでした。
こうして、龍興との序盤戦=美濃十四条の戦いを勝利で終えた信長・・・
翌年には、ようやく尾張一国を統一(11月1日参照>>)し、さらに4年後の堂洞合戦(8月28日参照>>)を経て、ようやく美濃を完全攻略するのは、その2年後の事(8月15日参照>>)ですが、おそらく、義龍の死をキッカケに美濃攻めのエンジン全開になった事は確かなのではないでしょうか?
ところで、『信長公記』では、かの稲葉又右衛門を討ち取ったくだりで・・・
「池田勝三郎・佐々内蔵佐、両人として、あひ討ちに討ちとるなり」
と、池田恒興(つねおき)と佐々成政(さっさなりまさ)の二人が同時に討ち取ったという事だけが書かれていますが、
『続武者物語』や『校合雑記』によれば・・・
この時、信長の前で行われた首実検の際、
恒興は「成政殿ひとりで討ち取った」と証言し、
成政は「恒興殿ひとりで討ち取った」と申告し、
両者ともに互いに手柄を譲り合ったらしいのですが、
そのやり取りがひたすら長く、さらに、言い回しが見事なもので、だんだんイヤミに見えて来る・・・
・・・で、その光景を見ていた信長が、だんだん機嫌が悪くなり、イライラし始める・・・それでも両者は譲らない・・・
次第に空気が凍りつき、周囲の無関係の武将らは
「信長さんの、堪忍袋が満杯やんけ!」
「お前ら、何とか、はよ収めろよ」
と、心の中はハラハラドキドキ・・・
と、そこに登場したのが、鴻蔵主(こうぞうす)というお坊さん・・・彼は、トンチの効いた会話をするのが得意で、様々な名言を言う事で有名な僧でした。
ふと見て、信長さんのイライラがピークに達している事を察した鴻蔵主・・・
「信長さん・・・この首は、お二人のどちらが取ったものでも無いので、どちらの言い分も正しいと思いますわ」
とひと言・・・
「なんやと??」
と、信長は不審な顔して
「この二人が取ったもんやないねやったら、いったい誰が取ったっちゅーねん」
「きっと、瓜のように、自然に落ちたんとちゃいますか」
少しの間をおいて、こらえきれずにクスクスと笑いだす小姓衆・・・それにつられて皆がドッと笑い、その場の雰囲気も和んで、信長さんのご機嫌も、すっかりなおったのだとか・・・
まぁ、現代の感覚でいけば、「敵将の首の話で・・・??」ってとこもありますが、世は取ったり取られたりの戦国ですし、少なくとも、爆発寸前の雰囲気を和ませたという事で・・・
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コメント
わぁーい鴻蔵主さんに座布団3枚!(爆笑)いや5枚!!
信長の側近っておもしろい!
組織にこういう人って必要ですよねぇ。
投稿: なな | 2013年5月25日 (土) 13時14分
ななさん、こんにちは~
戦国大名は、死と背中合わせ…毎日、緊張の連続なので、こういう人をそばに置いていたのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年5月25日 (土) 18時22分
緊迫した場面でこういうことが言える強靭さとユーモアに脱帽です。
究極に空気を読める人というか。
すごいです。
投稿: momo | 2013年5月26日 (日) 01時11分
momoさん、こんばんは~
>緊迫した場面で…
ホントですね。。。
即座に返せるところがスゴイです。
投稿: 茶々 | 2013年5月26日 (日) 02時39分
こういう人いるんですね。
しかし、手柄の譲り合いって言うのがめちゃ謙虚ですね。
このお坊さん、一休さんみたい。
投稿: エアバスA381 | 2013年5月27日 (月) 17時03分
すいません、あいさつ忘れました。
茶々様、こんにちは。
投稿: エアバスA381 | 2013年5月27日 (月) 17時05分
茶々様、こんばんは。
まずい展開です。
とりあえず、信長の周囲にこういう人がいたんですね。
あの信長だと、こういう人が周りにいないと家臣やってられないですから。
信長は大天才ですけど、ものすごい短気者ですので。
むちゃくちゃ、尊敬してますけど、家臣にはなりたくない人ですから。
信長周辺は歴史の宝庫ですね。
投稿: エアバスA381 | 2013年5月27日 (月) 21時24分
エアバスA381さん、こんばんは~
そうですか?
私は、個人的には、信長さんに、そんなに怖いイメージは抱いていません。
あのパワハラ的な逸話は、ほとんど後世の創作ですし、神も恐れぬ鬼のようなイメージも、本願寺や比叡山やイエズス会を敵に回した故の造られたもののような気がしてます。
投稿: 茶々 | 2013年5月28日 (火) 02時30分
茶々様、おはようございます。
実は、私、信長と性格がそっくりなんですよ。
信長がすごく慈悲深いエピソードも知ってます。
私が日本史上、最大の人物と思っているのが、信長です。
もちろん、悪くなんて思ってませんよ。
元々、信長公とお呼びするべき方ですね。
投稿: エアバスA381 | 2013年5月28日 (火) 06時54分
エアバスA381さん、こんばんは~
私は、ちょっとオチャメな感じの人を想像しています。
投稿: 茶々 | 2013年5月29日 (水) 03時07分