兄・容保とともに幕末を生きた桑名藩主・松平定敬
明治四十一年(1908年)7月12日、幕末に京都諸司代として活躍した桑名藩主・松平定敬がこの世を去りました。
※ご命日については、7月21日とも言われますが、とりあえず、本日、ご紹介させていただきます。
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松平定敬(まつだいらさだあき)は、幕末の弘化三年(1847年)に、美濃高須藩主・松平義建の八男として生まれました。
実兄には、いずれも他家に養子に入って、尾張藩主となった徳川慶勝(よしかつ)、一橋家当主となった徳川茂栄(もちなが)、会津藩主となった松平容保(かたもり)などがいて、後に彼らは「高須四兄弟」と呼ばれるのですが・・・
そんな定敬が12歳となった安政6年(1859年)、桑名藩主・松平定猷(さだみち)が亡くなりますが、その後継ぎとなる長男・万之助(後の定教)が、わずか3歳という幼少であり、お妾さんの産んだ子供でもあった事から、亡き定猷と正室との間に生まれた娘・初姫の婿養子として定敬が迎え入れられる事となり、桑名藩主の座を継ぐ事になったのです。
まもなく訪れる幕末の動乱に際しては、文久三年(1863年)に上洛する第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の警護を勤めるべく、京都へと同行する定敬・・・
この時、実兄の容保が、すでに京都守護職に就任していた関係から、翌・元治元年(1864年)に、定敬は京都所司代に任命されます。
この京都所司代という役職は、徳川幕府の草創期に設けられた役職で、京都の治安維持はもちろんですが、その役目は、並みの奉行所職などではなく、朝廷や公家の動きや西国の大名の動きの監視も担っていましたし、幕府初期の頃は、将軍が度々京都を訪れる事もあって、そのダンドリをする重要なポストであり、大坂城代とともに、最終的に老中へと出世する人の、エリートコースの通り道でもあったわけですが、
尊王攘夷の嵐吹きまくる幕末の京都は、もはや所司代と町奉行だけでは、その治安を維持できない状態となっていため、ここに来て新設されたのが京都守護職・・・・
その守護職に任命された兄・容保と、同じく、新設された禁裏御守衛総督に任命された一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)とともに、未だ19歳の若者だった定敬も、幕末京都の治安を守る事になったわけです。
若いながらも、兄や慶喜を補佐しつつ職務をこなす定敬でしたが、その同じ年には禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)、その翌年には第二次長州征伐の兆しが見え(5月22日参照>>)、さらに、その翌年の慶応二年(1866年)には、長州征伐さ中の将軍・家茂が大坂城にて死去(7月20日参照>>)・・・
その後を継いで第15代将軍となった慶喜は、討幕派の勢いが増した翌・慶応三年(1867年)10月に大政奉還(10月14日参照>>)をし、続く12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・とめまぐるしく時代が進んで行く中、翌・慶応四年(1868年)の正月に、いよいよ鳥羽伏見の戦いが勃発します(1月3日参照>>)。
この時、兄・容保の会津藩とともに先駆けを命じられた桑名藩・藩主として、軍勢を引き連れた定敬は、1月3日に枚方から船に乗って京都方面へ向かいますが、すでに、鳥羽街道での戦いは開始されており、慌てて上陸して参戦するも、桑名軍を含む幕府側はあえなく敗退・・・
しかも、その翌日の5日には、薩長軍に錦の御旗が掲げられ(1月5日参照>>)てアチラが官軍となり・・・コチラの士気は低下・・・
さらに、この知らせを受けて、もはや敗北を悟った慶喜が、わずかの側近だけを連れて、単身で大坂城を脱出して江戸へ・・・いわゆる賛否両論渦巻く敵前逃亡(1月6日参照>>)をしたわけですが、
この時、慶喜が連れていたわずかの側近というのが、京都守護職の兄・容保と、京都所司代の弟・定敬・・・なんとなく、「うまく言いくるめられた」あるいは「騙された」感のある同行で、おそらく、この敵前逃亡は、容保&定敬の本心にそぐわない物であった事でしょうが、慶喜とともに、将兵をほったらかしにして江戸に帰っちゃった事は事実・・・
ご存じのように、この後の慶喜は、ただひたすら恭順な態度で自ら謹慎して官軍との交戦を避けようとし(1月23日参照>>)、その一環で、兄の容保は登城禁止の命を受けて、領国の会津へと戻ります(2月10日参照>>)。
・・・と、そんな中で困ったのは定敬の桑名藩です。
鳥羽伏見の戦いは、ここから戊辰戦争と名を変え、官軍が北上&東下していく事になりますが、言っても会津までには距離がありますが、伊勢(三重県北中部)の桑名は、すぐそこ・・・
早くも1月には、未だ藩主が戻らぬ桑名藩で、家老や上層部による会議が行われ、侃々諤々の激しい議論が飛び交う話し合いとなりますが、なんだかんだで、(冒頭に書いた通り)現藩主の定敬は養子の身である他家の人・・・一方、彼の藩主就任の時に幼かった万之助は、今や12歳になっているわけで、
結局のところ、戻らぬ藩主を頼るよりは、先代の遺児である万之助を新藩主の擁立して、「官軍に謝罪&恭順の意を示すべき」との意見が採用されるのです。
早速、すでに四日市にまで達していた官軍のもとに、万之助以下、全家老と、鳥羽伏見に参戦した兵らが出頭・・・すると、速やかに城の開け渡しが行われた後、いち時は寺に拘束されるものの、まもなく、万之助も、そして出頭した藩士全員も釈放され、桑名藩の降伏が認められたのです。
こうなると、何となく、江戸で取り残された感のある定敬・・・しかし、領国の上層部の思惑とはうらはらに、実は、定敬の心の中は、まだまだヤル気満々だったのです。
慶喜とともに江戸に戻った後、しばらくは、寛永寺にて謹慎中の慶喜に同調して、自分も寺に籠っていた定敬ですが、慶喜の水戸への帰還と同じくして、定敬も領国へ・・・しかし、かの桑名には戻らず、同じく領国ではあるものの、飛び地の越後(新潟県)柏崎(かしわざき)へと向かうのです。
ここなら、兄のいる会津とも連携が取りやすいですし、何たって、未だ北越戊辰戦争(4月25日参照>>)を展開している長岡藩のすぐそばです。
もちろん、この間にも国許・桑名からは、定敬に「恭順の姿勢を見せるよう」との使者が何度も送られて来ますが、彼はその進言を聞き入れるどころか、逆に、北越戊辰戦争のプロローグとなった慶応四年(明治元年・1868年)5月13日の朝日山争奪戦(5月13日参照>>)では、定敬配下の立見鑑三郎尚文(たつみかんざぶろうなおふみ)(3月6日参照>>)率いる桑名藩兵の雷神隊が大活躍して、戦いを勝利に導いたりなんかしてます。
とは言え、ご存じのように、やがては長岡城も陥落し(7月29日参照>>)・・・定敬は、兄・容保に合流すべく会津へ・・・
しかし、その会津も、母成峠の戦い(8月20日参照>>)で敗れ、十六橋・戸ノ口原を突破(8月22日参照>>)され、いよいよ会津若松城での籠城戦に突入(8月23日参照>>)します。
この時、兄とともに籠城する事を希望した定敬でしたが、容保は、それを許さず、「お前は米沢へ向かえ!」と指示・・・涙ながらに兄に別れを告げて、米沢に向かった定敬ですが、すでに米沢藩は官軍に降伏しており、入国を拒否されてしまいます。
やむなく仙台藩に向かいますが、コチラもすでに降伏しており、もはや行き場が無くなった定敬は、ドサクサの中で品川沖を脱出し、ちょうど仙台に来ていた榎本武揚(えのもとたけあき)率いる艦隊(8月19日参照>>)に合流して、函館へと向かったのです。
蝦夷地(えぞち=北海道)に上陸した榎本艦隊は、素早く五稜郭(ごりょうかく)を占領(10月20日参照>>)・・・その後しばらくは蝦夷共和国を誕生させる(12月15日参照>>)ほどの勢いがありましたが、やがて、春を待って上陸してきた新政府軍に要所を次々と落とされ(5月11日参照>>)、いつしか函館も風前の灯となってしまいます。
もはや、蝦夷共和国の敗北も時間の問題・・・しかし、まだまだ抵抗したい定敬は、なんと!ここで、函館脱出を計り、アメリカの帆船に乗せてもらって上海へと向かったのでした。
ただ、残念ながら、先立つ予算が・・・また、お金の無さとともに、いつまでも抵抗する事に限界を感じた事もあったようで、結局、かの五稜郭が開城(5月18日参照>>)となったと同じ5月18日、アメリカ船に乗せてもらって、横浜港へと帰還します。
その後、定敬は、新政府によって幽閉され、しばらくして津藩(藤堂家)預かりの身となり、当然の事ながら、桑名藩はかの万之助が継ぎます。
やがて、廃藩置県により桑名藩そのものが解体される中、明治五年(1872年)に罪を許され、晴れて自由の身となった定敬は、それから後は、ひたすら、戦死した人々への慰霊につくす、つぐないの日々を送っていたと言います。
ただ、そんな中でも明治十年(1877年)に起こった西南戦争(2月15日参照>>)の時には、かつての部下だった、あの立見尚文を連れて旧領に戻り、「今こそ、戊辰戦争の恨みを晴らそう!」と自腹を切って兵を募り、3万もの軍勢を率いて討伐に向かったのだとか・・・
その後は、明治二十六年(1893年)に亡くなった兄・容保(12月5日参照>>)の後を継いで日光東照宮の宮司に就任し、まさに、最後の最後まで徳川を見守りつつ、明治四十一年(1908年)7月12日、定敬は、63歳の生涯を閉じたのでした。
尊敬する兄とともに・・・
その兄の背中を追うように・・・
しかし、その行動は、結果的に多くの人命を犠牲にする事に・・・その罪を背負いながらの後半生は、いかばかりであったでしょうか。
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コメント
茶々様、こんばんは。
この方、今まで(個人的には)なんとなく容保公の影に隠れれがちな?イメージがあったのですが…よくみたらキャラ濃いですね!一会桑政権などという言葉もあるくらいですし。
たとえ窮地にあっても、ギリギリまで“もがく”ことで道を開こうとする人だったのかも知れないな…と思いました。(実際、ビミョーに強運な気がします。)
投稿: 千 | 2013年7月12日 (金) 20時19分
松平定敬って容保の弟ぐらいにしか認識してませんでしたが、中々どうして兄よりも波乱万丈な人生を送っていたんですね。
家臣だった立見尚文ってどんな人だろうとググってみてwikiに項があったので見てみれば、とてつもない御仁だったんですね。
旧幕軍出身者でありながら陸軍大将まで上り詰め、男爵でもあったわけですね。
薩長閥出身の将軍たちも戊辰戦争の事を言われると頭が上がらなかったとか。
今回もいい勉強をさせてもらいました。
投稿: 大和大納言秀長 | 2013年7月12日 (金) 23時20分
茶々さん、こんばんは。徳川家、松平家に生まれた人間の宿命なのか?時代なのか?兄弟でお家のために多数の犠牲者を出す結果になったのは。今の時代の人間には理解できないのでしょうね。
投稿: いんちき | 2013年7月12日 (金) 23時24分
千さん、こんばんは~
そうですね、
大河でも、未だ、「ちょっとしか出て来てない感」があります(これから出るかも知れませんが…)
>一会桑政権
この幕末の京都の政権は、独立とまではいかないまでも、江戸とは一線を画した感がありますね。
投稿: 茶々 | 2013年7月13日 (土) 02時22分
大和大納言秀長さん、こんばんは~
立見尚文は、このブログでご紹介した時にも、その冠をつけさせていただきましたが「無敵の将軍」と言われた人ですからね~
なんせ、日露戦争でも大活躍ですから…
投稿: 茶々 | 2013年7月13日 (土) 02時25分
いんちきさん、こんばんは~
>兄弟でお家のために多数の犠牲者を出す結果に…
そうですね~
しかも、それだけに犠牲者を出しておきながら、自分は生き残ってしまった事への罪悪感もハンパなかったでしょうね。
後からだと「何とか回避できなかったのか?」と思ってしまいますが、現在進行形でこの時代を生きた人には、彼らにしかわからない心の内もあったでしょうしね。
投稿: 茶々 | 2013年7月13日 (土) 02時30分
茶々様
桑名藩主,松平定敬さんは,会津藩主松平容保公の弟さんということぐらいしか知りませんでした。波乱万丈の人生だったのですね。
もちろん,鳥羽伏見の戦いの時には,幕府方の一つの中心的な人物ですが…。
話はちょっとずれますが,京都守護職は松平容保公の一人というイメージですけど,いつか忘れましたが,NHKの歴史番組で,会津松平家と薩摩島津家の2つを京都守護職にする予定だったとの「説(?)」が出てきました。
外様の島津家が京都守護職になるはずがないのが,通常の幕府の人事のはずですが…。
しかし,直前に,島津家の最後の藩主12代目の島津忠義公の父,久光の率兵上京⇒勅使を連れての江戸下向の帰り道,現在の神奈川県の東海道生麦事件で,島津が「攘夷のチャンピオン」として世間から見なされて,この京都守護職就任の件は流れたとのことを言っていました。
こんなことってありえるのでしょうか?
歴史って,どれが本当なのか分からないです。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年7月13日 (土) 17時44分
鹿児島のタクさん、こんばんは~
確かに、「初め、京都守護職は松平容保と島津久光の二人がなるはずだった」という説をおっしゃる専門家の方もおられるようですね。
公武合体の象徴である和宮降嫁の翌年に兵を率いて上洛した久光は、孝明天皇から「京都にて浪士の鎮撫に当たれ」との勅命を賜ったり、幕府人事への発言権を認められたり…と、かなりの重要人物と見られていたみたいです。
そこへ以って、あの寺田屋事件ですから、周囲の信頼度はさらに上がっていたでしょう。
また、同時期には外様の松前崇広>>が老中に抜擢されたりしてますから、幕府の中にも、そのような人事を考える人もいたし、そうせざるを得ない状況になっていたのかも知れません。
なので、実際に「久光=京都守護職」の話が出ていたかどうかは断定しかねますが、まったくありえない話では無いような気がします。
投稿: 茶々 | 2013年7月14日 (日) 03時46分
慶応3年10月14日、将軍の徳川慶喜は、松平定敬を通じて政権返上の奏聞書を朝廷に提出しました。新選組関連でも有名人みたいですね。
投稿: やぶひび | 2013年7月14日 (日) 15時29分
やぶひびさん、こんばんは~
そうですね。
定敬さん、なかなかの重要人物みたいですね。
ただ、ドラマなどでは、お兄さんにスポットが当たる事が多いので、ついつい、「容保公の弟」って印象になっちゃいますね。
投稿: 茶々 | 2013年7月14日 (日) 23時38分
茶々さま おひさしぶりです。
定敬公を取り上げていただき、ありがとうございます。
兄の容保は今年の大河でも描かれているように、とにかく薄幸オーラが出まくっている方ですが、定敬はポジティブな生きざまがすごく清々しいお方ですよね。
亡くなった人々の慰霊をする一方で、明治政府に赦免されてすぐ、養子(万之助君)と家臣を連れて英語塾に通い始め、ともにアメリカに短期留学までしたという話もありますし(切り替え早っ!)、ご正室とも特に離婚ということもなかっみたいですし…。
戊辰戦争のゴタゴタで藩主の座を追われたわりには、桑名さんと仲良くつきあっている姿になぜかほっとしたりして…。(戦後の会津の悲惨さを見てしまうと、余計そう感じるのかも)
次の幕末大河は、「かわいそうな幕府側」ではなく、定敬&立見による「最後までやってやったぜ徳川の意地」的なものが見てみたいです。
投稿: きょちゃ | 2013年7月16日 (火) 12時01分
きょちゃさん、こんばんは~
>「かわいそうな幕府側」ではなく、定敬&立見による「最後までやってやったぜ徳川の意地」的なもの…
イイですね~
幕末の幕府側と言えば、滅びゆく悲しみばかりが強調されるので、別の視点からのドラマは良いです!
投稿: 茶々 | 2013年7月16日 (火) 18時24分
茶々様
桑名と言えば「桑名の焼き蛤」連想してしまい、それは頭から離れない私ですが・・・
なんとか危地をのりきった桑名藩に感動してしましました。
万之助君のその後も気になります。
投稿: momo | 2013年7月20日 (土) 11時54分
momoさん、こんにちは~
「それは桑名の…」ですね。。。
万之助君は、廃藩置県で知藩事でなくなった後は、アメリカ留学して、帰国後に外務省に務められたそうですよ。
細かい事は知りませんが、おおむね平穏な日々ではなかったか?と…
投稿: 茶々 | 2013年7月20日 (土) 14時06分
こんにちは。
先日、新宿歴史博物館の「高須四兄弟」展を
見てきました。この博物館の近くで高須四兄弟は生まれたそうです。
松平定敬は教科書に出てこないけど、
戊辰戦争で函館まで転戦したんですね。
柏崎では、なぜ白河や桑名の殿様が戦争をしたの?と言われていましたが、飛び地だったんですね。霊厳寺(松平定信の墓所)にも行ってきました。戊辰戦争慰霊碑があります。
高須四兄弟展は下記のHPで
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/?p=1998
投稿: やぶひび | 2014年10月24日 (金) 14時51分
やぶひびさん、こんにちは~
高須四兄弟は幕末には重要な役どころでしたからね~
魅力的な展覧会になっている事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2014年10月24日 (金) 17時22分