「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話
寛永五年(1628年)9月5日、戦国の終わりから江戸初期にかけて徳川家の家臣として活躍した鳥居忠政が63歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・・
鳥居忠政(とりいただまさ)・・・
このお名前を聞いて、もう、お気づきかも知れませんが、あの関ヶ原の前哨戦となった伏見城の戦いで、その呼び水、あるいは捨て駒と知りながらも、主君=徳川家康への忠義とばかりに、伏見城の留守を預かって散って行った鳥居元忠(もとただ)の次男です。
祖父の忠吉(ただよし)は松平氏以来の家臣で、父の元忠も、家康が今川の人質となっていた時代からの側近・・・まぎれも無い徳川の家臣として生まれ育った忠政は、かの関ヶ原の時は、江戸留守居役として江戸城にいました。
一方、この頃、豊臣秀吉亡き後の政治を、豊臣の大老として仕切る家康は、伏見城にて政務をこなしていたわけですが、その豊臣家は、あの朝鮮出兵で、武闘派(実際に戦った武士)と文治派(その戦いを監視する役)の間に大きな溝ができ(3月4日参照>>)、一触即発の状態だったわけで・・・
それを狙ってか、武闘派寄りの家康は、「会津の上杉家に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)として会津出兵を決意し、伏見城を留守にする・・・その間に事実上文治派のトップだった石田三成(いしだみつなり)が伏見城を攻撃したのです(7月29日参照>>)。
この時、自らが合戦を起こせば豊臣家への謀反となるため、家康は、わざと伏見城を留守にして三成が攻撃するように仕掛けた感があり、そうなると、攻撃される事前提の伏見城は捨て駒となったわけで・・・その伏見城の城将を任されたのが元忠・・・
彼は約1ヶ月の三成側の攻撃に耐えた(家康が会津から戻って来るまでの時間稼ぎ)後、慶長五年(1600年)8月1日、生き残っていた約300名の城兵とともに自刃したとされています(8月1日参照>>)。
(さらにくわしくは、『関ヶ原の合戦の年表』で>>)
それは、敵将である三成さえ感動する忠義の死(8月10日の前半部分参照>>)だったわけですが、上記の8月1日のページ>>に書かせていただいたように、「自刃した」という説とともに、もう一つ、「元忠は討死で。その首を取ったのは、あの雑賀(さいが・さいか)孫一(孫市)であった」という説があります。
ただし、以前、これまた別のページ(5月2日参照>>)で書かせていただいたように、この雑賀孫一という人は、謎に満ちた人・・・というより、複数人が代々バトンタッチして、あるいは少々時期がかぶり気味に孫一を名乗っているので、その孫一と、あの孫一が同一人物とは限らず、微妙なところではありますが、
本日は、その孫一さんと、彼に父を討たれたとされる息子=忠政さんの、心温まるお話を・・・
※『藩翰譜』に残る「鳥居忠政の仁義」というお話で、ここでは「雑賀孫市重次」となっています。
・‥…━━━☆
関ヶ原の合戦の後、その父の死を受けて陸奥磐城(岩城=福島県)に10万石を与えられた忠政は、その後の大坂の陣(『大坂の陣の年表』参照>>)でも江戸城留守居役を立派に務めました。
やがて、例の最上騒動(8月18日参照>>)で最上義俊(もがみよしとし)が改易となったのを受けて、山形城主となり、寛永三年(1626年)には20万石を領する大名となっていました。
一方の孫一は、様々な紆余曲折がありながらも、晩年は、家康から3000石を賜り、水戸初代藩主の徳川頼房(よりふさ=家康の十一男・光圀の父)に仕えていたと言います。
そんなこんなのある日(忠政が岩城城主の頃の話と考えられています)・・・
孫一が、ある武士を介して
「お父さんの遺品を複数点、保管してるんやけど、見てみたいですか?」
と、忠政に声をかけて来たのです。
忠政にとっては「もちろん!」・・・むしろ、「見てみたい」なんて言葉で片づけられるような気持ちじゃぁありませんがな。。。
すると、孫一自らが、それらの品を抱えて忠政宅を訪問・・・
忠政も、もはや邸宅の門外へと出て彼を迎え、「さぁ、どうぞ…」と奥の居間に通します。
しばらくして居間に飾られたそれは、まさしく、父が最後に帯びていた甲冑・・・
忠政は
「まるで、父に会うたみたいですわ!」
と涙を流しながら感動また感動・・・
その後、孫一を手厚くもてなす忠政に対して、孫一は
「これは、あんたはんのお父さんの形見の品…この先、鳥居家に代々伝えていくのがええと思います」
と・・・
そう、このまま、それらの遺品を置いて帰ると・・・いや、むしろ、そのために持って来たと言うのです。
しかし、忠政は、
「合戦における戦利品は、武士の名誉であり、手柄ですがな。
これは、お宅のお家にこそ、代々伝えるべき品物です」
と、そのすべてを返却したのです。
「その代わり、見たくなったら、そちらにお邪魔するかも知れんけど、よろしくネ」
と・・・
以来、毎年冬になると、忠政から水戸に、綿を厚く入れた衣・4~5枚を手土産に持った使者が訪れるようになり、それは1年たりとも欠かす事無く続いたと言います。
その事を伝え聞いた藩主=頼房は、この二人の関係に大いに感動し、毎年、忠政の使者が訪れる季節になると、その通り道周辺の道路を整備する一方で、孫一の家にも、客をもてなすべき、海の幸山の幸を山のように贈ったとのこと・・・
・‥…━━━☆
いやはや・・・結局は、徳川ヨイショの話なのかも知れませんが、なかなかイイ話ではありませんか!(。>0<。)ウル
.
「 江戸時代」カテゴリの記事
- 元禄曽我兄弟~石井兄弟の伊勢亀山の仇討(2024.05.09)
- 無人島長平のサバイバル生き残り~鳥島の野村長平(2024.01.30)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
コメント
茶々様、こんばんは〜
こう言う話、大好きです。
投稿: エアバスA381 | 2013年9月 5日 (木) 22時57分
こんばんは。
いつも地下鉄中央線で通勤する途中このブログを拝見するのが楽しみにしてます。
これからも興味深い話をたくさん紹介してくださいね。よろしくお願いします!
投稿: 徹也 | 2013年9月 5日 (木) 23時11分
エアバスA381さん、こんばんは~
なんか、ほのぼのしますね。。。
投稿: 茶々 | 2013年9月 6日 (金) 02時17分
徹也さん、こんばんは~
うれしいお言葉、ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2013年9月 6日 (金) 02時18分
茶々様、こんにちは。
殺し合いの戦国の余韻が残る時代に
なんだかいい話ですね。
投稿: 新発田重家 | 2013年9月 8日 (日) 17時14分
新発田重家さん、こんばんは~
ホントに…
ほんの一昔前まで敵対していた同志が…イイ感じですね。
投稿: 茶々 | 2013年9月 9日 (月) 00時11分
今日は光仁天皇がどうして急に即位したのか?について調べています
茶々様の所だけでなく色んな所をみてきましたが歴史って面白くて残酷(~_~;)
中学の勉強にはまったく知らなくていい事なのかもしれないけどちゃんと人間ドラマがあった事を知ると私みたいなのでも歴史が好きになれそうです(*´v`*)
おかげで同じとこら辺で足踏みしていますけど(~_~;)
投稿: にゃんこチョコ | 2013年9月 9日 (月) 13時21分
にゃんこチョコさん、こんにちは~
やはり、時間に限りがあるのか、学校での授業は、年号や人物名を次々と暗記するがのごとく大急ぎですよね。
物語を追うように進んでいけば、ヘタなドラマよりずっとオモシロイのに…残念です。
学校の先生には怒られるかも知れませんが、歴史って足踏みするほど面白くなると思いますよ。
投稿: 茶々 | 2013年9月 9日 (月) 13時44分