中山みきと天理教
天保九年(1838年)10月26日、中山みきが天理教をひらきました。
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日本には、もともと、その誕生も曖昧なほどの昔から「神道」なる宗教があり、そこに、ご存じの仏教伝来(10月13日参照>>)があり、やがて平安や鎌倉時代になると、その仏教も、様々に枝分かれするようになっていくのですが・・・
とは言え、それら数ある宗派も、それが枝分かれなのか?新宗教の誕生なのか?という点も含め、その誕生の経緯や成立ちは、それぞれ違うわけで、それこそ、仏教そのものも、伝来した当時は、古来の信仰との間に、なんやかんやの衝突がある新宗教だった(2010年3月30日参照>>)わけで、
なので、新しい宗教という意味の「新宗教」という言葉に関しては、歴史上、その時代々々において、その解釈も、様々に変化する物でありましょうが、
今現在の一般的な解釈としては、1000年を越える伝統宗教とは一線を画す新しい宗教が「新宗教」と呼ばれ、その新宗教誕生のブームは、幕末から明治末期と、第2次世界大戦後の昭和期の2回あったとされています。
そんな新宗教の草分けとも言えるのが、中山みきが開いた天理教です。
その教祖となった中山みきは、寛政十年(1798年)に大和国津藩山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の大庄屋=前川家の長女として生まれました。
13歳になった時、従兄弟(父の妹の息子)の中山善兵衞と結婚・・・当時の中山家は綿などの買い付けや質屋を経営するけっこうな地主だったと言いますが、その後の17年間に1男5女をもうけ(次女と4女は早世)、その中山家の所帯の一切を任されるほどの、献身的かつ慈愛に満ちた嫁ぶりだったと言います。
そんな彼女に転機が訪れるのが、天保九年(1838年)10月23日・・・みきが40歳の時でした。
かねてより、足の痛みを訴えていた長男=秀司の足に激痛が走ります。
さらに、夫の善兵衞がにわかに眼の痛みを訴えはじめ、みき自身にも、キョーレツな腰痛が・・・
「親子3人が同時に激痛に襲われるやなんて!!
これは、ただ事やない!」
とばかりに、一家はとある修験者に祈祷をしてもらう事になるのですが、この時、修験者の提案によって、みきが仮の加持台(加持代=かじだい:巫女役・神が降りる中継役)を担当します。
すると、そのみきに神が降り、その神は
「私は『元の神』『実の神』である」
と名乗り、
「三千世界を助けるために天降った」
と称して
「神の住む社(やしろ)として、みきの体をもらいたい」
と啓示したのです。
突然の事に驚いた善兵衛は、再三にわたって
「みきを差し出すわけにはいかない」
と辞退するのですが、神は譲らず、
「聞き入れたなら世界を救うが、承知しなければこの家もつぶす」
と応答した事から、
最初の啓示から3日後、結局は善兵衛が神に応じる事となり、みきを社として差し出しました。
こうしてみきが「神の社」と定まったのが天保九年(1838年)10月26日・・・天理教では、この日を「立教の日」としています。
その後は、神の教えである「貧に落ちきれ」との神意に従い、家財道具や家屋敷、持っている田畑を次々と手放した事から、嘉永六年(1853年)に夫・善兵衛が亡くなる頃には、中山家はすっかり没落し、ほぼ無一文の貧困状態となってしまいました。
しかし、その翌年の3女の出産の際に、神が安産の守護をするというフレコミで「帯屋(おびや=お産の事)許し」を授け、その後に娘が無事に出産した事から、徐々に、彼女の教えに興味を持つ人が出始めます。
さらに元治元年(1864年)には「つとめ場所」なる専用の建物も建築・・・この頃からは、5女のこかんとともに、安産祈願や病気治癒などの布教活動を活発に行うようになります。
親神天理王命(てんりおうのみこと)が教祖を通じて教示した
「せかいぢういちれつわみなきようたいや」=『世界一列兄弟』というのが、それまで身分の上下の厳しい時代を生き、権力の前に屈して来た幕末維新期の庶民の心をガッチリ捕えたのか?、やがては近在にも知られた存在となっていくみき・・・
ちなみに、一説には、主神の天理王命の神名は『仏神十王』(7月16日参照>>)のひとり、五道転輪王(→)に由来するとも言われています。
その後は、迫害や弾圧など、どのような新宗教もがたどった苦難の時を乗り越えながら、天理教という教団が形勢されていく事となります。
みき自身は、明治二十年(1887年)の2月18日、未だ大阪府から、教団設立の許可が得られないまま、90歳の生涯を閉じます(天理教では現身(うつしみ)を隠しただけで、魂は現在も元の屋敷に存命中とする)が、やがて「神道天理教会」として認可され、明治四十一年(1908年)には、悲願だった一派独立を果たす事となります。
現在は、約190万人の信者の方がいらっしゃるとのこと・・・
とにもかくにも、宗教的観念の乏しい茶々でありますので、今回は、あくまで歴史の1ページとして、私見を挟まずに、通説とされる誕生の経緯を、ご紹介させていただきましたので、そこのところをご理解いただけるとありがたいです。
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コメント
茶々さま
お邪魔するブログを間違えた?!かと思いましたよ^^
以外に知らない新興宗教のいでたち!?興味深く拝見しました、
というのも昨年天理市にお邪魔して
独特な街と漂う空気に驚いたものですから。
その時は確か石上神宮へ参拝して
帰宅のために高速へ向かう道中~でしたがね^^v
歴史の1ページとしてはこの手のお話もよいのではないでしょうか^^v
投稿: tonton | 2013年10月26日 (土) 21時45分
茶々様、こんばんは
宗教を信じぬものですが、歴史を語るに宗教は避けて通れないものなので、このようなお話も良いと思います。
投稿: エアバスA381 | 2013年10月26日 (土) 23時55分
tontonさん、ありがとうございます~
天理に行かれた事あるのですね。
私も、山の辺の道を歩いた時に通過した程度ですが…
投稿: 茶々 | 2013年10月27日 (日) 02時06分
エアバスA381さん、ありがとうございます~
>歴史を語るに宗教は避けて通れない…
そうですね。
私も、信心しない派ですので、どの宗派に対しても肯定も否定もしませんが、「知っておく事」は大事だと思っています。
投稿: 茶々 | 2013年10月27日 (日) 02時10分
茶々さま
こんばんは!
はじめまして私はけんと申します。
私も歴史は大好きです。
特に秀吉さんの
人間性に魅力を感じています。
サイトの方では孫子の兵法を
勉強させて頂きました。
ありがとうございます。
またお邪魔したいです。
では、また・・・。
投稿: けん | 2013年10月27日 (日) 21時24分
けんさん、はじめまして…
「京阪奈ぶらり歴史散歩」も見ていただいたのですね。
ありがとうございます。
また、遊びに来てくださいね。
投稿: 茶々 | 2013年10月28日 (月) 01時14分
私見をはさまずに書かれたのはご立派だと思います。最初の方のコメントにあるように新興宗教、とう言い方が一般(明治以降に起こった宗教)なのかな、と私も思っています。さらに最近起こった宗教は新進宗教という聞いた覚えがあります。
投稿: minoru | 2013年10月28日 (月) 02時06分
minoruさん、ありがとうございます~
そうですね。
新宗教は、今現在も生まれつつありますからね。
投稿: 茶々 | 2013年10月28日 (月) 12時22分
天理教への新興宗教というイメージもあってか中山みき という見出しを見て、昭和の話かと思いました。
意外に古い宗派なのか?と思う一方で長い日本史のなかではほんの150年前は明治のすぐ前で最近な気もするし。
なんにせよ中山みき という現代風の名前が江戸の頃にあったのに驚きです。
投稿: あづま | 2013年10月28日 (月) 16時52分
あづまさん、こんばんは~
私も、知るまでは、勝手に昭和っぽいイメージを持っていましたが…
年表で見てみると、今回の誕生のお話は、あの大塩平八郎の乱の翌年なんですよね。。。
投稿: 茶々 | 2013年10月29日 (火) 00時55分