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2013年5月 7日 (火)

備中高松城~水攻めと吉川元長

 

天正十年(1582年)5月7日、織田信長の命を受けて備中高松城を攻撃していた羽柴秀吉が、水攻めを開始しました。

・・・・・・・・・・

天正元年(1573年)7月に将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を追放(7月18日参照>>)、続く8月には浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)、天正四年(1576年)には安土城を構築して(2月23日参照>>)、天正八年(1580年)8月には最大最強の敵だった石山本願寺を落とし(8月2日参照>>)、天正十年(1582年)の3月に甲斐武田を滅亡させ(3月11日参照>>)ほぼ中央部を押さえつつあった織田信長・・・

これらの戦いと同時進行で行われていたのが地方の攻略ですが、この時点で信長を阻む強敵となっていた大物は、北陸戦線上杉(6月3日参照>>)中国地方毛利輝元(てるもと=元就の孫)・・・

で、その命を受けて、中国地方の攻略を担当していたのが羽柴(後の豊臣)秀吉です。

この頃の毛利氏は、周辺諸国にも影響を及ぼす西日本一の大大名・・・なんせ、京都を追放された義昭が頼って身を寄せていたくらいですから・・・

とは言え、その腕前で、徐々に播磨(はりま=兵庫県南西部)の領主たちを味方につけた秀吉は、天正五年(1577年)に西播磨上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を攻略し(11月29日参照>>)、翌・天正六年(1578年)には三木城を干殺しにし(3月29日参照>>)、天正九年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし(7月12日参照>>)、天正十年(1582年)4月27日、いよいよ、備中高松城(岡山県岡山市)への攻撃を開始します。

Koutukizyoukankeizucc (←以前の上月城のページでupした図ですが、位置関係がわかりやすいので…)

しかし、高松城は、低地で湿地という利点を最大限に活かした天然の要害・・・南側には川が流れ、残る三方は広大な沼地で、なかなか中に踏み入る事は困難・・・

周囲に展開されていた支城は、アッと言う間に落として、城の東方にある竜王山に陣を置き、即座に高松城を取り囲んで孤立させた秀吉でしたが、いざ、高松城への攻撃を開始しても、堀や沼地に阻まれて、逆に、コチラが痛手を受けるばかり・・・

そこで天正十年(1582年)5月7日、低地の沼地という守りの利点を逆に利用した水攻めを決行する事になるのです。

周辺の一般農民を法外な金額で雇って昼夜を問わずに土俵の運搬をさせ、わずか12日で、高さ:7m、幅:20m、全長:3km余の堤防を完成させたのたとか・・・(ホンマかいな?)

Takamatuzyoufuzinzucc_2 (2008年6月4日にupした図ですが→)

旧暦の5月・・・梅雨真っただ中のこの作戦は見事成功し、雨で水かさが増した川から、水路を伝わって流れる水により、わずか数日で、高松城は大きな湖の中に浮かぶ状態となってしまったと言われています。

・・・で、結局、高松城は、約1ヶ月後の6月4日に開城される事になるのですが、ご存じのように、そこには、あの本能寺の変との絡みもあり・・・って事で、そのお話は2008年6月4日の【備中高松城・落城~清水宗治・自刃】のページ>>でご覧いただくとして、本日は、『陰徳太平記』にある毛利側の逸話を、チョイとご紹介・・・

・‥…━━━☆

この時、秀吉勢に囲まれた高松城を救うため、1万5000の兵を率いて駆けつけた吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)が、現地に到着したのは5月21日・・・

そう、すでに、高松城は湖上の城となり、孤立した状態でした。

城の西南の位置にある山に登って眼下を見下ろしながら、元春と息子の元長(もとなが)、そして隆景らが、今後の作戦について話し合います。

しかし、その軍議の席で出て来たのは、
三沢為虎(ためとら)をはじめとする多くの家臣が、すでに秀吉側に内通している」
との噂・・・

さらに
「そのような状況で、決戦を挑むのは難しい」
「いや、もし、内通の噂が本当なら、むしろ、秀吉側がコチラを攻めに来る可能性も…」
「そうなれば、決死の覚悟で本陣めがけて突入するしかない」
などなど、チョイとばかりネガティブな意見ばかり・・・

結局、その場は、何も出ないまま解散となりましたが、この時、未だ30歳半ばの血気盛んなお年ごろだった元長は、
「皆々の士気を高めるためにも、どうにかせねば!」
と思ったのか、軍議を終えたその足で、噂の為虎の陣へと立ち寄ったのです。

そして、堂々と為虎のそばに腰をおろし
「お前が、秀吉に内通してるって聞いたんやけど…それがホンマかどうか確かめに来た!
もし、それが本当やねんやったら、今すぐ俺を討ち取って、その首を秀吉に届けてみろ!」

と・・・

その話を聞いた為虎は、非常に驚いて、
「そんなアホな!
そんな事、まったくありません!
ウチらを混乱させようと、誰かが噂を流してるに違いないですわ!」

と、地面に頭をこすりつけながら完全否定し、その場で誓紙をしたため、元長に差し出しました。

こうして、元長は無事帰還したわけですが、なんと、その後、和睦が成立した後に、秀吉が毛利に対して提出した『内通者リスト』には、しっかり為虎の名が記してあったのだとか・・・

・‥…━━━☆

ただ、『陰徳太平記』では、「名前はあったが、それは為虎の預かり知らぬ事」として、為虎の内通は、本人の申し出通り否定していますが、果たして真相は・・・

こういう話は、軍記物によく登場しますが、コレって、「そんな事はございません」と家臣が否定して無事帰って来るから良いものの、本当に内通していて斬られちゃったらどうなるんでしょうね???

って事で、何となく話半分な感じの逸話ではありますが、高松城に関して、もはや、打つ手もなさげな毛利側に、ちょっぴりイイ話を・・・という事なのかも知れませんね。
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コメント

茶々様、こんばんは。

まるで、歴史小説みたいですね。
でも、こう言う話があるのは、それなりにおもしろいです。
こう言う話の何処かに、似た真実があると思います。

投稿: エアバスA381 | 2013年5月 7日 (火) 22時59分

エアバスA381さん、こんばんは~

>こう言う話の何処かに、似た真実が…

そうですね。
それを探って行くのが、これまたオモシロイんです!

投稿: 茶々 | 2013年5月 8日 (水) 02時09分

茶々さん、こんにちは。内通者リストを毛利って、正直に出すことがあるんですね。これだけ裏切っているよ、とトドメを刺すためでしょうか?

投稿: いんちき | 2013年5月 8日 (水) 05時26分

いんちきさん、こんにちは~

そうですね。
和睦と言っても戦いの和睦だけではなく、この時の毛利は、わざわざ秀吉に直接面会して臣下に入る事を約束してますから…

「内通者リストを毛利に…」というよりは、安国寺恵瓊がイロイロ画策してたのかも…恵瓊は、すでに和睦交渉の途中から秀吉側に立ってた感じですし…

投稿: 茶々 | 2013年5月 8日 (水) 13時24分

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