「死刑」でなく「私刑」?薬子の乱の藤原仲成
弘仁元年(大同五年=810年)9月11日、藤原仲成が射殺されました。
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世に言う『藤原薬子(ふじわらのくすこ)の乱(変とも)』ですが、最近では、「薬子が起こした」というよりは、平安京遷都でお馴染の桓武天皇の二人の息子である兄の平城(へいぜい)天皇と、弟の嵯峨(さが)天皇、二人の天皇の政権が対立した事が要因であるとして『平城太上天皇の変』と呼んだりする事もあるらしいのですが・・・
とにもかくにも、ともに桓武天皇の皇子として生まれた二人の天皇は、兄=平城天皇が第51代で延暦二十五年(806年)から 大同四年(809年)まで、後を継いだ弟=嵯峨天皇が第52代でその大同四年から 弘仁十四年(823年)まで高位についていたわけです。
薬子は、この平城天皇の後宮に娘が入った事をキッカケに、自らも尚侍(ないしのかみ)として天皇の側に使えるようになり、天皇の取り継ぎ役である事を良い事に、
「御言にあざらるを御言と言い、褒貶(ほうへん)意にまかせ畏憚(いたん)するところが無かった」
つまり、「天皇さんが、こう言うてはる」と勝手に言ったり、政治や人事に対する批判や批評を、誰にはばかる事無く口走る・・・と、
さらに、この薬子の兄である参議の藤原仲成(ふじわらのなかなり)は、父の種継(たねつぐ)暗殺事件(早良親王が逮捕された事件…9月23日参照>>)の話が、『続日本紀』から排除されている事に怒り、その復活を願って、臣下にあるまじき行動をとるばかりか、女大好きの彼は、人妻でも何でも、気に入った女性を自分のモノにするべく、嫌がる女性をムリヤリ・・・と、とにかく横暴を極めた・・・と、
そう、正史に残る記録としては、とにかく、藤原仲成&薬子の兄妹が悪の権化で、平城天皇は彼らにそそのかされた・・・てな事になってます。
正史で天皇さんを悪く書き残すわけにはいきませんからね。
そもそも、平城天皇が娘の宮中入りについて来た薬子に夢中になったのも、薬子が天下の悪女だから・・・って感じですから・・・
と、この薬子の乱については、未だブログを始めて間もない頃に1度書いているのですが(2006年9月11日参照>>)、今回改めて・・・というのも、その時にも、「薬子って悪女なのかなぁ?」って書きましたが、事件の経緯などを改めて見てみると、やはり、嵯峨天皇側が、平城天皇側の動きに対して、周到に用意をしたうえに、電光石火の早ワザで先手を打った感がぬぐえない・・・つまり、平城天皇側ではなく、嵯峨天皇側の方が、そうなる事を予測して準備していいたのではないか?と・・・
そもそもは、第51代天皇だった平城天皇が、大同四年(809年)に、自身が病気になった事で、これは、かの種継暗殺の一件で亡くなった早良親王や、皇位継承でモメで死に追いやった伊予(いよ)親王(桓武天皇の第3皇子=平城天皇の弟)の崇りではないか?と恐れて譲位を決意し、弟の嵯峨天皇に皇位を譲って、自らは以前の都だった平城京(奈良)に居を構えたわけですが、
当然の事ながら、平城天皇の思い人として内に外に君臨していた薬子や、その兄の仲成は大いに不満・・・となるわけです。
ただ、この時、新天皇となった嵯峨天皇は、平城天皇時代に決定されたいくつかの決め事を、いきなり改めようとした事もあり、薬子や仲成だけではなく、平城天皇自身も、それなりの不満を感じた物と思われます。
なんせ、この頃は、天皇を引退した後も、太上天皇として政治に関与できるのが当たり前でしたから・・・
そんなこんなで生まれた両者の亀裂は、時が経過するとともに大きくなり、やがて弘仁元年(大同五年=810年)に入って、さらに激化し、巷では「朝廷が2ヶ所あり」とまで言われるように・・・そして、いよいよ9月6日、平城天皇が奈良への遷都令を発するに至り、対立は頂点に達します。
・・・が、しかし、ここで嵯峨天皇は、その遷都を受け入れる姿勢を見せるのです。
そして、すぐさま、腹心の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)や藤原冬嗣(ふゆつぐ)らを造宮使に任命して奈良へ向かわせます。
続く9月10日には、「急な遷都のため、人々が動揺している」として、治安確保のために、伊勢(三重県)・近江(滋賀県)・美濃(岐阜県)の3ヶ所の関所に使者を派遣して封鎖・・・関所を固めたのです。
と、同時に、平安京の右兵衛府にて仲成を逮捕し、監禁します。。。。って「平安京の?」
そうなんです。
この時、仲成は、その長官として右兵衛府に勤務していたわけですが、これまでの経緯を見る限り、どう考えても、平安京は嵯峨天皇のお膝元=敵地なわけで、もし、仲成や薬子主導で、平城天皇と嵯峨天皇の対立が起きていたなら、勤務先とは言え、仲成が平安京にいるのは摩訶不思議な感じがします。
まぁ、長官という事は、その配下として300人からの衛兵を指揮する立場にあったでしょうから、それらの兵に、自分の身も守られているという気持ちだったのかも知れませんが、結局は、その勤務地であっさりと逮捕されてしまうわけです。
さらに嵯峨天皇・・・矢継ぎ早に、その仲成を佐渡権守(ごんのかみ)に左遷し、薬子の冠位もはく奪・・・平城天皇の官人を退けて、自らの官人を登用するという大幅な人事移動を決行したのです。
これを知った平城天皇は、薬子とともに輿(こし)に乗って平城京を脱出・・・兵を集めるために東国へ向かおうとしますが・・・そう、もうすでに関所は固められています。
結局、添上郡(現在は奈良市の一部)越田村で追手に追い付かれて捕縛されます・・・なんせ、追手は、ちゃっかり前もって現地=奈良入りしている田村麻呂ですから・・・
そして、その日の夜には、仲成の処刑・・・そう、仲成は、弘仁元年(大同五年=810年)9月11日、逮捕の翌日に、裁判を受ける事無く射殺されます。
翌・9月12日には平城天皇が平城京に戻されて剃髪して出家・・・薬子は服毒自殺をはかりました。
と、これが一連の経緯ですが、この仲成の死刑は、律令に伴う「死刑」ではなく、嵯峨天皇による「私刑」だったと言われます。
律令により、五位以上の者の逮捕には、勅意(ちょくい=天皇の意志)が必要でしたから、この時、四位であった仲成の逮捕は、当然、嵯峨天皇の勅命(ちょくめい=天皇の命令)があった事になりますが、律によって決められていた死刑の方法は、「斬」か「絞」だったはずなのです。
しかし、仲成は射殺・・・それこそ、刑の執行の方法を、勅命無しに変更するとは考え難いので、やはり、そこには嵯峨天皇の勅意があったという事でしょう。
ひょっとしたら、そこには、嵯峨天皇の「平城京への決別」が込められていたのかも知れません。
以前書かせていただいたように、嵯峨天皇の祖父である光仁(こうにん)天皇は、あの壬申の乱(7月23日参照>>)での勝利以来、ずっと続いていた天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系から代わった、100年ぶりの負け組側=天智(てんじ)天皇系の天皇・・・
その光仁天皇から皇位を受け継いだ桓武天皇は、それまでの奈良時代の勢力を払拭したいがのように長岡京(11月11日参照>>)、そして平安京へと遷都します(10月1日参照>>)。
しかし、それでも残り香のように漂っていた平城京の香りを、嵯峨天皇は、ここで、キッパリと、拭い去りたかったのかも知れません。
なんせこの後・・・
藤原氏は、ここで勝利した冬嗣の北家の天下となり(8月19日参照>>)、乱の時に嵯峨天皇側の勝利祈願を請け負っていた空海が出世し(1月19日参照>>)、世は、まさに平安文化華やかなりし時代へと進み始めるのですから・・・
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