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2013年7月31日 (水)

大阪駅の変貌~大火で消えた幻の曽根崎川

 

明治四十二年(1909年)7月31日、後に「キタの大火」と呼ばれる事になる大きな火災が、現在の大阪駅南側で発生しました。

・・・・・・・・・・・

少し、大阪ローカルな話題で恐縮ですが・・・
その昔、現在の北新地のあたりには川が流れていた・・・というお話。。。

とは言え、JR大阪駅は、さすがに大阪の玄関口でもありますから、たとえ遠方にお住まいの方でも、1度は立ち寄られた事があるかも知れません。

そんな大阪駅周辺は、一般に「梅田」と呼ばれますが、これは、梅田宗庵(そうあん)なる人物の所有地だったからとか、その昔は低湿地帯で水浸しだったこの地を泥や土で埋めて田畑にした事から「埋田」と呼ばれていたのが、何となく字の雰囲気が悪いとして「梅田」とするようになったとか言われていますが、そもそも、江戸時代には、ここに火葬場がありました。

以前、江戸時代の「大坂市中引き回し」のコースを歩いた時のページ(12月17日参照>>)で、千日前に刑場があったお話をさせていただきましたが、江戸時代の大坂の南の果てが千日前なら、北の果てが、この梅田あたりだったわけです。

江戸時代の初期には、城下の復興事業の一環として、それまでバラバラに点在していたお墓を、曽根崎周辺に移転させた事で、「梅田墓」と呼ばれ、近松西鶴の作品にも、その名が登場する有名な墓地でした。

ちなみに、その墓地の名残りは、ごくごく最近まで、大阪駅北側の貨物の梅田駅の所に、一部が残っていたのですが、ここ数年の梅田北ヤードの開発で存亡の危機となり・・・現在の所、どうやら、阪急の梅田駅の所のように、後に1か所に集めて供養される方向にあるらしく、一旦撤去されているようです。

もちろん、周辺全部がお墓だったわけではなく、そばには美しい田園風景が広がっており、「梅田の牛駆け」という、菖蒲やツツジの花でキレイに着飾らせた牛を農夫が引きながら周辺を練り歩いて粽(ちまき)をまくという、農業中心ならではのお祭りも、江戸時代には行われていたのだとか・・・

そんな梅田周辺の風景が一転するのが明治時代・・・

そう、あの新橋⇔横浜間に日本初の鉄道が開通した(9月12日参照>>)2年後の明治七年(1874年)に大阪⇔神戸間の鉄道が開通し、それと同時に、ゴシック風赤レンガ造りの駅舎が誕生・・・これが、現在のJR大阪駅で、当時は、「大阪停留所」とか「梅田すてんしょ」と呼ばれました。

とは言え、その敷地内には、例の梅田墓地が健在であり、周辺は水田と草原だった事もあり、終電が終わると真っ暗闇に包まれ、人っ子一人寄りつかないような場所だったようです。

なんせ、もともと、駅は、江戸時代から蔵屋敷などが建ち並ぶ繁華街だった堂島あたりに造られる予定だったのが、住民の反対やら、土地買収の資金不足やらによって、地価の安い辺鄙な場所だった梅田に変更されたという経緯があったわけで、駅ができたとて、駅以外は何も無いところだったのですね。

しかし、開業当時は貨物の輸送が中心だった運輸業も、しだいに旅客運送が増加するようになり、やがて、大阪市電が乗り入れた明治三十八年(1905年)には、駅の敷地も北東側に大きく広がって現在の位置に移転する中、

翌・明治三十九年(1906年)には阪神電気鉄道が、やがて明治四十三年(1910年)には箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)が開業し、大阪駅周辺は飛躍的に発展する事になるのですが、その阪急電車参入の1年前の明治四十二年(1909年)7月31日に起こっていたのが、今回の「キタの大火」です。
(ちなみに、ウチの近所の爺ちゃん婆ちゃんなどは「天満の大火」と呼んでましたが…)

もちろん、火事はあってはならない悲しむべき出来事ですが、江戸時代の明暦の大火(7月18日参照>>)を見ても解る通り、それによって、古い町並みが再構築され、その悲しみをバネに新たなる発展を遂げる事も確か・・・。

この日=7月31日の早朝、空心町(現在の天満橋界隈)から出火した火は、強い東風にあおられて、西へ西へと広がって堂島小橋あたりまで到達・・・丸1日燃え続け、鎮火したのは、翌・8月1日の午後4時頃だったそうです。

焼失面積は約120万平方メートルにおよび、多数の人が焼け出されました。

実は、この時の瓦礫の捨て場となったのが、大阪駅のそばを流れていた曽根崎川だった・・・そう、この曽根崎川は、大火の瓦礫によって埋め立てられ、その姿を消す事になったのです。

↓は、現在のグーグルマップ

大きな地図で見る

↓は、ほぼ同じ位置の明治三十年(1897年)発行の大阪市全図(大阪駅周辺部分)ですが、
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大阪駅と堂島川(中之島の北側の川です)の間にあった川が、現在は無くなっているのがよくわかります。

この曽根崎川の跡地に誕生したのが、現在の北新地・・・ご存じのように、そこは、この先、大阪屈指の繁華街となって、大阪駅周辺の発展に拍車をかける事になるのです。

(※グーグルマップを大きくして見ていただくとわかるのですが、大阪駅南側を東西に走る国道2号線の交差点名が、「桜橋」「出入橋」「浄正橋」となっていて、昔に川が流れていた名残りが感じられます…ちなみに、昔は「出入橋」と「浄正橋」の間に「梅田橋」という橋も架かっていました。)
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2013年7月28日 (日)

アクセスが1000万HITを越えましたm(_ _)m感謝!!

私事で恐縮ですが・・・

昨夜遅く、このブログのアクセス数が、1000万HITを越えました。

まさかまさかの1000万越え!!

不肖茶々、ありがたき幸せにございます。

1000万という大なる節目となり、心機一転、新たな気持ちでまい進して行きたいと、心に誓いつつも、最近は、少々忙しい日々が続いております。

今後、ますます多忙になりそうなので、時々は、更新が怠る場面もあろうかとは思いますが、皆様の長~い目で、広~いお心で、今後とも、この「今日は何の日?徒然日記」を可愛がってやってくださいませo(_ _)oペコッ

焦っても、慌てても、いつの時も、時間は同じスピードで流れていきます。

ならば、慌てず騒がず、ドッシリと構えて、落ちついて、これからもやって行きたいと思います。

更新の無い時は、是非とも過去記事に目を通していただきながら、・・・

独断と偏見に満ち、勘違いも多い、単なる歴史好きのブログではありますが、これからも、2000万・3000万に向けて(←ホンマかいな?)頑張って参りますので、よろしく、お願いいたします。

まずは、節目のごあいさつ・・・という事で、

皆様、いつもいつものご訪問、本当にありがとうございます。。。
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 ★過去記事へは・・・

 などからどうぞm(_ _)m

最後に、難波宮跡(大阪市中央区)に沈む夕陽を…
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この写真を見てると
「あぁ、額田王(ぬかたのおおきみ)(1月6日参照>>)も、こうして、ここから夕陽をみたのかなぁ」
なんてな事を思い、その悠久の歴史の中で、アタフタしてる自分がアホらしくなって、ゆっくりと、落ち着く事ができるのですよ(←個人の感想です)
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2013年7月23日 (火)

朝倉氏に仕えた盲目の剣豪・冨田勢源

 

永禄三年(1560年)7月23日、剣術・中条流の達人の冨田勢源が、斎藤義龍の命により梅津某と立ち会い、勝利しました。

・・・・・・・・・

本日の主役=冨田勢源(とだせいげん・富田勢厳)が継承する中条流平法(中條流平法)は、中条長秀を開祖とする短い太刀を使う剣術として名を馳せた流派です。

その4代めで、越前(福井県)朝倉氏の家臣だった冨田九郎左衛門長家(くろうざえもんながいえ)の次男として生まれた勢源でしたが、父の後を継いで5代めとなっていた兄が亡くなった事を受けて、6代めを継いだのです。

宮本武蔵の伝記である『二天記(にてんき)によれば、勢源は、あの佐々木小次郎(4月13日参照>>)の師匠って事になってますが、それだと、巌流島での決闘の時には、小次郎が70歳近い老人になってしまうため、カッコイイ決闘シーンをイメージしている武蔵ファンのサイドからは否定的な意見もあり・・・

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一乗谷朝倉氏遺跡:勢源の道場は、写真の一乗谷川を遡った朝倉氏遺跡の南端あたりに位置する神明神社の近くにあったとされます。
(朝倉氏遺跡については
2012年4月11日のページ>> でどうぞ)

とにもかくにも、当然の事ながら、勢源は小太刀の名人だったわけですが、30歳を過ぎた頃から眼病を患ってしまったために、家督と流儀を弟の景政に譲って出家・・・この時から勢源と号しました。

そんな勢源の最も有名な逸話が、永禄三年(1560年)7月23日に行われた梅津某との試合・・・

『冨田伝書』によれば・・・

この時、勢源は、主君にあたる朝倉義景(よしかげ)の叔父・朝倉成就坊(じょうじゅぼう)稲葉山城下(岐阜県岐阜市)に訪ね、しばらくの間、そのお屋敷に滞在しておりました。

当時の美濃(岐阜県)は、父・斎藤道三(どうさん)長良川で破った(4月20日参照>>)息子・斉藤義龍(よしたつ)が治める地・・・

・・・で、この勢源の滞在を知ったのが、その義龍の一族に剣術指南役として召し抱えられていた梅津某なる神道流の達人・・・

「小太刀の名人が城下にいる」
と聞けば、腕に覚えのある梅津は、その腕前を見てみたくてたまりません。

そこで、門弟を使いにやり、試合を申し込んでみたのですが、
「僕の腕前なんて、大した事おまへん…小太刀のワザを見たいんやったら、越前へ行きなはれ~
そもそも、中条流は他流試合は禁じられてますし…」

と、つれない返事。

この態度に腹を立てた梅津は、
「所詮、勢源なんか恐れるに足らんやっちゃ!
アイツの弟子かて、ワシには歯が立たんかったし…
なんせ、俺は、試合となったら、主君でも容赦せんよってになww」

との暴言を・・・

これに黙っていなかったのが、「容赦せん」と言われた国主の義龍・・・自分とこの剣士とは言え、「なんか腹立つ!!」と怒り心頭で、義龍自ら、勢源に試合を受けるよう要請するのです。

それでも、一旦は断わる勢源でしたが、結局は、「国主自らのたっての願い」いや、「命令」とあらば、受けないわけにはいかなくなってしまいました。

かくして永禄三年(1560年)7月23日、午前7時・・・場所は、検視役を務める事となった武藤淡路守の屋敷の庭先・・・

この日、梅津は、空色の小袖に木綿の袴を着用し、手には長さ三尺五寸(約1m強)の大きな木刀・・・その姿は、まるで「龍が空を飛び、虎が風に向かうよう」であったとか・・・

一方の勢源は、武藤家の屋敷に無造作に積んであった薪の中から、一尺2~3寸(約40cm)の割り木を手に取り、その持ち手の部分に皮を巻き・・・その着衣も、柳色のジミ~~な小袖に半袴。

それは、まるで「牡丹の花の下に眠る猫のよう」だったとか・・・

両者相対した雰囲気は、どう見ても、梅津の勝利・・・

しかも、おもむろに縁側から庭へと降りた勢源は、割木の小太刀を提げて構え、どうやら、相手の事がよく見えていない様子・・・そう、実は、この時の勢源は、もう、ほとんど失明の状態だったのです。

しかし・・・
仕掛けたのは、その勢源の方でした。

・・・と同時に声を挙げ、受けて立つ梅津・・・が、勝負は一瞬で決まりました。

互いに交わっただけに見えた両者でしたが、その一瞬のうちに梅津は顔の側面と二の腕を強打されて出血・・・

とは言え、梅津も達人・・・慌てて握り直した木刀で以って、勢源に打ちかかります。

それをヒラリとかわした勢源は、今度は右腕をスッコ~ンと・・・

たまらず前に倒れる梅津の手から木刀が転げ落ちると、勢源は、すかさず、その木刀を足で踏みつけで真っ二つにへし折りました。

それでもあきらめきれない梅津は、懐から脇差を抜いて斬りかかりますが、それをも、割木の小太刀で打ち据えた勢源・・・ここで、勝負あった!!

その後、真っ二つとなった梅津の木刀を手に、義龍の前に参上した武藤が、試合の様子をつぶさに伝えると、義龍は
「末代までの語り草にするゾ!」
と大喜び・・・

その褒美として、勢源に『鵝眼萬疋(ががんまんびき)』と『小袖一重(こそでひとかさね)』を与えると言います。

『鵝眼』とは現金の事で、『萬疋』とは「好きなだけ」・・・つまり、無制限の賞金を与えるって事だったのですが、当の勢源は、その申し出を丁重にお断りし、さっさと一乗谷に戻っていったのだとか・・・

カッコイイなぁ~~(* ̄ー ̄*)勢源さん・・・

まぁ、こういった剣豪の逸話は、どこまで本当の事か怪しい部分もあり、梅津某さんにとっては、「名誉棄損で訴えてやる!」的なお話なのかも知れませんが、今日のところは、そのカッコ良さにウットリしておく事にしましょう。
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2013年7月20日 (土)

牛になった女房~田中広虫女の話

 

宝亀七年(776年)7月20日、讃岐国に住む田中広虫女が病死しました。

・・・・・・・・

と言いましても、この女性・・・歴史上の人物という事ではなく、『日本霊異記(にほんれいいき=日本国現報善悪霊異記) という説話集の下巻・第26話に登場する物語の主人公です。

Nihonreiiki200 まぁ、小さい頃には、
「食べて、すぐ寝ると牛になるで~」
てな事を母親から言われたもんですが・・・

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とにもかくにも、
その物語によりますと、田中広虫女(たなかのひろむしめ)は、讃岐((さぬき=香川県)美貴(みき=三木)郡司(ぐんじ・国司の下で働く地方官)小屋県主宮手(おやのあがたぬしのみやて)の妻で、二人の間には8人の子供をもうけていました。

広大な田畑を所有していて、多くの使用人や牛馬を使い、何不自由ない裕福な暮らし・・・

ただ一つ・・・彼女には大きな欠点が・・・

それは、信仰心が無く、生まれながらにケチで強欲で、豊かな心を知らない・・・つまり、性格がメッチャ悪かったのです。

大きな農場の他にも、酒屋や金融業も営んでいた彼女は、水でうすめたお酒を高値で販売したり、稲やお酒を貸す時には小さい升で計って貸したくせに返す時は大きな升で返すように強要したり、その利息も他者の10倍100倍にて徴収したり・・・

とにかく、彼女の周囲では、路頭に迷って、一家で夜逃げする人続出だったわけですが・・・

そんな彼女が、宝亀七年(776年)の6月に入って、突然、病に倒れ、意識を失ってしまいます。

必死の看病にも関わらず、彼女は1ヶ月の間、昏睡状態が続きます。

やがて、訪れた宝亀七年(776年)7月20日・・・

この日、突然意識を回復した広虫女は、枕元に夫と子供たちを呼んで、昏睡状態の中で見た夢の話をします。

夢の中で、彼女は、閻魔大王の宮殿に連れていかれ、大王から3つの大罪を指摘されたというのです。

その3つの大罪とは・・・
●寺院の財産を使い込んで返却しない事、
●水増しのお酒を売った事

そして
●貸す時には小さく、返済の時には大きな升を使って暴利をむさぼった事

しかし、その事を語ってまもなく、広虫女は息をひきとってしまいました。

夫や子供たちは悲しみに暮れながらも、僧侶や祈祷師を呼んで、冥福を祈るのですが、そうこうしているうちの7日目の夜・・・なんと、彼女は息を吹き返すのです。

この世の物とは思えない異様な悪臭とともに棺桶のフタを開けて登場する広虫女・・・しかし、生き返った彼女の姿は、上半身が牛で額に角が生え、手足にはヒズメがあります。

しかも、草しか食べず、牛独特の反芻(はんすう=食べた物を再び噛みなおすアレです)もするのです。

またたく間に、この話を聞きつけた近隣・・・いや、遠く離れた場所からも、ひと目見ようという見物人が後を絶たなくなって、困り果てる家族・・・

彼女が亡くなる前に語った3つの大罪の話が頭から離れない夫は、抱え込んでいた宝物を、近隣の寺院や、奈良の東大寺に寄進して、すべてを変換・・・・人々の借金も帳消しにして、これまでの罪を償うのです。

このおかげで、牛となってから5日後、広虫女は、やっと、安らかに死ぬ事ができました。

・‥…━━━☆

と、こんな感じのお話です。

もちろん、「これは説話集にあるお話なので…」とことわらなくとも、内容がすべて事実だと思われる方はおられないでしょうが、かと言って、「架空の作り話だから、歴史には関係ない」と言ってしまえないのも、この類いの説話のオモシロイところ・・・

そうです。

例え、「生き返ったのどうの」という内容が作り話だったとしても、その物語の背景が、その時代を浮き彫りにしている可能性が高いのです。

物語の舞台となる宝亀七年(776年)は、奈良時代の終わり頃ですが、『日本霊異記』 が成立したのは、平安時代の初めとされています(弘仁十三年 (822年) の説あり)

下巻に著者の自叙伝的な内容も含まれているところから、この物語を書いたのは、奈良の薬師寺の僧だった景戒(きょうかい・けいかい)だとされていますが、この景戒さんは、もともとは妻子を持つ俗世間に生きていた人・・・

つまり、根っから坊さんのエリート的な道を歩んで来た僧でない事が幸いし、もっぱら貴族や金持ち相手の平安初期の仏教界において、一段高い上から目線では無い、一般人とも深く交わる庶民のお坊さんだったようなんです。

・・・で、そんなお坊さんが書いた物語の背景・・・

この平安時代初期という時代は、地方豪族が、その裕福さと特権を良い事に、何かと私利私欲にばかり走り、挙句の果てに庶民を喰い物にして不当な利益をあげるという事が多々あった時代なのです。

少し後になりますが、以前書かせていただいた藤原元命(もとなが)が訴えられた事件(11月8日参照>>)なんか、まさにそうですね。

なんせ、その地を治めている人がワルサをするのですから、取り締まりもヘッタクレもなく、やりたい放題だったわけです。

そんな上層部に抑えつけられる庶民に対して、紹介する物語は、
「…故に過ぎて徴(はた)り迫(せ)むること莫か(なか)れ」
欲の出し過ぎはアカンで~
という言葉で、最後を締めくくっている事でもわかるように、結局は「悪い事をしてはいけない」という「教え」・・・

庶民に身近な、「あるある」的な題材を使って、仏の道&人の道を、わかりやすく伝える・・・それが、この物語のテーマだったという事ですね。
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2013年7月16日 (火)

利家を…前田家を支えた良妻賢母・芳春院まつ

 

元和三年(1617年)7月16日、加賀の戦国大名・前田利家の奥さん・まつ=後に芳春院が、この世を去りました。

・・・・・・・・

歴史として語る時は芳春院(ほうしゅんいん)さんの方が一般的なのかも知れませんが、ご存じのように、それは夫の前田利家(としいえ)が亡くなってからの号なので、本日は、このページを通して「まつ」さんと呼ばせていただきます。

Matu600 そんな、まつさんは、織田家家臣の篠原主計(しのはらかずえ)の娘として天文十六年(1547年)、尾張国(愛知県西部)に生まれますが、まもなく、母親が高島直吉と再婚したため、高島氏の娘となります。

その再婚が関係あるのかないのか?・・・とにかく、彼女が4歳になった時に、母の姉にあたる女性の家族に引き取られて、そこで養育される事になります。

その母の姉という人が、織田家の家臣で、当時、尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主だった前田利昌(としまさ=利春)の奥さんで、二人の間に生まれていたのが、後に、まつの夫となる利家・・・つまり、まつと利家は従兄弟同志で、しかも、まつが4歳の時から、同じ屋根の下に暮らす間柄という事になります。

そんな利家とまつが結婚するのは永禄元年(1558年)・・・利家:21歳、まつ:12歳の初々しい新婚生活・・・とはいかなかった(>0<)

なんせ、この頃の利家は、未だ血気盛んな「かぶき者」・・・かぶき者とは「傾く=かぶく」から来た形容詞で、世間一般には収まらない奇抜な服装をして奇抜な行動をとる、やや古いですが、いわゆる「ツッパリ」「ヤンキー」みたいな不良少年の事を指すわけで、

この血気盛んな行動のために、利家は、結婚してまもなく職を失い、路頭に迷う事に・・・(12月25日参照>>)

この事件が、まつが長女を出産した前後の事なので、乳飲み子を抱えての夫の失業は、さそかし不安だった事でしょう。

とは言え、このまつさん・・・この夫のヤンキーぶりに嫌気がさしていたかというと、そうではなく、意外に、そんなヤンチャが好みのようで・・・

それは、前田家に家宝として伝わる「おそらくまつの手縫いに間違いない」と言われている利家の陣羽織のデザインが、これまた見事な「これぞ、かぶき者!」というデザインなのだそうです。

なので、おそらく、彼女の好みは、ちょうと不良っぽい男性で、ひょっとしたら、彼女自身もヤンママだった可能性も・・・しかし、それでいてしっかりと子育てするし、家庭を守るし、利家との間には10人もの子供をもうけるラブラブぶりだったわけですから、まさに良妻賢母!!

・・・と、そんな中、彼女は、女&母としての一大決心をします。

それは、天正二年(1574年)に二人の間に生まれていた四女・豪姫(ごうひめ)(5月23日参照>>)を、親友のおね夫婦の養女とする事・・・

ご存じのように、このおね(ねね)は、あの豊臣秀吉の奥さんですが、まつとおねは、夫が同僚同志の友人にとどまらない、幼馴染の大親友で、むしろ、この奥さん同志が仲良かったから、旦那同志も仲良くなった的な雰囲気があります。

有名なところでは、秀吉とおねが結婚する際に、利家とまつが仲人になった(8月3日参照>>)というお話ですが、実は、利家とまつが結婚する際にも、おねが応援していたという話もあり、おそらくは、尾張清州の城下で、幼い頃から「なかよし」だったのでしょう。

とは言え、いくら仲よしでも、わずか2歳のわが娘を養女に出すのは、母親として胸が痛いもの・・・おそらくは、実子のいない秀吉&おね夫婦に望まれたのでしょうが、この頃は、近江(滋賀県)長浜城主として一国一城の主となった秀吉同様に、利家も府中城主となって大名並みの身分となっており、以前のように「子供多くて食べるに困る」状況では無いだけに、彼女も迷ったかも知れません。

しかし、それこそ、気心知れた大親友に預けるのです。

しかも、世は、明日をも知れぬ戦国・・・彼女は、母としての思いを持つ一方で、戦国乱世に家を守る奥方として、大いなる決心をし、豪姫を養女に出したのでしょう。

この一大決心は、後に、前田家の行く道を左右します・・・それがあの賤ヶ岳の戦い

ご存じのように、この戦いは、信長亡き後の織田家内での覇権を巡って、家臣筆頭で、信長の妹(もしくは姪)お市の方を妻とする柴田勝家と、天王山で主君の仇討ち(6月13日参照>>)をした秀吉が戦った合戦・・・(3月9日参照>>)

この時、はじめ、勝家側として参戦した利家は、秀吉が、あの中国大返しを彷彿とさせるスピードで美濃(岐阜県)から戻ってきた(4月20日参照>>)と同時に戦線離脱・・・結局、何もしないまま府中城に戻ってしまいます(4月23日参照>>)

これは、秀吉との連携があったとも無かったとも言われる撤退で、微妙ではありますが、この時点では、利家は、あくまで中立・・・どちらの味方をする事もなく、居城に戻った事になりますが、

『川角太閤記』によれば・・・
この後、柴田軍を追撃すべく、越前(福井県)北ノ庄城に向かう秀吉が、利家の府中城に立ち寄った際、鉄砲の攻撃を避けるべく自軍を退かせて、秀吉ただ一人で馬に乗り大手門を通過・・・それと知った利家&利長父子が、出迎えると、それを振り切って奥へと向かい、台所にて「まつ殿に会いたい!」と叫び、まつが登場すると、
「こないだも姫路から知らせが来ましたんやけど、養女にいただいた豪姫は、すくすくと元気に育ってまっさかいに…」
と、まず、豪姫の近況を、まつに伝えたと言います。

さらに、秀吉が
「今回の合戦で思う存分戦えたんも、利家くんのおかげやし…ついては、ちょいと旦那を借りるけど、息子は、まつ殿のそばにいさせといたたらええわ。
とにかく、急ぐんでバタバタするけど、
(越前での)戦いに勝った帰り道に、またゆっくりさしてもらうよって…」

と言うと、まつは、すぐに、息子=利長を呼び寄せ
「あんたも早く仕度をして、すぐに行きなさい」
と、秀吉が、そばに置いておいても良いと言った息子を出陣させるのです。

このまつの意見に同調した利家も、息子に
「そや、秀吉の先手衆よりも先に行くんや」
と父子で出陣・・・そう、ここで、利家とまつは、人質とも言える息子を秀吉のもとに行かせる事で、中立から秀吉側となる事を、瞬時に決定し、この決定が、この後の前田家の行く末をも決めた事は、皆様ご承知の通りです。

そんなこんなで、前田家が岐路に立った時、ことごとく、そのビッグマミーぶりを発揮する彼女ですが、その最後の一大決心となったのが、あの関ヶ原直前の江戸下向(5月17日参照>>)です。

秀吉も利家も亡き後、息子・利長が継いだ前田家に謀反の疑いがかかり、「このままやったら征伐に向かうぞ!」と言う徳川家康に対して、人質、あるいは証人とも言える形で、まつは江戸に向かう事になるのですが、そのページにも書かせていただいたように、この下向の旅に、豊臣家を挙げてのサポートがあった事から、まつが、前田家の代表なのか?豊臣政権の代表なのかが微妙なところなのですが、

とにもかくにも、ここでまつが江戸へと向かい、利長が、北陸の関ヶ原と言われる浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)で徳川方=東軍についた事から、戦後は、中立あるいは西軍寄りの立場だった次男=前田利政(としまさ)の領地は没収されたものの、その領地は、そっくりそのまま利長の領地となって前田家は生き残る事となります。

しかし、それでも、まつの江戸滞在が許される事はなく、それは15年の長きに渡って続きました。

なので、まつさんは、この後、江戸の幕藩体制で確立される、藩主の妻子が江戸で居住し、藩主が江戸と領国を行き来する、あの体制の第1号と言われています。

この間、まつは、そのほとんどを辰の口(大手町付近)前田邸で過ごし、領地を没収されて浪人の身となっていいる利政の復権に向けて奔走したりしますが、年齢が重なるにつれて病気がちになり、徳川将軍家も、「有馬温泉に湯治に行ったら?」「伊勢参りに行ってみたら?」と何かと気をつかっていたようですが、

まつ自身は
♪すく(過ご)しこし むそぢあまりの 春の夢
 さめてのゝちは あらしふくなり ♪

と、「春の夢のような昔に比べて、今は嵐が吹くようだ」と、嘆くような歌を詠んだりしていますが・・・

とは言え、さすが、元ヤンママのビッグマミー・・・嘆いてばかりではなく、一方の娘の手紙には
「利政の事について、家康さんは、はじめは調子のええ返事をしてはったんやけど、今はそうでもなく、こればっかりは、はたが頑張ってもどうもならん事やろね~
最近は、口を開けば遺言みたいに、自分が死んだ後の事ばっかり・・・
秀吉さんが、あれだけ周囲に誓紙を出さして五大老のみんなにもイロイロ頼んだ事を、全部無しにしたんは自分のくせに・・・ホンマ、おかしな話やで。
私は、ここのところ、ノドが痛かったり、胸が痛かったりするけど、食欲はあるさかいに心配せんといてね」

と、なかなかの発言をしてくれています。

結局・・・
まつが金沢へ帰国できるのは、慶長十九年(1614年)に息子=利長が亡くなった(5月20日参照>>)後の事・・・

その後、豊臣滅亡の翌ゝ年の元和三年(1617年)には、念願の上洛を果たし、嵯峨野にて隠居生活をしている利政に会ったり、高台寺で過ごしていたおねに会ったり・・・おそらく、息子やその孫、そして幼い頃からの親友と、お互いに、積りに積もりまくった思いを伝え合った事と思いますが、それで、張っていた緊張の糸がほどけたのでしょうか?

その旅から戻ってまもなくの元和三年(1617年)7月16日金沢にて71歳の生涯を閉じたのでした。

ドン底の新婚生活から、華やかな政権の中枢に・・・
いつの時も、夫と子供たちと前田家のために・・・

しかし、その歩いた道に悔いは無く、いつ、どんな状況でも誇りは失わなかった事でしょう。

加賀百万石の祖は利家ですが、そこには、彼を助けて余りある、まつの頑張りがあったのです。
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2013年7月12日 (金)

兄・容保とともに幕末を生きた桑名藩主・松平定敬

 

明治四十一年(1908年)7月12日、幕末に京都諸司代として活躍した桑名藩主・松平定敬がこの世を去りました。

※ご命日については、7月21日とも言われますが、とりあえず、本日、ご紹介させていただきます。

・・・・・・・・

松平定敬(まつだいらさだあき)は、幕末の弘化三年(1847年)に、美濃高須藩主・松平義建八男として生まれました。

実兄には、いずれも他家に養子に入って、尾張藩主となった徳川慶勝(よしかつ)、一橋家当主となった徳川茂栄(もちなが)、会津藩主となった松平容保(かたもり)などがいて、後に彼らは「高須四兄弟」と呼ばれるのですが・・・

Matudairasadaaki600 そんな定敬が12歳となった安政6年(1859年)、桑名藩主・松平定猷(さだみち)が亡くなりますが、その後継ぎとなる長男・万之助(後の定教)が、わずか3歳という幼少であり、お妾さんの産んだ子供でもあった事から、亡き定猷と正室との間に生まれた娘・初姫婿養子として定敬が迎え入れられる事となり、桑名藩主の座を継ぐ事になったのです。

まもなく訪れる幕末の動乱に際しては、文久三年(1863年)に上洛する第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の警護を勤めるべく、京都へと同行する定敬・・・

この時、実兄の容保が、すでに京都守護職に就任していた関係から、翌・元治元年(1864年)に、定敬は京都所司代に任命されます。

この京都所司代という役職は、徳川幕府の草創期に設けられた役職で、京都の治安維持はもちろんですが、その役目は、並みの奉行所職などではなく、朝廷や公家の動きや西国の大名の動きの監視も担っていましたし、幕府初期の頃は、将軍が度々京都を訪れる事もあって、そのダンドリをする重要なポストであり、大坂城代とともに、最終的に老中へと出世する人の、エリートコースの通り道でもあったわけですが、

尊王攘夷の嵐吹きまくる幕末の京都は、もはや所司代と町奉行だけでは、その治安を維持できない状態となっていため、ここに来て新設されたのが京都守護職・・・・

その守護職に任命された兄・容保と、同じく、新設された禁裏御守衛総督に任命された一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)とともに、未だ19歳の若者だった定敬も、幕末京都の治安を守る事になったわけです。

若いながらも、兄や慶喜を補佐しつつ職務をこなす定敬でしたが、その同じ年には禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)、その翌年には第二次長州征伐の兆しが見え(5月22日参照>>)、さらに、その翌年の慶応二年(1866年)には、長州征伐さ中の将軍・家茂が大坂城にて死去(7月20日参照>>)・・・

その後を継いで第15代将軍となった慶喜は、討幕派の勢いが増した翌・慶応三年(1867年)10月に大政奉還(10月14日参照>>)をし、続く12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・とめまぐるしく時代が進んで行く中、翌・慶応四年(1868年)の正月に、いよいよ鳥羽伏見の戦いが勃発します(1月3日参照>>)

この時、兄・容保の会津藩とともに先駆けを命じられた桑名藩・藩主として、軍勢を引き連れた定敬は、1月3日に枚方から船に乗って京都方面へ向かいますが、すでに、鳥羽街道での戦いは開始されており、慌てて上陸して参戦するも、桑名軍を含む幕府側はあえなく敗退・・・

しかも、その翌日の5日には、薩長軍に錦の御旗が掲げられ(1月5日参照>>)てアチラが官軍となり・・・コチラの士気は低下・・・

さらに、この知らせを受けて、もはや敗北を悟った慶喜が、わずかの側近だけを連れて、単身で大坂城を脱出して江戸へ・・・いわゆる賛否両論渦巻く敵前逃亡(1月6日参照>>)をしたわけですが、

この時、慶喜が連れていたわずかの側近というのが、京都守護職の兄・容保と、京都所司代の弟・定敬・・・なんとなく、「うまく言いくるめられた」あるいは「騙された」感のある同行で、おそらく、この敵前逃亡は、容保&定敬の本心にそぐわない物であった事でしょうが、慶喜とともに、将兵をほったらかしにして江戸に帰っちゃった事は事実・・・

ご存じのように、この後の慶喜は、ただひたすら恭順な態度で自ら謹慎して官軍との交戦を避けようとし(1月23日参照>>)、その一環で、兄の容保は登城禁止の命を受けて、領国の会津へと戻ります(2月10日参照>>)

・・・と、そんな中で困ったのは定敬の桑名藩です。

鳥羽伏見の戦いは、ここから戊辰戦争と名を変え、官軍が北上&東下していく事になりますが、言っても会津までには距離がありますが、伊勢(三重県北中部)の桑名は、すぐそこ・・・

早くも1月には、未だ藩主が戻らぬ桑名藩で、家老や上層部による会議が行われ、侃々諤々の激しい議論が飛び交う話し合いとなりますが、なんだかんだで、(冒頭に書いた通り現藩主の定敬は養子の身である他家の人・・・一方、彼の藩主就任の時に幼かった万之助は、今や12歳になっているわけで、

結局のところ、戻らぬ藩主を頼るよりは、先代の遺児である万之助を新藩主の擁立して、「官軍に謝罪&恭順の意を示すべき」との意見が採用されるのです。

早速、すでに四日市にまで達していた官軍のもとに、万之助以下、全家老と、鳥羽伏見に参戦した兵らが出頭・・・すると、速やかに城の開け渡しが行われた後、いち時は寺に拘束されるものの、まもなく、万之助も、そして出頭した藩士全員も釈放され、桑名藩の降伏が認められたのです。

こうなると、何となく、江戸で取り残された感のある定敬・・・しかし、領国の上層部の思惑とはうらはらに、実は、定敬の心の中は、まだまだヤル気満々だったのです。

慶喜とともに江戸に戻った後、しばらくは、寛永寺にて謹慎中の慶喜に同調して、自分も寺に籠っていた定敬ですが、慶喜の水戸への帰還と同じくして、定敬も領国へ・・・しかし、かの桑名には戻らず、同じく領国ではあるものの、飛び地の越後(新潟県)柏崎(かしわざき)へと向かうのです。

ここなら、兄のいる会津とも連携が取りやすいですし、何たって、未だ北越戊辰戦争(4月25日参照>>)を展開している長岡藩のすぐそばです。

もちろん、この間にも国許・桑名からは、定敬に「恭順の姿勢を見せるよう」との使者が何度も送られて来ますが、彼はその進言を聞き入れるどころか、逆に、北越戊辰戦争のプロローグとなった慶応四年(明治元年・1868年)5月13日の朝日山争奪戦(5月13日参照>>)では、定敬配下の立見鑑三郎尚文(たつみかんざぶろうなおふみ)(3月6日参照>>)率いる桑名藩兵の雷神隊が大活躍して、戦いを勝利に導いたりなんかしてます。

とは言え、ご存じのように、やがては長岡城も陥落(7月29日参照>>)・・・定敬は、兄・容保に合流すべく会津へ・・・

しかし、その会津も、母成峠の戦い(8月20日参照>>)で敗れ、十六橋・戸ノ口原を突破(8月22日参照>>)され、いよいよ会津若松城での籠城戦に突入(8月23日参照>>)します。

この時、兄とともに籠城する事を希望した定敬でしたが、容保は、それを許さず、「お前は米沢へ向かえ!」と指示・・・涙ながらに兄に別れを告げて、米沢に向かった定敬ですが、すでに米沢藩は官軍に降伏しており、入国を拒否されてしまいます。

やむなく仙台藩に向かいますが、コチラもすでに降伏しており、もはや行き場が無くなった定敬は、ドサクサの中で品川沖を脱出し、ちょうど仙台に来ていた榎本武揚(えのもとたけあき)率いる艦隊(8月19日参照>>)に合流して、函館へと向かったのです。

蝦夷地(えぞち=北海道)に上陸した榎本艦隊は、素早く五稜郭(ごりょうかく)を占領(10月20日参照>>)・・・その後しばらくは蝦夷共和国を誕生させる(12月15日参照>>)ほどの勢いがありましたが、やがて、春を待って上陸してきた新政府軍に要所を次々と落とされ(5月11日参照>>)いつしか函館も風前の灯となってしまいます。

もはや、蝦夷共和国の敗北も時間の問題・・・しかし、まだまだ抵抗したい定敬は、なんと!ここで、函館脱出を計り、アメリカの帆船に乗せてもらって上海へと向かったのでした。

ただ、残念ながら、先立つ予算が・・・また、お金の無さとともに、いつまでも抵抗する事に限界を感じた事もあったようで、結局、かの五稜郭が開城(5月18日参照>>)となったと同じ5月18日、アメリカ船に乗せてもらって、横浜港へと帰還します。

その後、定敬は、新政府によって幽閉され、しばらくして津藩(藤堂家)預かりの身となり、当然の事ながら、桑名藩はかの万之助が継ぎます。

やがて、廃藩置県により桑名藩そのものが解体される中、明治五年(1872年)に罪を許され、晴れて自由の身となった定敬は、それから後は、ひたすら、戦死した人々への慰霊につくす、つぐないの日々を送っていたと言います。

ただ、そんな中でも明治十年(1877年)に起こった西南戦争(2月15日参照>>)の時には、かつての部下だった、あの立見尚文を連れて旧領に戻り、「今こそ、戊辰戦争の恨みを晴らそう!」と自腹を切って兵を募り、3万もの軍勢を率いて討伐に向かったのだとか・・・

その後は、明治二十六年(1893年)に亡くなった兄・容保(12月5日参照>>)の後を継いで日光東照宮の宮司に就任し、まさに、最後の最後まで徳川を見守りつつ、明治四十一年(1908年)7月12日定敬は、63歳の生涯を閉じたのでした。

尊敬する兄とともに・・・
その兄の背中を追うように・・・

しかし、その行動は、結果的に多くの人命を犠牲にする事に・・・その罪を背負いながらの後半生は、いかばかりであったでしょうか。
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2013年7月 9日 (火)

豊臣の影を払拭…徳川家康の豊国神社・破却

 

元和元年(慶長二十年・1615年)7月9日、大坂の陣に勝利した徳川家康が、板倉勝重金地院崇伝南光坊天海などに、秀吉を祀る豊国神社の破却を命じました。

・・・・・・・・・

豊国神社(とよくにじんじゃ・ほうこくじんじゃ)は、ご存じ、あの豊臣秀吉を神と祭る神社です。

慶長三年(1598年)8月18日、織田信長の家臣として前代未聞の出世を果たし、天下人となった豊臣秀吉が、この世を去ります。

・・・と、ドラマや小説などで受けるイメージでは、この時の秀吉は、ただただ、未だ幼き息子=秀頼(ひでより)の先行きを心配し、親友の前田利家などに、涙ながらに将来の事を頼む、惨めで弱々しい老人のような雰囲気に描かれますが、

当時、大坂城にいた毛利家の重臣・内藤隆春(たかはる)が息子に報告した手紙によれば、亡くなる10日ほど前の8月9日に、諸将を集めて遺言を披露した時など、元気な頃と変わらぬ熱弁で、様々な決定事項を伝えたようですし(8月9日参照>>)

長崎にいた宣教師が母国に報告した手紙にも、そして、当時、最高頭脳と言われた姜沆(きょうこう=강항(カン・ハン))などにも、
「彼ほど、自分の死後の事を徹底的に遺言に残した人を見た事がない」
と言わせたほどだったと言います。

それが、これまでチョコチョコ書かせていただいています、
『家康が征夷大将軍(東日本)、毛利輝元が鎮西大将軍(西日本)、その上に全国を統一する豊臣家』(5月10日の後半部分参照>>)
の構想であり、
『公家をまねた武家の家格システム』(7月15日参照>>)
だったわけですが、

豊臣家の血統を含め、それらを徹底的にぶっ潰したのが、大坂の陣で豊臣家を滅亡に追い込んだ徳川家康・・・

それこそ、個人的な印象ですが、家康は、秀吉の存在や行った事のすべてを「無かった事」に=日本の歴史から末梢したかったのではないか?とさえ思います。

秀吉が、天下を取った後も刃向かう事さえ無ければ、信長の息子や弟も、そして足利将軍家をも抹殺(将軍は辞任させてますが)する事が無かったのに対し、家康は、まさに「豊臣家&秀吉の影のすべてを払拭させた」って感じな気がしますが、決して、それは『家康=悪』という事ではありません。

そこの詰めが甘ければ、家康とて、その天下は長持ちせず、またぞろ戦国の世に突入していたかも知れないわけで、250年という大いなる平和をもたらすためには、そこンところは情けをかけず、徹底的に鬼になってしまう必要もあったものと思います。

その一環として行ったのが、今回の、元和元年(慶長二十年・1615年)7月9日豊国神社の破却・・・

それこそ、秀吉の遺言によって、その遺体は、京都東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、その1年後には、山の中腹に、日本初の権現造りによる社殿が造営され、時の天皇=後陽成天皇により「豊国大明神」の神号が与えられ、秀吉は神として祀られる事になります。

これが豊国神社の由緒・・・往時には豪華絢爛な装飾をほどこされたいくつもの殿舎が建ち並び、息を呑むほどの美しさで、盛大な祭事が行われていたそうですが・・・

しかし、秀吉の死後に、関ヶ原の戦い(9月15日参照>>)で豊臣政権内の敵対勢力を失脚させてトップの位置を確保した家康は、この元和元年(慶長二十年・1615年)の5月に大坂の夏の陣にて豊臣家を滅亡(5月8日参照>>)させ、もちろん、秀頼の幼い息子も抹殺し(5月23日参照>>)、その豊臣家の影を払拭するかの如く、豊国神社を破壊するわけです。

ご存じのように、5年後には、あの大坂城も、秀吉時代の物をスッポリと土で覆いかぶして、まったくの別物を、新たに構築しています(1月23日参照>>)が・・・

・・・で、今回、徹底的に破壊された豊国神社と秀吉の墓(豊国廟)・・・以来、250年の長きに渡り、風雨にさらされ、訪れる人も無く・・・いつしか草むらに埋もれてしまいました。

そんな豊国神社が、再び目覚めるのは明治時代・・・

かの明治天皇が大阪に行幸された際、「国家運営に多大なる貢献した秀吉を祀るべき」とお考えになり、豊国神社の再建を提案されたのです。

ま、德川を倒した新政府ですから・・・敵の敵は味方。

てな事で、初めは、やはり、秀吉の居城であった大坂城の敷地内に社殿が建てられる計画でしたが、数年間の話し合いの末、秀吉が、あの大仏建立を夢見た、京都の方広寺(7月26日参照>>)の大仏殿の跡地に建てられる事になりました。

これが、現在、京都市東山区にある豊国神社です。

また、一方の大阪には別社となる豊国神社が中之島に建てられますが、この社殿は、大阪市庁舎の拡張により、昭和三十六年(1961年)に、念願の大坂城の敷地内に移転・・・これが、現在、大阪城桜門の前に鎮座する豊国神社です。

また、明治の同時期には、秀吉誕生の地とされる愛知県名古屋市中村区にも豊国神社が建てられています。

そして、上記以外にも、かの徳川時代に密かに守られて来た豊国神社もあります。

滋賀県長浜市に鎮座する豊国神社は、秀吉最初の城持ちの地として祀られていましたが、やはり、江戸時代に入って社殿などは破却・・・しかし、その後も町民たちの手によって、別の神様を合祀して名を変えて保護されて守られていた物が、やはり明治の世となって復活・・・

石川県金沢市の豊国神社は、あの前田利家の遺言により、前田家の手で密かに守り続けられてものを、やはり明治の世に豊国神社に改称したとの事・・・

もちろん、豊国神社が忘れ去られていた江戸時代には、各地に東照宮が造られていた(4月10日参照>>)わけですが、徳川が倒れた途端に、その東照宮が破却され(ご存じのように日光は残ってますが…)、豊国神社が復活する・・・これも、時代の流れという物なのでしょう。

ちなみに、現在の京都の豊国神社の唐門は、あの伏見城の遺構で、西本願寺・大徳寺の唐門と合わせて「三唐門」と称され、豪華絢爛な桃山文化の代表的な物として国宝に指定されています。

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豊国神社(京都市東山区)

有名な三十三間堂の近くですが、そのワリには、豊国神社を訪れる人は少ないような気が・・・

お隣には、あの大坂の陣のキッカケとなった、呪いの銘文(家康の言い分です)(7月21日参照>>)が刻まれた方広寺の鐘もありますから、もし、機会がありましたら、皆さまも、是非・・・

※周辺の散策コースは、本家HP:京都歴史散歩「七条通りを歩く」で紹介しています>>
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2013年7月 6日 (土)

富士山~最古の噴火記録

 

天応元年(781年)7月6日、記録上最古の富士山の噴火がありました。

・・・・・・・・

まずは、『祝\_(^◇^)_/世界遺産決定!』ですね。

もちろん、念願だった地元にとっては万々歳の朗報ですが、最近のニュース番組によれば、「これを機会に登ってみるか~」てな安易な気持ちで、何の準備も無く、普段着にぞうりをはいて登山に挑み、途中でリタイアする厄介な人たちが急増した・・・なんて話も聞きます。

また、「知らずに…」ならまだしも、逆に、「わかってて…」あるいは「わざと…」ワルサをしていく人も大勢来ちゃう・・・

富士山に限らず、世界遺産となれば、それだけ訪れる人が増えて活気づくぶん、新たなる問題がある事も確かで、関係者の方にとっては、これからが正念場になるでしょうね。

ところで、本日の話題は、その富士山の噴火について・・・

もちろん、火山の営みは、人間のソレを遥かに超える歴史がありますから、この富士山も、おそらくは最終氷河期が終了した1万年ほど前から、大小の噴火をくりかえしていたとされていますが、当然ですが、そんな記録は残っていないわけで・・・

で、冒頭に書かせていただいた最古の記録というのが、天応元年(781年)7月6日・・・『続日本紀(しょくにほんぎ)に記録されている
「秋七月癸亥、駿河國言、富士山下雨灰、灰之所及木葉彫萎」
というもの・・・

つまり
「“富士山から灰が降って木々がしおれちゃった”という報告が駿河(静岡県)から届いたよ
って事で、それ以上の様子はよくわかりません。

以来、信憑性の高い物だけでも・・・
延暦十九年~二十一年(800年~802年)、
貞観六年~七年(864年~866年)、
承平七年(937年)、
長保元年(999年)、
長元五年(1033年)、
永保三年(1083年)、
永享七年(1435年)、
永正八年(1511年)の8回、
そして、さすがに江戸時代とあって多くの記録が残る宝永四年(1707年)の噴火・・・これをを最後に、現在に至っています。

もちろん、文献によって曖昧なために信憑性の低い物や、記録としては信憑性が高いものの、噴火とは断定できない火山現象なども加えると、もっと沢山の記録がある事になりますが・・・

こうして見ると・・・

永享の乱(2月10日参照>>)嘉吉の乱(6月24日参照>>)が起こった、まさに戦国の幕開けの時代の2回から、江戸文化華やかなりし徳川綱吉(1月10日参照>>)の時代を最後に現在までの間は比較的間隔が開いているのに比べ、今回の奈良時代の最初の記録から平安時代後期にかけては、けっこう頻繁に噴火している事がわかります。

なるほど・・・なので、昔々の学校では「富士山は休火山もしくは死火山」なんて習ったんですね~~ 間隔が徐々に開いてきてますもんね~

もちろん、現在では、そんな「くくり」はありません・・・有史以前からの火山活動を考えれば、100年や200年なんて、地球の呼吸の一吐き・・・富士山は今でも活火山で、地中にはマグマがガンガンですからね。

また、竹取物語(9月25日参照>>)の最後で、「帝が天に一番近い山の上で、かぐや姫から貰った「不死の薬」を燃やし、今でもその時の煙がたちのぼっている(だから富士の山と呼ぶ)・・・としているのも、平安時代に噴火が頻繁だった事を思えば、納得ですね。

さらに、それは富士登山に関する記録とも一致しますね。

古くは、聖徳太子が登ったの、あるいは、流罪になった役行者(えんのぎょうじゃ=役小角)(5月24日参照>>)が登ったの、という記述はあるものの、これは、お察しの通り、あくまで伝説・・・

おそらく本当に登った、あるいは登った人から聞いたとおぼしき記録の最古は、平安時代の学者=都良香(みやこのよしか)の記した『富士山記』の貞観十七年(875年)でしょうが、

確かに、そこには、富士山の名前の由来や見た目の紹介とともに、
「頂上有平地、廣一許里、其頂中央窪下、體如炊甑、甑底有神池…」
と、
「頂上には一里ほどの平地があって、そこには窪みがあり、その炊飯釜の底みたいな所には怪しい池が・・・」
てな、見た人にしかわからない描写が書かれていますので、やはり、本人では無いにしろ、誰かしらが登った記録なのでしょう。

とは言え、上記の通り、未だ記憶がある間に、また噴火するような頻度では、学者さんはともかく、さすがに一般人は登山しようとは思わないわけで・・・

・・・で、結局は、一般庶民の間でも、富士登山が盛んになって来るのは、徐々に噴火の間隔も開きはじめた戦国時代も後半からという事になって来ます。

実は、このあたりを今川家が治めていた頃から、現在の吉田口の登山道入り口付近に関所が設けられ、1人:244文の登山料を、関所にいる浅間神社の係員に支払い、その証となる手形を持って、登山したのだとか・・・

もちろん、いつの世にもいるタダで登ろうとする輩=手形を持ってない登山者は、速やかに追放されるというシステム・・・

その後、今川家の後に支配者となった武田が、この登山料を半額に値引きした・・・なんて話もありますが、この関所システムは明治の頃まで続いていたようです。

まぁ、この頃の富士登山は、登山というよりは聖地巡礼みたいな感じ・・・なんせ、この富士山は神のおわす山で、浅間神社に祀られておるのは、記紀神話に登場するコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売・木花開耶媛)・・・

しかも、以前も書かせていただいたように(7月9日参照>>)江戸時代の初めの慶長二十年6月1日=1615年7月9日に江戸に雪が降るという異常気象が発生し、不安にかられた人々の間で富士山信仰が盛んになったという出来事もありました。

そのページにも書きましたが、遠くて富士登山に行けない人のために、江戸の各地にミニ富士山が造られたりも・・・

Fugakukanagawa850
お馴染の「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏(日本浮世絵博物館蔵)

今回の富士山は、世界文化遺産・・・まさに、その信仰も含めた、文化芸術の世界遺産ですから、美しさとともに、その日本人の心も守って行かねばならぬもの・・・

地元関係者の方々は、もちろん、訪れる側の私たちも、世界に誇れる霊峰富士が、永遠に誇れる姿を保ち続けられるよう、心がけねばなりませんね。
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2013年7月 2日 (火)

顕微鏡で観察…雪の殿様・土井利位

 

嘉永元年(1848年)7月2日、江戸幕府内で老中筆頭にまで昇り詰めた古河藩主・土井利位が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

土井家の藩祖は、ご存じ土井利勝(どいとしかつ)さん・・・徳川家康の従兄弟で、家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕え、江戸時代初期の幕閣にて最高の権力を誇った人物で、以前、「ヒゲ」のお話でチョコッと登場しましたが(8月8日の中間部分参照>>)、そのウワサの真偽はともかく、そんな逸話が残るほどの大物だった事は確かです。

とは言え、本日主役の土井利位(どいとしつら)さんは、三河(愛知県東部)刈谷藩主・土井利徳(どいとしなり)の四男で、つまりは分家のお生まれ・・・

本家の下総(茨城県)古河藩の第3代藩主であった土井利厚(どいとしあつ)の後を継いだ実子が、継いで間もなく亡くなってしまったために、文化十年(1813年)、急きょ分家から養子をもらって・・・と、その養子が、当時25歳だった利位さんだったわけです。

その後、文政五年(1822年)に、その利厚の死を受けて、本家の家督を継ぎ、第4代古河藩主となります。

つい先日、刃傷事件を起こしてしまった水野忠恒(みずのただつね)さんのページ(6月28日参照>>)で、「将来、藩主になるべき子供は、生まれながらにして、藩主となるべき教育を受けるので、そうでない場合は…」てな事を書かせていただきましたが、この利位の場合は、その例外に入っていたようで、優秀な人材である鷹見泉石(たかみせんせき)を家老に登用し、藩政改革もこなしていたようで・・・

一方、このような良き家柄のお侍は、藩主と同時に中央での重要な役職もこなしてエリートコースを歩む事になるのですが、利位も、家督相続直後の奏者番に始まり、寺社奉行から大坂城代へと順調にコースを歩んでおります。

Ca3e0059a800 ちなみに、現在、大阪市天王寺区空堀町にある善福寺(写真→)は、その昔、通称「どんどろ大師」と呼ばれていた鏡如庵(きょうにょあん)なるお寺が建っていた場所なのですが、その通称の由来となったと言われているのが、大坂城代当時の土井利位さん・・・

彼が熱心にお参りをしている姿を見かけた大阪市民が、「土井殿の大師」→「どいどののだいし」→「どんどろ大師」(バンザ~イ)と呼んだ事にはじまるとか・・・

とは言え、この大坂城代時代の天保八年(1837年)には、あの大塩平八郎の乱が勃発しています(2月19日参照>>)

その乱を、見事鎮圧したのが利位・・・

まぁ、浪花のヒーロー大塩さんなもんで、トコトンかっこよく大塩側に立ってブログなど書かせていただいてますが、それこそ、こういう事件には、それぞれの立場で別の見方もあるもので・・・幕府側から見れば、そんな大塩も治安を乱す謀反人なわけですから、ここで組織の一員として、見事、乱を鎮圧(3月27日参照>>)した利位は、武将としてもなかなかのもの・・・

その功績により京都諸司代となった後、天保十年(1839年)には老中にまで昇進・・・さらに、天保十四年(1843年)には、当時、老中首座だった水野忠邦(みずのただくに)(3月1日参照>>)のうち出した改革に真っ向から反対し、忠邦を辞職に追い込んで、利位自らが老中首座に昇り詰めました。

ただ・・・タイミング悪く、その時に江戸城での火災が起こり、その対処に翻弄されてしまった事、また、その心痛からか、体調を崩してしまった事で、結局は、10ヶ月という短い期間で老中を辞職してしまうのですが、そのわずかの間に、改革によって幕府の財政を黒字転換させるなど、政治家としての手腕も発揮しています。

辞職後は、嘉永元年(1848年)4月に家督を養子の利亨(としなり)に譲って隠居・・・その3ヶ月後の嘉永元年(1848年)7月2日利位は、60歳の生涯を閉じたのでした。

ところで、今回の利位さん・・・実は、本家の家督を継いだ頃から、ある一つの物に魅了され、それこそ、生涯の趣味と言える物に出会っています。

それは、その藩主なりたての若き頃に、例の家老・鷹見泉石が見せてくれた一冊の洋書・・・それは、オランダの牧師さんだったヨハネス・マルチネットなる人物が著した『格致問答』という、現地・オランダでは子供向けの理科の教科書のような本だったのですが、そこに描かれていた雪の結晶の美しさに魅せられたのです。

自分の目では確認する事のできない細かな文様・・・
必ず六弁からなる物なのに、二つとして同じ形が無い不思議・・・

もちろん、現代のような精巧な物ではありませんが、すでに顕微鏡は、18世紀の中ごろには、オランダ人の手によって日本に持ち込まれており、庶民の手には届かねど、殿様の利位は入手していたわけで・・・

Doikessyou900 以来、20年間にも渡って、冬を心待ちにし、雪が降れば、それを黒塗りのお盆に受け止めて顕微鏡で観察・・・その図を素早く、しかも正確に書きとめ、その観察結果を『雪華図説』『続雪華図説』(↑)にまとめて出版したのです。

自費出版みたいな物でしたので、書籍自体を手にした人はごく少数なのですが、ここに利位が描いた文様が「雪華文様」などと呼ばれ、着物や帯のデザインとして、庶民の間で大流行・・・

Kotenyukimonyou2

そう、現在も、着物や帯の絵柄として用いられる雪の文様・・・これらの雪の結晶の文様は「古典柄」の分類に入ってますが、実は、私も、以前は「雪の結晶なんて肉眼で見られないのに古典なの?」と不思議に思ってたんですが、こういう事だったんですね。

利位さんが、本として出版して、江戸庶民の間でその柄が大流行したから、古典かぁ~

なので利位さんは、庶民からも「雪の殿様」という愛称で呼ばれて親しまれていたとか・・・

今度、町で着物や帯・・・いや、最近は和柄のTシャツなんかにもデザインされていますから、もし雪華文様のデザインを見かけたら、利位さんに思いを馳せてみてください。
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