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2013年8月28日 (水)

アンケート企画:歴史上最強&最恐の怨霊&怪談は?

 

さて、今宵は久々に、アンケート企画と参りましょう!

ここ何日間、朝晩は過ごしやすく、秋の気配を感じる今日この頃ではありますが、未だ日中は暑さ全開の真夏の様相・・・

という事で、今回のテーマは、過ぎ行く夏を惜しむべく・・・
「あなたが思う、日本の歴史上最強&最恐の怨霊&怪談は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

こういう類いの話は、このブログでも時々ご紹介させていただいていますので、今回の選択肢は、ブログ記事の中から選ばせていただきましたが、もちろん、いつものように「その他」の項目でのコメントも受け付けております。

とりあえずは、個人的に「ゾ~~ッ」とする選択肢を16個用意させていただきましたのであなたが、1番「ゾ~ッ」とする項目に清き1票を・・・
という事でよろしくお願いしますm(_ _)m
※『怨霊・心霊・怖い話』のまとめ目次を参照>>

  1. 清涼殿に天からの一撃!
    菅原道真の怨霊
    日本三大怨霊の一人…(参照ページ>>)
  2. その首が関東へ飛ぶ!
    平将門の怨霊
    日本三大怨霊の一人…(参照ページ>>)
  3. 生きながら鬼と化し魔界の王となった
    崇徳天皇の怨霊
    日本三大怨霊の一人…(参照ページ>>)
  4. 怪談話の王道
    四谷怪談のお岩さん
    日本三大怪談の一つ…(参照ページ>>)
  5. 真夜中の井戸で「1枚…2枚」
    番町皿屋敷のお菊さん
    日本三大怪談の一つ…(参照ページ>>)
  6. 美しくも恐ろしい
    牡丹燈籠のお露さん
    日本三大怪談の一つ…(参照ページ>>)
  7. 平安の世に残る
    早良親王(崇道天皇)の怨霊
    桓武天皇をビビらせた…(参照ページ>>)
  8. 上杉謙信への怨み?
    春日山城の怪現象
    山城深く…(参照ページ>>)
  9. 柴田勝家の怨み?
    九十九橋の首無し武者
    その行列を見た者は…(参照ページ>>)
  10. 小田原征伐の悲惨な戦い
    八王子城の怖い伝説
    今も語り継がれる…(参照ページ>>)
  11. 奥州征伐の悲惨な戦い
    九戸城の怪談話
    諸説あるものの…(参照ページ>>)
  12. 夏の陣で散った難攻不落の城に…
    大阪城の怖い話
    豊臣の恨み、晴らさでおくべきか…
    (参照ページ>>)
  13. 今も残る城なればこそ
    姫路城の七不思議
    七不思議と言いながら…(参照ページ>>)
  14. 江戸の世で最も有名な
    鍋島の化け猫騒動
    今年話題になった首相官邸は鍋島藩邸の跡地…(参照ページ>>)
  15. 江戸を通じて噂された
    大奥開かずの間
    将軍・綱吉の最期は…(参照ページ>>)
  16. その他
    「やっぱ、アレでしょう」っていう項目がありましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
アンケートパーツが最大16項目しか選択肢にできないので、なんとか上記の16項目に絞ってみました。

勝手ながら、このアンケートは9月11日締切に締め切らせいぇいただきました。

・‥…━━━☆・

アンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>

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2013年8月23日 (金)

北海道開拓に尽力した黒田清隆

 

明治三十三年(1900年)8月23日、薩摩藩出身で、明治維新後には政治家として活躍した黒田清隆が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

天保十一年(1840年)に薩摩・鹿児島城下の下級武士の家に生まれた黒田清隆(くろだきよたか)は、20歳を過ぎた文久二年(1862年)に、随行員の一人として、あの生麦事件(8月21日参照>>)に遭遇します。

その後に起こった薩英戦争(7月4日参照>>)で初陣を飾った後、同じ薩摩藩の大山巌(いわお)らとともに、江戸にて西洋砲術をミッチリ勉強・・・翌・元治元年(1864年)の禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)にも参戦しました。

Kurodakiyotaka600 慶応二年(1866年)の薩長同盟(8月6日参照>>)の時には、西郷隆盛(たかもり)大久保利通(としみち)の下で連絡役として長州(山口県)に赴いて長州側を説得・・・最終的に西郷と桂小五郎(後の木戸孝允)対面を実現させた功労者の一人でもあります。

慶応四年(1868年)に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では薩摩藩の小銃第一隊長として参戦した後、新政府軍の参謀となって北越戊辰戦争(5月19日参照>>)へと展開・・・この時には、庄内藩の降伏に関して寛大な処置をとったと言います。

戊辰戦争も最終段階となった函館戦争にも参謀として赴き、抵抗を見せる榎本武揚(えのもとたけあき)を説得・・・結局、榎本は大切な『海律全書(かいりつぜんしょ=国際法の原書)を黒田に託して降伏しました(5月18日参照>>)

この時、榎本の才気と心意気に惚れ込んだ清隆は、頭を丸坊主にして榎本の助命嘆願に奔走したのです。

さらに維新後には、北海道開拓次官から長官に任命され、北海道の開拓に従事・・・この時に先の函館戦争で敗戦した将兵を起用して実務能力を発揮させるほか、同時に育て上げた屯田兵(とんでんへい)(1月12日参照>>)は、あの西南戦争(4月15日参照>>)の時にも大活躍しました。

もちろん、「少年よ!大志を抱け」でお馴染のクラーク博士(4月16日参照>>)をはじめとするお雇い外国人を積極的に招いて、次世代の人材育成にも尽力・・・

また、明治二十一年(1888年)には、あの伊藤博文(12月22日参照>>)の後を継いで、第2代内閣総理大臣に・・・

・・・と、ここまで華麗な経歴をご紹介して参りましたが、幕末維新にこれだけの活躍をしていたなら、けっこうな頻度でドラマの主役になっていそうですが、今のところ、そうでもない・・・

実はこの黒田清隆さん・・・その評価が分かれます。。。てか、あまり評判が良くありません。

そもそも、ものずごい酒乱だったようで、度々泥酔しては手のつけられない暴れようで、開拓長官として乗った船での宴会で酔った際には、その勢いで船の大砲を試し打ち・・・誤って島の住民を殺害してしまった事も・・・

その時は、示談で内々に済ませたものの、明治十一年(1878年)に奥さんが亡くなった時には、病死だったにも関わらず、「酒に酔った清隆が殺害した」なんて噂が飛び交い、同じ薩摩出身の大警視・川路利良(としよし)が、「病死に間違いない」という声明を正式に発表せざるを得ないほどの騒ぎになったとか・・・。

また、北海道開拓に関しても独断専行が目立つうえ、明治十五年(1882年)で廃止が決まっていた開拓使が行っていた事業を、法外な安価で民間に払い下げる事を決定し、しかも、それが同郷の薩摩出身者ばかりを優遇しているとして大問題となり、これは、大隈重信(おおくましげのぶ)の失脚劇=明治十四年の政変(10月11日参照>>)にもつながりました。

とは言え、この時に大隈と同調した三菱の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)も、「肥前(佐賀県=大隈)と土佐(高知県=弥太郎)で薩摩閥を倒す」なんて息巻いていたようで、何となく、明治政府内外と藩閥の利益不利益が複雑に絡んでいて、一概に、何が悪で何が善かなんて事は言えないようなのですが・・・

とにもかくにも、精一杯、北海道の開拓に心血を注いだ事は確かですし、ただの酒乱オジサンなら、近代国家として動き始めたばかりの明治という時代に、総理大臣になれるはずもなく・・・そこには、やはり国のリーダーとしての器を持っていたという事でしょう。

明治三十三年(1900年)8月23日脳出血で61歳の生涯を閉じた黒田清隆・・・葬儀委員長は、あの函館戦争で、清隆が助命に奔走した榎本武揚が務めたという事です。
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2013年8月18日 (日)

名門・最上を消滅させた最上騒動

 

元和八年(1622年)8月18日、「最上騒動」と呼ばれる出羽山形藩のお家騒動により、最上家が改易となりました。

・・・・・・・・・・・・

Mogamiyosiaki500aks 事の発端は、出羽山形藩の藩祖・最上義光(もがみよしあき)の時代に、すでにくすぶりはじめます。

天下分け目と言われた関ヶ原の戦いの時、同時進行となった上杉との長谷堂の戦い(9月16日参照>>)を終え、徳川家康についた事で勝ち組となった義光は、その家康との関係を重視して、長男・義康ではなく、家康のもとへ差し出していた次男・家親(いえちか)家督を譲ったのです。

しかも、ナイスなタイミングで、かの長男が変死するという、臭いまくりの継承劇・・・

その後、病気がちとなった義光は、慶長十九年(1614年)に69歳の生涯を閉じる(1月18日参照>>)のですが、そのわずか6年後、第2代藩主を譲られた家親も、37歳の若さで急死するのです。

さらに、これも疑惑ありまくりの死・・・

『徳川実記』では、
「猿楽を見ている途中に頓死し、皆が怪しんだ」
とあり、

『羽陽軍記』では、
「加藤惣内の娘・おひさによって湯殿で刺殺された」
となっています。

この加藤惣内という人は、かつて、家親が、大坂の陣の時のドサクサで、弟の義親(よしちか)を討った時に、ともに亡くなった家臣・・・その時の恨みというワケですね。

そんなこんなの疑惑ありまくりとは言え、藩主が死んでしまった以上、当然、後継者を決めなくちゃぁならない・・・

そこで、家親の一人息子だった最上義俊(よしとし)が第3代・山形藩主となりますが、この義俊が、未だ12歳という若さ・・・当然ですが、周りの重臣たちから見れば、頼りない事この上無いわけで・・・

そのため、一部の家臣からは、義俊を失脚させて、亡き家親の弟(義光の五男)である山野辺義忠(やまのべよしただ)を推す動きが出て来るのです。

そもそもの話・・・実は、亡くなった家親さんという人が、国許の家臣とはあまりうまくいっていなかったのですね。

冒頭に書いた通り、もともと、藩祖の義光が、徳川家との関係のために、幼い頃から、その家親を差し出していて、彼はずっと、2代将軍の徳川秀忠に仕えていたわけで、つまりは江戸暮らし・・・領民や地元の家臣とは、ほとんど接触が無かったのです。

なので、実は、その家親さんの疑惑の死の中には、家臣の楯岡光直(たておかみつなお)鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>)共謀して殺害したというウワサもあったのです。

やがて両者の対立が深まる中、義俊を支持する松根光広(まつねみつひろ・あきひろ=義光の甥)は、元和八年(1622年)、たまりかねて、敵対する彼らの事を幕府老中・酒井忠世(さかいただよ)本多正純(ほんだまさずみ)に訴えたのです。

「義俊を酒に溺れさせて、失脚させようとしている」
と・・・しかも、「先の藩主の家親の殺害もやってるんじゃないか?」って事もつけ加えて・・・

こうして、幕府による詮義が行われますが、結局、確固たる証拠が見つかる事はなく、大騒ぎした光広は、筑後(福岡県)柳川藩の立花氏へ預かりの処分としました。

そうしておいて、一方の山野辺義忠擁立派を納得させるため、幕府は、島田利正(としまさ)米津田政(よねきつただまさ・みちまさ)現地に派遣して説得交渉に当たらせました。

その条件は・・・
「ひとまず、藩の領地を幕府が預かり、代わりに、新たな6万石を与えるので、現在の重臣たちは、皆、力を合わせて現藩主の義俊を盛りたてて補佐し、義俊が成長したあかつきに本領を返す」
というもの・・・

しかし山野辺義忠や鮭延秀綱らは、これに猛反発・・・「絶対に譲れない!」として、その態度は悪化するばかり・・・

そうなると、幕府も強い姿勢に・・・

かくして元和八年(1622年)8月18日、義俊も幼く、そこに家臣が協力する気が無い事を理由に、出羽山形藩の改易を申し渡したのです。

これが、世に言う最上騒動・・・

山野辺義忠は備前岡山藩に追放となり、鮭延秀綱は下総(千葉県北部)佐倉藩主・土井利勝(どいとしかつ)の預かり、楯岡光直も豊前(大分県北部)細川家に預かりとなりましたが、義俊だけは、近江(滋賀県)大森に1万石の所領を与えられ、なんとか、最上家の家名だけは存続が許される事に・・・

とは言え、清和源氏の流れを汲み、東北に勢力を誇った大名としての最上は、ここで消滅する事となったのです。
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2013年8月11日 (日)

筒井順慶・36歳…無念の死

 

天正十二年(1584年)8月11日、洞ヶ峠の逸話で知られる戦国武将・筒井順慶が36歳の若さで、この世を去りました。

・・・・・・・

すでに、このブログでも、チョコチョコご紹介させていただいてる筒井順慶(つついじゅんけい)さん・・・

もともとは、大和筒井郷(奈良県大和郡山市)にゆかりの氏族だったのが、

後に奈良の興福寺の僧兵となって、室町時代には宗徒の棟梁(とうりょう・指揮官)を任されるまでになり、その後、周囲の国人衆を掌握しながら、筒井順昭(じゅんしょう)が当主となった天文年間(1532年~54年)頃には、大和一国を掌中に治める全盛期を迎えまました。

しかし、その順昭が、わずか2歳の長男を残して他界・・・この、残された息子が順慶だったわけですが、そこをチャンスとばかりに、乱世の梟雄と称された、あの松永久秀(まつながひさひで)に攻められ、居城の筒井城を奪われてしまいます(11月18日参照>>)

以後、大和の覇権を巡って、取ったり取られたりを繰り返していた両者ですが、そこに登場して来た織田信長が関与して、これまた取ったり取られたり・・・

Tutuizyunkei600a そんな中、久秀が信長に反旗をひるがえして信貴山城にて自爆してくれたおかげで、順慶は、信長の支援のもと、名実ともに大和一国の主となったのです。
(10月3日参照>>)
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しかし、その後、わずか数年で起こったのが、あの本能寺の変(6月2日参照>>)・・・

この時、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)と、主君の仇を討つべく中国大返し(6月6日参照>>)の神技で畿内に戻って来た羽柴(後の豊臣)秀吉とのハザマで、洞ヶ峠(ほらがとうげ)に登って、合戦の情勢を見て動かなかった=日和見(ひよりみ)をしたという事で、例の、『洞ヶ峠を決め込む』って話になるのですが(6月11日参照>>)

以前のページに書かせていただいたように、この時に洞ヶ峠に陣を敷いたのは光秀の方・・・順慶自身は、洞ヶ峠に行ってもいませんし、日和見でも無かったわけですが、

ただ、積極的に参戦しなかった事は確か・・・なので、その点は、合戦に勝利した秀吉から、こっぴどく叱責されたようで・・・

しかし、だからと言って、何かの処分を受けるという事も無く、その後も、大和一国の統治を任されてはいるのですが、その一件があるからなのか?以後の順慶は、秀吉がらみの合戦に積極的に参戦し、秀吉の天下取りまっしぐらに一役買う事になるのですが、

そんな中で、順慶は体調を崩してしまします。

順慶の病気の記述が最初に登場するのは、『和州諸将軍伝』の天正十二年(1584年)の2月25日の項・・・
「順慶大阪ノ旅館ニ於テ胃脘痛(いかんつう)ヲ病(や)メリテ漸甚(ようやくいた)シ」
とあります。

この時の旅館というのは、宿の事では無く、最近、大坂の船場に順慶が建てた屋敷・・・つまり別宅という意味ですが、この時は、即座に医師の手当てを受けて、速やかに快復し、3月2日には、居城の郡山城に戻りました。

しかし、それは完治したのではなく、あくまで一時しのぎ・・・その後も、度々腹痛に襲われる順慶でしたが、ご存じのように、この時期は、あの小牧長久手の戦いの真っ只中(11月16日参照>>)・・・

順慶も、伊勢に美濃(岐阜県)に・・・と、病をおして戦場を駆け巡るのですが、この頃には、すでに、彼の病状は周囲の知るところとなっており、『多聞院日記』には、興福寺の僧たちが寺を挙げての病気治癒祈祷を、連日に渡って行っている事が書かれています。

しかし、7月に入ると、暑さのせいか、さらに病状は悪化・・・ところが、ここに来て、順慶は京に向かうのです。

それは、当時、最高の名医と言われた曲直瀬(まなせ)道三(1月4日参照>>)の治療を受けるため・・・この時代の旅は体への負担がハンパなく大きいですが、未だ30代半ばの順慶・・・
「まだ、死ねない!」
という思いが強かった
のでしょう。

もちろん、この間にも奈良での祈祷は続けられていたわけですが、結局、京での治療中にも、激しい胃痛に襲われる事が度々あり、さすがの名医と言えど、あまり効果が無かったもよう・・・
(これらの症状から、胃がんではなく胃潰瘍(いかいよう)だったと言われています)

やむなく、順慶は8月3日に京を発ち、一路、大和へ・・・

7日の朝に郡山城に戻った順慶は、ますます重くなった病状に、自らの死期を感じたのか?10日には、枕元に母や親族、家老などを呼び集め、筒井家の将来について切々と語ったと言います。

その翌日の天正十二年(1584年)8月11日順慶は亡くなりました。

果たして、順慶の心配通り・・・彼の後を継いだ甥の定次(さだつぐ)は、小牧長久手の戦いの後に伊賀上野に転封となり、さらに、関ヶ原の後の慶長十三年(1608年)に突如として改易され、ここに戦国大名としての筒井氏は終わりを告げます。

順慶の死から、わずか24年・・・

36歳で亡くなったのですから、病気さえなければ、未だ現役バリバリだったはず・・・病気をおして京へ行き、「何としてでも生きたかった」順慶の無念が伝わって来るようです。
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2013年8月 6日 (火)

江戸の人気役者・8代め市川団十郎が大坂で自殺

 

嘉永七年(1854年)8月6日、人気を集めた江戸時代の歌舞伎役者・市川団十郎(團十郎)が自殺しました。

・・・・・・・・・・・

文政六年(1823年)、7代め市川団十郎の息子として生まれた彼は、生後1ヶ月で初舞台を踏み、わずか10歳で8代め団十郎を襲名しました。

Itikawadanzyuurou8a600 「江戸の華」と称されるほどのイケメンなうえにセリフ回しが巧みで、嫌味の無い色気が溢れんばかりだったそうで、その人気は当代一・・・

少し前にに行われた天保の改革(3月1日参照>>)倹約令によって、風俗の取り締まりが厳しくなったり、芝居小屋が移転させられたりで、すっかり落ち込んでいた芝居小屋に、この頃になって人出が戻って来ていたのも、この8代めの人気によるところが大きいと言われています。

そんな団十郎が、嘉永七年(1854年)7月・・・大坂の舞台に立っていた父=海老蔵を訪ねて、大坂にやって来たのです。

その後、道頓堀の船乗り込みを終え、稽古に入った8月5日、当時は九郎衛門町と呼ばれていた現在の道頓堀2丁目にあった『大世』という料亭で行われた宴会に出席します。

宴会を開いたのは、道頓堀の『中之芝居』『角之芝居』(1月29日参照>>)太夫元(たゆうもと=演劇興行などの元締め)などで、もちろん主賓は、大人気の団十郎・・・

30人を超す芸妓たちが歌って踊っての、まさに大宴会・・・しかし、なぜか、この席での団十郎の表情は曇っていたと言います。

やがて、席を立って廊下に出た団十郎は、そばにいた者に
「頭痛がするんで、宿に戻りたいんやけど…」
と、ひと言・・・

そのまま姿を消した団十郎は、翌・嘉永七年(1854年)8月6日の朝、宿泊していた笠屋町(現在の東心斎橋2丁目)『植久』という旅館の部屋で、自殺した姿で発見されるのです。

未だ、32歳の若さでした。

その自殺自体が、「ノドを突いて」とも「切腹した」とも言われる中、理由に関しては、まったくの謎・・・今以て、考えられる事が山ほどあるのだそうです。

一般的に言われているのは、膨大な借金を抱えていた父が、大坂での父子共演興業を勝手に決めてしまったものの、団十郎にはすでに別の予定が入っており、そのダブルブッキングに悩んでいたというもの・・・

それこそ、大坂のエライさんの宴会の席にて、江戸で約束したエライさんの事が重くのしかかり、両者への義理立ての板挟みとなったのかも知れません。

また、かの借金が積み重なって、いつまでたっても返済できない状態となっており、債権者たちが自宅に押し寄せる事もあったようで・・・

役者さんの大盤振る舞いは芸の肥やしとは言え、「性格もいたって良い」とウワサされていた団十郎さんなら、その事に気を揉んでいたかも知れませんね。

とにもかくにも、その理由は謎なれど、当代きっての人気役者が突然亡くなったのですから、人々へ与えた衝撃は大変大きかったそうです。

当時は、有名な役者さんが亡くなると『死絵(しにえ)と呼ばれる錦絵=今で言うところのブロマイドのような物が発売されるのが常でしたが、団十郎の場合は、その『死絵』が300種類以上発売されたのだとか・・・

Dputonboriedo600
江戸時代の道頓堀(摂津名所図絵より)

『国会図書館デジタル資料』のサイトで、8代めの『死絵』が拝見できます。
コチラ↓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307995?tocOpened=1(←別窓で開きます)
は、旅仕度をした団十郎が、仏によって死出の旅路へ導かれている様子が描かれていますね~

ファンの中には、この絵にすがりついて涙に暮れる娘さんも多かったとか・・・
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