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2013年6月18日 (火)

本能寺の余波に散る織田の重臣・河尻秀隆

 

天正十年(1582年) 6月18日、織田信忠の重臣として活躍した河尻秀隆が、一揆勢の襲撃を受けて死亡しました。

・・・・・・・・

河尻秀隆(かわじりひでたか)・・・

はじめは、信長の父の織田信秀に仕え、隣国との交戦に度々参加していたという事ですが、一説には、その息子である織田信長が弟=織田信行(のぶゆき)の暗殺(11月2日参照>>)をする際、直接手を下したのが秀隆だった・・・という話もあるものの、なにぶん、その史料が少なく、多くの部分が謎に包まれています。

とにもかくにも、天文年間(1532年~54年)のいずれか頃から信長の側近を務めるようになった秀隆・・・もちろん、あの桶狭間(5月16日参照>>)をはじめ、美濃平定(8月15日参照>>)などにも華々しい活躍をしたと言いますが・・・

そんな中でも、天正元年(1573年)頃からは、トップクラスの参謀として重用されるようになり、信長の嫡男である織田信忠(のぶただ)の配下として、作戦の立案や実戦での指揮命令系統を担当・・・

Odanobutada この頃は、未だ10代の若さだった信忠ですから、配下&補佐というより、実質的には秀隆が中心となって合戦に挑んでいたと思われ、むしろ、信忠は、秀隆のサポートを受け、そのやり方を学びながら成長していったものと思われます。

『太閤記』によれば・・・
天正三年(1575年)の長篠の戦い(5月21日参照>>)において、信長は、自らの兜を秀隆に手渡しながら、そばにいた信忠に向かって
「以後は、この秀隆を父と思って、言う事を聞くように…」
と諭した
と言います。

ご存じのように、この何ヶ月後かには、信長は、信忠に織田家の家督を譲っています(11月28日参照>>)から、そんなあと取り息子を託すに値するほどの信頼を、秀隆は得ていた事になります。

もちろん、その期待に応えるがのごとく奮戦する秀隆・・・

なんせ、この頃から激しくなるのが、あの石山本願寺との交戦(5月3日参照>>)・・・しかも、そこに毛利は参戦するわ(7月13日参照>>)上杉は参戦するわ(9月18日参照>>)

そうです・・・信長が多方面に忙しい中、武田の甲州征伐に力を発揮したのが秀隆です。

ご存じのように、それは天正十年(1582年)に本格的にはじまりますが、信忠が大将となって行われた高遠城の戦い(3月2日参照>>) や滅亡に追い込む天目山の戦い(3月11日参照>>)など、おそらくは実質的な指揮官として活躍したであろう秀隆の功績は並々ならぬ物であった事でしょう。

おかげで、戦後は、甲斐国22万石信濃諏訪領を与えられ(3月24日参照>>)武田の旧領を統治する事になった秀隆でしたが、これが、彼の命取りとなりました。

そう、その3ヶ月後に起こる、あの本能寺の変(6月2日参照>>)・・・

ここで、信長も、そして信忠も亡くなってしまいます。

今回の秀隆と同様に、武田の滅亡によって旧領の北信濃四郡(高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)海津城・20万石を与えられていた森長可(ながよし)は、主君と弟=森蘭丸(らんまる)の急を聞いて、未だ抵抗する武田の残党を、まるで鬼のような形相でなぎ倒して畿内の戻ろうとした事から、長可は「鬼武蔵」と呼ばれるようになったとの事ですが(6月26日参照>>)

その長可と同じく、この本能寺の時、秀隆は、信長から任されていた武田の旧領にいたわけです。

・・・が、残念ながら、秀隆の方は、その甲斐に取り残され孤立してしまったのです。

しかも、このタイミングで起こった・・・というか、このタイミングだからこそ起こった武田の遺臣たちによる国人一揆・・・

なんとか、甲斐からの脱出を試みようとする秀隆でしたが、天正十年(1582年) 6月18日一揆勢の襲撃を受けて、56歳の命を落としたのでした。

証拠の無い、あくまで噂の域を出ないお話ではありますが、一説には、この国人一揆を影で扇動していたのは、6月7日に、決死の伊賀越え(6月4日参照>>)岡崎まで戻っていた徳川家康だったとか・・・

なんせ、この後、秀隆の死で宙に浮いたこの武田の旧領を手にするのは、争奪戦に撃ち勝った家康なのですから・・・

それにしても、あの日の夜、妙覚寺に宿泊する信忠のそばに、この秀隆がいたなら・・・またまた妄想をかきたてられます。
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コメント

茶々様、こんばんは。

河尻秀隆って有能だったらしいですね。
確かに、あのとき、信忠のところにいて欲しかった人です。
と言うか、あの時、三法師も討ち取られていたら、清洲会議はどうなったんでしょうね。
歴史にイフは無いですけど、想像したくなりますよね。

投稿: エアバスA381 | 2013年6月20日 (木) 19時13分

エアバスA381さん、こんばんは~

本能寺の時、三法師を守って脱出した前田玄以は、後に豊臣政権で五奉行の一人になってますから、もし、生き残っていたら秀綱も…と、イロイロ妄想してしまいますね~

投稿: 茶々 | 2013年6月21日 (金) 02時51分

茶々様、こんばんは。

去年から一年経ちましたが、新史料の発見は無いようですね。
河尻秀隆の評価は変わらないようです。
妄想のタネはつきませんが。

投稿: エアバスA381 | 2014年6月18日 (水) 23時08分

エアバスA381さん、こんばんは~

河尻秀隆の評価って低いんですか?
個人的には、信忠の勝利はほとんどこの方の采配による物だと思っていますが…

投稿: 茶々 | 2014年6月19日 (木) 01時54分

茶々様 おはようございます。

また、私の書き方が悪くて申し訳ありません。
低くないですよ。
最後が悲惨だったので、そう思わせてる本があって、早い話、本能寺の変が無ければ、悲惨な最後を迎えることもなかったわけですから。
茶々様の見解で、間違いないと思います。
私は逆に秀隆をおとしめる史料が出ないのを祈ってました。
出なかったようでよかったです。

投稿: エアバスA381 | 2014年6月19日 (木) 06時14分

エアバスA381さん、こんにちは~

こちらこそ、はやとちりしてすみませんでした。
評価は、相変わらず良かったって事ですね。
同感です。

投稿: 茶々 | 2014年6月19日 (木) 12時40分

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