南朝VS北朝…楠木正行の藤井寺の戦い
正平二年・貞和三年(1347年)9月17日、室町幕府軍=北朝の足利尊氏の派遣した討伐軍を南朝の楠木正行が奇襲し、藤井寺の戦いを勝利で終えました。
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鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)第96代後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した(8月19日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ)が、延元元年・建武三年(1336年)、湊川(みなとがわ)にて、新田義貞(にったよしさだ)(2012年5月25日参照>>)や楠木正成(くすのきまさしげ)(2007年5月25日参照>>)を破って都へと攻め上り(6月30日参照>>)、京都の室町にて幕府を開いたのが室町幕府=北朝で、都を追われた後醍醐天皇が、それに対抗して大和(奈良県)の吉野に開いた朝廷が南朝(12月21日参照>>)・・・と、ご存じ南北朝の時代ですが、
※さらにくわしい経緯は『足利尊氏と南北朝の年表』でどうぞ>>
その後、後醍醐天皇と別れて、北陸方面に落ちた新田義貞ら(3月6日参照>>)や、東北から駆けつけた北畠顕家(きたばたけあきいえ)(1月8日参照>>)が奮戦するも、延元三年・建武五年(1338年)5月に顕家が(5月22日参照>>)、続く7月に義貞が(7月2日参照>>)と、南朝の主力が相次いで討死する一方で、北朝の尊氏は、8月に征夷大将軍に就任(8月11日参照>>)・・・
翌・延元四年・暦応二年(1339年)8月には、かの後醍醐天皇が崩御(8月16日参照>>)されますが、対する尊氏は、それを受けて、「亡き後醍醐天皇のため…」と称し、京都に天龍寺を創建する(10月5日参照>>)余裕っぷり・・・
風は、まさに北朝有利に吹き・・・世に「婆娑羅(ばさら)三人衆」と称された佐々木道誉(どうよ)の紅葉事件(10月12日参照>>)や高師直(こうのもろなお)の横恋慕事件(4月3日参照>>)、土岐頼遠(ときよりとう)の光厳上皇・狼藉事件(9月6日参照>>)に代表されるような北朝武士の傍若無人ぶりがウワサされるようになるのもこの頃・・・
しかも、ここ来て南朝方の軍事を一手に担う形となっていた亡き義貞の弟=脇屋義助(わきやよしすけ)もが、四国にて病死してしまいました。
もはや南朝は・・・と、そんな中で、南朝の希望の星のごとく活躍するのが楠木正行(くすのきまさつら)・・・
そう、あの湊川に散った楠木正成の息子で、その最期の合戦に向かう父と、涙ながらの決別=桜井の別れ(5月16日参照>>)をした、あの息子です。
とは言え、その桜井の別れのページにも書かせていただきましたように、史実としての正行は、その年齢も定かではなく、残る逸話も、どこまで史実に近いのか微妙なところではありますが、とりあえず本日は、『太平記』に沿って、お話させていただきますね。
とにもかくにも、その父の遺言を心に秘め、「後醍醐天皇:命」とばかりに忠義をつくすべく成長した正行は、この正平二年・貞和三年(1347年)には25歳になっており、おりしも、この年は父の13回忌にも当たっていた事から、思い残す事なきよう仏事をこなして、またまた、新たな気持ちで心を引き締めながら、いつでも戦えるよう準備を整え、総勢500騎ほどの軍勢を従えて、時々は、住吉や天王寺の方面に撃って出たりしていたのです。
その様子を伝え聞いた尊氏は、正平二年・貞和三年(1347年)8月、細川顕氏(ほそかわあきうじ)を大将に、宇都宮三河入道、佐々木道誉らの軍勢、総勢3000余騎の軍を、河内(大阪府南部)へと差し向けたのです。
8月14日の正午過ぎ・・・藤井寺(大阪府藤井寺市)に到着した幕府軍は、あたりに陣を敷きますが、ここは、正行らの館から七里(約24km)ほど離れた場所なので、「すぐに戦いにはならないだろう」「(合戦が)あったとしても明日か明後日」との判断から、諸将は甲冑を解き、馬の鞍も外して、しばし休息をとる事に・・・
しかし、実は、これを手ぐすね引いて待っていた楠木正行・・・
応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…位置的には、写真のこんもりした林のように見える御陵の向こう側に誉田八幡宮があります。
休憩中の幕府軍の目の前・・・誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の真向かいにある誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の後方の山影に、いきなり『菊水の旗(楠木家の家紋)』が立ちなびき、完全武装した700騎余りの軍勢が、悠々と馬を歩ませて近づいて来るのです。
もちろん、正行自らが率いる軍勢です。
それを見た幕府軍・・・
「おい!敵が来たゾ!」
「はよ、鞍乗せんかい!」
「甲冑つけんかい!」
と、押し合いへし合いの大騒ぎです。
そこを、す~っと前に出た正行は、何やら大きな声でわめきながら、集団の中へ颯爽と駆け入ります。
一方の細川顕氏は、慌てて鎧を肩にかけたものの、未だ上帯すら結んでいない状態・・・太刀を帯びる時間さえ無さそうな情景を見るに見かねた村田なる武将が、一族の、わずか六騎を従えて、誰の物ともわからぬ馬に乗り、敵中に撃って出ました。
しかし、後が続きません。
結局、彼らは大勢に取り囲まれて討たれますが、その間に具足を整えて馬に乗った顕氏は、自らの側近=100余騎を率いて防戦にあたりました。
以来、多勢に無勢であるにも関わらず、防戦一方の幕府軍・・・
この藤井寺の合戦において、数としては断然有利だった幕府軍ですから、押しに押して退く者がいなければ、いずれは勝ちに持ちこめる戦いだったわけですが、残念ながら、今回の軍勢は、戦いの寸前に四国や中国からかき集めたばかりの烏合の衆・・・
ちょっと形勢が悪くなれば、すぐさま脱落する者が続出して、どんどんと後退・・・やむなく、大将も猛将も徐々に移動していくのですが、そこに、すかさず追い撃ちをかける楠木軍・・・
やがて天王寺まで敗走した時、大将=顕氏の危ない場面に遭遇した佐々木道誉の舎弟=六郎左衛門なる武将が、引き返して敵軍の中に躍り出ますが、あえなく討死・・・
その様子を見ていた幕府軍の諸将も、「ここが最期の戦い!」とばかりに士気を奮いたたせて、7度8度と引き返して戦いますが、名のある武将が次々を討たれ・・・
結局、正平二年・貞和三年(1347年)9月17日、幕府軍は京へと敗走したのでした。
ただ、さすがに「ここが最期の戦い!」と命をかけての防戦に挑んだ諸将のおかげで、楠木軍も、それ以上深く追う事ができず、追撃はここにて終了・・・
こうして、藤井寺の戦いは、南朝・楠木軍の勝利となったのでした。
とは言え、3ヶ月後の11月には、正行VS顕氏の第2回戦が・・・と、そのお話は、11月26日の【室町幕府VS楠木正行…住吉・阿倍野の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m。
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コメント
茶々様、こんにちは〜
さすがに楠木正行、この辺は名将ですね。
ただ、だんだん数に押されていくのが残念です。
投稿: エアバスA381 | 2013年9月19日 (木) 09時50分
エアバスA381さん、こんにちは~
劣勢の南朝方の中では、やはり光ってますね~
投稿: 茶々 | 2013年9月19日 (木) 12時15分