勘違い水野忠恒の刃傷・松の廊下
元文四年(1739年)6月28日、 信濃松本藩第6代藩主の水野忠恒が亡くなりました。
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江戸時代・・・江戸城内において、いくつかの刃傷事件がありましたが、有名なところでは、あの忠臣蔵のもととなった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の刃傷・松の廊下(3月14日参照>>)・・・
まさに、同じ松の廊下で、今回の水野忠恒(みずのただつね)も事件を起こしてしまいます。
まぁ、江戸時代の事ですから、その正式記録に、どこまでお互いの言い分が正確に残っているかは微妙ではありますが、大体において、こう言った刃傷事件の場合、結局は「勘違い」や「逆恨み」って事が多い・・・
もちろん、中には、貞享元年(1684年)の堀田正俊(ほったまさとし)・刺殺事件(8月28日参照>>)のように、なんとなくウラがありそうな話もありますが、かの浅野内匠頭も、もともとカンシャク持ちだったようですし、延享四年(1747年)の板倉勝該(いたくらかつかね)の刃傷事件(8月15日参照>>)に至っては、完全なる人違い・・・
・・・で、今回の水野忠恒の刃傷事件も、なんとなく、「勘違い」「思い込み」の要素が強いわけですが・・・
そもそもは、天正十八年(1590年)の9月に、徳川家の重臣であった石川数正(いしかわかずまさ)(11月13日参照>>)が8万石で封じられた事に始まる信濃(長野県)松本藩・・・
その後、小笠原氏や戸田松平氏、越前松平氏と藩主が変わるものの、その歴代の名前を見てお解りの通り、徳川家において重要な役どころの家柄が多いです。
寛永十九年(1642年)に三河(愛知県東部)吉田藩から転封して来た水野氏も、その家系は、徳川家康の母方につながる名家です。
とは言え、6代め藩主となった忠恒は、実は、本来は藩主になるはずでは無かった人・・・
兄の第5代藩主・忠幹(ただもと)が、後継ぎがいないまま25歳の若さで亡くなってしまったために、享保八年(1723年)、弟の忠恒が、急きょ兄の養子となって後を継ぐ事を幕府に申請し、それが認められての6代め藩主就任でした。
後から思えば、これが、忠恒にとって、荷が重すぎたのかも知れません。
そう、現代の感覚で行けば
「兄弟なんだから、同じような環境で、同じように育ったはず…」
と、特に、一般人な私なんかは思ってしまいますが、
これが、江戸時代の名家&名門であれば、将来、後を継ぐ者と継がない者では、その教育の仕方が、全然違うのですね。
将来、藩主になるべき子供は、生まれながらにして、藩主となるべき教育を受けるので、やはり、そこンところに少々の違いが出てしまうのです。
もちろん、中には、あの暴れん坊な徳川吉宗(よしむね)(4月21日中間部分参照>>)や井伊直弼(いいなおすけ)(10月7日の前半部分参照>>)のような人もいたでしょうが、むしろ、そっちの方がマレだと思います(←個人的見解ですが)。
しかも、忠恒の場合、この亡くなった兄という人が、なかなかの名君だった・・・
質素倹約を旨として藩政を実施し、常に勉学に励んで、古き家訓に、現在にそぐわぬ部分があれば、積極的に改善して家風を正したり・・・
一方の忠恒は、そんな兄へのプレッシャーか、はたまた、嫉妬か負い目か環境の違いか・・・とにかく、未だ年若い頃からお酒に溺れ、その酒のせいか、普段から奇抜な行動が多々あって、藩主になった後も、とてもじゃないが政務をこなせる人物では無かったと言われています。
そんなこんなの享保十年(1725年)・・・忠恒は、大垣藩主戸田氏長(とだうじなが)の養女(戸田氏定の娘)と結婚します。
そして、その婚儀を済ませた7日後の7月28日、時の征夷大将軍=第8代:徳川吉宗に結婚の報告とお礼を言うために江戸城に登城したのです。
白書院で吉宗への挨拶を無事済ませた忠恒は、戻る途中の松の廊下で長門(山口県)長府藩の毛利師就(もろなり)とすれ違います。
お名前でお察しの通り、この師就さんは、あの毛利元就(もとなり)の子孫・・・この時は、まだ藩主ではありませんでしたが、いずれ、第7代長府藩を継ぐ身・・・
そんな師就が、忠恒とすれ違いざまに
「君、君、そこに君の扇子が落ちてるで」
と、声をかけたと言う・・・
扇子を落とした覚えの無い忠恒は
「侮辱された!!」
と思い、いきなり刀を抜いて斬りかかったのです。
幸いな事に、近くに人がいて、即座に忠恒を取り押さえてくれたおかげで、師就が命を落とす事はありませんでしたが、当の師就には、声をかけた覚えもなく、なんで斬りつけられたかは理解できず・・・
一方、その後の取り調べで、忠恒が、
「酒癖が悪くて評判の悪い自分の領地が、いつか召しあげられて、師就に与えられると思った」
なんて事を言ったなんて話もありますが、結局は『乱心』と記録されて、その動機もウヤムヤに・・・
なんせ巷では、百姓一揆の犠牲者=『多田加助の崇り』なんてウワサ(11月22日参照>>)も囁かれていたとか・・・
とは言え、この事件の判定・・・何となく罪が軽い気がしないでもない・・・(あくまで素人感覚ですが…)
まぁ、毛利は被害者ですし、斬りつけられても抜刀せずに応戦したのでお咎め無しでわかりますが、一説には、師就はかなりの重傷を負ったなんて話もあるワリには、忠恒本人こそ、その罪で改易となって川越藩お預かりの禁固刑となりましたが家名は存続・・・
確かに、被害者も亡くなってはいませんし、当人も
「コチラから水野家に対する遺恨は無い」
てな事を言ってたらしいですが・・・
他の刃傷事件では、ご存じの浅野家は本人切腹で家名断絶、冒頭の堀田正俊事件でも加害者の稲葉家は断絶(本人死亡)に、板倉家も断絶(本人切腹)・・・
もちろん、江戸時代は250年という長い期間でありますから、同じ徳川の時代と言えど、ひとくくりにはできない物で、その時々の判断の差というのもあるのでしょうが、なんか、気になりますね~~
とにもかくにも、お預かりの刑が終わった後、叔父である水野忠穀(ただよし)の江戸屋敷で蟄居の身となっていた忠恒は、元文四年(1739年)6月28日、39歳でこの世を去りました。
その死期を早めたのは、やはり、お酒・・・と、言われています。
カリスマのような父同様、優秀な兄を持った人にも、生まれながらにして大きなプレッシャーが圧し掛かるという事でしょうか。。。
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コメント
>後を継ぐ者と継がない者では、その教育の仕方が、~
いわゆるエリート教育ですね。
現代では、不平等とか封建的とか言われやすいのですが、必要なことだと思います。
エリート以外の優秀な人材が、稀に現れることを期待することのほうが危うさを感じます。
忠恒さんも、いまさら兄の様にと期待されて、困惑したでしょうね。
>声をかけた覚えもなく、
↑など、明らかに病んでるとしか...
本当に『乱心』だったからこそ、御家断絶にはならなかったのかも知れませんね。
投稿: ことかね | 2013年6月30日 (日) 15時03分
ことかねさん、こんにちは~
やはり、お酒の飲み過ぎのような気がしますね。
>本当に『乱心』
たしかにそうかも知れません。
投稿: 茶々 | 2013年6月30日 (日) 16時08分
茶々様
江戸時代のお殿様(大名)って,意外とたいへん…プレッシャーなんじゃないかなと,この年になって感じます。
殿様と言っても,贅沢してふんぞり返って生活していたわけではないでしょうから…。そのほとんどが…。
それどころか,藩財政の逼迫や,徴税に対する百姓からの一揆…江戸時代の中期以降の百姓一揆はルールに乗っ取って,血が流れることはあまりなかったという説もあるようですが…。
幕府からの断絶・転封・お手伝い普請…お殿様自体が,大きな失敗をすれば,家来たちを下手すると路頭に迷わせてしまう。
バカ殿では務まらないような気もします。
それを支えるために,家老がいたのでしょうが…。
水野忠恒さんも,相当のプレシャーだったのではないかな~。自分への自信のなさ。嫡子でなかったので,家来からの雑言等も聞こえてきていたかもしれないし…。
これは,精神分析学の対象ではないでしょうか。(笑)
投稿: 鹿児島のタク | 2013年7月 1日 (月) 10時11分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
>これは,精神分析学
やはり、そうでしょうね。。。
重圧からお酒に溺れ、お酒に溺れて、さらに思うように行かず…悪循環になってたんでしょうかねぇ。
投稿: 茶々 | 2013年7月 1日 (月) 13時21分