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2013年8月11日 (日)

筒井順慶・36歳…無念の死

 

天正十二年(1584年)8月11日、洞ヶ峠の逸話で知られる戦国武将・筒井順慶が36歳の若さで、この世を去りました。

・・・・・・・

すでに、このブログでも、チョコチョコご紹介させていただいてる筒井順慶(つついじゅんけい)さん・・・

もともとは、大和筒井郷(奈良県大和郡山市)にゆかりの氏族だったのが、

後に奈良の興福寺の僧兵となって、室町時代には宗徒の棟梁(とうりょう・指揮官)を任されるまでになり、その後、周囲の国人衆を掌握しながら、筒井順昭(じゅんしょう)が当主となった天文年間(1532年~54年)頃には、大和一国を掌中に治める全盛期を迎えまました。

しかし、その順昭が、わずか2歳の長男を残して他界・・・この、残された息子が順慶だったわけですが、そこをチャンスとばかりに、乱世の梟雄と称された、あの松永久秀(まつながひさひで)に攻められ、居城の筒井城を奪われてしまいます(11月18日参照>>)

以後、大和の覇権を巡って、取ったり取られたりを繰り返していた両者ですが、そこに登場して来た織田信長が関与して、これまた取ったり取られたり・・・

Tutuizyunkei600a そんな中、久秀が信長に反旗をひるがえして信貴山城にて自爆してくれたおかげで、順慶は、信長の支援のもと、名実ともに大和一国の主となったのです。
(10月3日参照>>)
 .

しかし、その後、わずか数年で起こったのが、あの本能寺の変(6月2日参照>>)・・・

この時、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)と、主君の仇を討つべく中国大返し(6月6日参照>>)の神技で畿内に戻って来た羽柴(後の豊臣)秀吉とのハザマで、洞ヶ峠(ほらがとうげ)に登って、合戦の情勢を見て動かなかった=日和見(ひよりみ)をしたという事で、例の、『洞ヶ峠を決め込む』って話になるのですが(6月11日参照>>)

以前のページに書かせていただいたように、この時に洞ヶ峠に陣を敷いたのは光秀の方・・・順慶自身は、洞ヶ峠に行ってもいませんし、日和見でも無かったわけですが、

ただ、積極的に参戦しなかった事は確か・・・なので、その点は、合戦に勝利した秀吉から、こっぴどく叱責されたようで・・・

しかし、だからと言って、何かの処分を受けるという事も無く、その後も、大和一国の統治を任されてはいるのですが、その一件があるからなのか?以後の順慶は、秀吉がらみの合戦に積極的に参戦し、秀吉の天下取りまっしぐらに一役買う事になるのですが、

そんな中で、順慶は体調を崩してしまします。

順慶の病気の記述が最初に登場するのは、『和州諸将軍伝』の天正十二年(1584年)の2月25日の項・・・
「順慶大阪ノ旅館ニ於テ胃脘痛(いかんつう)ヲ病(や)メリテ漸甚(ようやくいた)シ」
とあります。

この時の旅館というのは、宿の事では無く、最近、大坂の船場に順慶が建てた屋敷・・・つまり別宅という意味ですが、この時は、即座に医師の手当てを受けて、速やかに快復し、3月2日には、居城の郡山城に戻りました。

しかし、それは完治したのではなく、あくまで一時しのぎ・・・その後も、度々腹痛に襲われる順慶でしたが、ご存じのように、この時期は、あの小牧長久手の戦いの真っ只中(11月16日参照>>)・・・

順慶も、伊勢に美濃(岐阜県)に・・・と、病をおして戦場を駆け巡るのですが、この頃には、すでに、彼の病状は周囲の知るところとなっており、『多聞院日記』には、興福寺の僧たちが寺を挙げての病気治癒祈祷を、連日に渡って行っている事が書かれています。

しかし、7月に入ると、暑さのせいか、さらに病状は悪化・・・ところが、ここに来て、順慶は京に向かうのです。

それは、当時、最高の名医と言われた曲直瀬(まなせ)道三(1月4日参照>>)の治療を受けるため・・・この時代の旅は体への負担がハンパなく大きいですが、未だ30代半ばの順慶・・・
「まだ、死ねない!」
という思いが強かった
のでしょう。

もちろん、この間にも奈良での祈祷は続けられていたわけですが、結局、京での治療中にも、激しい胃痛に襲われる事が度々あり、さすがの名医と言えど、あまり効果が無かったもよう・・・
(これらの症状から、胃がんではなく胃潰瘍(いかいよう)だったと言われています)

やむなく、順慶は8月3日に京を発ち、一路、大和へ・・・

7日の朝に郡山城に戻った順慶は、ますます重くなった病状に、自らの死期を感じたのか?10日には、枕元に母や親族、家老などを呼び集め、筒井家の将来について切々と語ったと言います。

その翌日の天正十二年(1584年)8月11日順慶は亡くなりました。

果たして、順慶の心配通り・・・彼の後を継いだ甥の定次(さだつぐ)は、小牧長久手の戦いの後に伊賀上野に転封となり、さらに、関ヶ原の後の慶長十三年(1608年)に突如として改易され、ここに戦国大名としての筒井氏は終わりを告げます。

順慶の死から、わずか24年・・・

36歳で亡くなったのですから、病気さえなければ、未だ現役バリバリだったはず・・・病気をおして京へ行き、「何としてでも生きたかった」順慶の無念が伝わって来るようです。
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは!

筒井順慶って豊臣政権の中では立場的に見て、「洞ヶ峠」の件もあるので、秀吉に対して優位だったはず…

でも統一戦争などへの軍役が課せられた状況が続く中では、どんなに身体が丈夫な人であってもヘタりがあるかもしれませんね。

現代社会のサラリーマン的なものの考え方で言うと、Aという戦争には○千人出陣しろ、と言われたのでそれを実行し、仕事をこなさなきゃいけないし、Bという城普請にも●千人手伝えと言われたのでそれもこなさなきゃならない…

こういう過密なスケジュールの中にさらされると、神経性ストレスで身体を壊すって事もあると思われます。

ましてや、上手く実行できなかったら…とかプレッシャーも相当のはず…

そうやって、過労死に近い状態で無くなった戦国武将ってたくさんいると思いますよ!

投稿: 御堂 | 2013年8月12日 (月) 20時20分

茶々様、こんばんは

「洞ヶ峠」と言う名文句を、作ったこの人、実はこの後のことは、よく知りませんでした。
何となく消えていったと言うイメージでした。
今でいうなら、過労死ですね。
改めて、勉強になりました。

投稿: エアバスA381 | 2013年8月13日 (火) 00時10分

御堂さん、こんばんは~

今でも、ストレスから胃潰瘍って聞きますもんね。。。
やはり、大変だったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2013年8月13日 (火) 02時23分

エアバスA381さん、こんばんは~

戦国時代ですから、現代人よりはるかに屈強な肉体をお持ちだったように思いますが、現代人が想像以上の疲れがあったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2013年8月13日 (火) 02時27分

筒井康隆の小説を読んだ事があります。子孫ではないようですが。

投稿: やぶひび | 2013年8月19日 (月) 11時05分

やぶひびさん、こんにちは~

そうですね。
確固たる証拠が無いので断定はできないものの、筒井康隆さん自身は「子孫だと信じている」あるいは「信じたい」みたいな話を聞いた事があります。

ウチも瀬戸内の村上水軍ですが、それも先祖からの言い伝えと、今も叔父が瀬戸内の島に住んでいるという事実はあるものの、石垣っぽい物がゴロゴロあるウチの裏山(=わが家の通称:観音様の山)を、死んだジイチャンが1000円で売っちゃう(←当時の値段です)という暴挙もあったおかげで、今や何の物的証拠もありませんが、やはり、「信じたい」です。

投稿: 茶々 | 2013年8月19日 (月) 13時27分

茶々様、こんにちは。

ウチは、松山の士族だそうです。
家紋は島津と同じ、円にくつわです。
でも、祖父の創作だそうで、がっかりしました。
どのくらいの武士だったんでしょうね。
名家だと、信じたいのですが。

近所に本多忠勝の末裔の本多さんはいます。

成瀬家の後裔は、間違いないのが、近所にいます。
犬山ですからwww.

投稿: エアバスA381 | 2013年8月21日 (水) 18時01分

エアバスA381さん、こんばんは~

ご先祖の事、いろいろと考えるのは楽しいですね。

有名な村上武吉の能島村上水軍の家紋は「丸に上の文字」ですが、ウチは「亀甲に上の文字」です。

母方は高松出身の士族ですが、家紋は明智光秀と同じ桔梗紋です。
何か、関係があるとうれしいなぁ…たぶんないでしょうが。。。

投稿: 茶々 | 2013年8月22日 (木) 00時50分

山崎の戦いで明智光秀を支援しない主君に
失望し隠棲した島左近。
例え利非ずとも、今までの明智光秀殿からの恩義で行くべきです。
侍稼業から離れる家臣の最右翼。

投稿: シバヤン | 2023年5月 5日 (金) 10時42分

シバヤンさん、こんばんは~

義理と人情を秤にかけても、
利がもっと重たかったのかも知れませんね

投稿: 茶々 | 2023年5月 6日 (土) 05時15分

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