直江兼続を手玉に取った最上の重臣・鮭延秀綱
正保三年(1646年)6月21日、戦国から江戸初期にかけて、最上氏の重臣として東北の地にて活躍した鮭延秀綱が亡くなりました。
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鮭延秀綱(さけのべひでつな)の鮭延氏は、もともとは近江源氏の佐々木氏の流れを汲む名門・・・戦国時代にに入って出羽(山形県・秋田県の一部)に下り、仙北の地で勢力を誇っていた小野寺氏に仕えますが、やがて大永・天文年間(1521年~1554年)のいずれかの頃の秀綱の父=佐々木貞綱(さたつな)の代になって、小野寺氏の配下ではありながら、出羽鮭延城(山形県真室川町)の城主となっていました(苗字を鮭延としたのも、この頃と思われます)。
完全に独立とはいかないものの、徐々に小野寺氏の影響が薄れつつある中、そうなると戦国時代の常として、こういった小規模な国人領主は、その領地を度々隣国から狙われる物でして・・・
で、そんなこんなの永禄六年(1563年)・・・勢力拡大を狙う庄内(山形県の一部)武藤氏に攻められた貞綱は、痛い敗戦を喫してしまいます。
『鮭延城記』によれば・・・
「永禄六年の役典膳(貞綱の事)の次子源四郎當歳(秀綱の事)なりけるを荘内勢の為めに虜となり姨と共に彼地に於て養育せられる…」
とあるところから、どうやら、この合戦の時に、秀綱少年は捕えられて人質とされ、その後、敵地にて養育されるという、辛くて苦い幼少期を過ごしたようです。
ところが、なんと、その後、成長した秀綱は自力で敵地から脱出し、家督を継いで鮭延城主に納まったのだとか・・・
しかし、それもつかの間・・・そこに猛攻をかけて来たのが、あの最上義光(もがみよしあき)です。
天正三年(1575年)頃には家中の抵抗勢力を抑えて最上家の主導権を握り、いざ、ここから周辺地域に、その勢力を拡大しようと、いま、まさに上り調子の義光は、天正九年(1581年)、秀綱の鮭延城へと迫ります。
数の上でも劣るうえ、最上配下の氏家守棟(うじいえもりむね)の調略によって、秀綱配下の家老格であった庭月氏がアッサリと降伏・・・やむなく秀綱も義光に降伏し、これ以降、最上氏の配下として生きて行く事になるのですが・・・
どうやら、この降伏も、「単に合戦に負けた」という感じでもなさそう(←推測)です。
と言うのも、上記の通り、この頃の義光は勢力拡大を計っていて、当然の事ながら、彼が攻め落としたのは秀綱の鮭延城だけでは無いわけですが、義光に敗れた多くの武将が、それまでの領主の座をも奪われているのに対して、義光は、秀綱の、その所領を安堵する・・・つまり、秀綱は、鮭延城主のまま、その領地ごと最上の配下となったわけで・・・
これには、義光が、いかに秀綱の武勇を高く評価していたかのあらわれ・・・秀綱を倒して鮭延城を奪う事より、秀綱を、自分の配下に入れる事のほうが、よほど価値があったという事なのかも知れません。
こうして最上氏に仕える事になった秀綱・・・早くも、その翌年の天正十年(1582年)には、義光と敵対していた大宝寺氏の配下にあった来次氏秀(きすぎうじひで)を内応させるなど、その能力が、力ワザだけでは無い事を感じさせてくれます。
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また天正十八年(1590年)から翌年にかけて豊臣政権が行った検地の時には、小野寺氏や上杉家臣の色部長真(いろべながざね)らと仙北地方南部の領有権を巡ってモメる中、検地反対で勃発した一揆のドサクサで出羽湯沢城(秋田県湯沢市)を占拠・・・その後も居座りつづけて実効支配し、最終的に、その地が最上の支配下にある事を豊臣秀吉に認めさせています。
何とも強気な秀綱さん・・・そんな彼が、最も活躍するのは、あの天下分け目の関ヶ原と同時進行で勃発した奥羽の関ヶ原=長谷堂の戦いです。
ご存じのように関ヶ原の戦いは、秀吉亡き後の豊臣政権内で起こった派閥争い・・・
(関ヶ原についてのくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)
伏見城に居座り続けて秀吉の遺言を破り、まるで天下人のごとく振る舞う徳川家康に怒り爆発の石田三成(みつなり)が、その家康が会津征伐のために伏見城を留守にしたところを狙って、伏見城に攻撃を仕掛けたのが事のはじまり(8月1日参照>>)ですが、その時、三成の動きに合わせるが如く、反家康の行動をしたのが、会津の上杉景勝(かげかつ)・・・というより、その重臣の直江兼続(なおえかねつぐ)
(「本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」」参照>>)
(「直江兼続・越後一揆を扇動」参照>>)
しかし、会津征伐のために東上していた家康は、伏見城攻撃のニュースを聞いて、即座にUターン(7月25日参照>>)・・・率いていた軍隊そのままに、一路、畿内へと戻り、あの関ヶ原・・・となるのですが、
一方、迎え撃つ気満々で、土塁や掘を構築して支城の守りも固めていた兼続にとって、この家康Uターンのドタバタ劇は、もし会津征伐があったら全面協力するはずだった最上義光の領地へと進攻するのには絶好のチャンス!!
もちろん、家康の支援無しで上杉との交戦が困難と判断した義光も、あわてて上杉に対しての和睦を申し入れたりなんぞしますが、交渉は決裂・・・
かくして、慶長五年(1600年)9月9日に、兼続は、2万4000余りの兵を率いて、居城・米沢城を出陣し、最上配下の支城を次々と落としながら進み、本チャンの関ヶ原と同じ9月15日、いよいよ義光の居城である山形城の間近の長谷堂城(山形県山形市)へと迫ったのです(9月9日参照>>)。
迫る30000の上杉に、迎える城兵は、わずか1000(数には諸説あり)・・・この長谷堂城の危機を救うべく、義光が、迷わず援軍として派遣したのが秀綱でした。
着陣早々、夜襲を決行して敵方を翻弄した後、手を焼く上杉勢を、押しては引いて、引いては押して・・・智将の誉れ高き兼続を、この長谷堂の戦いで、見事、手玉に取るのが鮭延秀綱という武将なのです。
(くわしくは【直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い】で>>)
9月24日(29日とも)の大きな衝突では、新影流の剣聖(上泉信綱>>)の血を引く上泉泰綱(かみいずみやすつな)を討ちとり(9月29日参照>>)、あの前田慶次郎を翻弄し・・・
さらに、9月30日になって、関ヶ原での勝敗が決した知らせを聞いて撤退を開始した上杉軍に猛追撃を仕掛け、いち時は、その兼続も切腹を決意するほどの窮地に・・・(10月1日参照>>)
なんとか、その危機を乗り越えて、米沢城へと帰還した兼続は、「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」(『永慶軍記』)=つまり、「秀綱は、武田信玄や上杉謙信よりも強い!」と言ったのだとか・・・
戦後は、本チャンの関ヶ原で家康=東軍が勝った事で勝ち組となった最上家は、出羽山形57万石に封じられ(8月25日参照>>)、秀綱にも真室城11500石(後に17000石)が与えられました。
こうして迎えた江戸時代・・・義光が亡くなった後は、最上家老衆の筆頭格となって領国経営にまい進する秀綱でしたが、元和三年(1617年)、義光の次男として後を継いでいた2代めの家親(いえちか)が亡くなり、未だ幼い息子の義俊(よしとし)が後継ぎとなった事に不安を抱いた秀綱は、義光の四男の山野辺義忠(やまのべよしただ)を後継者に推すのですが、そのために最上家の家臣団が真っ二つ・・・
これが、後に最上騒動(8月18日参照>>)と呼ばれる内紛になってしまった事で、元和八年(1622年)、最上家は改易となってしまいました。
この事件によって、秀綱も、一旦、佐倉藩主・土井利勝(どいとしかつ)の預かりとなってしまいます。
その後、罪が許されてからは、やはり、その武勇を買われてか、そのまま土井家に仕える事になりますが、この時、秀綱は、土井家から与えられた知行・5000石のすべてを、山形時代からの家臣に分け与えたのだとか・・・
なので、その後の秀綱は、その家臣たちに養われる形で、家々を転々として暮らしたと言われていて、その様子は、海音寺潮五郎氏による『乞食大名』なる短編小説にもなっているのだとか・・・(小説は読まないので、内容は知りませんが…)
かくして正保三年(1646年)6月21日、土井家の転封にともなって移り住んでいた古河の地にて、秀綱は85歳の生涯を終えたのでした。
わずかな兵で立ち向かい、あの直江兼続を翻弄させた華々しい戦績から一転、なんとなく、寂しい感じのする老後ですが、それこそが、戦国に生きた武将という物かも知れません。
最後の最後に、自らの腕を買ってくれた代金を、慕ってくれた家臣に分けてしまうとこなんぞ、まさしく戦国の猛者・・・そんな気がします。
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コメント
茶々様、こんにちは
直江兼続をして、武田信玄、上杉謙信より強いと言わせるのはめちゃくちゃすごいですね。
人生の最後もかっこよすぎです。
自分もこう言う評価が後世でもらえるような人物になりたいです。
名は末代ですから。
投稿: エアバスA381 | 2013年6月22日 (土) 12時58分
エアバスA381さん、こんにちは~
ホント、カッコイイですよね~
きっと家臣からも慕われてたんでしょうね~
投稿: 茶々 | 2013年6月22日 (土) 15時49分