条約改正に尽力した「電気通信の父」…寺島宗則
明治二十六年(1893年)6月6日、「電気通信の父」と呼ばれる薩摩藩出身の政治家・寺島宗則が死去しました。
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天保三年(1832年)に薩摩(鹿児島県西部)の郷士・長野成宗の次男として生まれた寺島宗則(てらしまむねのり)は、後継ぎがいなかった父の兄=松木宗保の養子となり、その後を継ぐ事になりますが、その叔父さん=宗保が医者だった事で、弘化二年(1845年)に江戸へ出て、蘭方医の戸塚静海(せいかい)に蘭方を、古賀勤堂(きんどう)に儒学を、伊東玄朴(げんぼく)に蘭学を・・・などなど、幅広い学問を学ぶチャンスに恵まれます。
特に蘭学では医学に留まらず、兵学・天文学・化学・物理学・造船技術など、幼い頃から優秀の誉れ高かった宗則は、どんどん吸収していきます。
やがて帰郷し、松木弘安(こうあん=弘庵)の名で医師として活動しますが、嘉永四年(1851年)に、島津斉彬(しまづなりあきら)が第11代の薩摩藩主になると、宗則の才能を高く評価していた斉彬は、彼を主治医とするだけでなく、自らが推進している集成館事業(しゅうせいかんじぎょう=様式産業を推進する事業)の一員に加えて、製鉄や造船をはじめ、大砲製造から洋式帆船の建造、食品製造やガス灯の実験など、様々な試作品の研究に当たらせるのです。
特に、斉彬が興味を示したのが電信・・・以前、その日づけで書かせていただきました通り(2月24日参照>>)、これは、あのペリーが2度目に来日した安政元年(1854年)に、その手土産として持って来た有線電信機の実験を行ったのが日本で最初なわけですが、
斉彬は、早くも、その2年後の安政三年(1856年)には、江戸の薩摩藩邸で実験を行い、翌年には、参勤交代で帰国した薩摩でも、城の本丸と二の丸の間に約500mの電線を引いての実験に成功しています。
この実験に宗則が関わったという記録はありませんが、当時は上記の通り、藩主の命により集成館事業の研究に当たっていたわけですから、おそらく、何かしらの役どころをこなしていた事でしょう。
また、語学も堪能だった宗則は、文久二年(1862年)に派遣された文久遣欧使節(1月22日参照>>)にも、医師兼通訳として同行・・・「外国をその目で直接見る」というチャンスにも恵まれました。
しかし、翌文久三年(1863年)に勃発した薩英戦争(7月2日参照>>)では、残念ながら、捕まって敵の捕虜に・・・と言いたいところですが・・・
なんか、ここまで見て来た限り・・・
たまたま後継ぎがいなかった叔父さんが医者で、思う存分蘭学などを学べた事、
勉学を修めて故郷に戻ったところで、革新的な斉彬が藩主になる事・・・などなど、
何やら宗則さんは強運に恵まれてる感満載なのですが、やはりここでも・・・
そう、敵に捕まって捕虜になった事で、「様式の軍隊がいかなるものか」を直で見る事ができ、それを見事に吸収したのです。
戦後には、薩摩藩がイギリスに派遣した薩摩藩遣英使節団(さつまはんけんえいしせつだん)の一人にも選ばれ、またまた、ナマのヨーロッパを見る機会を与えられたばかりでなく、そこでの経験が、帰国後に厚くなる、薩摩とイギリスの友好関係を促進した事は言うまでもありません。
そんなこんなで迎えた明治維新・・・
明治元年(1868年)に、神奈川県知事となっていた宗則は、「国営か?民営か?」はたまた「外国を参入させるのか?させないのか?」と意見が分かれていた電信事業に対し
「公共性と国益を重視し、東京⇔横浜間に国営で電信を敷設すべき」の建議書を提出し、それを認めさせました。
なんせ、この頃の横浜は、国際貿易都市として日々発展している場所でありましたから・・・
明治四年(1671年)には、長崎⇔上海間と長崎⇔ウラジオストック間の海底線が開通して、外国との電信業務が始まりますが、この時に、関連する外国の電信会社との交渉を、日本が有利な形で結実させたのも、すでにこの時には、外務大輔(がいむだゆう=現在の外務次官)となっていた宗則でした。
なので「電気通信の父」と呼ばれます。
一方、その電気通信事業とともに尽力していたのが、あの不平等条約の改正です。
明治六年(1873年)には参議兼外務大臣となった宗則は、外国人との様々な交渉を通訳無しでやってのけますが、アメリカとの交渉はなかなか良好だったものの、イギリスなど、ヨーロッパとの交渉はなかなか進まず・・・
なんせ、この頃は、「大臣=政治家」と「駐在外交官=官僚」に明確な区別がなく、宗則とともに幕末維新の動乱を駆け抜けた同僚が駐在大使を務めていた事もあって、大臣である宗則の意見に、外交官が度々反発するという事が起こっていたのです。
結局、最後には、志半ばで大臣の職を去る事になった宗則ですが、その思いは、あの陸奥宗光(むつむねみつ・伊達小次郎)(8月24日参照>>)に引き継がれる事になります。
明治二十一年(1888年)には、憲法草案を審議する枢密院の副議長に就任し、今度は海外ではなく、国民のために、国民を無視する政府に対して「民の情況に応じて政策を進めるべき」との意見を発表し、その実現に向かって
奔走しますが、この頃から持病の肺病が悪化・・・
しかし、それでも、病床から、かの条約改正問題について、国民のための政治について、の意見書を提出していたと言いますが、明治二十六年(1893年)6月6日、肺病とともに結核にも冒され、61歳の生涯を閉じたのです。
幕末維新の功労者には、生まれた藩、その立ち位置によって、自らの手腕を思う存分に発揮する事なく散っていった方々が、数多くいます。
先にも書きましたが、そんな人たちと比べると宗則さんはラッキーだったかも・・・いや、そのラッキーチャンスをモノにして成功を収めた人でしょう。
しかし、そんな彼であっても志半ば・・・長き人生を、信念を以って歩き続ける難しさを感じます。
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コメント
茶々様
島津斉彬(公)は,鹿児島市街地少し外れの「照国(てるくに)神社」の祭神です。…私は鹿児島県人なので(公)をつけさせて頂きます。
家康が「東照」であるのに対し,斉彬公は「照国」ですから…(笑)…明治新政府でどれだけ薩摩閥が幅を利かせていたかの裏返しでしょう。
実は,その「照国神社」の隣に「探勝園」という広場があります。木々が多く,池もあり,鹿児島市民にとっては,特に夏は憩いの場のひとつです。奥の方から,斉彬公,久光公,そして最後の藩主,忠義公の巨大な像が建っています。
その広場の入り口には,看板があって,ここで「有線電信機」の実験を行ったという説明が書いてあります。その場所は鹿児島城(鶴丸城)二の丸跡です。
実は,その探勝園という広場(公園)は,私が住んでいるマンションの7階から丸見えです。
茶々様のブログに偶然このことが出てきて驚いています。
最初にやったのは,どうやら江戸藩邸のようですが…。
さあ,今から照国神社と探勝園へ散歩に行ってきます。寺島宗則の活躍も分かってうれしかったです。
ちなみに,私の自宅から,鹿児島の西郷隆盛の銅像までは,100mもありません。東京上野公園と違って陸軍大将の姿です。故郷に錦を飾らせたかったのでしょう。
こんな日本の端っこでよくやったものだ!
投稿: 鹿児島のタク | 2013年6月 7日 (金) 12時08分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
そうなんですか…お近くにお住まいなのですね。
それにしても…ホント、薩摩の最先端ぶりはズゴイですね。
投稿: 茶々 | 2013年6月 7日 (金) 12時35分
もしもこれがドラマや小説だったら「出来すぎ」と思っていたところでしょうね。
幕末から明治への「先へ先へ」のエネルギーを感じ、ワクワクするようなエピソードです。
投稿: momo | 2013年6月 8日 (土) 02時39分
momoさん、こんにちは~
ホントですね~
これがドラマだったら、主人公が上へ上へと昇って行く様にワクワクするようなドラマになるでしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年6月 8日 (土) 14時16分
鹿児島のタクさん
私は、寺島宗則の出身地に住む凡人です。
今年は薩摩藩英国留学生渡欧150年記念ですね。寺島氏の功績は、国にとってかけがえのないものだったと自負しております。
この機会に、寺島氏の自宅後(松木宗安邸)の復興を進め、阿久根市の観光資源化を目指したいです。これが、大河ドラマになれば阿久根、鹿児島は、クローズアップされることまちがいないのですが。
投稿: 菓子の裏 | 2015年7月15日 (水) 09時55分
菓子の裏さん、こんにちは~
スポットが当たると良いですね。
投稿: 茶々 | 2015年7月15日 (水) 15時26分