一条天皇、悲しみの譲位
寛弘八年(1011年)6月13日、第66代一条天皇が、皇太子の居貞親王へ譲位しました。
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第64代・円融(えんゆう)天皇の一人息子だった懐仁(やすひと)親王が、第66代一条天皇として皇位を継承したのは、わずか7歳の時でした。
実は、この皇位継承が、なんとなく周囲の思惑ありきの不可解な出家事件を起こした先代の花山(かざん)天皇の退位(2月8日参照>>)を受けての即位・・・
そのページにも書きましたように、誰もが、最も権力を握れる天皇の外戚(母方の親戚)をゲットしたいわけで、その椅子を巡って、とにかく、藤原氏同志でモメるモメる・・・
・・・で、結局、当時、力のあった藤原兼家(かねいえ)を外祖父に持つ一条天皇が、第66代の天皇になったわけです。
その後、即位から4年後の永祚二年(990年)に、その兼家が亡くなった後は、その息子の道隆(みちたか)・道兼(みちかね)が摂政や関白を務めますが、この二人も、まもなく病没し、その後に実権を握ったのが、彼らの弟=藤原道長(ふじわらのみちなが)(12月4日参照>>)で、ご存じのような藤原氏全盛の時代となるわけですが・・・
この間に11歳で元服し、なかなかに聡明な君主へと成長していった一条天皇は、ある寒い夜に「皆が寒がっているのに、自分だけ暖かくして寝るわけにはいかない」と、わざわざ衣を1枚脱いだ・・・なんて、やさしいエピソードも残る温和な天皇で、そのせいか、少々の不満にも声を荒げて周囲と衝突するような事もなく、才能のある者が、その政務を助けた事で、この時代は、おおむね平和な、いわゆる王朝文化華やかなりし時代となっており、
一条天皇自身も、「我、人を得たる事、延喜・天暦にも越えたり」と、世に『延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)』と賞賛される醍醐・村上両天皇の治世時代の平穏に自らの時代を重ね合わせる事もあったとか・・・
が、しかし・・・
ただ一つの気がかりが・・・
それが、一人の天皇に二人の皇后というややこしい現実・・・
実は、この一条天皇は元服してまもなく、藤原定子(ていし・さだこ)という女性を中宮に迎えていて、二人の間には、敦康(あつやす)親王という男の子が生まれているのですが、この定子のお父さんは、すでに亡くなっている道隆・・・つまり、すでに彼女に後ろ盾はないわけで、
しかも、彼女の兄が、先ほどの花山天皇相手に起こした事件で失脚したショックで出家し、いち時、後宮(天皇の大奥みたいな感じのとこです)を離れていた時期があった・・・
で、その時期に、チャンスとばかりに、時の権力者=道長が、自らの娘=彰子(しょうし・あきこ)を後宮に送り込んでいた(11月1日参照>>)わけですが、やはり一条天皇が大好きなのは定子のほう・・・で、結局、定子は呼び戻されて、再び後宮に入る・・・
道長は、なんとか一条天皇に、娘=彰子のもとへ通ってもらえるよう、書籍好きな天皇のために、彰子の部屋を、まるで図書館のような本だらけの部屋にしたりなんぞしますが、やっぱり一条天皇が大好きなのは定子のほう・・・で、そうこうしてる間に、天皇&定子の間に先ほどの敦康親王が生まれちゃうわけで、
慌てて、道長は、自らの権力をフル回転させて、娘=彰子を皇后、定子を皇后宮(号は二人とも中宮)って事にして一件落着させたのです(1月25日に後半部分参照>>)。
ちなみに、上記のページでもお話しましたが、
この時の、定子の家庭教師だったのが清少納言(せいしょうなごん)で、彰子の家庭教師だったのが紫式部(むらさきしきぶ)・・・ただし、よくライバル視される清少納言と紫式部ですが、二人が同時に宮中で働いた事はなく、清少納言が宮中を去った5年後に紫式部が家庭教師に採用されていますので、たぶん、面識は無かったと思われます。
・・・で、このように、面識の無い家庭教師同志がライバル的存在だったように錯覚してしまうくらい、一条天皇を巡る定子と彰子の関係は微妙だったわけですが・・・
そんな中、もともと、体があまり丈夫では無かった一条天皇が、寛弘八年(1011年)5月、病に伏せってしまいます。
当然、そこには後継者問題が生じる事になるのですが、次期天皇としては、すでに一条天皇が即位した時に、一条天皇の叔父で第63代の冷泉(れいぜい)天皇の皇子=居貞(おきさだ)親王が皇太子となっているので問題無し・・・
焦点は、その居貞親王が即位する時に立てねばならない皇太子・・・そう、先ほどの定子との間に生まれた敦康親王以外に、一条天皇には彰子との間に敦成(あつひら)親王をもうけています。
先ほどから書いてます通り、定子が好きで好きでたまらない一条天皇は、その子供である敦康親王を皇太子にしたいわけですが・・・
悩んだ一条天皇は、信頼する側近の藤原行成(ゆきなり・こうぜい)に相談します。
すると行成は
「お気持ちはわかりますけど、やっぱ、それはできまへんやろ。。。
皇統を継ぐっちゅーのは、正嫡やどうかとか、帝の寵愛がどうかとかではなく、外戚がいかに重要な人物であるかどうかですわ」
と・・・
敦康親王の母である定子は、すでに 長保二年(1001年)に亡くなっており、この時の敦康親王には外戚どころか、母さえいない状態・・・敦成親王の母=彰子は、もちろん健在ですし、なんたって、その父親が、今をときめく道長ですから・・・
もう、答えは決まっていました。
かくして寛弘八年(1011年)6月13日、一条天皇は居貞親王=三条天皇に譲位し、皇太子を敦成親王と定めたのです。
すでに病が悪化していたのか?
それとも、この悲しい決断が、そのお心に圧し掛かったのか?
一条天皇は、この譲位から、わずか9日後の6月22日に、32歳の若さでこの世を去ります。
やがて、その5年後、三条天皇は、皇太子の敦成親王に譲位・・・これが、第68代後一条天皇で、この時、自らの孫を天皇にした道長は
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
欠けたることの なしと思えば♪
という、勝利の歌を詠む事になります(10月16日参照>>)。
まぁ、そんな道長にも、ただ一つの気がかりがあったわけですが・・・そのお話は【道長の息子・藤原顕信の出家】でどうぞ>>
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コメント
斎藤利三の記事で長宗我部信親の討死が四国征伐の秀吉軍との戦いと誤解される書き方になっています。
九州征伐先陣の戸次川合戦での討死ですよね?
最近こっそり楽しくて拝見させてもらってます。とても興味深い記事ばかりで勉強になります。これからも頑張って下さい。
しかし、仙石隊は秀吉の命令で将来有望な信親を排除したんじゃないの?と疑ってみたり…。まぁ、領地召し上げされてるからないと思いたいです。
投稿: 徳寿まるーん | 2013年8月14日 (水) 22時47分
徳寿まるーんさん、こんばんは~
そうですね。
そのページからリンクしている戸次川の戦いのページを見ていただけると、九州征伐である事はわかるのですが、短い文にまとめようとして、誤解を招く文章になってましたね。
誤解の無いよう訂正させていただきました。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2013年8月15日 (木) 02時03分