幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多こと井上馨
大正四年(1915年)9月1日、幕末維新に活躍した長州藩出身の政治家・井上馨が、79歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・・
先日ご紹介した同世代の黒田清隆(きよたか)さん(8月23日参照>>)の時も「その評価が分かれる」と書かせていただきましたが、本日ご紹介する井上馨(いのうえかおる)さんも・・・ただ、この方は、人によって、あるいか解釈の仕方でというのではなく、幕末期と維新後で大きく評価が変わる人なのです。
天保六年(1836年)に、長州藩士・井上五郎三郎光亨の次男として、周防国(山口県)湯田村(山口市湯田温泉)に生まれた井上馨は、一旦、長州藩士・志道家の養嗣子となって、通称:志道聞多(ぶんた)を名乗った後、再び井上家に復籍・・・なので、幕末期は井上聞多の名前で有名ですね。
・・で、この井上家も志道家も、代々毛利家に仕えていた名門で、下級武士の活躍が目立つ幕末の志士の中では、けっこうなお坊ちゃんだったわけですが、それにも関わらす、幕末時代はかなり危険な事をやってのけていて、何度か危機一髪を味わった事もありました。
あの高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともにイギリス公使館を焼き打ち(12月12日参照>>)した時には、一人取り残されて、あわや焼死の寸前に・・・
また、禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)の後のゴタゴタでは、それこそ命を狙われて、もはやあきらめムードも漂いましたが、見事、復活・・・(9月25日参照>>)
このあたり・・・かの晋作や伊藤博文(いとうひろぶみ=俊輔)らとともに、文字通り命を賭けて縦横無尽に活躍するところから、勤皇の志士としてのイメージは良好なわけですが・・・
そうです。
冷静になって考えれば、彼ら勤皇の志士は、討幕&革命という大義名分があり、最終的にその目標を果たして勝ち組になるので、それが罪に問われる事は無いわけですが、本当なら、そのやって来た事は、完全に犯罪となる行動です。
維新が成って、法律の名のもとに歩み始めた近代国家では、「勝ち組だから何でも許される」わけでは無いわけで、そこのところは、速やかなる気持ちの切り替えが望まれるわけですが、それこそ、人智を越えたスピードで変化を遂げる維新の渦中では、それも、なかなかに難しいわけで・・・
そんな中で、新政府のもと外務卿として活躍する井上は、あの鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)を建設します。
この鹿鳴館は、外国に追いつき追い越せとと頑張る新生日本にとって、その外国人との交渉をうまく進めるための社交場としての重大な役目を担って、鳴り物入りで建設されたわけですが、実際には、急務であった条約改正も問題山積みで思うように進まず(10月8日参照>>)、結局は、金持ちの遊び場のようになってしまい、彼も外務卿を辞任せざるをえませんでした。
さらに、井上薫の評判を悪くしたのは、尾去沢銅山事件です。
これは、あの佐賀の乱を起こした江藤新平(4月13日の真ん中あたり参照>>)のところでもチョコッと書かせていただきましたが、旧南部藩(岩手県)の御用商人だった村井茂兵衛(もへい=鍵屋)に、当時、大蔵大輔(たいふ)だった井上が、
江戸時代の証文をたてに借金の返済を迫り、茂兵衛の所有していた尾去沢鉱山(秋田県)を没収・・・しかも、自分の腹心だった岡田平蔵に競売で払下げたのです。
・・・で、納得のいかない茂兵衛が、初代・司法卿を務めていた江藤新平に訴えて、江藤が厳重な処分をすようとしたところ長州閥の木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)が阻止・・・
その後、司法卿が大木喬任(これとう)に代わってから、再び取り調べが再開され、厳重な処分を求める声も出ましたが、結局、大蔵省から茂兵衛に2万5千円の還付金を支払う事と井上が30円の罰金を支払う事を決定しただけで、なんとなくウヤムヤな形で事件解決となります。
その理由としては・・・
「維新が成った後、井上は、旧時代の各藩の財政を中央政府にまとめるにあたって、わずかの期間でこれをこなしたのだから、その時に、多少の不備ややり間違いがあっても仕方ない」
のだそうです。
なんか、よくワカラン曖昧な表現・・・
しかも、かの銅山はそのまま岡田が所有し、井上も元老院議員として政治生命が保たれたのですから、納得がいかないモヤモヤ感満載・・・
ただ、それが、幕末から明治への転換期という事なのかも知れません。
政治に貪欲で敏腕でなければ、事をうまくこなせませんが、そんな人は、政治以外の事にも貪欲で敏腕なわけで・・・井上の場合は、それがお金に関する事だったわけで・・・
こうして、明治初期の汚職に関しては酷評を受ける井上さんですが、一方では「電光石火の如く難問を解決する政治手腕を持っていた」とか「世話好きの人の良いオッチャンだった」なんて話もあり・・・
だからこそ、汚職まみれでも、必要とされたのかも知れません。
大正四年(1915年)9月1日、最後まで政財界へのい影響力を持ちつつ、井上薫は79歳の生涯を閉じました。
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コメント
茶々様、こんにちは~
江戸時代には汚職と言う概念が、まるで無くて明治時代から出現した概念なので、過渡期の人はこうなっちゃうんでしょうね。
高杉晋作も明治まで生きていたら、こうなっちゃったでしょうから。
現代でも、一般人で、政治家の賄賂を肯定する人。かなりいますから。
投稿: エアバスA381 | 2013年9月 1日 (日) 12時24分
エアバスA381さん、こんにちは~
>高杉晋作も明治まで生きていたら…
ホントですね~
幕末の動乱では、パトロンになった人がお店も潰れてエライ事になってしまっても、何の補償も無い時代でしたからね。。。
維新の前と後ではガラリと価値観が変わりましたね。
投稿: 茶々 | 2013年9月 1日 (日) 14時54分
これが時代であり「運」というものなのでしょうね^^
地元出身ということで
こちら山口では良い面のみ
クローズアップされている観は否めませんが…^^;
いつの時代も…(←意味深な終わり方でごめんなざい)
投稿: tonton | 2013年9月 1日 (日) 15時15分
>江戸時代には汚職と言う概念が、まるで無くて明治時代から出現した概念
一次資料を繙いた事がある戸田家限定になるけど、江戸時代を通して収賄が指摘された者は、その任を解かれお家断絶とか蟄居閉門とかに処せられているのだけれど、これって特別な事なのかしら。
まぁ、狂介やらもそうだし、余所は別として、長州には汚職の概念が無かったのは事実として認めざるを得ないか。
投稿: 野良猫 | 2013年9月 1日 (日) 16時17分
tontonさん、こんにちは~
あの若き日に、ひん死の状態から復活するところなんぞ、まさに強運の持ち主って感じがしますね~
もちろん、政治手腕は大したものだったようですから、地元では絶賛されて良いと思いますよ。
投稿: 茶々 | 2013年9月 2日 (月) 11時55分
野良猫さん、こんにちは~
確かに…
あの田沼意次の後を引き継いだ松平定信は、クリーンなイメージで田沼の賄賂政治を一掃した感じがありますから、汚職の概念が無かったわけではないのかも知れませんが、やはり何か、幕末の動乱で、その概念がグダングダンになってた感がありますね~
投稿: 茶々 | 2013年9月 2日 (月) 12時01分
エアバスA381様※ >江戸時代には汚職と言う概念が、まるで無くて明治時代から出現した概念
汚職の概念というより、定義が曖昧なのでしょうね。
そういえば、江戸時代の見積もりにはバックマージンも書かれていたと、聞いた覚えがあります。
尾去沢鉱山の件は、どこが汚職なのかよく分かりません。
訴えたのは茂兵衛なので、江戸時代の借金はチャラになったということですか?何故?
競売で落札したのが腹心というだけで汚職というのも...
グレーですけどね。
現代でも、汚職の定義が非常に分かりにくいと思うのは、
私だけでしょうか?
政治献金ですら、扱いが雑で曖昧だと聞きますし。
>なんか、よくワカラン曖昧な表現・・・
漢の陳平のように、徳ではなく才を用いるってことでしょうね。
それで良いのか悪いのか、よくわかりませんが。
投稿: ことかね | 2013年9月 2日 (月) 16時18分
ことかね様
全くと言うのは言い過ぎですけど、町役人つまり与力、同心は付け届け、いわゆる賄賂が当たり前であったと認識してます。
あまりにも有名な赤穂事件でも、吉良上野介に付け届けを出すのが当たり前であったと認識しているのですが、誤りでしょうか?
複数のテキストで、そう言う記述を読んでおります。
こちらの茶々様がおっしゃるように、資料原本は見ておりませんので、そこを指摘されると、何とも言えないですけど。
私もまだ、勉強中の身なので、言い切っちゃうのはまずかったですね。
まだまだ、勉強させていただきます。
投稿: エアバスA381 | 2013年9月 2日 (月) 16時37分
ことかねさん、こんにちは~
言葉足らずで申し訳ありませんでした。
本文でリンクした以前の江藤新平のページ>>に少し書いたので、今回はちょっとはしょった言い回しになってしまいましたが、少々はしょり過ぎたようで、よくわからない説明になってしまってましたね…すみません。
江戸時代に、南部藩が村井茂兵衛に借金をしたのを、武士の顔をたてて記録上は茂兵衛が借りた事にしていた証文をたてに、明治になってから返済を迫って鉱山を没収し、そこに「井上馨所有」の看板を立てて個人の物とし、その後、腹心に払い下げたという事のようです。
おっしゃる通り、ややこしいです。
投稿: 茶々 | 2013年9月 3日 (火) 15時26分
エアバスA381さん、こんにちは~
確かに、よくわからない曖昧な部分が…それこそ、現代でも、その線引きがよくわからない感じです。
定義が難しいですね。
投稿: 茶々 | 2013年9月 3日 (火) 15時29分
エアバスA381様※>誤りでしょうか?
その認識で間違いありません。
ただ、それは現代の認識だということです。
当時の認識では、賄賂ではないのです。
付け届けが常識化した社会では、賄賂による利益がありません。
あたり前のことをしても、特別な便宜を図って貰えませんよね?
付け届けを贈らないのは非常識なので、不利益がありえます。
すると、不利益を得ないという利益のために付け届けを贈ることは、賄賂なのか?
これは場合によりますよね?お中元がいい例です。
下は、wikiの賄賂の項目の一文です。
「近代以前の日本では礼銭と賄賂の区別は明確ではなく、裁判などで礼銭名目で官吏に賄賂を贈って有利を得ようとする行為は当時の常識的範囲内のものであれば賄賂とは考えられず、官吏側から見れば役得として考えられていた。」
つまり、当時の常識的範囲を超えた場合には、賄賂になるわけです。
(  ̄○ ̄)ボソ...まいないは、あいまい。
茶々様
いつも丁寧なお返事をいただきまして、ありがとうございます。
なるほど。読んでおけばよかったですね。失礼しました。
ただ、それでも汚職というには、グレーな感じがします。
投稿: ことかね | 2013年9月 3日 (火) 16時27分
追加
>そこに「井上馨所有」の看板を立てて個人の物とし、その後、腹心に払い下げたという事のようです。
wikiと順序が逆なのですが、どちらが正しいのでしょう?
茶々様コメの方なら、完全に横領ですが。
投稿: ことかね | 2013年9月 3日 (火) 16時54分
こんばんは。賄賂は建前ではいけないでしょう。忠臣蔵の事件の発端は、心づけをしなかったとも言われています。
投稿: やぶひび | 2013年9月 3日 (火) 20時35分
ことかねさん、こんばんは~
私事で恐縮ですが、引っ越し準備で手元の資料を全部ダンボールに詰めてしまい、今のところ確認できません。
ひょっとしたら、私の記憶違いかも知れません。
また、落ち着いたら調べ直してみます。
投稿: 茶々 | 2013年9月 4日 (水) 02時22分
やぶひびさん、こんばんは~
「心づけ」と「賄賂」…
今でこそ、そんな事はなくなりましたが、私の母などは、病気で手術するとか入院するとかって話になると「先生に心づけをせな」てな事を言ってた記憶があります。
建前とホンネ、暗黙の了解…イロイロややこしいです。
投稿: 茶々 | 2013年9月 4日 (水) 02時28分
はじめまして
中学の歴史の勉強をしていてここにたどり着いた者です
とは言っても私は中学生ではありません。
息子に勉強を教える為に四苦八苦している30半ばでございます(~_~;)
勉強なんて一切せずに来てしまったので今頃になってしっぺ返しを食らっています
歴史の教科書は「あれ?この人なんで急に出てきたの?」の連続で調べれば調べるほど泥沼にはまっています(汗)
(中学の勉強は暗記すればいいのだろうけど意味がわからないと私が気持ち悪いので)
今回は承和の変でここにたどり着きました
はっきり言って歴史大の苦手です
漢字多いし同じ名前ばかり出てくるし・・・
でも茶々さまの話はわかりやすくて良かったです(*´v`*)
これからも参考にさせていただきます
あまりにもうれしかったのでお礼までm(__)m
投稿: にゃんこチョコ | 2013年9月 5日 (木) 11時04分
にゃんこチョコさん、初めまして
「わかりやすい」と言っていただけるとウレシイです。
また、覗きに来てくださいo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2013年9月 5日 (木) 13時00分