「地黄八幡」の闘将…北条綱成
天正十五年(1587年)5月6日、婿となって北条氏を支えた闘将・北条綱成が、この世を去りました。
・・・・・・・・・
今川家の家臣だった福島正成(くしままさしげ・まさなり)の息子とされる北条綱成(ほうじょうつなしげ・つななり)・・・
とは言え、このお父さんの正成という人の存在がはっきりせず、父親は別人説もあり・・・しかも、その父が討死したとされる戦いも、大永元年(1521年)10月の飯田河原の戦い(11月3日参照>>)とも、天文五年(1536年)6月の今川家の内紛=花倉の乱(6月10日参照>>)とも言われており、結局は、北条氏に仕えるまでの綱成の事はよくわからないのですが・・・
とにもかくにも、いずれかの戦いで父を亡くした綱成は、それをキッカケに北条氏を頼る事になるのですが、この時の北条氏の当主が、あの北条早雲(そううん=伊勢盛時)を父に持つ2代め=北条氏綱(うじつな)・・・
おそらくは、名将の素質的な物をプンプンと匂わせていたのでしょうかねぇ~
あるいは、この時には、もう20歳を過ぎていた綱成ですから、記録には無いものの、それなりの功績を残していたのかも知れませんね。
なんせ、敗軍の将を父に持つ新参者の綱成を、氏綱は快く迎え入れたばかりか、自らの娘(大頂院殿)を嫁がせて北条姓を名乗らせ、北条一門の一人としたのですから・・・
そう、綱成の「綱」は、氏綱の一字を与えた物・・・(「成」が父の文字だとしたら、やっぱり父親は正成なのかしら?)
『小田原旧記』によれば、当時の北条家では、その軍団を『五色備(ごしきぞなえ)』と呼ばれる5種類の色で識別する5つの部隊に分けていたのですが、綱成は、その中の黄色の部隊=『黄備(きぞなえ)』を担当する大役も仰せつかっています。
ものすンごい期待!!
もちろん、その期待に応えるがのごとく、綱成は大いに活躍するわけで・・・
そんな彼は、黄色の絹に「八幡第菩薩」と大きく書かれた『地黄八幡(じおうはちまん)』と呼ばれる旗印をなびかせて颯爽と戦場を駆け抜け、自らが先頭となって戦うタイプだったとか・・・カッコイイなぁ(*゚ー゚*)
それでいて勇み足となる事なく、見事な合戦作法を身につけていたというのですから、スゴイ!!
天文七年(1538年)10月と永禄七年(1564年)1月の2度に渡って繰り広げられた関東の派遣を巡る国府台(こうのだい)の戦い(第一次:10月7日参照>>)(第二次:1月8日参照>>)をはじめ、多くの合戦で、その才能を発揮・・・
天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(かわごえよいくさ)では、娘婿として守りを任された武蔵河越城(埼玉県川越市)を、山内上杉憲政(のりまさ)や扇谷上杉朝定(ともさだ)らの攻撃から守り続けたうえ、氏綱の救援部隊が到着した途端に、見事な連携プレーで完膚無きまでに打ちのめしました(4月20日参照>>)。
そう、この河越夜戦は、包囲されている側が、城外に到着した援軍と合わせて、何倍もの大軍を討ち果たした事から、毛利元就(もとなり)の厳島(10月1日参照>>)、織田信長の桶狭間(5月19日参照>>)と並べて、戦国の三大奇襲なんて呼ばれたりもします。
さらに、元亀二年(1571年)3月に起こった深沢城(静岡県御殿場市)攻防戦でも、あの武田信玄を相手に、堂々の抵抗を見せています(3月27日参照>>)。
この元亀二年の10月には、北条3代め当主=北条氏康(うじやす)が病死した(10月3日参照>>)ため、綱成は出家して、その家督を嫡子の氏繁(うじしげ)に譲りますが、北条家からの信頼度は、その後も、親子ともども変わりなく・・・常に、北条家の最前線で、その守りを固める役どころをこなしていきます。
とは言え、冒頭に書かせていただいたように、綱成は、天正十五年(1587年)5月6日に73歳の生涯を終えますし、ご存じの通り、主君の北条家も、天正十八年(1590年)に、あの豊臣秀吉に難攻不落の小田原城を攻められ、100年5代に渡って続いた栄華を終える(7月5日参照>>)事になるのですが・・・
いや、しかし・・・
闘将=綱成さんのDNAは、しっかりと受け継がれていました!
江戸時代に入って、小幡景憲(おばたかげのり)(2月25日参照>>)から甲州流軍学を学び、それを、さらに改良した北条流軍学を興した後、江戸の都市計画にも参加するほどの軍学者となる北条氏長(うじなが)・・・
そう、彼は、氏繁の孫・・・つまり、綱成の曾孫にあたる人なのです。
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コメント
綱成で五色備えを初めて知ったとき、5色なのにリーダー(?)が赤じゃない!…などと思いました。
ゲームでは綱成以外の4色が知名度の為かパッとしない…というより出てこないのが寂しい限りです。
史実でも他4色はあまり活躍してないのでしょうか?
投稿: | 2013年5月 7日 (火) 10時10分
こんにちは~
>リーダー(?)が赤じゃない!
途中から加わる6人目は銀色か金色ですなww
「五色備」については史料が少なく、「小田原旧記の創作では?」との見方もあるようなので、結局は、よくわからないので、あまり語られないって事なのでは無いでしょうか?
ただ、当時の北条氏が装備を同色で統一した色別の軍団仕分けをしていた事は他の文献にも見られ、綱成の「黄色の八幡大菩薩」の記述も登場するので、「この綱成の黄色は確かだろう」って事で、ゲームでは綱成さんだけ…て事なのかも知れませんね
投稿: 茶々 | 2013年5月 7日 (火) 12時12分
茶々様、こんばんは。
やっぱり、まるで戦隊ものです(笑)。
と言うか、赤備えは、井伊家とか、真田信繁とかが有名ですけど、、今回の例のような五色備えは他にもあったのでしょうか?
だいたい戦隊もので、赤がリーダーと言うのが定着したのが、謎ですけど(笑)。
投稿: エアバスA381 | 2013年5月 7日 (火) 23時07分
エアバスA381さん、こんばんは~
「五色備え」は、私も、他には知りませんね~
言葉として残っていなくても、色で識別していた可能性は大いにあると思いますが…
>戦隊もので、赤がリーダーと言うのが定着したのが、謎
それを、特撮好きの茶々に聞きはりますか~長くなりまっせ(笑)
戦隊モノは、色から感じる印象で、ある程度のキャラクターが決まっているのだと思いますヨ
レッドは行動的で頼れる人気者(なのでリーダー)
ブルーはクールで落ち着いた知性派、
ピンクはおんなおんなした女の子、
イエローはちょっとトボケたキャラの男の子か、サッパリした男勝りな女の子、
グリーンはチョットおとなしい平和主義者、
グリーンの代わりにブラックが入る場合はマッチョ系の力自慢タイプ
時には例外もありますが、それがまたオモシロイ(*^-^)
投稿: 茶々 | 2013年5月 8日 (水) 02時06分
北条綱成に対する印象ですが、武勇に優れた律儀者だったのだと思います。しかも、主君にして義兄である、北条氏康だけでなく、武田信玄や今川義元よりも、長生きしたのがすごいですね。おそらく、綱成は、食事や健康管理に対する考え方にも優れていた可能性が高いような気がします。というのは、綱成の義理の叔父にあたる、北条幻庵という方が、天正十七年(1589年)に、97歳という驚異的な長寿を保った上で、生涯を終えたからです。もしも、綱成が、幻庵のように長生きを意識していたとすれば、綱成の嫡男である、北条氏繁という武将が、天正六年(1578年)に、病死してしまったことが関係しているかもしれません。
投稿: トト | 2016年1月12日 (火) 20時18分
トトさん、こんばんは~
戦国時代は、なんだかんだで長生きした人が多くいるような気がしますね。
平均寿命が低さは、生まれても成人する人が少なかったためで、大人になるまで元気だった人は、けっこう老いても元気だったのかも…ですね。
投稿: 茶々 | 2016年1月13日 (水) 01時35分
北条綱成のことで新たに追記したいことがありますが、もし綱成が、あと5年ほど長生きしていれば、天正18年(1590年)に勃発した、関東征伐において、後北条家が生き残れるための、何らかの策を提案をしたのではないかと思ってます。ただし、政治的な駆け引きではなく、戦略の面でですけどね。あと、以前に、綱成に関するコメントで、綱成の嫡男である北条氏繁という武将が、綱成よりも先に死去してしまったことについて、お話しましたが、氏繁が綱成よりも長生きしていれば、後北条家の運命が違っていたかもしれませんね。
投稿: トト | 2016年4月11日 (月) 05時45分
トトさん、こんばんは~
そうですね~
北条が生き残れるかどうかは、駆け引きや戦略というよりも、秀吉の下につく気があったかどうかにかかってるような気がしないでもないです。
小田原攻めに遅れて参陣した伊達政宗が、眼下に小田原城を望む高台に敷かれた秀吉の陣に向かう途中に見えた何十万もの兵が城を囲んでいる光景が餌に群がるアリのように思え、「もう10年早く生まれていたら…」と秀吉との力の差を痛感した…なんて事が言われてますから…
北条とて、なかなかに難しいかも知れません。
投稿: 茶々 | 2016年4月12日 (火) 01時02分