明治新政府のモデルとなった藩政改革…津田出
明治三十八年(1905年)6月2日、幕末の紀州藩にて藩政改革に尽力し、明治新政府にも影響を与えた津田出が74歳で死去しました。
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南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)(’5月25日参照>>)の三男=楠木正儀(まさのり)の末裔とされる津田家は、もともと北河内(大阪府北部)の津田城を居城としていましたが、戦国の動乱で紀州に移り、その後、ご存じのように、徳川家康の十男の徳川頼宣(よりのぶ)が紀州に入って、いわゆる御三家の一つとなるにつれ、津田家も、地元武士として紀州藩に仕えるようになったと言います。
本日の主役=津田出(つだいずる)が誕生するのは、天保三年(1832年)・・・20歳を過ぎた頃に江戸に出て蘭学を学び、帰郷してからは、藩士たちに蘭学を教える立場となります。
その後、安政四年(1858年)に第14代藩主に就任した徳川茂承(もちつぐ)が、早くから彼の才覚を見抜いていた事から、何かと重用されるのですが、この頃から病気がちになり、家督を弟に譲って、第1線からは離れました。
慶応二年(1866年)7月、35歳になっていた出は、お留守となった藩主に代わって、領国の政務を任される事になるのです。
そうです・・・この年の6月から、あの第2次長州征伐=四境戦争が始まっていて(6月8日参照>>)、藩主の茂承はその先鋒総督に任命されて出陣・・・しかも、そこで、戦場を駆け巡る奇兵隊などの姿を目の当たりにしていたのです。
ご存じのように、この第2次長州征伐では、奇兵隊などの農民兵による、動きやすい軽装の軍服に最新鋭の銃を装備したゲリラ的戦い方に、幕府側の紀州藩は痛い目に遭っていた(7月15日参照>>)わけで・・・
結果的には、第14代将軍=徳川家茂(いえもち)の死を以って幕引き(7月20日参照>>)となる長州征伐ですが、戦況としては完全に敗北の雰囲気だったわけで・・・
翌年、紀州へと帰国した茂承は、早速、出を国政改革制度取調総裁に任命し、かねてより出が考えていた改革に賛同し、それを推し進めるよう、方向転換させたのです。
その出の考えていた改革というのが、武士の制度を廃止して、全員を百姓にしてしまい、彼らに洋式訓練をさせて、領国の防衛にあたらせるという、まるでヨーロッパの国を思わせるほどの革命的なもの・・・
しかし、それは、ほどなく、藩内の保守派の抵抗に遭い、逆に、出はその地位を追われ、蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)処分となってしまいます。
とは言え、そんな保守派の抵抗が長く続かない事は、皆さまもご存じの通り・・・
鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に始まって江戸城無血開城(3月14日参照>>)から北越&東北へと移行した戊辰戦争がほぼ終結し(9月22日参照>>)、慶応四年(1868年)から明治元年に改元された11月・・・出は、茂承から藩政改革の全権を任される形で復帰し、「今度こそ!」とばかりに、改革を断行するのです。
まずは藩主&藩士の家録(給料)の大幅削減にはじまり、そのために仕事を失くした藩士の農業・商業・工業への転職の推進・・・
しかし、一方で、藩の最高機関として「政治府」を置き、逆に、そこには能力次第では、充分に手腕を発揮できる道も用意しました。
領国各地には、郡ごとに「民政局」を置き、中央(いわゆる県庁所在地)との連絡を密接に取りつつ細かな事にも対応・・・さらに、学校の制度も整えます。
また、「開物局」という通商に関する機関を置き、洋式の技術や洋式の機械を導入する事によって皮革業などの新しい産業を展開しました。
軍制度に関しては、『交代兵取立之制』という、「武士や農民を問わず、20歳に達した青年たちから選抜した者を交代制で」という志願兵に似た形で採用する物・・・
さらに、明治二年(1869年)の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)で、和歌山藩大参事となった出は、プロセイン王国から下士官のカール・ケッペンを招いて、ドイツ式の軍制改革を行いますが、そこでは、陸軍と海軍にわけた軍隊に、傷病兵士のための病院を設置・・・軍務局を頂点にした階級制度も、しっかり決められました。
さらに、先の『交代兵取立之制』を廃止し、『兵賦略則(へいふりゃくそく)』を布告しますが、これこそ、後に明治新政府が実施する、四民平等・国民皆兵の徴兵制でした。
やがて訪れた明治四年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)の後、出は、中央政府に呼び出され、大蔵省輔に抜擢されるのです。
彼を呼び出したのは、あの西郷隆盛(さいごうたかもり)・・・和歌山県の見事な改革を耳にした隆盛が、「我々は津田先生のあとについて行きます」とまで言って呼び寄せたのです。
つまり、明治新政府は、これからの進む道、政府の青写真を描ける人物が欲しかったのですね。
なんせ、その軍制改革は徴兵制のお手本となり、藩政改革は、その廃藩置県のお手本となったのですから・・・
こうして、大蔵省や会計監督局から陸軍に移り、少将となった出ですが・・・そのワリには、(失礼ながら)津田出さんというお名前、あまり聞きませんよね?
実は、これほどの才能を持ちながら、この後は、その手腕を思う存分発揮できる役職につけなかったのです。
それには、中央政府にて活躍している紀州藩の出身者が、あの陸奥宗光(むつむねみつ・伊達小次郎)(8月24日参照>>)くらいしかいなかった事・・・結局、その陸軍でもデスクワークばかりで、どこかの司令官に任命される事もありませんでした。
明治二十三年(1890年)には貴族院議員にもなりましたが、やはり薩長藩閥政府の中ではその力を振るうことは難しかったのでしょう。
「このまま、彼の才能を埋もれさせてはならぬ!」と中央へ引っ張ってくれた西郷隆盛が、あの西南戦争で散ってしまった(9月24日参照>>)事も大きかった・・・
途中、明治十八年(1885年)には、日本初の乳牛ホルスタイン種を導入して千葉と茨城にまたがる広大な土地でアメリカ式の農法を試みますが、それも、政界では発揮できない自らの才能を発揮する場所を求めていたのかも知れません。
明治三十八年(1905年)6月2日、74歳でこの世を去る津田出・・・そんなこんなで、あまり知られてはいませんが、実はスゴイ人なのです。
彼がいなければ、新政府による廃藩置県や国民皆兵が、もう何年か遅れ、見事な文明開化とは行かなかったかも知れないのですから・・・
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コメント
紀州藩にこんなすごい人がいたとは知りませんでした!
ところで,「群」は「郡」ですかね?
投稿: 徳左衛門 | 2013年6月 3日 (月) 00時57分
徳左衛門さん、こんばんは~
私もそうだと思うのですが、手元にある史料が「群」の表記になってまして…
書くにあたっては別の史料を探して確認してからと思ったのですが、見つからず…
とりあえず、今回は、そのままの表記でupさせていただきましたが、おそらく校正ミスだと思いますので、やはり変換させていただいときます。
また、図書館などで、別史料が無いか、調べてみますね。
投稿: 茶々 | 2013年6月 3日 (月) 01時08分
丁寧なお返事と修正ありがとうございます。
そう言えば,この前読んだ明治初期の史料の翻刻で,「郡」と書くべきところを「群」(ママ)となっていたのを思い出しました。原史料でも「群」だったのかもしれませんね。
お忙しいところ,わざわざ調べていただくには及びません。
投稿: 徳左衛門 | 2013年6月 3日 (月) 12時21分
徳左衛門さん、こんばんは~
そうなんですよね~
よく言われるのは、大阪が「大阪」という表記になるのは明治以降で、それまでは「大坂」だったとして、一般的にも歴史本などでも、江戸時代や戦国時代の出来事では「大坂」となっているのですが(一般的なので、私も、ブログでは、そのように表記していますが…)
実際には、江戸時代の史料でも「大阪」と表記されている物もあり、それも、「間違って」ではなく、「意図的に…」あるいは「どちらでも良い」という感じで、そのように書かれている場合があるそうで、
専門家の方でも「昔の人は、あまり漢字表記にこだわらなかったのでは?」と考えておられる方もいらっしゃいます。
そう言えば、同じ物が複数の別の漢字で表記され、その中の、日頃使われない難しい物がクイズなどで出題されたりしてますね。
なので、ひょっとしたら第1次史料の表記が「群」なのかも知れないですが…とりあえず、機会があったら調べてみます。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2013年6月 4日 (火) 02時13分
茶々様
おはようございます。
津田出(いずる)さんについては,司馬遼太郎さんが生前に出演されたNHKトークドキュメント番組『太郎の国の物語』で詳しく出てきていたので,一応知ってはおりました。
素晴らしい改革をした人が薩長土肥以外にも多くいるのですが…。
西郷隆盛さんなどは,彼を明治政府の首班にして,私は彼の下で働きたいと言っていたとの内容もありました。
津田出…高等学校の日本史教科書にも出てこないけど…その名は…そんな偉大な人材がたくさんいたのは間違いないのでしょうね。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年6月 5日 (水) 10時24分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
悲しいかな、新政府を主導する藩かそうでないかというのがあったでしょうね。
そのために、思う存分の働きをする事ができなかった方が、おそらく、数多くおられる事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年6月 5日 (水) 14時39分
津田城のあった国見山は枚方市になります。
枚方市交野市の辺りは旧交野(こうの)郡です。
投稿: 牛くん | 2013年12月 2日 (月) 17時50分
すいません、訂正。
交野郡はかたのぐんでした。
国見山の近くにある交野山は、こうのさんです。(いらん情報)
投稿: 牛くん | 2013年12月 2日 (月) 17時58分
牛くんさん、ありがとうございます。
自分が、昔の枚方宿のあたりがテリトリーなもので、ついあっち方面は交野と思ってしまっていました(*´v゚*)ゞ
あらためて地図を見てみると、警察学校のところに境界線があるんですね。。。
失礼しました。
投稿: 茶々 | 2013年12月 3日 (火) 11時58分
勉強になりました。実は、実家が津田です。小さい頃から交野山を走り回っていました。しかし、今や、道路が出来て田舎風景がなくなり、寂しいです。昔は、クマに襲われた山菜採りのオバちゃんも居たらしいです。
ところで、津田 出 さんが、そんな偉業をしたのなら、ぜひとも将来、大河ドラマのヒーローになってほしいです。
でも、そうなったら、なったらで、人々の注目をあび、余計に津田界隈の自然が失われる可能性大です。そっとしておいた方が良いかもしれませんね....。
「 これ以上の開発はヤメテ 」と言いたい!
投稿: 幸さん | 2014年5月26日 (月) 12時49分
幸さん、こんにちは~
私も、大昔に交野山に山菜取りに行ったクチです(*^-^)
本家HPの「歴史散歩」でも津田をご紹介しているのですが、そこには「お出かけ前に最新の地図をご確認ください」って書いているんです。
おっしゃる通り、久しぶりに行くと、新しい家が建ってたり、道ができていたりでびっくりします。
投稿: 茶々 | 2014年5月26日 (月) 13時46分