南朝挽回?足利直冬と山名時氏・師氏の談合
正平八年・文和二年(1353年)6月9日、北朝から南朝に転じた山名師氏らが京都に進入しました。
・・・・・・・・・
鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都を制圧して(6月30日参照>>)開いた室町幕府が北朝・・・(8月15日参照>>)
尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野にて開いたのが南朝・・・(12月21日参照>>)
以来、半世紀に渡る南北朝の動乱の時代ですが・・・(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)
その間、京都を制圧し続けていた北朝が、おおむね有利な展開を進めていた中、将軍・尊氏の右腕だった弟の直義(ただよし)とのトラブルにより観応の擾乱(じょうらん)(10月29日参照>>)という北朝内での動乱が勃発・・・
直義を討伐するために関東に向かった尊氏は、ほどなく直義を制圧するものの、これをチャンスと見た亡き新田義貞の息子=新田義興(よしおき=義貞の次男)、義宗(よしむね=義貞の三男)、脇屋義治(わきやよしはる=義貞の甥)らが挙兵(2月20日参照>>) ・・・
関東にて転戦し、それらを何とか押さえる尊氏でした(2月28日参照>>)が、そんな尊氏留守の間の京都をすかさず狙って来たのが、今は亡き後醍醐天皇の後を継いでいる皇子=後村上(ごむらかみ)天皇・・・
父の留守を守っていた尊氏の息子・義詮(よしあきら)が、時間稼ぎで打診して来たかりそめの講和を逆手にとって、正平七年・文和元年(1352年)3月、完全武装で京都に乗り込みます。
これに、一旦は近江(滋賀県)へと退いた義詮でしたが、なんとか挽回・・・後村上天皇は、北朝3代の崇光(すこう)天皇をはじめとする歴代の北朝の天皇を拉致して八幡山(京都府八幡市)に籠りますが、大軍となった室町幕府軍に囲まれ、あえなく吉野へと脱出・・・(3月24日参照>>)
・・・と、八幡合戦と呼ばれるこの戦いに何とか勝利した北朝ですが、上記の通り、北朝の現役&歴代天皇全員を吉野に拉致されてしまった事で、正平七年・文和元年(1352年)8月27日、神器なし指名なしのままで後光厳(ごこうごん)天皇(1月29日参照>>)を即位させたのでした。
一方、幕府側には、この八幡合戦で武功を挙げた山名師氏(もろうじ)という武将がおりました。
彼は、その武功による恩賞の件を、幕府の有力者である佐々木道誉(どうよ)に頼んでいたのですが、その返事がいっこうに来ないどころか、状況を聞きにいっても「今日は連歌会だ」「明日は茶会だ」と言っては数時間も待たされて、面会すらしてもらえませんでした。
この仕打ちに
「身分は低いかも知れんけど、俺かて将軍一門のはしくれ…あまりにヒドイ扱いやないかい!」
と、怒り爆発の師氏は、領国の伯耆(ほうき=鳥取県)戻ると、父の山名時氏(ときうじ)とともに南朝方へと転身して挙兵・・・南朝軍と連合して、ともに京都に向かって進攻を開始しました。
一方の幕府・・・未だ尊氏は鎌倉にあり、義詮の守る京都は手薄でした。
やむなく義詮は、後光厳天皇を東坂本(滋賀県)に避難させ、少数ながらも防戦体制に入ります。
かくして正平八年・文和二年(1353年)6月9日、陽が昇ったばかりの早朝6時・・・互いに呼応した南朝軍と山名軍が京都に進入して来ます。
何とか奮戦するものの、やはり多勢に無勢・・・しかも、誘導作戦に引っ掛かり、多大な損失を出してしまった幕府軍・・・
やむなく義詮は自らも東坂本に退却し、更なる安全のために、後光厳天皇を美濃(岐阜県)の垂井(たるい)まで逃走させます。
こうして、京都を制圧した南朝&山名連合軍ではありましたが、ほどなく、「美濃に落ちた幕府軍のもとに続々と援軍が集まっている」との噂が入って来ます。
しかも、自軍の兵士たちが次々と減って・・・実は、彼らの兵士は、ほとんど伯耆から連れて来た兵士で、長期に渡る遠征に疲れて脱落する者があとを絶たなかったのです。
向こうには続々と援軍が・・・コチラは兵士が激減・・・
この状況に、師氏らは、やむなく京都を後にし、伯耆に戻って態勢をを立て直す事に・・・
しかし、その後、まもなく・・・山名が去った京都に、あの尊氏が戻ってきます。
早速、尊氏は、息子=義詮に山名討伐を命じ、播磨(はりま=兵庫県西部)へと向かわせました。
この情報を聞きつけた山名軍・・・
父の時氏が
「敵に対抗するためには、コチラにも、誰か名のある武将を迎え入れ、その人物を大将として立てなければ、これ以上の援軍は望めない」
と提案・・・
その白羽の矢が立ったのが、尊氏の次男=足利直冬(ただふゆ)でした。
実は、先ほどから京都を守っている義詮は尊氏の三男なので直冬のほうがお兄さん・・・しかし、生まれた時から、なぜか尊氏は、正室の子では無い彼を息子として認知せず、いち時は飢え死にするほどの困窮だったのを、見るに見かねた尊氏の弟の直義が、彼を養子として迎え入れたという経緯がありました。
先に書いた通り、この直義は観応の擾乱で死に追いやられたわけで・・・その時も、直冬が上洛しようとするのを、尊氏側の武将に阻止されてしまっていましたし、育った経緯から見ても、実父の尊氏とうまくいって無かった事は、誰の目にも明らか・・・
そんな直冬が、九州にて勢力をのばし始めると、それも、尊氏側についた武将に攻められ、ここのところ安芸(あき=広島県)や周防(すおう=山口県)のあたりを転々としていたのでした。
密かに直冬に連絡をつける時氏・・・
しかし、直冬が尊氏と敵対する事になれば、子が父に背く罪を犯す事になり、後光厳天皇に弓引けば、臣下が主君に刃向かう罪になる・・・
そこで、直冬は、南朝の後村上天皇に連絡をつけ
「尊氏&義詮以下、反逆した臣下の者を退治せよ」
との勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)を求めたのです。
それがあれば、天の怒りも民の非難もない、堂々たる戦いとなります。
直冬の
「ただただ天皇のお心を安らかにしてさしあげたいのです」
の言い分に、当然の事ながら、速やかに、その申請通りの命令書を下す後村上天皇・・・
さぁ、再び、南朝の挽回があるのか???
この戦いが開始されるのは正平十年・文和四年(1355年)正月の事・・・続きお話は、2月4日の【足利VS山名~南北朝・神南合戦】でどうぞ>>
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コメント
南北朝面白いなぁ。
大河ドラマでやればいいのに。
投稿: ことかね | 2013年6月10日 (月) 13時46分
所謂「玉の取り合い」ですね。
幕末の倒幕と似ている。
天皇(その側近)をひきいれた方が,正当性をもつ。
現代人にとっての「正当性」とは何ですかね~? あ~あ。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年6月10日 (月) 18時22分
ことかねさん、こんにちは~
ホントですね~
戦国と幕末が人気ですが、南北朝も負けず劣らず…まぁ、天皇さんが絡む部分が表現し難いのかも…ですね。
投稿: 茶々 | 2013年6月10日 (月) 19時04分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
>幕末の倒幕と…
確かに…
大義名分を求めて、あっちへこっちへって感じですね。
投稿: 茶々 | 2013年6月10日 (月) 19時06分