顕微鏡で観察…雪の殿様・土井利位
嘉永元年(1848年)7月2日、江戸幕府内で老中筆頭にまで昇り詰めた古河藩主・土井利位が60歳でこの世を去りました。
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土井家の藩祖は、ご存じ土井利勝(どいとしかつ)さん・・・徳川家康の従兄弟で、家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕え、江戸時代初期の幕閣にて最高の権力を誇った人物で、以前、「ヒゲ」のお話でチョコッと登場しましたが(8月8日の中間部分参照>>)、そのウワサの真偽はともかく、そんな逸話が残るほどの大物だった事は確かです。
とは言え、本日主役の土井利位(どいとしつら)さんは、三河(愛知県東部)刈谷藩主・土井利徳(どいとしなり)の四男で、つまりは分家のお生まれ・・・
本家の下総(茨城県)古河藩の第3代藩主であった土井利厚(どいとしあつ)の後を継いだ実子が、継いで間もなく亡くなってしまったために、文化十年(1813年)、急きょ分家から養子をもらって・・・と、その養子が、当時25歳だった利位さんだったわけです。
その後、文政五年(1822年)に、その利厚の死を受けて、本家の家督を継ぎ、第4代古河藩主となります。
つい先日、刃傷事件を起こしてしまった水野忠恒(みずのただつね)さんのページ(6月28日参照>>)で、「将来、藩主になるべき子供は、生まれながらにして、藩主となるべき教育を受けるので、そうでない場合は…」てな事を書かせていただきましたが、この利位の場合は、その例外に入っていたようで、優秀な人材である鷹見泉石(たかみせんせき)を家老に登用し、藩政改革もこなしていたようで・・・
一方、このような良き家柄のお侍は、藩主と同時に中央での重要な役職もこなしてエリートコースを歩む事になるのですが、利位も、家督相続直後の奏者番に始まり、寺社奉行から大坂城代へと順調にコースを歩んでおります。
ちなみに、現在、大阪市天王寺区空堀町にある善福寺(写真→)は、その昔、通称「どんどろ大師」と呼ばれていた鏡如庵(きょうにょあん)なるお寺が建っていた場所なのですが、その通称の由来となったと言われているのが、大坂城代当時の土井利位さん・・・
彼が熱心にお参りをしている姿を見かけた大阪市民が、「土井殿の大師」→「どいどののだいし」→「どんどろ大師」(バンザ~イ)と呼んだ事にはじまるとか・・・
とは言え、この大坂城代時代の天保八年(1837年)には、あの大塩平八郎の乱が勃発しています(2月19日参照>>)。
その乱を、見事鎮圧したのが利位・・・
まぁ、浪花のヒーロー大塩さんなもんで、トコトンかっこよく大塩側に立ってブログなど書かせていただいてますが、それこそ、こういう事件には、それぞれの立場で別の見方もあるもので・・・幕府側から見れば、そんな大塩も治安を乱す謀反人なわけですから、ここで組織の一員として、見事、乱を鎮圧(3月27日参照>>)した利位は、武将としてもなかなかのもの・・・
その功績により京都諸司代となった後、天保十年(1839年)には老中にまで昇進・・・さらに、天保十四年(1843年)には、当時、老中首座だった水野忠邦(みずのただくに)(3月1日参照>>)のうち出した改革に真っ向から反対し、忠邦を辞職に追い込んで、利位自らが老中首座に昇り詰めました。
ただ・・・タイミング悪く、その時に江戸城での火災が起こり、その対処に翻弄されてしまった事、また、その心痛からか、体調を崩してしまった事で、結局は、10ヶ月という短い期間で老中を辞職してしまうのですが、そのわずかの間に、改革によって幕府の財政を黒字転換させるなど、政治家としての手腕も発揮しています。
辞職後は、嘉永元年(1848年)4月に家督を養子の利亨(としなり)に譲って隠居・・・その3ヶ月後の嘉永元年(1848年)7月2日、利位は、60歳の生涯を閉じたのでした。
ところで、今回の利位さん・・・実は、本家の家督を継いだ頃から、ある一つの物に魅了され、それこそ、生涯の趣味と言える物に出会っています。
それは、その藩主なりたての若き頃に、例の家老・鷹見泉石が見せてくれた一冊の洋書・・・それは、オランダの牧師さんだったヨハネス・マルチネットなる人物が著した『格致問答』という、現地・オランダでは子供向けの理科の教科書のような本だったのですが、そこに描かれていた雪の結晶の美しさに魅せられたのです。
自分の目では確認する事のできない細かな文様・・・
必ず六弁からなる物なのに、二つとして同じ形が無い不思議・・・
もちろん、現代のような精巧な物ではありませんが、すでに顕微鏡は、18世紀の中ごろには、オランダ人の手によって日本に持ち込まれており、庶民の手には届かねど、殿様の利位は入手していたわけで・・・
以来、20年間にも渡って、冬を心待ちにし、雪が降れば、それを黒塗りのお盆に受け止めて顕微鏡で観察・・・その図を素早く、しかも正確に書きとめ、その観察結果を『雪華図説』『続雪華図説』(↑)にまとめて出版したのです。
自費出版みたいな物でしたので、書籍自体を手にした人はごく少数なのですが、ここに利位が描いた文様が「雪華文様」などと呼ばれ、着物や帯のデザインとして、庶民の間で大流行・・・
そう、現在も、着物や帯の絵柄として用いられる雪の文様・・・これらの雪の結晶の文様は「古典柄」の分類に入ってますが、実は、私も、以前は「雪の結晶なんて肉眼で見られないのに古典なの?」と不思議に思ってたんですが、こういう事だったんですね。
利位さんが、本として出版して、江戸庶民の間でその柄が大流行したから、古典かぁ~
なので利位さんは、庶民からも「雪の殿様」という愛称で呼ばれて親しまれていたとか・・・
今度、町で着物や帯・・・いや、最近は和柄のTシャツなんかにもデザインされていますから、もし雪華文様のデザインを見かけたら、利位さんに思いを馳せてみてください。
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コメント
タイトルを見た時は、学者肌の殿様かと思いきや...
ヤダ コノヒト カコイイ (*´Д`*)
投稿: ことかね | 2013年7月 4日 (木) 15時14分
茶々さん、こんばんは!
かなり御無沙汰なコメントですみません!
土井利位ってすごく探求心のあった方なんでしょうね。根気のいる作業を1つ1つ積み重ねながら得た成果はまさに“雪の殿様”と呼ばれた自分自身への最大の賛辞だと思います。
それにしても思うのは、土井家って蘭癖さんが多いんですよね。下総古河の土井家宗家の利位しかり、越前大野の利忠しかり…
彼らのおかげで、現在私たちは当たり前のように雪の結晶などを観る事ができている訳ですからね!
ps.
このブログ記事に関して久々にTBさせて頂きたく、お願いします。
投稿: 御堂 | 2013年7月 4日 (木) 19時59分
ことかねさん、こんばんは~
物静かそうでいて「やる時はやる」感じがイイですよね~
かなり妄想が暴走ぎみですが…
投稿: 茶々 | 2013年7月 5日 (金) 01時49分
御堂さん、こんばんは~
>土井家って…
やはりDNA的な物の作用でしょうか??
ドラバありがとうございます!
投稿: 茶々 | 2013年7月 5日 (金) 01時52分
この名前を聞いて、あっ
と思ったの『十三人の刺客』でした。
実際はこんな方だったんですね。土井大炊守利位
投稿: 太閤殿下 | 2013年7月 6日 (土) 03時19分
太閤殿下さん、こんにちは~
>『十三人の刺客』…
見てないので、くわしくは知らないのですが、「ゴローちゃんが悪役をやった」と話題になったアレですね。。。
おもしろそうです。
投稿: 茶々 | 2013年7月 6日 (土) 09時23分