大坂夏の陣~真田幸村の平野・地雷火伝説
元和元年(慶長20年・1615年)5月1日、大坂方の後藤基次が道明寺付近での合戦を視野に入れて平野郷へと出陣し、真田幸村、毛利勝永らが天王寺方面に陣を整えました。
・・・・・・・・・・・・
いよいよ、大坂夏の陣・・・
つい先日の樫井の戦い(4月29日参照>>)でも書かせていただきましたが・・・
関ヶ原の合戦に勝利して征夷大将軍になった徳川家康(2月12日参照>>)が、自らの天下取りの最後の障害となった豊臣秀吉の遺児・豊臣秀頼を、京都・方広寺の鐘銘にイチャモンつけて(7月21日参照>>)大坂城を攻めた大坂冬の陣は、城の南東に構築した真田丸の攻防(12月4日参照>>)などありつつも、一応の和睦となり(12月19日参照>>)ますが、かりそめの講和はすぐに解消となり、翌・元和元年(慶長20年・1615年)、大坂夏の陣へ・・・
この夏の陣の戦端を開くのが、現在の泉佐野市で展開された、先の樫井の戦いですね。
*くわしい経緯は【真田幸村と大坂の陣の年表】で>>
で、その樫井の戦いの後、結果的に、5日後の5月6日に決戦する事になる道明寺・誉田の戦い(2016年4月30日参照>>)に向けて、元和元年(慶長20年・1615年)5月1日、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)が平野郷に入った・・・という事です。
遠方の方には、その位置関係がわかり難いかも知れませんが、樫井(かしい)が現在の大阪府泉佐野市で、道明寺・誉田(こんだ)というのは同・藤井寺市、平野郷というのは、現在の大阪市平野区・・・
以前にお話しましたが、難攻不落とうたわれる大坂城を、もし攻め落とすとすれば、おそらく南からの攻撃・・・このために、先の冬の陣では、かの真田幸村(信繁)が、あの真田丸を構築した(12月17日参照>>)わけですが、この夏の陣の直前に京都の二条城に入った徳川家康が、やはり南から攻めるとすれば、おそらく大和(奈良県)を経由して大坂に入って来るわけで・・・
その道筋にあるのが道明寺・誉田、さらにその先の、攻撃準備に入る拠点となるのが徳川に味方する地元民がいる平野郷(11月5日参照>>)だったわけです。
・・・で、長い前置きになりましたが(←前置きやったんかい!)
本日は、そんな平野郷に残る伝説・・・真田幸村の地雷火のお話・・・
実は、コレ、日づけがはっきりわからないもので(*´v゚*)ゞ
書面の形では、『大阪府全志』や『平野郷町誌』などといった比較的新しい文献にしか登場しませんが、つまりは平野郷に伝わる伝説として語られているお話です。
・‥…━━━☆
この時、「おそらく家康は、大和路から大坂に入り、一旦、この平野郷に陣を置くはずだ」とにらんだ幸村は、本町一丁目一番地にあった地蔵堂の下に地雷火を埋めて、ほぼ抵抗せず、大坂城へと撤退します。
この地雷火というのは、ここに家康がやって来て火を焚けば爆発するという仕掛けのもの・・・
案の定、まもなく家康は平野に入り、戦闘準備とばかりに火を放ち、平野の町を焼き払うのですが、数時間経って、かの地蔵堂にも火が回って来ます。
しかし、まさに、その火がついて爆発しようとした瞬間・・・家康は、にわかに「小」をもよおし、その場を離れて用を足しに・・・
おかげで、家康は命拾いしますが、そこを間髪入れず、幸村の用意した伏兵が攻めかかります。
これまた、命からがら、わずかの側近とともに逃走した家康は竹淵堤(たこちつつみ)という場所まで逃げて来ますが、そこに、「この付近に潜伏しているはず」とにらんだ幸村が登場・・・
「もはや、これまで…」
と、覚悟を決めた家康でしたが、ふと見ると、そばにうっそうとした薮が・・・後に「塩川の薮」と呼ばれるその薮に身を潜めて、何とか幸村をやり過ごし、その後、百姓姿に身を変えて、肥船に乗って平野川から逃走したのだとか・・・
・‥…━━━☆
『平野郷町誌』では、家康は無事逃走した事になってますが、
『大阪府全志』では、この後、家康は後藤基次に見つかって槍で突かれて死亡(7月10日参照>>)・・・その命日を4月27日としていますが、ご存じのように、おそらく4月27日には、家康はまだ二条城を出発していない・・・
『堺市史』では、この出来事での家康の命日を5月7日としていますが、こちらはこちらで、家康は平野にいたかも知れませんが、後藤基次が、その前日の道明寺の戦いで討死してますので、家康を槍で突く事ができません。
てな事で、あくまで、今回の地雷のお話自体も、伝説の域を越えないお話ではありますが、その現場となった地蔵堂は、現在も平野の塩尻口に残り(上の写真です)、その爆発の勢いで飛んでしまったお地蔵様の首が境内に落ちて来たとされる全興寺には、その首だけのお地蔵様が、「首地蔵」として祀られています。
果たして・・・と、またまた、茶々の妄想は膨らむばかりです。
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コメント
茶々様、こんばんは・・・
現代の地雷や仕掛け爆弾と違い、スイッチ一つ、センサーで反応して爆発!! という訳にはいかない訳ですから、当時の火薬技術で確実に家康を爆殺したいなら爆弾を抱いた自爆攻撃になると思うのですが・・・
自分なりの仮定ですが、自爆要員が家康と自爆しようとしたのの、感づかれて失敗、第二陣(自爆攻撃の成否確認と、自爆攻撃失敗時の追撃要員)もかわして藪に隠れてたら成果を確認しに来た幸村とバッタリ遭遇(幸村は気づかなかった)、という感じではないでしょうか・・・
投稿: キスケ | 2013年5月 2日 (木) 21時53分
キスケさん、こんばんは~
実際にあったか?なかったか?は微妙ですが、このお話の場合は「地蔵堂の下に埋めた地雷が…」というところがミソなので、「爆弾を抱いた自爆攻撃」となると、また別のお話になってしまう気がします。
まぁ、実際に地雷というのは、かなり難しいと思いますが…
投稿: 茶々 | 2013年5月 2日 (木) 23時36分
茶々様、こんばんは。
GWいかがお過ごしですか?
「ブログ開設7周年記念」の時に、お祝いコメントさせていただきました あいこ です。
どうぞ茶々様のペースで、ブログを続けくださいませね!
今回も面白い内容をありがとうございます。
私、今ちょうど「真田太平記」を読んでまして、幸村ネタなので反応してしまいました(笑)
あの時代に地雷があったことにビックリ!
発火させるのにも命懸けだったでしょうね…。
「平野の地雷火」確か、講談にありますよ。
「難波戦記」だったかと思います。
投稿: あいこ | 2013年5月 4日 (土) 22時19分
あいこさん、こんにちちは~
ノロウイルスでダウンしておりまして…お返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。
>「平野の地雷火」確か、講談に…
そうです!そうです!
講談にあるお話ですね~
なので、話半分…いや、それ以下で聞いといた方が良いかも知れませんが、ワクワクするお話ではあります。
投稿: 茶々 | 2013年5月 5日 (日) 16時13分
茶々様、こんばんは。
いろんな話があるものですね。
おそらく、この話は伝説だと思いますが、やっぱり火の無いところには煙は立たないので、似た事件があったんでしょうね。
歴史は奥が深いですね。
投稿: ジラルデリ | 2013年5月 5日 (日) 18時56分
ジラルデリさん、こんばんは~
そうですね~
どんな話がどう変化してこうなったのかを考えるのがオモシロイですね。
投稿: 茶々 | 2013年5月 5日 (日) 23時29分
小便で爆弾の火を消し、家康は九死一生を得た。ある意味「日本版小便小僧」ですね。本家ブリュッセルの小便小僧は中世ベルギーで政府に反対するテロリストが仕掛けた爆弾の火を小便で消した少年の偉業(それをきっかけにテロリストは鎮圧された)から生まれたものだかららしいです。日本もこのエピソード無くして江戸の泰平の世はななかったでしょう。
投稿: | 2013年6月15日 (土) 23時30分
先ほど投稿した者ですが、家康が爆弾のある所で小便したのか、爆弾から離れて小便したのかがわからないのに解釈を間違えてすみませんでした。それと幸村は1つの作戦の失敗時でもすぐ実行出来る別の作戦を用意することがここでも本領発揮となりましたね。
投稿: | 2013年6月15日 (土) 23時46分
こんばんは~
コメントありがとうございます。
>それと幸村は…
そうですね。
このお話は、まさに幸村のカッコ良さを語り継いだ大阪の庶民の逸話でしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年6月16日 (日) 03時22分