上杉に仕えた軍師・清源寺是鑑
天正九年(1581年)6月24日、上杉家に仕えた軍師=清源寺是鑑が、直江兼続に合戦の日取りの吉凶を報告しました。
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このブログでも、度々登場している『軍師』という職業・・・
現在の私たちが、この『軍師』という言葉からイメージするのは、合戦における作戦の立案や、軍議での提案・・・さらに、実際の合戦で軍隊の指揮をとるといった感じですが、これらは、「与力」や「軍奉行」などと呼ばれる、いわゆる家臣で、まさしく戦国武将なわけですが、
それと同時に、武将では無い、陰陽師や修験者、僧侶といった人たちを雇い入れ、彼らの占いによって合戦の日取りや、その攻め方などを決定する場合もあり、このような占い師的な人たちも『軍師』と呼ばれます。
くわしくは、以前ご紹介した北条家の軍師=中山修理介(なかやましゅりのすけ)のページを見ていただくとありがたいです(10月7日参照>>)
・・・で、今回の清源寺是鑑(せいげんじぜかん)さん、
越後(新潟県)の上杉景勝(かげかつ)や、その重臣の直江兼続(なおえかねつぐ)に重用された僧侶で、「清源寺」で通っていましたが、当時は、安国寺(あんこくじ)の住職でした。
景勝と兼続に影響を与えた僧侶を言えば、あの足利学校を首席で卒業したとの噂の景勝の叔父さん=通天存達(つうてんそんたつ)禅師が有名ですし、兼続の軍師としては、同じく足利学校出身の涸轍祖博(こてつそはく)という人物もいますが、おそらく、今回の清源寺是鑑も、そんなブレーンの一人だった事でしょう。
で、本日ご紹介するのは、その源寺是鑑が直江兼続に送ったという書状・・・
『上杉家文書』に収録されている書状は2通ありますが、1通は、是鑑が景勝から合戦の日取りを占うよう依頼され、それを「承知しました」という返答の手紙で、もう1通が、その占いの結果を、天正九年(1581年)6月24日の日づけにて兼続に宛てて報告した物・・・
書状には、年号は書かれておらず、日づけだけなのですが、その宛名が『樋口与六殿』となっているところから、兼続が直江家を相続する寸前の書状と考えられており、おそらく、この6月24日は、天正九年(1581年)6月24日であろうと言われています。
清源寺是鑑書状(米沢上杉博物館)…画像は『米沢市広報』より転載させていただきましたm(_ _)m
・・・で、占いの結果は・・・
「御うらないの事、承(うけたまわ)り候(そうろう)間(あいだ)、したゝめ上げし候。いかにも御弓矢よき御うらないにて候。目出たく存じたてまつり候…」
つまり、
「御弓矢=合戦には、良い日=吉日である」
という結果が出た事を報告しているのです。
準備万端整えて、作戦を練りに練ったとしても、なんだかんだで勝負は時の運・・・
「人事を尽くして天命を待つ」のごとく、強き戦国武将も、占いを信じたり、ジンクスを担いだりする・・・いや、むしろ、そういった事を重要視して、自らの士気を高めていた事がわかるという事で、この是鑑の書状は、貴重な史料の一つとされてします。
また、それと同時に興味をそそられるのは、この書状の追伸にあたる部分・・・
くずし字初心者の茶々には、ちょいと読めないのですが、聞くところによれば、そこには
「関東口の儀、何事も無く候」
と書いてあるとか・・・
「関東口」とは、まさしく北条氏の事でしょう。
この書状が、確かに天正九年(1581年)の物だとしたら、その2年前の天正七年(1579年)3月に終結したのが、上杉謙信の死後に勃発した、あの御館(おたて)の乱・・・
この時、景勝と後継者を争った景虎(かげとら)は、北条氏康(うじやす)の七男として生まれた後、謙信の養子となって上杉に来た人・・・(3月17日参照>>)
当然の事ながら、御館の乱の時には、そのバックに北条氏の影が見えていたわけで・・・
この追記の部分は、その御館の乱後も、ずっと継続して北条の動きを探っていたという証であり、明らかに、本文の占いの結果とは異なる分野のもの・・・
そう、例え、僧侶や陰陽師と言えど、その才能は占いやゲン担ぎだけでなく、兵法や軍略、はたまた、敵の動向に関するスパイ活動のような情報収集能力にも長けていないと軍師は務まらないという事をあらわしているようですね。
そういう意味でも貴重な史料です。
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