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2013年5月27日 (月)

大内政弘の留守を守った若き重臣・陶弘護

 

文明十四年(1482年)5月27日、大内家の第14代当主・大内政弘の開いた酒宴の席で、重臣の陶弘護が斬殺されました。

・・・・・・・・・・

室町時代に、周防(すおう)長門(ながと)を中心に、現在の山口県に勢力を誇った大内氏・・・後に、この山口県が『西の京』と呼ばれるほどに、京都に勝るとも劣らない雅な文化を築きあげる、その文化の基礎を築いたのが、周防の守護大名・大内氏の第14代当主=大内政弘(おおうちまさひろ)でした。

一方、その重臣である陶弘護(すえひろもり)陶氏は、もともとは同じ祖を持つ・・・つまり、大内氏の分家にあたる家柄で、南北朝時代の頃から、大内家内で重きを置くようになり、弘護の父=弘房(ひろふさ)も、政弘の重臣として活躍していたのです。

しかし、そんなこんなの応仁元年(1467年)・・・あの応仁の乱が勃発します(5月20日参照>>)

ご存じのように、この応仁の乱は、将軍家の家督争い(11月13日参照>>)に管領家の家督争い(1月17日参照>>)が加わり、そこに、それぞれを支持する地方の大名を巻き込んで、国内を真っ二つに分けた大乱・・・。

この戦いに大内政弘は、山名宗全(持豊・西軍)(3月18日参照>>)率いる西軍の一人として・・・いや、西国の雄と呼ばれるにふさわしく、むしろ、中心人物の一人として参戦していたのです(10月2日参照>>)

ところが、この応仁の乱で最も激しい戦いとなった相国寺の戦い(10月3日参照>>)・・・応仁元年(1467年)10月3日のこの戦いで、弘護の父=弘房が戦死してしまいます

Suehiromori600 この時、弘護・・・わずか13歳。

父の死を受けて家督を継ぐも、未だ、元服すら済ませていなかった彼は、翌年、主君=政弘の「弘」の一字を受けて陶弘護の名で元服・・・

さらに、その翌年には、正式に周防守護代に任じられました。

しかし、実は、この応仁の乱における大内氏・・・その家内も一枚岩ではありませんでした。

かねてより、大内氏の家督を狙っていた政弘の叔父=大内教幸(のりゆき=道頓)は、その政弘に敵対するがのごとく、細川勝元(かつもと)率いる東軍として応仁の乱に参戦していたのです。

やがて、教幸は、大内軍団の将兵を抱き込んで「打倒!政弘」ののろしを挙げます。

なんせ、かの大乱のために、政弘は、ほとんと京都に行きっぱなしですから・・・そこを、チャンスとばかりに狙っての挙兵です。

もちろん、この時には弘護のもとにも、教幸からのお誘いがあったわけですが、留守を預かる弘護は、ピシャリとその誘いをはねのけ、逆に、教幸の討伐を開始するのです。

とは言え、上記の通り、多くの将兵が教幸についてる現状では多勢に無勢・・・弘護はたびたびのピンチを味わう事になるのですが、その度になんとか切り抜けて、やがて形勢逆転・・・

文明三年(1471年)の暮れには教幸を追い詰め、最後には、その逃亡先である豊前馬ヶ岳城(うまがだけじょう=福岡県行橋市)にて自害に追い込んだのです。

弘護、わずか17歳の大仕事・・・

やがて、最後まで京都に残っていた(11月11日参照>>)主君=政弘が帰国した時には、この才気あふれる少年の武功を絶賛した事は言うまでもありません。

当然の事ながら政弘政権下での弘護の地位は確固たる物となり、その後も、軍事面で、政治面で政弘を支えていく事になるわけですが・・・

お察しの通り・・・あまりに若い出世は、いつの世も、周囲の反感をかう物でありまして・・・

まして、先の大内道頓の乱で、教幸に加担した者などは、その領地も大幅に削られて弘護やその配下に与えられたばかりか、その家の存続すら危ぶまれる状態となっていたわけで・・・

そんな中の一人が吉見信頼(よしみのぶより)・・・彼は、疑心暗鬼のすえ、いつしか弘護が吉見家を潰そうとしていると思い込むようになり・・・

とうとう・・・
文明十四年(1482年)5月27日、政弘が家臣の慰労のために山口館で開いた酒宴の最中、ついに信頼は弘護を斬殺してしまったのです。

弘護・享年・・・28歳。

宴の席で犯行に及んだ信頼は、同席していた大内氏の家老=内藤弘矩(ないとうひろのり)によって、その場で成敗されます。

そう・・・実は、犯人の信頼も、その犯行直後に死んでしまいますので、先に書いた「弘護が吉見家を潰そうとしていると思い込んでした」などという犯行動機などは、あくまで憶測・・・実際には、その理由については諸説あってはっきりとはしないのですが、この日に先がけて、信頼は、その家督を弟の頼興(よりおき)に譲っていたという事もあり、理由はともあれ、犯行そのものは、おそらく計画的であったと考えられています。

そして、この二人の因縁は、それぞれの孫&甥っ子の代に受け継がれ、再びの戦いに巻き込まれていく事になります。

そう、事実上、陶氏が、主君の大内氏に取って代わる事になる大寧寺(だいねいじ)(8月27日参照>>)を勃発させる陶隆房(すえたかふさ=晴賢)弘護の孫・・・

そこに、いち早く反旗を翻して、あの毛利元就(もうりもとなり)の参戦を誘った吉見正頼(よしみまさより)(4月8日参照>>)は、信頼の後を継いだ弟の頼興の息子です。

この戦いが、あの戦国屈指の奇襲戦=厳島の戦い(10月1日参照>>)・・・ご存じのように、その勝利によって、元就は陶氏どころか、大内氏にとって代わる西国の雄となる(4月3日参照>>)わけですから・・・

歴史は・・・つながるつながる~~~
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コメント

一言!複雑ですねぇ^^;

我が郷土のお話、歴史なのですが正直難しいですね。
真剣わかろうとしないのは
もしかして
私自身が毛利ゆかりの者だから!?^^

投稿: tonton | 2013年5月27日 (月) 19時44分

茶々様、こんばんは。

ここまで調べた茶々様に脱帽です。
歴史は当然、事象の連続ですからね。
つながるものなんですね。
深い!

投稿: エアバスA381 | 2013年5月27日 (月) 21時15分

tontonさん、こんばんは~

毛利から見れば、陶隆房は敵ですからね~

投稿: 茶々 | 2013年5月28日 (火) 02時31分

エアバスA381さん、こんばんは~

戦国時代は様々な出来事が複雑に絡み合ったりしますから…ま、そこがオモシロイんですが、、

投稿: 茶々 | 2013年5月28日 (火) 02時33分

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