江戸の人気役者・8代め市川団十郎が大坂で自殺
嘉永七年(1854年)8月6日、人気を集めた江戸時代の歌舞伎役者・市川団十郎(團十郎)が自殺しました。
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文政六年(1823年)、7代め市川団十郎の息子として生まれた彼は、生後1ヶ月で初舞台を踏み、わずか10歳で8代め団十郎を襲名しました。
「江戸の華」と称されるほどのイケメンなうえにセリフ回しが巧みで、嫌味の無い色気が溢れんばかりだったそうで、その人気は当代一・・・
少し前にに行われた天保の改革(3月1日参照>>)の倹約令によって、風俗の取り締まりが厳しくなったり、芝居小屋が移転させられたりで、すっかり落ち込んでいた芝居小屋に、この頃になって人出が戻って来ていたのも、この8代めの人気によるところが大きいと言われています。
そんな団十郎が、嘉永七年(1854年)7月・・・大坂の舞台に立っていた父=海老蔵を訪ねて、大坂にやって来たのです。
その後、道頓堀の船乗り込みを終え、稽古に入った8月5日、当時は九郎衛門町と呼ばれていた現在の道頓堀2丁目にあった『大世』という料亭で行われた宴会に出席します。
宴会を開いたのは、道頓堀の『中之芝居』や『角之芝居』(1月29日参照>>)の太夫元(たゆうもと=演劇興行などの元締め)などで、もちろん主賓は、大人気の団十郎・・・
30人を超す芸妓たちが歌って踊っての、まさに大宴会・・・しかし、なぜか、この席での団十郎の表情は曇っていたと言います。
やがて、席を立って廊下に出た団十郎は、そばにいた者に
「頭痛がするんで、宿に戻りたいんやけど…」
と、ひと言・・・
そのまま姿を消した団十郎は、翌・嘉永七年(1854年)8月6日の朝、宿泊していた笠屋町(現在の東心斎橋2丁目)の『植久』という旅館の部屋で、自殺した姿で発見されるのです。
未だ、32歳の若さでした。
その自殺自体が、「ノドを突いて」とも「切腹した」とも言われる中、理由に関しては、まったくの謎・・・今以て、考えられる事が山ほどあるのだそうです。
一般的に言われているのは、膨大な借金を抱えていた父が、大坂での父子共演興業を勝手に決めてしまったものの、団十郎にはすでに別の予定が入っており、そのダブルブッキングに悩んでいたというもの・・・
それこそ、大坂のエライさんの宴会の席にて、江戸で約束したエライさんの事が重くのしかかり、両者への義理立ての板挟みとなったのかも知れません。
また、かの借金が積み重なって、いつまでたっても返済できない状態となっており、債権者たちが自宅に押し寄せる事もあったようで・・・
役者さんの大盤振る舞いは芸の肥やしとは言え、「性格もいたって良い」とウワサされていた団十郎さんなら、その事に気を揉んでいたかも知れませんね。
とにもかくにも、その理由は謎なれど、当代きっての人気役者が突然亡くなったのですから、人々へ与えた衝撃は大変大きかったそうです。
当時は、有名な役者さんが亡くなると『死絵(しにえ)』と呼ばれる錦絵=今で言うところのブロマイドのような物が発売されるのが常でしたが、団十郎の場合は、その『死絵』が300種類以上発売されたのだとか・・・
※『国会図書館デジタル資料』のサイトで、8代めの『死絵』が拝見できます。
コチラ↓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307995?tocOpened=1(←別窓で開きます)
は、旅仕度をした団十郎が、仏によって死出の旅路へ導かれている様子が描かれていますね~
ファンの中には、この絵にすがりついて涙に暮れる娘さんも多かったとか・・・
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コメント
茶々様、こんばんは。
人気役者の、突然の謎の死はつらいですね。
現在なら、アイドル突然の失踪みたいです。
地下アイドルでは、日常茶飯事です。
いつの世もファンはつらいです。
投稿: エアバスA381 | 2013年8月 6日 (火) 22時50分
エアバスA381さん、こんばんは~
そうですね。。。
人気者さんには人気者さんだけにしかわからない悩みも多くあると思いますが、ファンは辛いですね。
投稿: 茶々 | 2013年8月 7日 (水) 02時54分