北海道開拓に尽力した黒田清隆
明治三十三年(1900年)8月23日、薩摩藩出身で、明治維新後には政治家として活躍した黒田清隆が亡くなりました。
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天保十一年(1840年)に薩摩・鹿児島城下の下級武士の家に生まれた黒田清隆(くろだきよたか)は、20歳を過ぎた文久二年(1862年)に、随行員の一人として、あの生麦事件(8月21日参照>>)に遭遇します。
その後に起こった薩英戦争(7月4日参照>>)で初陣を飾った後、同じ薩摩藩の大山巌(いわお)らとともに、江戸にて西洋砲術をミッチリ勉強・・・翌・元治元年(1864年)の禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)にも参戦しました。
慶応二年(1866年)の薩長同盟(8月6日参照>>)の時には、西郷隆盛(たかもり)や大久保利通(としみち)の下で連絡役として長州(山口県)に赴いて長州側を説得・・・最終的に西郷と桂小五郎(後の木戸孝允)の対面を実現させた功労者の一人でもあります。
慶応四年(1868年)に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では薩摩藩の小銃第一隊長として参戦した後、新政府軍の参謀となって北越戊辰戦争(5月19日参照>>)へと展開・・・この時には、庄内藩の降伏に関して寛大な処置をとったと言います。
戊辰戦争も最終段階となった函館戦争にも参謀として赴き、抵抗を見せる榎本武揚(えのもとたけあき)を説得・・・結局、榎本は大切な『海律全書(かいりつぜんしょ=国際法の原書)』を黒田に託して降伏しました(5月18日参照>>)。
この時、榎本の才気と心意気に惚れ込んだ清隆は、頭を丸坊主にして榎本の助命嘆願に奔走したのです。
さらに維新後には、北海道開拓次官から長官に任命され、北海道の開拓に従事・・・この時に先の函館戦争で敗戦した将兵を起用して実務能力を発揮させるほか、同時に育て上げた屯田兵(とんでんへい)(1月12日参照>>)は、あの西南戦争(4月15日参照>>)の時にも大活躍しました。
もちろん、「少年よ!大志を抱け」でお馴染のクラーク博士(4月16日参照>>)をはじめとするお雇い外国人を積極的に招いて、次世代の人材育成にも尽力・・・
また、明治二十一年(1888年)には、あの伊藤博文(12月22日参照>>)の後を継いで、第2代内閣総理大臣に・・・
・・・と、ここまで華麗な経歴をご紹介して参りましたが、幕末維新にこれだけの活躍をしていたなら、けっこうな頻度でドラマの主役になっていそうですが、今のところ、そうでもない・・・
実はこの黒田清隆さん・・・その評価が分かれます。。。てか、あまり評判が良くありません。
そもそも、ものずごい酒乱だったようで、度々泥酔しては手のつけられない暴れようで、開拓長官として乗った船での宴会で酔った際には、その勢いで船の大砲を試し打ち・・・誤って島の住民を殺害してしまった事も・・・
その時は、示談で内々に済ませたものの、明治十一年(1878年)に奥さんが亡くなった時には、病死だったにも関わらず、「酒に酔った清隆が殺害した」なんて噂が飛び交い、同じ薩摩出身の大警視・川路利良(としよし)が、「病死に間違いない」という声明を正式に発表せざるを得ないほどの騒ぎになったとか・・・。
また、北海道開拓に関しても独断専行が目立つうえ、明治十五年(1882年)で廃止が決まっていた開拓使が行っていた事業を、法外な安価で民間に払い下げる事を決定し、しかも、それが同郷の薩摩出身者ばかりを優遇しているとして大問題となり、これは、大隈重信(おおくましげのぶ)の失脚劇=明治十四年の政変(10月11日参照>>)にもつながりました。
とは言え、この時に大隈と同調した三菱の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)も、「肥前(佐賀県=大隈)と土佐(高知県=弥太郎)で薩摩閥を倒す」なんて息巻いていたようで、何となく、明治政府内外と藩閥の利益不利益が複雑に絡んでいて、一概に、何が悪で何が善かなんて事は言えないようなのですが・・・
とにもかくにも、精一杯、北海道の開拓に心血を注いだ事は確かですし、ただの酒乱オジサンなら、近代国家として動き始めたばかりの明治という時代に、総理大臣になれるはずもなく・・・そこには、やはり国のリーダーとしての器を持っていたという事でしょう。
明治三十三年(1900年)8月23日、脳出血で61歳の生涯を閉じた黒田清隆・・・葬儀委員長は、あの函館戦争で、清隆が助命に奔走した榎本武揚が務めたという事です。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
黒田清隆―初めは嫌いな人物でした。
箱館戦争の際、総参謀である陸軍参謀兼海陸軍参謀の位置にあったのが、私が尊敬する山田顕義だったのですが、彼は箱館市街総攻撃の前に彼の得意な「衝背戦法」で五稜郭の背後にあたる箱館山を占領します。
これは五稜郭の共和国副総裁松平太郎がその日記に山田にしてやられたと記していたのですが、何故か黒田の功績として現在も伝わっているんですよね。
この事があって以来、黒田に対する印象といったら、マイナスイメージばかり…
ところが、色々と調べていくうちに、黒田のブレーンが、五代友厚と知って以降、チョット見方が変わりました。
五代友厚と言えば、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致したり、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学、天王寺商業高校)、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した人物ですね。
黒田は、維新の三傑(大久保利通・木戸孝允西郷隆盛)がこの世を去った後、薩摩閥の重鎮となりますが、官営払い下げ事件(開拓使などを五代友厚らが経営する関西貿易商会に払い下げようとしていた)などによる疑獄騒動や、自身の酒乱による先妻殺害疑惑などの醜聞などが原因で薩摩閥からも浮いた存在となっていきます。
その代わり、五稜郭からの縁というのでしょうか、榎本武揚ら旧幕臣との付き合いが濃密となります。(黒田の死に際し、榎本が葬儀委員長を務めたくらいですから…)
結局、黒田の周りには裏表のある人間(=薩長)は去り、裏表のない実直な人間(=旧幕臣)が残ったって感じですね。
五代や三井、三菱のような連中は政商と呼ばれていました。のちの財閥みたいなもんですが…後年、三井は政友会(のちの自由党)、三菱は民政党(のちの民主党)と提携し、帝国主義をまい進していきますが、五代が長生きしていたら、黒田や裏表のない実直な人間(=旧幕臣)たちと共により現実主義的な、“船場〔せんば〕の商い”のような大阪の繁栄が日本全体にももたらされていたんじゃないかと、ふと思うようになりました!
投稿: 御堂 | 2013年8月23日 (金) 16時15分
御堂さん、こんばんは~
黒田清隆にはかなりの思い入れがおありのようですね~伝わって来ます。
おっしゃる通り、伊藤博文とともに、維新の三傑亡き後の日本のかじ取りを行った人だと思います。
なかなかに難しい時代のかじ取りだっただけに、色々な意見もあろうかとは思いますが…
投稿: 茶々 | 2013年8月23日 (金) 18時31分
来年の大河ドラマですね。
三谷幸喜の清須会議が面白かったです。
投稿: Lisa | 2013年8月24日 (土) 01時36分
酒癖が悪いんでしょうね。アル中だったかも。
岩倉使節団を提案した人ですよね。
投稿: やぶひび | 2013年8月24日 (土) 19時22分
Lisaさん、こんばんは~
来年の大河ドラマは官兵衛さんの方ですね。
早くも単行本を読まれたのですか…映画もオモシロそうです。
投稿: 茶々 | 2013年8月25日 (日) 02時14分
やぶひびさん、こんばんは~
>酒癖が…
そうですね。
良い事もたくさんやっておられるので、それが無ければ… って感じなのでしょうか。。。
投稿: 茶々 | 2013年8月25日 (日) 02時16分
こんにちは~。
いつも楽しい記事を有難うございます!
黒田清隆さんは、確かに評価の難しい人ですよね。基本的には、非常に優秀で人望のある人だったのではと思っております。大隈さんや板垣さんに匹敵する能力はあったのでは…。
五稜郭での、榎本さんや大鳥さんを救ったことの功績も大変大きいと思いますし。(実際はこのころの新政府は自在不足で大変だったらしいですね)
彼の場合の悲劇は、茶々さんが書かれているとおり、アル中だったことですよね。現代においても、数年前にアル中だった大臣の方がお亡くなりになりましたね。彼も政界一の読書家で、ずば抜けた秀才で勉強熱心だったとのこと。
アル中の人は、更正施設などに入って3年間断酒をして、もう大丈夫と思い社会復帰しても、ある日一口飲んだら、意識が途切れて酒まみれ、一瞬で逆戻りなんてことも、珍しくないらしいです。
ドミノ倒しのように、今まで築いたものが一瞬でダメになってしまうような、苦しい世界に住んでいるのかもしれませんね。
多種多様でいろんな人々が一生懸命生きている図柄は、現在とまったく代わりがないなあと思った次第です。
投稿: 八河清郎 | 2013年9月25日 (水) 09時18分
八河清郎さん、こんにちは~
>ドミノ倒しのように…
ホントですね~
そういうところは、今と変わりないのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2013年9月25日 (水) 11時37分
北海道開拓使の件は朝ドラ「あさが来た」で少し触れていました。あの時の五代さんは窮地でした。
ところでこのサイトでは誰かの命日にはよく触れますが、誕生日にはあまり触れないですね。
誕生日・命日が太陰暦時代の人は旧暦の月日でも、「掲載月日」では現在の暦で掲載しておりますね。
投稿: えびすこ | 2016年8月18日 (木) 10時01分
えびすこさん、こんにちは~
>このサイトでは誰かの命日にはよく触れますが、誕生日にはあまり触れないですね。
そうですね。
「誕生日を祝う」あるいは「特別視する」ようになるのは、明治になって西洋文化が入って来てからですので、それまでは、あまり重視されていない=記録が曖昧なのです。
たとえば、歴史上、超有名人の徳川家康でも誕生日ははっきりしてませんよね?
(便宜上、最も有力な日付けになっている場合もあるようですが)
さらに、幼少期の記録が残っている歴史人物はかなり少ないです。
誕生日をキッカケに記事を書くのであれば、やはり幼少期の話が中心で…となりますし、逆に、波乱の人生からの最期の様子を書くのであれば、ご命日をチョイスして書くのが妥当かと思って、そのようにしております。
投稿: 茶々 | 2016年8月18日 (木) 15時26分