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2013年7月 9日 (火)

豊臣の影を払拭…徳川家康の豊国神社・破却

 

元和元年(慶長二十年・1615年)7月9日、大坂の陣に勝利した徳川家康が、板倉勝重金地院崇伝南光坊天海などに、秀吉を祀る豊国神社の破却を命じました。

・・・・・・・・・

豊国神社(とよくにじんじゃ・ほうこくじんじゃ)は、ご存じ、あの豊臣秀吉を神と祭る神社です。

慶長三年(1598年)8月18日、織田信長の家臣として前代未聞の出世を果たし、天下人となった豊臣秀吉が、この世を去ります。

・・・と、ドラマや小説などで受けるイメージでは、この時の秀吉は、ただただ、未だ幼き息子=秀頼(ひでより)の先行きを心配し、親友の前田利家などに、涙ながらに将来の事を頼む、惨めで弱々しい老人のような雰囲気に描かれますが、

当時、大坂城にいた毛利家の重臣・内藤隆春(たかはる)が息子に報告した手紙によれば、亡くなる10日ほど前の8月9日に、諸将を集めて遺言を披露した時など、元気な頃と変わらぬ熱弁で、様々な決定事項を伝えたようですし(8月9日参照>>)

長崎にいた宣教師が母国に報告した手紙にも、そして、当時、最高頭脳と言われた姜沆(きょうこう=강항(カン・ハン))などにも、
「彼ほど、自分の死後の事を徹底的に遺言に残した人を見た事がない」
と言わせたほどだったと言います。

それが、これまでチョコチョコ書かせていただいています、
『家康が征夷大将軍(東日本)、毛利輝元が鎮西大将軍(西日本)、その上に全国を統一する豊臣家』(5月10日の後半部分参照>>)
の構想であり、
『公家をまねた武家の家格システム』(7月15日参照>>)
だったわけですが、

豊臣家の血統を含め、それらを徹底的にぶっ潰したのが、大坂の陣で豊臣家を滅亡に追い込んだ徳川家康・・・

それこそ、個人的な印象ですが、家康は、秀吉の存在や行った事のすべてを「無かった事」に=日本の歴史から末梢したかったのではないか?とさえ思います。

秀吉が、天下を取った後も刃向かう事さえ無ければ、信長の息子や弟も、そして足利将軍家をも抹殺(将軍は辞任させてますが)する事が無かったのに対し、家康は、まさに「豊臣家&秀吉の影のすべてを払拭させた」って感じな気がしますが、決して、それは『家康=悪』という事ではありません。

そこの詰めが甘ければ、家康とて、その天下は長持ちせず、またぞろ戦国の世に突入していたかも知れないわけで、250年という大いなる平和をもたらすためには、そこンところは情けをかけず、徹底的に鬼になってしまう必要もあったものと思います。

その一環として行ったのが、今回の、元和元年(慶長二十年・1615年)7月9日豊国神社の破却・・・

それこそ、秀吉の遺言によって、その遺体は、京都東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、その1年後には、山の中腹に、日本初の権現造りによる社殿が造営され、時の天皇=後陽成天皇により「豊国大明神」の神号が与えられ、秀吉は神として祀られる事になります。

これが豊国神社の由緒・・・往時には豪華絢爛な装飾をほどこされたいくつもの殿舎が建ち並び、息を呑むほどの美しさで、盛大な祭事が行われていたそうですが・・・

しかし、秀吉の死後に、関ヶ原の戦い(9月15日参照>>)で豊臣政権内の敵対勢力を失脚させてトップの位置を確保した家康は、この元和元年(慶長二十年・1615年)の5月に大坂の夏の陣にて豊臣家を滅亡(5月8日参照>>)させ、もちろん、秀頼の幼い息子も抹殺し(5月23日参照>>)、その豊臣家の影を払拭するかの如く、豊国神社を破壊するわけです。

ご存じのように、5年後には、あの大坂城も、秀吉時代の物をスッポリと土で覆いかぶして、まったくの別物を、新たに構築しています(1月23日参照>>)が・・・

・・・で、今回、徹底的に破壊された豊国神社と秀吉の墓(豊国廟)・・・以来、250年の長きに渡り、風雨にさらされ、訪れる人も無く・・・いつしか草むらに埋もれてしまいました。

そんな豊国神社が、再び目覚めるのは明治時代・・・

かの明治天皇が大阪に行幸された際、「国家運営に多大なる貢献した秀吉を祀るべき」とお考えになり、豊国神社の再建を提案されたのです。

ま、德川を倒した新政府ですから・・・敵の敵は味方。

てな事で、初めは、やはり、秀吉の居城であった大坂城の敷地内に社殿が建てられる計画でしたが、数年間の話し合いの末、秀吉が、あの大仏建立を夢見た、京都の方広寺(7月26日参照>>)の大仏殿の跡地に建てられる事になりました。

これが、現在、京都市東山区にある豊国神社です。

また、一方の大阪には別社となる豊国神社が中之島に建てられますが、この社殿は、大阪市庁舎の拡張により、昭和三十六年(1961年)に、念願の大坂城の敷地内に移転・・・これが、現在、大阪城桜門の前に鎮座する豊国神社です。

また、明治の同時期には、秀吉誕生の地とされる愛知県名古屋市中村区にも豊国神社が建てられています。

そして、上記以外にも、かの徳川時代に密かに守られて来た豊国神社もあります。

滋賀県長浜市に鎮座する豊国神社は、秀吉最初の城持ちの地として祀られていましたが、やはり、江戸時代に入って社殿などは破却・・・しかし、その後も町民たちの手によって、別の神様を合祀して名を変えて保護されて守られていた物が、やはり明治の世となって復活・・・

石川県金沢市の豊国神社は、あの前田利家の遺言により、前田家の手で密かに守り続けられてものを、やはり明治の世に豊国神社に改称したとの事・・・

もちろん、豊国神社が忘れ去られていた江戸時代には、各地に東照宮が造られていた(4月10日参照>>)わけですが、徳川が倒れた途端に、その東照宮が破却され(ご存じのように日光は残ってますが…)、豊国神社が復活する・・・これも、時代の流れという物なのでしょう。

ちなみに、現在の京都の豊国神社の唐門は、あの伏見城の遺構で、西本願寺・大徳寺の唐門と合わせて「三唐門」と称され、豪華絢爛な桃山文化の代表的な物として国宝に指定されています。

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豊国神社(京都市東山区)

有名な三十三間堂の近くですが、そのワリには、豊国神社を訪れる人は少ないような気が・・・

お隣には、あの大坂の陣のキッカケとなった、呪いの銘文(家康の言い分です)(7月21日参照>>)が刻まれた方広寺の鐘もありますから、もし、機会がありましたら、皆さまも、是非・・・

※周辺の散策コースは、本家HP:京都歴史散歩「七条通りを歩く」で紹介しています>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様

豊国神社…行ってみたいです。そう言えば,あまり有名ではないですね。

よく小学生の頃に読んだ本などには,家康は今川家の人質時代に『東鏡』を読んでいたらしくて…。

平清盛が結果的に頼朝を殺さなかったことを歴史から学んでいたとか書いてあったように記憶しているんですが,そんなことありえるでしょうか?

投稿: 鹿児島のタク | 2013年7月11日 (木) 19時39分

茶々様

名古屋市中村区なら、すぐ行けますけど(笑)。

そんなに近くにあったんですね。

投稿: エアバスA381 | 2013年7月11日 (木) 22時55分

鹿児島のタクさん、こんばんは~

どの文献を読んでいたかまでは知らないのですが、家康が歴史に精通していたという話は聞いた事があります。
同じ轍を踏まないよう、先人たちの失敗を学んでいたみたいですね。

投稿: 茶々 | 2013年7月12日 (金) 01時47分

エアバスA381さん、こんばんは~

お近くなのですか?
それなら、是非とも、お散歩のついでに…
なんせ、立身出世の神様ですから…

投稿: 茶々 | 2013年7月12日 (金) 01時49分

秀吉はおっしゃられる通り、

>秀吉が、天下を取った後も刃向かう事さえ無ければ、信長の息子や弟も、そして足利将軍家をも抹殺(将軍は辞任させてますが)する事が無かったのに対し

これは謀反の多かった信長を反面教師にした部分があったと思うのですが、反面教師にし過ぎて徳川に野心と巨大な権力を与えるはめになったのは、つくづく世を治め続けるというのは難しいもんですね。

投稿: おりえ | 2013年7月12日 (金) 13時15分

おりえさん、こんばんは~

>つくづく世を治め続けるというのは難しいもんですね。

おっしゃる通りですね。
厳しくし過ぎると反感を買い、緩くするとつけ込まれる…
取ったり散られたりの戦国ですから…

投稿: 茶々 | 2013年7月13日 (土) 02時16分

茶々様

豊国神社、確かに行ったことはないし、なんとなくマイナーな気がしていました。
ねねさんの高台寺は有名なのに。

徳川の世にもこれを守っていた人達がいたというのが、すごいですね。秀吉や豊国神社に愛着を持っていた人達なのか、徳川への反抗心だったのか・・。

明治になっての東照宮破却は歴史は繰り返すという言葉そのものですね。

今度機会があれば豊国神社を訪ねてみたいと思います。

投稿: momo | 2013年7月15日 (月) 23時02分

momoさん、こんばんは~

大阪では、今も現役で町の地下を流れる太閤下水(秀吉が構築した下水)が、やはり町民の手で守られ続けていましたね。

>歴史は繰り返す

ホントですね。
そのためにも、歴史を知っておいたほうが良いのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2013年7月15日 (月) 23時37分

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