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2013年9月27日 (金)

モテモテ平中=平貞文の失恋話

 

延長元年(923年)9月27日、平安中期の貴族で歌人、中古三十六歌仙の一人でもある平貞文が亡くなりました。

・・・・・・・・

平貞文(たいらのさだふみ・さだふん=定文とも)・・・通称:平中(平仲) は、平安遷都で有名な桓武天皇の玄孫(やしゃご=孫の孫)にあたり、父の平好風(よしかぜ)とともに、平姓を賜って臣籍に下った人です(7月6日の『「八色の姓」を払拭…桓武平氏の誕生』参照>>)

とにかく、この方は史実として・・・というよりも、物語として様々なエピソードを持つ方です。

彼の子孫が書いたとされる歌物語『平中物語』の主人公とされるほか、彼のエピソードは『源氏物語』にも引用され、『今昔物語』『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)にも登場します。

『伊勢物語』の主人公とされる在原業平(ありわらのなりひら)(5月23日参照>>)もそうですが、その業平とともに「在中・平中」と並び称されるほどのラブロマンスの持ち主であります。

もちろん、史実というよりは、あくまで伝説上のお話ですが、本日は、そんな中でも最も有名なエピソードをご紹介させていただきます。
(有名なので、ご存じの方も多いと思いますが…m(_ _)m)

※このお話は、『今昔物語』と『宇治拾遺物語』に出て来ますが、本日は『宇治拾遺物語』を中心に・・・

・‥…━━━☆

てな事で、宮中ではモテモテの平中は、宮仕えの女房どころか、身分高き令嬢まで、彼が声をかけてなびかなかった女子はいなかったわけですが、ここに一人だけ、何度も何度も「会いたい(*^.^*)」との手紙を送っているのに、どうしても落とせない女性がいました。

それは、村上天皇の母に仕える本院侍従(ほんいんのじじゅう)と呼ばれていた女性・・・この本院というのは、当時、「本院の大臣」と呼ばれていた左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)(4月4日参照>>)に由来する本院で、つまりは、彼女は時平の後妻だったとされているのですが・・・

実は、彼女もかなりの美貌で言い寄る男は数知れず・・・恋には手慣れた女性で、いくら平中の誘いが見事でも、そんじょそこらの箱入りお嬢さんのように、すぐには落ちないわけで、むしろ、見事に駆け引きを仕掛けて来るのです。

平中は、人恋しくなる夕暮れや、ロマンチックな月夜に、頃あいを見計っては、またまた「会いたいな」と手紙を送りますが、彼女は、思わせぶりな返事をよこしつつも、実際に会おうとはしません。

昼間に職場で会った時には、周りに人がいる中で気軽に声をかけて来て、仲良さげな会話を平中にして来るにも関わらず、あの「会いたいな」の手紙の返事では、毎度々々、適当にあしらわれるばかり・・・

「なんやねん!コイツ(≧ヘ≦)」と、ますます気持ちが高ぶる中、4月の末となったある夜、平中は、いよいよ決意します。

そう、その夜は、激しい雨が降っていました。

実は、ここのところの手紙には、「会いたい」だけではなく、「今度、家に行くゾ」「行くからな」ってなストーカーまがいの手紙を頻繁に送っていたわけですが、あえて、こんな激しい雨の降る気色悪い夜に彼女に会いに行けば、
「まぁ、こんな夜やのに、
会いに来てくれはるやなんてw(゚o゚)w」

と、きっと、彼女は感激するに違いないと・・・

こうして自宅を後にした平中・・・雨は思っていた以上に激しかったですが、それこそ、
「こんな雨の中に、わざわざやって来たこの俺を、会わずに追い返すてな事は無いはずや!」
と、ミョーな確信を持ちつつ、一路、彼女の家へ・・・

すると、身の回りの世話をしている女の子が対応に出て、
「ただ今、奥におりますので、お取り次ぎします~コチラへ…」
と、平中を部屋の奥へと案内します。

Dscn1808a600 ふと部屋を見渡すと、そこには、寝巻とおぼしき着物に籠をかぶせて、薫香(香を焚きこんで衣類に香りをつける…2月25日参照>>) の真っ最中・・・

「なんやかんや言うて、メッチャやる気満々なんちゃうん( ̄ー ̄)ニヤリ」
と、密かにほくそえむ平中・・・

やがて、平中が待つ部屋にやって来た彼女・・・
「まぁ、こんな雨の日にどうして??」
と、案の定の驚き&感激の表情・・・

「こんくらいの雨で、あきらめてしまうようなヤワイ気持ちやないんやで」
と、ここはかっこよく言い放ちながら、そばに引き寄せて髪をなでると、これが、頭から氷を浴びたかのように冷たくて、何とも言えぬ、ええ感じのさわり心地・・・

なんやかんやとムード満点の会話を続けながら
♪なんだか、今日、イケそうな気がする~~♪
(あると思います…by天津木村)
と、気持ちも最高潮になったところで・・・

が、しかし、ここで彼女・・・
「あっ!しもたΣ(`0´*)…引き戸を開けっぱなしにしたまま、来てしまいましたわ。
そのままにしとったら、アノ女、戸開けっぱなしで帰りよったで、って誰かに見られるかも知れませんから、ちょっと、閉めて来ますわ」

と、退出・・・

とは言え、彼女は上着も置いたまま、身一つで出て行ったので
「さすがに、戻って来るだろう」
と、平中は気を許して送り出します。

ところが・・・
確かに、戸を閉める音はしましたが、彼女の足音は、途中で奥の部屋へと消えてしまい、いっこうに平中のいる部屋には戻って来ず・・・

「しもた!やられた!」
と、思いつつも、そのまま朝まで待ち続けましたが、結局、彼女は朝まで戻って来ませんでした。

明け方、空しく自宅へと戻る平中・・・

家に戻っても心は晴れず・・・
「俺を騙して置き去りにしたやろ!」
と、そのくやしい思いと愛しい思いが交差する手紙を書きつづり、彼女に送ると・・・
「そんな!!騙すやなんて…
あの時、戻ろうとしたタイミングで、急なお召しがあって、そっちを優先してる間に朝になってしまいましたんです~
なんせ、これでも宮仕えの身でっさかいに…」

と、軽くかわされてしまいました。

その後も、なんやかんやとうまくすり抜けられる平中・・・しかし、逆に恋しい思いはどんどんつのって行きます。

「アカン!こうなったら、何とかして、あの人を嫌いになるしかない」
と、考え
「そや、100年の恋もさめるような、彼女の醜態を目の当たりにする事にしよ!」
と、決意した平中は、従者を呼んで命じます。

「彼女のオマルを掃除する係の下女から、彼女の使用済みのオマルを奪って来い」
と・・・

以前、平安時代の“寝殿造”にはトイレがない(12月7日参照>>)事を書かせていただきましたが、そのために平安時代の女性は“樋箱(まり箱)と呼ばれるオマルのような携帯トイレにしてから川に捨てたのですね。

そう・・・
いくら恋しくてしかたがない彼女でも、出たばっかりの臭い満点のウ●コを見たなら、その気持ちも萎えるに違いない!と・・・

翌日、自らの従者が、逃げる下女から奪い取ったオマルを受け取る平中・・・

おもむろに中を開けてみると・・・
「クッサー!えげつなー」
ではなく、何とも言えないかぐわしい匂い・・・

「そんなアホな」
と、よく見ると、それは排泄物ではなく、生薬を練った練香を、それらしい形の団子にし、さらに香水で煮込んだ物・・・

「くそー、もし、この中に、そのまま、汚く散らかされたアレを入れといてくれたら、愛想も尽きたやろに、なんちゅーこっちゃ」

まさか、平中がオマルをのぞき見する事まで予測して先手を打って来るとは・・・

さすがのプレイボーイ・平中も、見事ノックダウン・・・ますます、彼女への恋心がつのりますが、結局最後まで願いは叶わず・・・

後々も、
「アノ女にだけは、この俺も手玉に取られたわ」
と友人に話していたとか・・・

・‥…━━━☆

と、『宇治拾遺物語』では、こんな感じの思い出話的な終わり方になってますが、『今昔物語』は、なんと、このまま彼女にこがれ死にした事になっています。

史実としての平中=平貞文さんは、おそらく55歳くらいで延長元年(923年)9月27日にお亡くなりになるので、この時代、さすがに50歳を過ぎて、ここまで若者っぽい恋愛したとは思い難いので、事実だったとしても、やはり、若い頃の話だったように思いますね。

あー、でも老いらくの恋ほど燃えるかも知れませんから、そこンとこは、わかりませんけどね~
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2013年9月17日 (火)

南朝VS北朝…楠木正行の藤井寺の戦い

 

正平二年・貞和三年(1347年)9月17日、室町幕府軍=北朝の足利尊氏の派遣した討伐軍を南朝の楠木正行が奇襲し、藤井寺の戦いを勝利で終えました。

・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)第96代後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した(8月19日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ)が、延元元年・建武三年(1336年)、湊川(みなとがわ)にて、新田義貞(にったよしさだ)(2012年5月25日参照>>)楠木正成(くすのきまさしげ)(2007年5月25日参照>>)を破って都へと攻め上り(6月30日参照>>)京都の室町にて幕府を開いたのが室町幕府=北朝で、都を追われた後醍醐天皇が、それに対抗して大和(奈良県)吉野に開いた朝廷が南朝(12月21日参照>>)・・・と、ご存じ南北朝の時代ですが、
※さらにくわしい経緯は『足利尊氏と南北朝の年表』でどうぞ>>

その後、後醍醐天皇と別れて、北陸方面に落ちた新田義貞ら(3月6日参照>>)や、東北から駆けつけた北畠顕家(きたばたけあきいえ)(1月8日参照>>)が奮戦するも、延元三年・建武五年(1338年)5月に顕家が(5月22日参照>>)、続く7月に義貞が(7月2日参照>>)と、南朝の主力が相次いで討死する一方で、北朝の尊氏は、8月に征夷大将軍に就任(8月11日参照>>)・・・

翌・延元四年・暦応二年(1339年)8月には、かの後醍醐天皇が崩御(8月16日参照>>)されますが、対する尊氏は、それを受けて、「亡き後醍醐天皇のため…」と称し、京都に天龍寺を創建する(10月5日参照>>)余裕っぷり・・・

風は、まさに北朝有利に吹き・・・世に「婆娑羅(ばさら)三人衆」と称された佐々木道誉(どうよ)紅葉事件(10月12日参照>>)高師直(こうのもろなお)横恋慕事件(4月3日参照>>)土岐頼遠(ときよりとう)光厳上皇・狼藉事件(9月6日参照>>)に代表されるような朝武士の傍若無人ぶりがウワサされるようになるのもこの頃・・・

しかも、ここ来て南朝方の軍事を一手に担う形となっていた亡き義貞の弟=脇屋義助(わきやよしすけ)もが、四国にて病死してしまいました。

もはや南朝は・・・と、そんな中で、南朝の希望の星のごとく活躍するのが楠木正行(くすのきまさつら)・・・

そう、あの湊川に散った楠木正成の息子で、その最期の合戦に向かう父と、涙ながらの決別=桜井の別れ(5月16日参照>>)をした、あの息子です。

とは言え、その桜井の別れのページにも書かせていただきましたように、史実としての正行は、その年齢も定かではなく、残る逸話も、どこまで史実に近いのか微妙なところではありますが、とりあえず本日は、『太平記』に沿って、お話させていただきますね。

とにもかくにも、その父の遺言を心に秘め、「後醍醐天皇:命」とばかりに忠義をつくすべく成長した正行は、この正平二年・貞和三年(1347年)には25歳になっており、おりしも、この年は父の13回忌にも当たっていた事から、思い残す事なきよう仏事をこなして、またまた、新たな気持ちで心を引き締めながら、いつでも戦えるよう準備を整え、総勢500騎ほどの軍勢を従えて、時々は、住吉天王寺の方面に撃って出たりしていたのです。

その様子を伝え聞いた尊氏は、正平二年・貞和三年(1347年)8月、細川顕氏(ほそかわあきうじ)を大将に、宇都宮三河入道、佐々木道誉らの軍勢、総勢3000余騎の軍を、河内(大阪府南部)へと差し向けたのです。

8月14日の正午過ぎ・・・藤井寺(大阪府藤井寺市)に到着した幕府軍は、あたりに陣を敷きますが、ここは、正行らの館から七里(約24km)ほど離れた場所なので、「すぐに戦いにはならないだろう」「(合戦が)あったとしても明日か明後日」との判断から、諸将は甲冑を解き、馬の鞍も外して、しばし休息をとる事に・・・

しかし、実は、これを手ぐすね引いて待っていた楠木正行・・・

Dscn1713a900
応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…位置的には、写真のこんもりした林のように見える御陵の向こう側に誉田八幡宮があります。

休憩中の幕府軍の目の前・・・誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の真向かいにある誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の後方の山影に、いきなり『菊水の旗(楠木家の家紋)』が立ちなびき、完全武装した700騎余りの軍勢が、悠々と馬を歩ませて近づいて来るのです。

もちろん、正行自らが率いる軍勢です。

それを見た幕府軍・・・
「おい!敵が来たゾ!」
「はよ、鞍乗せんかい!」
「甲冑つけんかい!」

と、押し合いへし合いの大騒ぎです。

そこを、す~っと前に出た正行は、何やら大きな声でわめきながら、集団の中へ颯爽と駆け入ります。

一方の細川顕氏は、慌てて鎧を肩にかけたものの、未だ上帯すら結んでいない状態・・・太刀を帯びる時間さえ無さそうな情景を見るに見かねた村田なる武将が、一族の、わずか六騎を従えて、誰の物ともわからぬ馬に乗り、敵中に撃って出ました。

しかし、後が続きません。

結局、彼らは大勢に取り囲まれて討たれますが、その間に具足を整えて馬に乗った顕氏は、自らの側近=100余騎を率いて防戦にあたりました。

以来、多勢に無勢であるにも関わらず、防戦一方の幕府軍・・・

この藤井寺の合戦において、数としては断然有利だった幕府軍ですから、押しに押して退く者がいなければ、いずれは勝ちに持ちこめる戦いだったわけですが、残念ながら、今回の軍勢は、戦いの寸前に四国や中国からかき集めたばかりの烏合の衆・・・

ちょっと形勢が悪くなれば、すぐさま脱落する者が続出して、どんどんと後退・・・やむなく、大将も猛将も徐々に移動していくのですが、そこに、すかさず追い撃ちをかける楠木軍・・・

やがて天王寺まで敗走した時、大将=顕氏の危ない場面に遭遇した佐々木道誉の舎弟=六郎左衛門なる武将が、引き返して敵軍の中に躍り出ますが、あえなく討死・・・

その様子を見ていた幕府軍の諸将も、「ここが最期の戦い!」とばかりに士気を奮いたたせて、7度8度と引き返して戦いますが、名のある武将が次々を討たれ・・・

結局、正平二年・貞和三年(1347年)9月17日幕府軍は京へと敗走したのでした。

ただ、さすがに「ここが最期の戦い!」と命をかけての防戦に挑んだ諸将のおかげで、楠木軍も、それ以上深く追う事ができず、追撃はここにて終了・・・

こうして、藤井寺の戦いは、南朝・楠木軍の勝利となったのでした。

とは言え、3ヶ月後の11月には、正行VS顕氏の第2回戦が・・・と、そのお話は、11月26日の【室町幕府VS楠木正行…住吉・阿倍野の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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2013年9月11日 (水)

「死刑」でなく「私刑」?薬子の乱の藤原仲成

 

弘仁元年(大同五年=810年)9月11日、藤原仲成が射殺されました。

・・・・・・・・・

世に言う『藤原薬子(ふじわらのくすこ)の乱(変とも)ですが、最近では、「薬子が起こした」というよりは、平安京遷都でお馴染の桓武天皇の二人の息子である兄の平城(へいぜい)天皇と、弟の嵯峨(さが)天皇二人の天皇の政権が対立した事が要因であるとして『平城太上天皇の変』と呼んだりする事もあるらしいのですが・・・

とにもかくにも、ともに桓武天皇の皇子として生まれた二人の天皇は、兄=平城天皇が第51代で延暦二十五年(806年)から 大同四年(809年)まで、後を継いだ弟=嵯峨天皇が第52代でその大同四年から 弘仁十四年(823年)まで高位についていたわけです。

薬子は、この平城天皇の後宮に娘が入った事をキッカケに、自らも尚侍(ないしのかみ)として天皇の側に使えるようになり、天皇の取り継ぎ役である事を良い事に、
「御言にあざらるを御言と言い、褒貶(ほうへん)意にまかせ畏憚(いたん)するところが無かった」
つまり、「天皇さんが、こう言うてはる」と勝手に言ったり、政治や人事に対する批判や批評を、誰にはばかる事無く口走る・・・と、

さらに、この薬子の兄である参議の藤原仲成(ふじわらのなかなり)は、父の種継(たねつぐ)暗殺事件(早良親王が逮捕された事件…9月23日参照>>)の話が、『続日本紀』から排除されている事に怒り、その復活を願って、臣下にあるまじき行動をとるばかりか、女大好きの彼は、人妻でも何でも、気に入った女性を自分のモノにするべく、嫌がる女性をムリヤリ・・・と、とにかく横暴を極めた・・・と、

そう、正史に残る記録としては、とにかく、藤原仲成&薬子の兄妹が悪の権化で、平城天皇は彼らにそそのかされた・・・てな事になってます。

正史で天皇さんを悪く書き残すわけにはいきませんからね。

そもそも、平城天皇が娘の宮中入りについて来た薬子に夢中になったのも、薬子が天下の悪女だから・・・って感じですから・・・

Sagatennou600a と、この薬子の乱については、未だブログを始めて間もない頃に1度書いているのですが(2006年9月11日参照>>)、今回改めて・・・というのも、その時にも、「薬子って悪女なのかなぁ?」って書きましたが、事件の経緯などを改めて見てみると、やはり、嵯峨天皇側が、平城天皇側の動きに対して、周到に用意をしたうえに、電光石火の早ワザで先手を打った感がぬぐえない・・・つまり、平城天皇側ではなく、嵯峨天皇側の方が、そうなる事を予測して準備していいたのではないか?と・・・

そもそもは、第51代天皇だった平城天皇が、大同四年(809年)に、自身が病気になった事で、これは、かの種継暗殺の一件で亡くなった早良親王や、皇位継承でモメで死に追いやった伊予(いよ)親王(桓武天皇の第3皇子=平城天皇の弟)の崇りではないか?と恐れて譲位を決意し、弟の嵯峨天皇に皇位を譲って、自らは以前の都だった平城京(奈良)に居を構えたわけですが、

当然の事ながら、平城天皇の思い人として内に外に君臨していた薬子や、その兄の仲成は大いに不満・・・となるわけです。

ただ、この時、新天皇となった嵯峨天皇は、平城天皇時代に決定されたいくつかの決め事を、いきなり改めようとした事もあり、薬子や仲成だけではなく、平城天皇自身も、それなりの不満を感じた物と思われます。

なんせ、この頃は、天皇を引退した後も、太上天皇として政治に関与できるのが当たり前でしたから・・・

そんなこんなで生まれた両者の亀裂は、時が経過するとともに大きくなり、やがて弘仁元年(大同五年=810年)に入って、さらに激化し、巷では「朝廷が2ヶ所あり」とまで言われるように・・・そして、いよいよ9月6日、平城天皇が奈良への遷都令を発するに至り、対立は頂点に達します。

・・・が、しかし、ここで嵯峨天皇は、その遷都を受け入れる姿勢を見せるのです。

そして、すぐさま、腹心の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原冬嗣(ふゆつぐ)らを造宮使に任命して奈良へ向かわせます。

続く9月10日には、「急な遷都のため、人々が動揺している」として、治安確保のために、伊勢(三重県)近江(滋賀県)美濃(岐阜県)の3ヶ所の関所に使者を派遣して封鎖・・・関所を固めたのです。

と、同時に、平安京の右兵衛府にて仲成を逮捕し、監禁します。。。。って「平安京の?」

そうなんです。
この時、仲成は、その長官として右兵衛府に勤務していたわけですが、これまでの経緯を見る限り、どう考えても、平安京は嵯峨天皇のお膝元=敵地なわけで、もし、仲成や薬子主導で、平城天皇と嵯峨天皇の対立が起きていたなら、勤務先とは言え、仲成が平安京にいるのは摩訶不思議な感じがします。

まぁ、長官という事は、その配下として300人からの衛兵を指揮する立場にあったでしょうから、それらの兵に、自分の身も守られているという気持ちだったのかも知れませんが、結局は、その勤務地であっさりと逮捕されてしまうわけです。

さらに嵯峨天皇・・・矢継ぎ早に、その仲成を佐渡権守(ごんのかみ)に左遷し、薬子の冠位もはく奪・・・平城天皇の官人を退けて、自らの官人を登用するという大幅な人事移動を決行したのです。

これを知った平城天皇は、薬子とともに輿(こし)に乗って平城京を脱出・・・兵を集めるために東国へ向かおうとしますが・・・そう、もうすでに関所は固められています。

結局、添上郡(現在は奈良市の一部)越田村追手に追い付かれて捕縛されます・・・なんせ、追手は、ちゃっかり前もって現地=奈良入りしている田村麻呂ですから・・・

そして、その日の夜には、仲成の処刑・・・そう、仲成は、弘仁元年(大同五年=810年)9月11日逮捕の翌日に、裁判を受ける事無く射殺されます。

翌・9月12日には平城天皇が平城京に戻されて剃髪して出家・・・薬子は服毒自殺をはかりました。

と、これが一連の経緯ですが、この仲成の死刑は、律令に伴う「死刑」ではなく、嵯峨天皇による「私刑」だったと言われます。

律令により、五位以上の者の逮捕には、勅意(ちょくい=天皇の意志)が必要でしたから、この時、四位であった仲成の逮捕は、当然、嵯峨天皇の勅命(ちょくめい=天皇の命令)があった事になりますが、律によって決められていた死刑の方法は、「斬」か「絞」だったはずなのです。

しかし、仲成は射殺・・・それこそ、刑の執行の方法を、勅命無しに変更するとは考え難いので、やはり、そこには嵯峨天皇の勅意があったという事でしょう。

ひょっとしたら、そこには、嵯峨天皇の「平城京への決別」が込められていたのかも知れません。

以前書かせていただいたように、嵯峨天皇の祖父である光仁(こうにん)天皇は、あの壬申の乱(7月23日参照>>)での勝利以来、ずっと続いていた天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系から代わった、100年ぶりの負け組側=天智(てんじ)天皇系の天皇・・・

その光仁天皇から皇位を受け継いだ桓武天皇は、それまでの奈良時代の勢力を払拭したいがのように長岡京(11月11日参照>>)、そして平安京へと遷都します(10月1日参照>>)

しかし、それでも残り香のように漂っていた平城京の香りを、嵯峨天皇は、ここで、キッパリと、拭い去りたかったのかも知れません。

なんせこの後・・・
藤原氏は、ここで勝利した冬嗣の北家の天下となり(8月19日参照>>)、乱の時に嵯峨天皇側の勝利祈願を請け負っていた空海が出世し(1月19日参照>>)世は、まさに平安文化華やかなりし時代へと進み始めるのですから・・・
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2013年9月 5日 (木)

「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話

 

寛永五年(1628年)9月5日、戦国の終わりから江戸初期にかけて徳川家の家臣として活躍した鳥居忠政が63歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

鳥居忠政(とりいただまさ)・・・

このお名前を聞いて、もう、お気づきかも知れませんが、あの関ヶ原の前哨戦となった伏見城の戦いで、その呼び水、あるいは捨て駒と知りながらも、主君=徳川家康への忠義とばかりに、伏見城の留守を預かって散って行った鳥居元忠(もとただ)次男です。

祖父の忠吉(ただよし)松平氏以来の家臣で、父の元忠も、家康が今川の人質となっていた時代からの側近・・・まぎれも無い徳川の家臣として生まれ育った忠政は、かの関ヶ原の時は、江戸留守居役として江戸城にいました。

一方、この頃、豊臣秀吉亡き後の政治を、豊臣の大老として仕切る家康は、伏見城にて政務をこなしていたわけですが、その豊臣家は、あの朝鮮出兵で、武闘派(実際に戦った武士)文治派(その戦いを監視する役)の間に大きな溝ができ(3月4日参照>>)一触即発の状態だったわけで・・・

それを狙ってか、武闘派寄りの家康は、「会津の上杉家に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)として会津出兵を決意し、伏見城を留守にする・・・その間に事実上文治派のトップだった石田三成(いしだみつなり)伏見城を攻撃したのです(7月29日参照>>)

Toriimototada400 この時、自らが合戦を起こせば豊臣家への謀反となるため、家康は、わざと伏見城を留守にして三成が攻撃するように仕掛けた感があり、そうなると、攻撃される事前提の伏見城は捨て駒となったわけで・・・その伏見城の城将を任されたのが元忠・・・

彼は約1ヶ月の三成側の攻撃に耐えた(家康が会津から戻って来るまでの時間稼ぎ)後、慶長五年(1600年)8月1日、生き残っていた約300名の城兵とともに自刃したとされています(8月1日参照>>)
(さらにくわしくは、『関ヶ原の合戦の年表』で>>)

それは、敵将である三成さえ感動する忠義の死(8月10日の前半部分参照>>)だったわけですが、上記の8月1日のページ>>に書かせていただいたように、「自刃した」という説とともに、もう一つ、「元忠は討死で。その首を取ったのは、あの雑賀(さいが・さいか)孫一(孫市)であった」という説があります。

ただし、以前、これまた別のページ(5月2日参照>>)で書かせていただいたように、この雑賀孫一という人は、謎に満ちた人・・・というより、複数人が代々バトンタッチして、あるいは少々時期がかぶり気味に孫一を名乗っているので、その孫一と、あの孫一が同一人物とは限らず、微妙なところではありますが、

本日は、その孫一さんと、彼に父を討たれたとされる息子=忠政さんの、心温まるお話を・・・

※『藩翰譜』に残る「鳥居忠政の仁義」というお話で、ここでは「雑賀孫市重次」となっています。

・‥…━━━☆

関ヶ原の合戦の後、その父の死を受けて陸奥磐城(岩城=福島県)に10万石を与えられた忠政は、その後の大坂の陣(『大坂の陣の年表』参照>>)でも江戸城留守居役を立派に務めました。

やがて、例の最上騒動(8月18日参照>>)最上義俊(もがみよしとし)が改易となったのを受けて、山形城主となり、寛永三年(1626年)には20万石を領する大名となっていました。

一方の孫一は、様々な紆余曲折がありながらも、晩年は、家康から3000石を賜り、水戸初代藩主の徳川頼房(よりふさ=家康の十一男・光圀の父)に仕えていたと言います。

そんなこんなのある日(忠政が岩城城主の頃の話と考えられています)・・・

孫一が、ある武士を介して
「お父さんの遺品を複数点、保管してるんやけど、見てみたいですか?」
と、忠政に声をかけて来たのです。

忠政にとっては「もちろん!」・・・むしろ、「見てみたい」なんて言葉で片づけられるような気持ちじゃぁありませんがな。。。

すると、孫一自らが、それらの品を抱えて忠政宅を訪問・・・

忠政も、もはや邸宅の門外へと出て彼を迎え、「さぁ、どうぞ…」と奥の居間に通します。

しばらくして居間に飾られたそれは、まさしく、父が最後に帯びていた甲冑・・

忠政は
「まるで、父に会うたみたいですわ!」
と涙を流しながら感動また感動・・・

その後、孫一を手厚くもてなす忠政に対して、孫一は
「これは、あんたはんのお父さんの形見の品…この先、鳥居家に代々伝えていくのがええと思います」
と・・・

そう、このまま、それらの遺品を置いて帰ると・・・いや、むしろ、そのために持って来たと言うのです。

しかし、忠政は、
「合戦における戦利品は、武士の名誉であり、手柄ですがな。
これは、お宅のお家にこそ、代々伝えるべき品物です」

と、そのすべてを返却したのです。

「その代わり、見たくなったら、そちらにお邪魔するかも知れんけど、よろしくネ」
と・・・

以来、毎年冬になると、忠政から水戸に、綿を厚く入れた衣・4~5枚を手土産に持った使者が訪れるようになり、それは1年たりとも欠かす事無く続いたと言います。

その事を伝え聞いた藩主=頼房は、この二人の関係に大いに感動し、毎年、忠政の使者が訪れる季節になると、その通り道周辺の道路を整備する一方で、孫一の家にも、客をもてなすべき、海の幸山の幸を山のように贈ったとのこと・・・

・‥…━━━☆

いやはや・・・結局は、徳川ヨイショの話なのかも知れませんが、なかなかイイ話ではありませんか!(。>0<。)ウル
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2013年9月 1日 (日)

幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多こと井上馨

 

大正四年(1915年)9月1日、幕末維新に活躍した長州藩出身の政治家・井上馨が、79歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

先日ご紹介した同世代の黒田清隆(きよたか)さん(8月23日参照>>)の時も「その評価が分かれる」と書かせていただきましたが、本日ご紹介する井上馨(いのうえかおる)さんも・・・ただ、この方は、人によって、あるいか解釈の仕方でというのではなく、幕末期と維新後で大きく評価が変わる人なのです。

Inouekaoru600 天保六年(1836年)に、長州藩士・井上五郎三郎光亨の次男として、周防国(山口県)湯田村(山口市湯田温泉)に生まれた井上馨は、一旦、長州藩士・志道家の養嗣子となって、通称:志道聞多(ぶんた)を名乗った後、再び井上家に復籍・・・なので、幕末期は井上聞多の名前で有名ですね。

・・で、この井上家も志道家も、代々毛利家に仕えていた名門で、下級武士の活躍が目立つ幕末の志士の中では、けっこうなお坊ちゃんだったわけですが、それにも関わらす、幕末時代はかなり危険な事をやってのけていて、何度か危機一髪を味わった事もありました。

あの高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともにイギリス公使館を焼き打ち(12月12日参照>>)した時には、一人取り残されて、あわや焼死の寸前に・・・

また、禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)の後のゴタゴタでは、それこそ命を狙われて、もはやあきらめムードも漂いましたが、見事、復活・・・(9月25日参照>>)

このあたり・・・かの晋作や伊藤博文(いとうひろぶみ=俊輔)らとともに、文字通り命を賭けて縦横無尽に活躍するところから、勤皇の志士としてのイメージは良好なわけですが・・・

そうです。
冷静になって考えれば、彼ら勤皇の志士は、討幕&革命という大義名分があり、最終的にその目標を果たして勝ち組になるので、それが罪に問われる事は無いわけですが、本当なら、そのやって来た事は、完全に犯罪となる行動です。

維新が成って、法律の名のもとに歩み始めた近代国家では、「勝ち組だから何でも許される」わけでは無いわけで、そこのところは、速やかなる気持ちの切り替えが望まれるわけですが、それこそ、人智を越えたスピードで変化を遂げる維新の渦中では、それも、なかなかに難しいわけで・・・

そんな中で、新政府のもと外務卿として活躍する井上は、あの鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)を建設します。

この鹿鳴館は、外国に追いつき追い越せとと頑張る新生日本にとって、その外国人との交渉をうまく進めるための社交場としての重大な役目を担って、鳴り物入りで建設されたわけですが、実際には、急務であった条約改正も問題山積みで思うように進まず(10月8日参照>>)、結局は、金持ちの遊び場のようになってしまい、彼も外務卿を辞任せざるをえませんでした。

さらに、井上薫の評判を悪くしたのは、尾去沢銅山事件です。

これは、あの佐賀の乱を起こした江藤新平(4月13日の真ん中あたり参照>>)のところでもチョコッと書かせていただきましたが、旧南部藩(岩手県)の御用商人だった村井茂兵衛(もへい=鍵屋)に、当時、大蔵大輔(たいふ)だった井上が、

江戸時代の証文をたてに借金の返済を迫り、茂兵衛の所有していた尾去沢鉱山(秋田県)を没収・・・しかも、自分の腹心だった岡田平蔵に競売で払下げたのです。

・・・で、納得のいかない茂兵衛が、初代・司法卿を務めていた江藤新平に訴えて、江藤が厳重な処分をすようとしたところ長州閥の木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)が阻止・・・

その後、司法卿が大木喬任(これとう)に代わってから、再び取り調べが再開され、厳重な処分を求める声も出ましたが、結局、大蔵省から茂兵衛に2万5千円の還付金を支払う事と井上が30円の罰金を支払う事を決定しただけで、なんとなくウヤムヤな形で事件解決となります。

その理由としては・・・
「維新が成った後、井上は、旧時代の各藩の財政を中央政府にまとめるにあたって、わずかの期間でこれをこなしたのだから、その時に、多少の不備ややり間違いがあっても仕方ない」
のだそうです。

なんか、よくワカラン曖昧な表現・・・

しかも、かの銅山はそのまま岡田が所有し、井上も元老院議員として政治生命が保たれたのですから、納得がいかないモヤモヤ感満載・・・

ただ、それが、幕末から明治への転換期という事なのかも知れません。

政治に貪欲で敏腕でなければ、事をうまくこなせませんが、そんな人は、政治以外の事にも貪欲で敏腕なわけで・・・井上の場合は、それがお金に関する事だったわけで・・・

こうして、明治初期の汚職に関しては酷評を受ける井上さんですが、一方では「電光石火の如く難問を解決する政治手腕を持っていた」とか「世話好きの人の良いオッチャンだった」なんて話もあり・・・

だからこそ、汚職まみれでも、必要とされたのかも知れません。

大正四年(1915年)9月1日最後まで政財界へのい影響力を持ちつつ、井上薫は79歳の生涯を閉じました。
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