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2013年7月31日 (水)

大阪駅の変貌~大火で消えた幻の曽根崎川

 

明治四十二年(1909年)7月31日、後に「キタの大火」と呼ばれる事になる大きな火災が、現在の大阪駅南側で発生しました。

・・・・・・・・・・・

少し、大阪ローカルな話題で恐縮ですが・・・
その昔、現在の北新地のあたりには川が流れていた・・・というお話。。。

とは言え、JR大阪駅は、さすがに大阪の玄関口でもありますから、たとえ遠方にお住まいの方でも、1度は立ち寄られた事があるかも知れません。

そんな大阪駅周辺は、一般に「梅田」と呼ばれますが、これは、梅田宗庵(そうあん)なる人物の所有地だったからとか、その昔は低湿地帯で水浸しだったこの地を泥や土で埋めて田畑にした事から「埋田」と呼ばれていたのが、何となく字の雰囲気が悪いとして「梅田」とするようになったとか言われていますが、そもそも、江戸時代には、ここに火葬場がありました。

以前、江戸時代の「大坂市中引き回し」のコースを歩いた時のページ(12月17日参照>>)で、千日前に刑場があったお話をさせていただきましたが、江戸時代の大坂の南の果てが千日前なら、北の果てが、この梅田あたりだったわけです。

江戸時代の初期には、城下の復興事業の一環として、それまでバラバラに点在していたお墓を、曽根崎周辺に移転させた事で、「梅田墓」と呼ばれ、近松西鶴の作品にも、その名が登場する有名な墓地でした。

ちなみに、その墓地の名残りは、ごくごく最近まで、大阪駅北側の貨物の梅田駅の所に、一部が残っていたのですが、ここ数年の梅田北ヤードの開発で存亡の危機となり・・・現在の所、どうやら、阪急の梅田駅の所のように、後に1か所に集めて供養される方向にあるらしく、一旦撤去されているようです。

もちろん、周辺全部がお墓だったわけではなく、そばには美しい田園風景が広がっており、「梅田の牛駆け」という、菖蒲やツツジの花でキレイに着飾らせた牛を農夫が引きながら周辺を練り歩いて粽(ちまき)をまくという、農業中心ならではのお祭りも、江戸時代には行われていたのだとか・・・

そんな梅田周辺の風景が一転するのが明治時代・・・

そう、あの新橋⇔横浜間に日本初の鉄道が開通した(9月12日参照>>)2年後の明治七年(1874年)に大阪⇔神戸間の鉄道が開通し、それと同時に、ゴシック風赤レンガ造りの駅舎が誕生・・・これが、現在のJR大阪駅で、当時は、「大阪停留所」とか「梅田すてんしょ」と呼ばれました。

とは言え、その敷地内には、例の梅田墓地が健在であり、周辺は水田と草原だった事もあり、終電が終わると真っ暗闇に包まれ、人っ子一人寄りつかないような場所だったようです。

なんせ、もともと、駅は、江戸時代から蔵屋敷などが建ち並ぶ繁華街だった堂島あたりに造られる予定だったのが、住民の反対やら、土地買収の資金不足やらによって、地価の安い辺鄙な場所だった梅田に変更されたという経緯があったわけで、駅ができたとて、駅以外は何も無いところだったのですね。

しかし、開業当時は貨物の輸送が中心だった運輸業も、しだいに旅客運送が増加するようになり、やがて、大阪市電が乗り入れた明治三十八年(1905年)には、駅の敷地も北東側に大きく広がって現在の位置に移転する中、

翌・明治三十九年(1906年)には阪神電気鉄道が、やがて明治四十三年(1910年)には箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)が開業し、大阪駅周辺は飛躍的に発展する事になるのですが、その阪急電車参入の1年前の明治四十二年(1909年)7月31日に起こっていたのが、今回の「キタの大火」です。
(ちなみに、ウチの近所の爺ちゃん婆ちゃんなどは「天満の大火」と呼んでましたが…)

もちろん、火事はあってはならない悲しむべき出来事ですが、江戸時代の明暦の大火(7月18日参照>>)を見ても解る通り、それによって、古い町並みが再構築され、その悲しみをバネに新たなる発展を遂げる事も確か・・・。

この日=7月31日の早朝、空心町(現在の天満橋界隈)から出火した火は、強い東風にあおられて、西へ西へと広がって堂島小橋あたりまで到達・・・丸1日燃え続け、鎮火したのは、翌・8月1日の午後4時頃だったそうです。

焼失面積は約120万平方メートルにおよび、多数の人が焼け出されました。

実は、この時の瓦礫の捨て場となったのが、大阪駅のそばを流れていた曽根崎川だった・・・そう、この曽根崎川は、大火の瓦礫によって埋め立てられ、その姿を消す事になったのです。

↓は、現在のグーグルマップ

大きな地図で見る

↓は、ほぼ同じ位置の明治三十年(1897年)発行の大阪市全図(大阪駅周辺部分)ですが、
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大阪駅と堂島川(中之島の北側の川です)の間にあった川が、現在は無くなっているのがよくわかります。

この曽根崎川の跡地に誕生したのが、現在の北新地・・・ご存じのように、そこは、この先、大阪屈指の繁華街となって、大阪駅周辺の発展に拍車をかける事になるのです。

(※グーグルマップを大きくして見ていただくとわかるのですが、大阪駅南側を東西に走る国道2号線の交差点名が、「桜橋」「出入橋」「浄正橋」となっていて、昔に川が流れていた名残りが感じられます…ちなみに、昔は「出入橋」と「浄正橋」の間に「梅田橋」という橋も架かっていました。)
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

茶々様、おはようございます。

さすがに、大阪人の茶々様です。
大阪に、こんな歴史が、あったとは。
初めて知りました。

投稿: エアバスA381 | 2013年8月 1日 (木) 08時46分

エアバスA381さん、こんにちは~

ウチの実家は、大阪城の近くでも南側なので、ちょっと離れてますが、代々、天満あたりに住んでおられる友人のお家では、大火の話は、ずっと語り継がれているようでした。
最近は、ほとんど知られていませんが…

投稿: 茶々 | 2013年8月 1日 (木) 13時15分

へー梅田のそんな話知りませんでした。勉強になりました。故郷の大阪なのに、すっかり遠くなってしまった。

投稿: MINORU | 2013年8月 1日 (木) 15時54分

MINORUさん、こんにちは~

私も、最初聞いた時「へー、だから北新地なのか~」と思いました。

投稿: 茶々 | 2013年8月 1日 (木) 18時27分

茶々さん、こんばんは!

梅田の由来と曽根崎の歴史、面白く読ませて頂きました。

曽根崎の周辺って、学生時代に友人らとお初天神商店街で居酒屋に入ったり、カラオケしたりした時の宿泊先だったりしました。

以前、とある書物で鳥羽伏見の戦いの折りに松山藩の軍勢が「梅田村」にに駐屯した、という記事を見たんですね。

そこで、「あれ?おかしいなぁ」と思いました。

江戸時代って「梅田村」ってなかったやん。あるとすれば、摂津国西成郡曾根崎村の梅田墓地か梅田道とちゃうんか、って事で出版社にクレームをつけた事があります(笑)

梅田に関しては、湿地帯で「埋田」からなまったものとしか知らなかったので、梅田宗庵という地主がいたという情報はすごく新鮮です。

梅田宗庵について調べ物をする際に、いつか発見したいな、と感じました…

投稿: 御堂 | 2013年8月 1日 (木) 22時00分

御堂さん、こんばんは~

名前の由来には、埋田説や梅田宗庵説以外にも、「梅林だった」という説もあるようですね。
いずれも、ウワサの域を出ない話のようですが…

>江戸時代って「梅田村」って…

確かに、曽根崎村ですね。

投稿: 茶々 | 2013年8月 2日 (金) 01時00分

茶々さま
「キタの大火」「天満の大火」と呼ばれる大火が私の本籍地をなめるように進んでいく様がよく分かりました。昨年亡くなった父がその話をしていてその大火のために尼崎に移り住んだと話していました。先日父の整理のために訪れたお寺は大火のほんの外側にあります。お寺でもその話を聞きましたがこの記述で詳しく当時の様子を知ることができました。ありがとうございました。

投稿: Go Teddy! | 2013年9月 4日 (水) 00時07分

Go Teddy!さん、こんばんは~

そうでしたか…
この大火で別の場所に移られたご家庭も多くあるのでしょうね。
コメントありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2013年9月 4日 (水) 02時31分

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