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2013年6月 4日 (火)

徳川に2度勝った男…智将・真田昌幸

 

慶長十六年(1611年)6月4日、上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られる戦国時代の智将・真田昌幸が65年の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・・

真田昌幸(さなだまさゆき)・・・最近は、あの真田幸村(ゆきむら=信繁)のお父さんと言ったほうが良いのでしょうか?

ゲームやら何やらで、その幸村があまりにも有名になった事で、ここのところのドラマなどでは、九度山を脱出して豊臣方として大坂の陣に参戦する幸村を、「スゴイ奴が味方になってくれた」的な雰囲気で、無双のヒーローのごとく迎え入れる感じがありますが、

実際には、その頃の幸村は、ずっと山に籠っていたままで、未だ実戦経験はほとんど無く、もし、豊臣方に大喜びで迎え入れられるとしたら、それはひとえに、このお父さんの七光・・・

「お父さんがスゴイから、きっと息子もスゴイんだろう」という期待感による物だった事でしょう。

Sanadamasayuki500 そんな昌幸さんの真田家は、その父である真田幸隆(ゆきたか=幸綱)が事実上の初代(5月19日参照>>)・・・その先の事は、諸説が入り乱れてはっきりしません。

一般的には、信濃(長野県)小県(ちいさがた)を発祥の地とする信濃の豪族・滋野(しげの)の一族で、関東管領被官だった海野(うんの)の末裔という事になってます。

しかし、周辺武将との戦いに敗れて、その海野氏とともに、信濃を追われて上野(こうずけ=群馬県)に亡命(5月14日参照>>)・・・そこで、関東管領の上杉を見限った幸隆は、甲斐(山梨県)武田信玄へと主君を変え、信玄のもとで活躍し(2月14日参照>>)て徐々に重用され、最後には武田二十四将の一人に数えられるほど、幸隆は出世するわけですが・・・

その時の主従関係の証である人質として信玄に差し出されたのが、幸隆の三男だった昌幸(当時は源五郎)・・・

この時、昌幸はわずか7歳だった言いますが、あの信玄には、すでにその才能が見えていたのでしょうか??まもなく、彼を小姓に抜擢します。

戦国屈指の武将である信玄の近臣として様々な事を学び経験する昌幸は、あの第4次川中島の戦い(9月10日参照>>)で初陣を飾りますが、

なんと、その後、信玄の母の実家である大井氏の一族である武藤家の養子となります。

他国から来た人質に、平安時代からその地に根づく有力国衆の後を継がせる・・・信玄が、いかに昌幸に期待していたかがうかがえます。

その期待に応えるがのごとく、三方ヶ原(12月22日参照>>)など、複数の合戦に出陣して活躍し、信玄亡き後は、その後を継いだ武田勝頼(かつより)のもとで補佐的役割を果たす昌幸でしたが、ご存じ天正三年(1575年)の、あの長篠の戦い(5月21日参照>>)で、猛将の誉れ高い長兄=真田信綱(のぶつな)と次兄=真田昌輝(まさてる)同時に失っていまいます。

こうして、両兄を失くした事で武藤家を出て、真田家を継ぐ事になったものの、その後も、勝頼を支えて、敵対する北条氏と向き合い、天正八年(1580年)には北条方に属する沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)を奪い取りますが、残念ながら天正十年(1582年)3月、肝心の武田が滅亡してしまいます(3月11日参照>>)

この時には、北条氏からも
「ウチにけぇへんか??」
というお誘いを受けたようですが、昌幸は、今後、滅亡で宙に浮いた武田の領地を制するのは織田信長に違いないと考え、織田家の傘下となります。

ところがドッコイ!!

ご存じのように、その3ヶ月後に信長は本能寺の変でお亡くなりに(6月2日参照>>)・・・しかも、信長傘下になった時に昌幸の直属の上司となった滝川一益(たきがわかずます)が、すぐ後の神流川の戦い(6月18日参照>>)で北条に敗れる・・・

本来なら、このゴタゴタの間に、真田の本拠地を以って独立したい昌幸ではありましたが、信長の死でこれまた宙に浮いた武田の旧領地を三河(愛知県東部)徳川家康相模(神奈川県)北条氏直越後(新潟県)上杉景勝らが狙う狙う・・・

さすがに、今の真田に、この三大名を3人とも相手にする事は不可能・・・で、やむなく、一旦、北条の傘下となって生き残りを計る昌幸は、その北条に命により、川中島へ進攻・・・

当然、それを防ぐべく上杉が登場すると、そこに、北条と抗戦中の家康が介入・・・

家康が、真田の本領である小県と沼田の安堵とともにプラスαの好条件を提示した事や、弟の真田信尹(のぶただ)が以前から徳川方についていた事などから、わずか2ヶ月後に、今度は徳川方に参入する昌幸・・・

そうと決めたら行動が素早い昌幸は、早速、家康と抗戦中の北条勢が陣取る碓氷(うすい)を攻撃して孤立させます。

おかげで、北条はやむなく、家康と和睦して撤退・・・この功により、沼田城岩櫃城(いわびつじょう群馬県吾妻郡東吾妻町)戸石城(といしじょう=砥石城・長野県上田市上野)を得たうえに、もともとの小県や真田郷をも維持でき、何とか小大名として生き残る事に成功しました。

その後、天正十一年(1583年)の春ごろからは、後に真田を代表する城となる上田城の築城にとりかかる昌幸・・・

しかしここで、北条と和睦を結んだ家康が、
「昔、北条から奪った君の領地、返したってぇな」
と迫って来る・・・

「そんなんイヤじゃ」
と拒否する昌幸は、息子の弁丸=幸村を上杉の人質に差し出して協力を要請・・・これにブチ切れた家康が、未完成の上田城に攻撃を仕掛けたのが、第1次上田合戦=神川の戦い(8月2日参照>>)です。

ここで籠城作戦に出て家康を翻弄しているうちに、徳川の重臣・石川数正(いしかわかずまさ)が出奔して豊臣秀吉側に走った事で、結局、家康は上田城を落とす事無く撤退・・・

これをキッカケに、昌幸は、息子・幸村を上杉から秀吉の人質へと変更して、秀吉の傘下となり、その厚遇を得て、所領を守り抜いたのです。

・・・で、ご存じのように、この時のゴタゴタが尾を引いて、昌幸傘下の名胡桃城(なぐるみじょう)を北条側が攻撃した(10月23日参照>>)事により、あの小田原征伐(4月2日参照>>)が始まる事になるのですが・・・

・・・と、まぁ、ここまで、あっちに着いたりこっちに着いたり・・・めまぐるしく主君を変える昌幸ですが、これもひとえに、大物に睨まれた弱小大名が生き残らんがための策・・・

あっちこっち揺れるのも、ポリシーが無いからなのではなく、ただ一つ「真田の残すため」という一つのポリシーのためなのですから、結果を見れば大成功なわけで、そこが、昌幸が智将・謀将と言われる所以なのです。

こうして、秀吉傘下となった昌幸は、先の小田原征伐をはじめ、朝鮮出兵においても九州の名護屋城(なごやじょう=佐賀県)まで出陣し、伏見城の構築にも普請役として腕をふるいました。

そんな昌幸の最後の戦いとなったのが第2次上田合戦・・・ご存じ、あの関ヶ原の戦いの時の合戦です。

この時、家康の会津征伐に従軍しようとしていた昌幸は、途中で石田三成(いしだみつなり)からの書状を受け取り、協議の末、自分と、次男の幸村が西軍に、長男の信幸(のぶゆき=信之)が東軍につく事を決定し、親兄弟で袂を分かつ事になります(7月21日参照>>)

その後、中山道を西へとやってきた家康の三男=徳川秀忠を相手に籠城戦を展開(2010年9月7日参照>>)・・・東軍で最も多くの兵を率いていた秀忠が、肝心の関ヶ原に間に合わないという状況に追い込んだのです(2011年9月7日参照>>)

が、しかし・・・本チャンの関ヶ原で西軍が負けてしまった以上、昌幸も敗者・・・東軍についた信幸の必死の嘆願のおかげで死刑は免れたものの、次男=幸村とともに、紀州(和歌山県)高野山への追放という処分になってしまいます。

もちろん、昌幸としては、そのまま城を開け渡す気など毛頭なく、上田城に籠城して家康と一戦構える覚悟だったようですが、自らの領地がソックリそのまま東軍についた息子=信幸に引き継がれる事を知って、素直に処分を受ける事になったと言います。

やがて、高野山から九度山に移りますが、そこでの生活は、ほとんど信幸からの仕送りに頼りっぱなし・・・金銭面では苦労が絶えない生活となっていました。

以前、高野山への配流となった日づけでのページにも書かせていただいたように(12月13日参照>>)、いつか許されて普通の生活ができる事を夢見ながらも、晩年は、どんどん気弱になっていった昌幸・・・ 慶長十六年(1611年)6月4日、配流の身として17年間過ごした九度山にて、65年の生涯を閉じたのです。

徳川に2度勝った男=昌幸・・・ここで父を看取った幸村が、3度目の徳川撃退を夢見て九度山を脱出するのは、昌幸の死から3年後の慶長十九年(1614年)の事でした(10月9日参照>>)
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コメント

茶々様

この真田家にしても,例えば,平治の乱の時の源氏・平氏ともに,一族の中で必ず両軍に分かれますよね。

これって,どっちが勝っても,血統を守るためだというのをよく聞きますが,そんなことありえるのでしょうか?

源平の時代と関ヶ原の時代では,大きく自kん的に離れていますが…。

源平の場合は,単に叔父・甥の中が悪いからなんでしょうかねえ。

投稿: 鹿児島のタク | 2013年6月 5日 (水) 10時32分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

>どっちが勝っても,血統を守るためだと…

私は「ある」と思います。
関ヶ原の時は、真田家の他にも、毛利やら前田(宇喜多秀家含む)やら九鬼やら…他にも多くの大名が親兄弟で分かれているのは、やはり二股をかけて…という事だと思います。

以前、現地を訪れたお話を書かせていただいた猪崎城>>の塩見氏のような地元の国衆でも、福知山を平定しに来た明智光秀に対して、一家をあげて抵抗するものの、三男だけは光秀側について生き残るという選択をしています。

また、私個人としては、徳川家における、その役割が水戸家では無かったか?と考えており、以前の徳川慶喜の敵前逃亡がらみのページ>>でも書かせていただきました。

まぁ、そのような事は、おそらく記録に残さないでしょうから、あくまで推測の域を出ない話ではありますが…

投稿: 茶々 | 2013年6月 5日 (水) 14時52分

どもども お久です。
真田三代、好きなんですわ。
(先祖はコテンパンにやられたらしいですが…)
最近よく見かけるCG画像での幸村像…とても違和感が…。
(大阪の陣の頃は50代手前、髪も白くなり歯も抜けて、なんて記事を見た記憶が…)

ビジュアル系でなくかっこ悪かろうが己の信念を貫く、
こんな生き様の1/1000でもあやかりたいものです。

そうそう、「真田三代戦国歴史検定」なんてものも、あるそうで…(茶々様、如何?)

では


投稿: azuking | 2013年6月 6日 (木) 01時16分

茶々様

「徳川家における水戸家」…なるほど!

水戸家はちょっと違っていますよね。

何となく。「水戸黄門」の影響かなあ(笑)

だって,

参勤交代が確か,免除されているでしょう。

江戸屋敷が確か,江戸城内だったような気がする。(私の記憶が間違っていたら,訂正をお願いします。すみません。)

家格は,尾張・紀州より低いけど~。

確か,尾張・紀州は当主が「大納言」までいくけど,水戸は「中納言」ですもんね。だから,中国風の「黄門」となったわけで…。

また,他の御三家にもそういう傾向がありますが,江戸の初期から,朝廷のことをすごく尊重しますね。

水戸家だったか,ちょっと忘れてしまいましたが,「○○守を名乗るからには,我は朝臣だ。」ということを平気で言っている。

やっぱり水戸家は,ちょっと違っているなあ。

投稿: 鹿児島のタク | 2013年6月 6日 (木) 11時15分

azukingさん、こんにちは~

>最近よく見かけるCG画像での幸村像…

ですね~
まぁ、あれはあれで妄想をかきたてるられて良いのでしょうが…
前田慶次郎なんて、完全に直江兼続と同世代になってますからねww

投稿: 茶々 | 2013年6月 6日 (木) 13時17分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

そうなんです。
あの特別扱いと「水戸家の主君は天皇家」と言ってはばからないあたりが、とても気になります。

投稿: 茶々 | 2013年6月 6日 (木) 13時19分

むか~し、民放の歴史上の人物や一族の子孫を紹介する番組を見ていたら、なんと【物部氏】の御子孫の方が出ておりました。
血統を残す為、
親子でも「常に別行動」とお話になってました。子孫も大変だなぁと印象に残ってます。
外国だとユダヤ人がそうかな。

投稿: なな | 2013年6月14日 (金) 16時01分

ななさん、こんにちは~

やはり血統を残さねばならない家系の方々はそうなんでしょうね~

投稿: 茶々 | 2013年6月14日 (金) 17時51分

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