幕末にいたもう一人の天皇?東武皇帝・即位事件
慶応四年(明治元年・1868年)6月15日、東征する官軍=新政府軍に対抗すべく、奥羽越列藩同盟が擁立した北白川宮能久親王が東武皇帝として即位し、元号を「大政」に改元しました。
・・・・・・・・・・・
と言いましても、今回の即位&改元のお話は、未だ研究段階・・・様々な史料が残っている以上、そのような動きがあった事は確かでしょうが、実際に東武皇帝が天皇として即位したかどうかについては、未だ確証は無いので、あくまで、一つの説というスタンスでお聞きくださいm(_ _)m
・‥…━━━☆
今回の主役=東武皇帝とは、北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王の事で(実際には、幼名の満宮(みつのみや)、後に輪王寺宮(りんのうじのみや)、僧としての公現(こうげん)、とお名前が複数ありますが、ややこしいので、本日は、能久親王のお名前で呼ばせていただきます)、伏見宮邦家(ふしみのみやくにいえ)親王の第9子として弘化四年(1847年)に京都でお生まれになった皇族・・・第121代・孝明天皇の義弟であり、第122代明治天皇の義理の叔父でもあります。
やがて安政五年(1858年)の12歳の時に、輪王寺門跡(門跡=皇族・貴族が住職の寺)としての勅命(ちょくめい=天皇の命令)と、親王宣下を受け、その翌年には江戸へと下って寛永寺の慈性(じしょう)入道親王の得度を受け、年老いた慈性入道親王に代わって寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承する事に・・・つまり、皇族が代々受け継いで来たお寺のお坊さんになったわけですね。
その後、しばらくは、比叡山延暦寺で修業するなど、俗世間とは離れた僧としての修行の日々を送る事になります。
しかし、時代は、刻々と幕末の動乱に進んでいきます。
2度の長州征伐(5月22日参照>>)の後、薩摩と長州の同盟(1月21日参照>>)が結ばれて盛り上がる倒幕運動に、第15代江戸幕府将軍の徳川慶喜(よしのぶ)は、慶応三年(1867年)10月にいよいよ大政奉還(10月14日参照>>)・・・その後はご存じのように、12月9日の王政復古の大号令(12月9日参照>>)から、翌年正月の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へ・・・
この鳥羽伏見の戦いで、薩長軍が錦の御旗を掲げて官軍を強調した(1月5日参照>>)うえ、敗戦となってしまった事で、慶喜は単独で大坂城を脱出して江戸へと戻り(1月6日参照>>)、その後は、自ら蟄居謹慎して、ただひたすら恭順(きょうじゅん=戦わず命令に従う)の姿勢をとる事になるのですが・・・
この頃に、薩摩出身の先々代将軍の嫁=天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)(4月11日参照>>)や、前将軍=徳川家茂(いえもち)の奥さんで孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)(1月17日参照>>)などが、戦争回避&徳川家の存続を求めて、縁という縁をフル活用して薩摩や朝廷に働きかけた・・・というお話は、以前にも書かせていただきました。
そうです・・・なんとか、使える縁をフル活用して朝廷との間を取り持ってもらいたい幕府にとって、本日の主役=能久親王も、その縁の一つ・・・
慶応四年(1868年)2月、すでに駿府(すんぷ=静岡県)にまで達している官軍の東征大総督府の有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)に働きかけてほしいと頼まれたのです。
「慶喜の無罪を確保してもらえるよう説得できるのは静寛院様(和宮)か輪王寺宮様(能久親王)以外になく…」
と、幕府から懇願され、
早速、江戸を出立した能久親王一行は、戦時下となって雑兵や浮浪者がひきめき合う道を西へと向かい、3月のはじめには駿府に到着しました。
さすがに、能久親王は皇族・・・その名を告げると有栖川宮は、すんなりと面会して話を聞いてはくれたのですが、その返答は・・・
「私は、あのシャッポやし…」
と、近くにあった派手な軍帽を指差します。
そう、「自分は、あの帽子のような、先頭の飾り者だから…」=「何の権限も無い」と・・・で、結局、1週間後に下った総督府参謀の回答は「NO」でした。
むなしく寛永寺へと戻る能久親王ですが、そこに待っていたのは、ご存じ彰義隊(しょうぎたい)(2月23日参照>>)ら、幕府の恭順姿勢や江戸城無血開城を不服とする面々・・・
ここに集まる面々は、「今こそ天海大僧正のご出陣!!」と声を荒げます。
実は・・・
ご存じのように、この寛永寺を開山したのは、徳川家康・秀忠・家光に仕えた黒衣の宰相・天海さん(10月2日参照>>)・・・開幕当初、江戸の町を、そして徳川家を守り抜くべく徹底的に策を張りめぐらせた天海による『天海秘策』という噂が、この寛永寺には、まことしやかに語られていたのです。
その秘策とは・・・
「西より逆乱があって今上帝を奪う時、東叡山(寛永寺の事)の宮門跡を以って当今と仰ぎ平定の軍を進めよ」
と・・・
つまり、「京都におわす天皇が西国大名に担がれて幕府に刃向かった時は、この寛永寺を継ぐ皇族を冠に据えて平定しなさい」という事・・・
ウソかマコトか・・・こうして能久親王は動乱の渦に巻き込まれていきます。
やがて、ご存じの上野戦争・・・(5月15日参照>>)
この戦いで彰義隊は壊滅状態となりますが、戦場を脱出した能久親王は、すでに奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(4月25日参照>>)が形勢されていた東北へと向かう事になります(一説には、この一時期、東照宮のご神体も、新政府軍の攻撃を避けるべく、会津に運ばれたと言われています)。
かくして、あの会津をはじめとする東北諸藩に迎え入れられた能久親王は慶応四年(明治元年・1868年)6月15日、東武皇帝(東武天皇)として即位し、元号を慶応四年から大政元年に改元したのです。
・・・と念のため、もっかい言いますが、あくまで、これは一つの説で、実際に即位と改元があったかどうかは、未だ研究中・・・
また、「その説」によれば、先代の孝明天皇を愛してやまない会津の松平容保(かたもり)は、あまり東武皇帝の事を良く思わず、面会はしたものの、心通わす事もなかったとか・・・
ただし、当時のニューヨークタイムズにも、
「日本の北部における内乱で新しいミカドが擁立され、日本には二人のミカドが存在する事態になった」
と報じられているとの事なので、少なくとも、そう解釈できるような事態になっていた事は確かでしょう。
この時、東北諸藩の要請を断り切れなかった能久親王は
「そうか…それなら、私もシャッポになろう」
と言ったとか・・・
彼の、ここでの役目は、滞在していた白石城下を通りかかる軍隊に「エイエイオー」と声を挙げて、雰囲気を盛りあげる事だけだったらしいですが・・・
しかし、その後は、ご存じのように、北越戊辰戦争(7月29日参照>>)、会津戦争(9月22日参照>>)と続き、やがて東北一帯を焦土と化した戦争も終わりを告げます。
戦後には、一旦は蟄居の身となった能久親王・・・明治二年(1869年)に許された後、プロセイン(ドイツ北部)へ留学・・・帰国後は軍人となって日清戦争(2月2日参照>>)に出征しますが、台湾にてマラリアにかかり、48年に渡る波乱の生涯を閉じたのでした。
・・・と、まぁ、憶測含むのお話ではありますが、細かな事はともかく、能久親王は実在の人物ですし、東北諸藩にそういう動きがあった事も確か・・・
幕末動乱の日本にもう一つの・・・妄想をかきたてられる話ではあります。
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コメント
知らなかった~。
すごいですね~。
平将門の「新皇」の件…思い出しました。
三種の神器とかどうするのでしょうか。
じつは,私は(joke半分なのですが…)…自分の娘が生まれたときに「サクヤ」という名をつけました。天孫降臨の時のニニギノミコトの妻となる人(神)です。コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)です。
神武天皇から見ると,ひいおばあさんになります。
だから私は,今上天皇の124代前の神武天皇のひいおばあさんの「父親」ということになります。
すごいでしょう。
コノハナサクヤヒメは神話によれば,鹿児島の「クニツカミ」の娘です。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年6月18日 (火) 08時24分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
やはり「イワナガヒメ」のほうでは無いのですね(ジョークです)
私も…6年前のコノハナサクヤヒメのページ>>
でヒメのイラスト描きました(*゚ー゚*)
イラストにするなら美人の方がイイですもんね
投稿: 茶々 | 2013年6月18日 (火) 14時21分
確かに…
イワナガヒメなら,頑丈そうで,永遠に死なないかもしれないなあ。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年6月18日 (火) 15時31分
鹿児島のタクさん、すみません…
見た目の事ばかりが頭にあって、「岩のように長い…」というくだりを忘れ、誤解を招くような事を書いてしまいました。
申し訳ありませんでした。
投稿: 茶々 | 2013年6月18日 (火) 16時08分
いえいえ。大丈夫ですよ。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年6月19日 (水) 07時03分
鹿児島のタクさん、ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2013年6月19日 (水) 14時13分
こんばんは。
北白川宮は多分即位させられたと思います。
と言いますのは南北朝以降に後南朝があったのと応仁の乱に山名宗全が西帝と呼ばれた帝を擁しましたし、天海は多分そう言ったでしょう。確か会津、庄内が蝦夷をドイツ、アメリカに委ねようとしたと言う記事もありました。充分北白川宮が皇位に着いた可能性はあります。戦後に熊沢天皇が出たので…
ところで台湾で北白川宮を慰霊しています。台南にあります。また機会がありましたら訪ねます。茶々さんは如何ですか。
投稿: non | 2015年5月14日 (木) 04時24分
nonさん、こんばんは~
皇室はいつの時代も、少なからず歴史の影響を受けますからね~
台湾は最期の地…慰霊されているのですね。
投稿: 茶々 | 2015年5月14日 (木) 14時52分
茶々さん、こんばんは。
明治天皇はかなり北白川宮、久爾宮に同情的でしたし、明治維新のやり方に疑問を感じていたそうです。
実際に北白川宮を厚遇しましたし、久爾宮は昭和天皇の皇后の香淳皇后を生み出しました。
多分明治天皇は戊辰戦争みたいなのを西南戦争で終わりにしたかったと思います。
さて台湾で北白川宮は有名です。日本では征服みたいに言いますが、かなり好意的で、北白川宮の慰霊は今でも続いています。きちんと殿下と敬称を付けています。
西帝は後南朝の方らしいですが、それにしても皇室は結構昔から権力者に利用されますね。残念なことですが・・・
投稿: non | 2015年5月17日 (日) 19時43分
nonさん、こんばんは~
台湾は親日の方も多いと聞きました。
いつかブログでも紹介したいと思ってるんですが、日本人がダムを建設した話もありますしね。
投稿: 茶々 | 2015年5月18日 (月) 02時05分
茶々様 こんにちは
能久親王も寛永寺の門跡にも拘わらず、旗頭として上野戦争・奥羽越列藩同盟と危ない橋を渡って、天皇に即位と結構山っ気のある人みたいですね。
奥州では遊撃隊の林忠崇や人見勝太郎たちと接点があったのでしょうか。
一転軍人として日清戦争に従軍、台湾で病死と結構武の人だったのですね。
維新がなければ心穏やかな人生だったのかな?
投稿: 山根秀樹 | 2021年6月15日 (火) 10時44分
山根秀樹さん、こんばんは~
確かに、武の心をお持ちの方だったとは思いますが、やはり「担ぎ上げられた感」ありな気が…
それがなけれは、穏やかに過ごされていたと思います。
投稿: 茶々 | 2021年6月16日 (水) 04時23分