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2013年10月29日 (火)

大河ドラマ「八重の桜」第43回:鹿鳴館の華 について…

 

以前から度々お話させていただいている通り、毎年、大河ドラマの放送内容によって多大な影響を受けるこのブログですが(笑)

今回も、この日曜日の放送以来、以前upした
【戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛】
前編>>
後編>>
のページに、多くの方のご訪問があり、NHKさまさま、うれしい限りであります。

・・・が、今回の「第43回:鹿鳴館の華」について少しだけ・・・

と言いますのも、番組が始まった当初や(1月7日参照>>)、途中にも(5月20日参照>>)感想を書かせていただいた通り、無難ではありますが、なかなかに面白く、一昨年のアレのトラウマを見事払拭してくれる良い大河だと思って見ておりましたので・・・

ただ、今回の、あの腕相撲だけは・・・ちょっと??という空気がたちこめましたね。

もちろん、ドラマには主役の特権という物があるので、本来なら、ほとんど入り込む余地の無い出来事に首を突っ込んでいただいても良いのですが、今回ばかりは、何か違和感の残る筋書きになってたような気がします。

以前のページで書かせていただいたように、実際にも、あるパーティで捨松に一目ぼれした大山巌(おおやまいわお)が、山川家に「嫁に欲しい」と申し込みに行き、断わられても断られてめげずにやって来る中、「それならば…」と、実際に彼に会った捨松が、その人柄に魅かれて行く・・・という流れなわけです。

もちろん、以前のブログに書かせていただいた事が、すべて事実であるとは限りませんし、実際がどうだったかなんて事は、ご本人のみの知るところな内容も大いにあるわけですが、少なくとも、捨松が
「家族がどんなに反対しても、私は、アノ人(大山巌)と結婚します!」
と、アメリカの友人に送った手紙は現存するわけで、

そんな中の今回のドラマ・・・

大山さーの気持ちや、結婚に反対する兄の山川浩(大蔵)、さらに捨松の心の変化も、うまく描かれていて良かったのですが、そこに、主人公:八重さんの「腕相撲で決着をつけましょう」の一言です。

不肖私、始めは、捨松の心を見抜いた八重さんが、わざと、そう言ったのかと思いました。

それなら理解できます・・・てか、予告を見た段階ではそうだと思ってました。

もはや説得しきれないほどの山川浩の反対ぶりを見るに見かねて、それを押さえるために、「腕相撲」を言いだし、わざと大山巌に負けてあげるのかと・・・

しかし、先日のドラマを見る限りでは、そうでは無かったようで・・・

途中で、大山さーを応援する捨松の態度で、初めて、その気持ちに気づき、それに動揺して負けた感じに描かれていました。

・・・って事は、捨松の心の内など知らずに「腕相撲で決着を…」と言った事になり、そうなると、なにやら単なる出しゃばりのオバサンような感じになってしまって、とても残念でした。

とは言え、ここ何年かの大河の中では(個人的には「平清盛」も良かったですが…)、安心して見ていられる秀作となっている八重の桜ですので、まだまだみどころは盛りだくさん・・・これからも期待しています。

毎週、楽しんで見ているだけに、今回は、ちょっとだけ、重箱の隅をつつくようなイケズな感想を言ってしまいました。
ゴメンナサイです。
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2013年10月26日 (土)

中山みきと天理教

 

天保九年(1838年)10月26日、中山みきが天理教をひらきました。

・・・・・・・・・・

日本には、もともと、その誕生も曖昧なほどの昔から「神道」なる宗教があり、そこに、ご存じの仏教伝来(10月13日参照>>)があり、やがて平安鎌倉時代になると、その仏教も、様々に枝分かれするようになっていくのですが・・・

とは言え、それら数ある宗派も、それが枝分かれなのか?新宗教の誕生なのか?という点も含め、その誕生の経緯や成立ちは、それぞれ違うわけで、それこそ、仏教そのものも、伝来した当時は、古来の信仰との間に、なんやかんやの衝突がある新宗教だった(2010年3月30日参照>>)わけで、

なので、新しい宗教という意味の「新宗教という言葉に関しては、歴史上、その時代々々において、その解釈も、様々に変化する物でありましょうが、

今現在の一般的な解釈としては、1000年を越える伝統宗教とは一線を画す新しい宗教が「新宗教」と呼ばれ、その新宗教誕生のブームは、幕末から明治末期と、第2次世界大戦後の昭和期の2回あったとされています。

そんな新宗教の草分けとも言えるのが、中山みきが開いた天理教です。

その教祖となった中山みきは、寛政十年(1798年)に大和国津藩山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の大庄屋=前川家の長女として生まれました。

13歳になった時、従兄弟(父の妹の息子)中山善兵衞と結婚・・・当時の中山家は綿などの買い付けや質屋を経営するけっこうな地主だったと言いますが、その後の17年間に1男5女をもうけ(次女と4女は早世)、その中山家の所帯の一切を任されるほどの、献身的かつ慈愛に満ちた嫁ぶりだったと言います。

そんな彼女に転機が訪れるのが、天保九年(1838年)10月23日・・・みきが40歳の時でした。

かねてより、足の痛みを訴えていた長男=秀司の足に激痛が走ります。

さらに、夫の善兵衞がにわかに眼の痛みを訴えはじめ、みき自身にも、キョーレツな腰痛が・・・

「親子3人が同時に激痛に襲われるやなんて!!
これは、ただ事やない!」

とばかりに、一家はとある修験者に祈祷をしてもらう事になるのですが、この時、修験者の提案によって、みきが仮の加持台(加持代=かじだい:巫女役・神が降りる中継役)を担当します。

すると、そのみきに神が降り、その神は
「私は『元の神』『実の神』である」
と名乗り、
「三千世界を助けるために天降った」
と称して
「神の住む社(やしろ)として、みきの体をもらいたい」
と啓示したのです。

突然の事に驚いた善兵衛は、再三にわたって
「みきを差し出すわけにはいかない」
と辞退するのですが、神は譲らず、
「聞き入れたなら世界を救うが、承知しなければこの家もつぶす」
と応答した事から、

最初の啓示から3日後、結局は善兵衛が神に応じる事となり、みきを社として差し出しました。

こうしてみきが「神の社」と定まったのが天保九年(1838年)10月26日・・・天理教では、この日を「立教の日」としています。

その後は、神の教えである「貧に落ちきれ」との神意に従い、家財道具や家屋敷、持っている田畑を次々と手放した事から、嘉永六年(1853年)に夫・善兵衛が亡くなる頃には、中山家はすっかり没落し、ほぼ無一文の貧困状態となってしまいました。

しかし、その翌年の3女の出産の際に、神が安産の守護をするというフレコミで「帯屋(おびや=お産の事)許し」を授け、その後に娘が無事に出産した事から、徐々に、彼女の教えに興味を持つ人が出始めます。

さらに元治元年(1864年)には「つとめ場所」なる専用の建物も建築・・・この頃からは、5女のこかんとともに、安産祈願や病気治癒などの布教活動を活発に行うようになります。

親神天理王命(てんりおうのみこと)が教祖を通じて教示した
「せかいぢういちれつわみなきようたいや」=『世界一列兄弟』というのが、それまで身分の上下の厳しい時代を生き、権力の前に屈して来た幕末維新期の庶民の心をガッチリ捕えたのか?、やがては近在にも知られた存在となっていくみき・・・

Tenrinou ちなみに、一説には、主神の天理王命の神名は『仏神十王』(7月16日参照>>)のひとり、五道転輪王(→)に由来するとも言われています。

その後は、迫害や弾圧など、どのような新宗教もがたどった苦難の時を乗り越えながら、天理教という教団が形勢されていく事となります。

みき自身は、明治二十年(1887年)の2月18日、未だ大阪府から、教団設立の許可が得られないまま、90歳の生涯を閉じます(天理教では現身(うつしみ)を隠しただけで、魂は現在も元の屋敷に存命中とする)が、やがて「神道天理教会」として認可され、明治四十一年(1908年)には、悲願だった一派独立を果たす事となります。

現在は、約190万人の信者の方がいらっしゃるとのこと・・・

とにもかくにも、宗教的観念の乏しい茶々でありますので、今回は、あくまで歴史の1ページとして、私見を挟まずに、通説とされる誕生の経緯を、ご紹介させていただきましたので、そこのところをご理解いただけるとありがたいです。
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2013年10月19日 (土)

西郷隆盛も愛でた成就院「月の庭」が特別公開

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「いつまで夏やねん!」
と、地球にツッコミたくなるような10月に入っての夏日・・・

とは言え、さすがの猛暑に襲われた関西にも、ちゃんと秋が訪れてくれた事を感じる今日この頃ですが・・・

・・・で、秋と言えば、京都や奈良の寺社巡りには最適の季節・・・中でも紅葉の季節になると、そりゃもう、京都の道という道は渋滞の嵐となるわけで・・・

そんなこんなで、今回ご紹介するのは、有名な清水寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院の境内に付属するお寺)である成就院(じょうじゅいん)の特別公開のお話・・・

Zyouzyuina900
清水寺成就院

以前、このお寺にお参りさせていただいた際に、1度ブログに書かせていただいてますので(2010年2月3日の後半部分参照>>)、少々内容がかぶります事をご容赦いただきながら、先に、その、今回の公開期間をご紹介しますと、本年=2013年(平成25年)11月17日~12月8日まで・・・という事になってます。

基本は非公開のこのお寺ですが、毎年春と秋をめどに不定期に特別公開してくださるので、私も訪れた事があるのですが、今回、ブログでご紹介したいのは、この11月17日~12月8日までの今回の特別公開が、期間中の9時~16時と18時半~21時までの、昼夜2回の公開となっている事です。

つまり、今回は夜の公開がある!!!

不肖茶々、エラそうな事を言ってますが、夜の成就院を見た事が無いのです。

情報によれば、それこそ不定期で、たまに夜にも公開される事があるらしいのですが、なぜか、未だその時に巡り合えておらず・・・

で、なぜ、その、「夜の公開」を強調するかと言いますと、

もちろん、御堂内や宝物類などにも、見どころはたくさんある成就院ですが、その中でも最高の見どころが「月の庭」 と呼ばれる庭園なのですヨ!

「月の庭」・・・その名の通り、月を愛でる庭園ですから、やはり夜に行きたいですよね~

室町時代に創建されたと言われる成就院は、度重なる戦乱で焼失し、現在の建物は、江戸初期の物で、第3代江戸幕府将軍・徳川家光が建立した物ですが、それからは、まったく変わらぬまま・・・奇跡的に残った豊臣秀吉椿水鉢加藤清正敷石に、小堀遠州が設計を加えたと言われる見事な庭園は、樹木の刈り込みさえも、その時代のままの姿を保っています。

Tukinoniwa2800
「月の庭」撮影禁止ですのでポスターの写真(しかも昼)でご辛抱を・・・

そもそも、京都には「雪月花(せつげつか)の三つのお庭が別々のお寺にあったらしいのですが、「雪の庭」を持つお寺は移転して別の庭となり、「花の庭」を持つお寺は、明治の廃仏の波に呑まれてなくなってしまい、現存するのは、この「月の庭」だけとなっているのだとか・・・

とは言え、先ほど、「月を愛でる」と言いましたが、実は、このお庭・・・庭園そのものは北向きで、月は見えないのだそう・・・

夜になって月が上り、一晩かけて移動する・・・
それとともに、この庭の指す影が変化する・・・
一晩かけて、月影の移動を愛でる・・・

つまり、
「月影を愛でる」お庭なのです。。。

なんとも、風流なお話ながらも、現在の夜の公開時には、ライトアップされるとの事なので、残念ながら、その月影を楽しめるかどうかは微妙ですが、それはそれで、幽玄な世界が広がり、昼とは違う庭園の雰囲気が楽しめるのでは無いでしょうか?

また、以前も書かせていただいたように、ここは、あの西郷隆盛が最も心を開いた、その名も月照(げっしょう)と呼ばれるお坊様と、何かにつけて語り合った場所・・・

尊攘派が窮地に立たされ、ともに九州へと逃げて、ともに自殺を計るも、運命の女神のイタズラによって、命助かる隆盛と命を落とした月照・・・(11月16日参照>>)

この二人が、夜の成就院で、ともに月影を愛でたかと思うと、やはり、1度は見てみたい!!

と、歴史好きの皆さまも思われるのではないか?と、今回、ご紹介させていただきました。

  • 成就院・2013年秋の特別公開
    11月17日~12月8日まで
    昼の公開=9:00~16:00(受付終了)
    夜間公開=18:30~21:00(受付終了)

    成就院の場所は清水寺の境内です。

成就院への行き方&周辺の観光情報については、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末篇」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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2013年10月12日 (土)

松尾芭蕉…最後の旅

 

元禄七年(1694年)10月12日、江戸前期の俳人・松尾芭蕉が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、超有名な江戸時代の俳人=松尾芭蕉(まつおばしょう)さんについては、ブログを始めたばかりの2006年のご命日の日に、その生涯について、サラッとご紹介してはいるのですが(2006年10月21日参照>>)、今回、改めて、その人生最後に迫ってみたいと思います。

・‥…━━━☆

Matuobasyou500ast 松尾芭蕉が、その最後となる今回の旅に出たのは元禄七年(1694年)5月の事でした。

旅に付き添っていたのは、その生涯で唯一芭蕉が愛した女性とされる晩年の同居人=寿貞尼(じゅていに)の息子の次郎兵衛(じろべえ)・・・彼は、一説には、その寿貞尼と芭蕉の間にできた子供とも言われ、ここのところ、芭蕉の身の廻りの世話をしていた人です。

もちろん、この頃の芭蕉は、すでに『奥の細道』を完成させ、多くの弟子を持つ大先生だったわけですが、春先頃から、今回の旅を計画していたものの、かの寿貞尼の病気や、自身の体調の悪さもあって、なかなか出発できていなかったのです。

ただ、その旅の目的地は西国全土という大きな志しでした。

本当は、九州・長崎にまで行く予定だったとか・・・

しかし、5月に江戸を発って名古屋へと向かい、さらに故郷の伊賀上野に入った5月28日には、自分自身が肉体の衰えを痛感するほどの苦しい旅路だったと言います。

それでも、伊賀を発って大坂へと向かった芭蕉たちでしたが、その途中に、寿貞尼の死の知らせが舞い込んで来ます。

芭蕉は、再び故郷の伊賀上野に戻って、寿貞尼を偲びながらお盆を過ごし、お盆明けに再度、大坂に向けて伊賀を発ちます。

その頃には、その体調の悪さから、すでに最初の目的であった西国全土=九州への旅はあきらめて、「とりあえずは伊勢参りをしよう」という、大幅な予定変更をしていたのですが、大坂へは、どうしても行かねばならぬ用事があったのです。

それは、大坂における芭蕉の弟子たちの対立・・・この頃の大坂の弟子たちは、「酒堂一門」「之道一門」という大きな二つの派閥に分かれてしまっていて、これがけっこうな険悪ムード・・・

どうやら、このモメ事が、芭蕉の心痛となり、その体調の悪さに拍車をかけていて、この頃には頭痛や発熱にも襲われていたようですが、大先生の大坂へのお出ましで、二つの大集団が合同で会合を開く事となり、なんとか両派閥をまとめる事に成功したようで、こころなしかホッとする芭蕉・・・

その後は、少し体調が良くなったので、近隣の弟子たちのもとを何軒が訪問した芭蕉でしたが、その中の一人、女弟子の園女(そのめ)宅で行われた俳句の会に出席した時が、そろそろ限界だったようで・・・

その直後の9月29日の夜から、ヒドイ下痢に襲われるようになって病床につく事になります。

それでも、まだ、この頃は、周囲もさほど深刻には思っておらず、「しばらく養生すれば、また快復されるのでは?」と弟子たちも思っていたようなのですが、10月3日頃から、容態がますます悪化・・・

治療に専念するために、御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に、その身を移し、弟子たちによって手厚い看病がなされます。

10月8日には「病中吟」と称して、有名な
♪旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる♪
の一句を詠みます。

Dscn6789a600 そして、もう一つ
♪清滝や 波に散り込む 青松葉♪
(清滝川沿いの芭蕉の句碑→
見え難いですが、上記の清滝の句が記されています)

後者は臨終の3日前という事ですので、おそらく9日に詠んだ・・・なので、ギリ、「清滝」の句の方が、「旅に病んで…」より後に詠んだ事になるようなのですが、

Dscn6790a600
芭蕉の句碑周辺の清滝川(句碑は写真の手前左側に建っています)

実は、この清滝の句も、単に嵯峨野の情景を詠んだだけではなく、自身を青松葉に例えて、波に散ると表現している、なんとも悲しい内容のようで・・・

どちらも、死期が近い事を悟った辞世の句のように思いますが、実は、厳密には、芭蕉には「辞世の句」というのは無いのだそうです。

それは、芭蕉自身が、すべての句を辞世の句として詠んでいたからだと・・・

一方では、先の句を詠んだ翌日の10日には、しっかりとした遺書を残す・・・つまり、彼にとって俳句という物は、決して現実=プライベートな自分ではなく、俳人:芭蕉としての世界に満ちた、ある意味、本当の自分とは違う別世界の物だったという事なのでしょう。

10月11日には、意識はしっかりしていたものの、もはや飲食もままならない状態になってた芭蕉でしたが、翌・12日、昼ごろに目をさました時には、前日よりは気分が良かったのか、お粥を少々、口にしたのだとか・・・

その日は、雲ひとつない晴天のさわやかな日だったという事ですが、ハエがうるさく芭蕉の周りを飛び交うので、弟子たちが、手に手に鳥もちのついた竹棒を持って、それを追いまわしていたところ、その様子がツボにハマッたのか、芭蕉は声に出して笑っていたのだそうです。

しかし、その声が突然止み・・・そう、それが芭蕉の臨終の時でした。

元禄七年(1694年)10月12日・夕刻、享年:50歳・・・多くの弟子たちに見守られての死出の旅路でした。

翌々日の14日に埋葬された義仲寺(滋賀県大津市)には、300人以上のファンが訪れたのだそうです。
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2013年10月 4日 (金)

アンケート企画「歴史上最強&最恐の怨霊&怪談は?」結果発表

ずいぶんとお待たせしてしまいましたが・・・

本日は、最新アンケート「歴史上最強&最恐の怨霊&怪談は?」結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
やはり・・・
予想通り、トップはアノ方でしたね~~

昨年のドラマの井浦さんの名演技と、対・天皇家というところが印象深かったのかも…
てな事で、とりあえずは、結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
33票
崇徳天皇の怨霊
やはり…ダントツの1位でしたね。。。
昨年の大河ドラマでの知名度upが効いてるのかも…さすがです!
2位
16票
平将門の怨霊
コチラも、もともと知名度バツグン…特に関東では首塚が有名ですからね~
3位
9票
四谷怪談のお岩さん
最近こそドラマや映画になる事も少なくなりましたが、少し前までは夏の怪談話の定番でしたからね。。。バツグンの知名度アリです。
4位
4票
牡丹燈籠のお露さん
姫路城の七不思議
意外?と言っては何ですが、少しマイナーな中では、この2項目が上位に…
6位
3票
菅原道真の怨霊
八王子城の怖い伝説

このブログの八王子城のページは、今現在も、毎日たくさん閲覧があります。
8位
2票
番町皿屋敷のお菊さん
早良親王(崇道天皇)の怨霊
九十九橋の首無し武者
大奥開かずの間

2票…と、少し票は集まりませんでしたが、何となく、ジワリと怖さを感じる項目が揃いました。
12位
1票
九戸城の怪談話
大阪城の怖い話
鍋島の化け猫騒動

少し、知名度が足りなかったか??
15位
0票
春日山城の怪現象
残念ながら0票でした…やはり、怖さの感じ度が他に圧倒されたのかな?
その他 2票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

四谷怪談 映画化するときもお祓いをしないと誰かに不幸が起きると云われている
「そうですね。。。今でも主役の方がお参りに行ったりされますね」
平将門 今でもドラマの題材になるくらい有名かな。(60歳代/男性/千葉)
「ゲームの題材になったりもしますね」
平将門 帝都物語、アニメも映画も見た。ついでに昔の大河ドラマも見た、そのイメージが強いかな。(女性/東京)
「帝都を揺るがす…ですからね。」
九十九橋 これ 怖いわぁー(50歳代/女性/大阪)
「相手を探してさ迷ってる感じが怖いです」
牡丹燈籠 お話に出てくる栗橋宿が近くなので(50歳代/女性/埼玉)
栗橋宿が…そうなんですか?今も風情の残る場所なのでしょうか?
四谷怪談 お岩は永遠です(60歳代/男性/神奈川)
「永遠ですか…第一印象が相当怖かったのだとお見受けします
平将門 秀郷に怒るでなく、応援を願います。(60歳代/男性/東京)
「秀郷さんは英雄…戦国武将の憧れですからね
崇徳天皇 戦後の進駐軍にまで祟ったという、将門公かとも思ったのですが、やはりその呪詛の強さでは崇徳院でしょうね。(50歳代/男性/山口)
「空港を造る時に何かあったような事を聞きましたが…」
平将門 大手町にある首塚に行ったことがありますが、あまりの空気感に近寄ることすらできませんでした。(40歳代/男性/埼玉)
「ビルの谷間でハンパない存在感ですね」
四谷怪談 僕の好きな菅原道真さんと平将門さんが、時の権力者・朝廷にとって最大のゾッとする出来事でしょうが、子供の頃映画で観たお岩さんには度肝を抜かれました。(50歳代/男性/兵庫)
「子供の頃に見た映像ってキョーレツですよね」
崇徳天皇 怖いというより出自から同情、父に疎まれる人生はつらく、怨みも深いと思う(60歳代/女性/高知)
「真実かどうかはわかりませんが、ウワサになってた事は確かで、そのウワサはご本人も耳にしたでしょうからね」
菅原道真 古代の神々をさしおいて天神と名がつくまでになった彼じゃないかな(20歳代/男性)
「そうですね…ゆかりの地には必ず天神社がありますね
その他 耳無し芳一
「アッ…このお話もありましたね~平家の落武者の元祖かも知れません」
平将門 国王神社と丸の内のお墓 怖かった(50歳代/女性/茨城)
「今もなお、気を感じますね
崇徳天皇 来年、850回忌です。昭和の800年祭の折りは、昭和天皇の勅使が四国に送られました。
「やはり、天皇家とのご縁が…」
四谷怪談 おめめの上に大きなコブができたお岩さん・・と別れた嫁の寝顔あ
「映画やドラマの映像が印象的ですからね~」
崇徳天皇 怖すぎです・・・。(30歳代/男性/岐阜)
「現在進行形的な感じが特に怖いです」
早良親王 もうすぐお彼岸ですし、日本人として知っておきたい話なので(10歳代/男性/大阪)
「お彼岸の法要は日本独自の物ですから…」
平将門 子供の頃に首塚の伝説を知ってトラウマ化し、他の怨霊の方々は平気なのに、いまだこの人だけは避けるなど、かなり尾を引いています。(20歳代/女性/岐阜)
「子供の頃に受けた印象は、大きくなっても変わらない物ですね」
その他 小野小町:光明天皇の更衣として、手にする権利ある更衣田を奪われ、藤原氏のために宮廷を追われ、悲惨な老後を負わされた絶世の美女。女の怨念ほど怖いものはない。(40歳代/男性/愛知)
「そうですね~亡くなった後も伝説として語られていますね」
大奥開かずの間 怨念とかではない、喪服の女性がさりげなく座り、見た者は死が近いって‥一番リアルな感じで、ドラマ大奥のワンシーンでも見た時に、なんとも言えない不気味さを感じます。(40歳代/女性/千葉)
「華やかな大奥とのギャップがさらに恐ろしい…」
姫路城の七不思議 怖ーーいデースれ(100以上/男性/山梨)
「6つしかないのに七不思議?
崇徳天皇 大河「平清盛」の井浦さんの演技がすごすぎて他の話が霞んでいます(泣)(30歳代/男性/愛知)
「世間の評判はアレですが、私は『平清盛』好きでした」
番町皿屋敷 ガキの頃、寝る前お袋に「一枚?、2枚?」 と、この怪談話を聞いて以来、大人になった今でもお菊さんだけは怖いんだよぉ?!!(笑)(男性/東京)
「寝る前の『一枚・二枚…』は怖過ぎです」
姫路城の七不思議 七つ目の不思議知ったら呪われるとか怖すぎやわ??(*_*;(10歳代/女性/大阪)
「やはり、そこが1番怖いですよね~」
平将門 ある意味、首都圏の守り神様ですし・・・(50歳代/男性/東京)
「スサノオ命同様、怨霊は荒ぶる守り神でもあらせられますから…」
崇徳天皇 自分的には怖くないのですが、天皇家が一番恐れている怨霊なので一番としました。(60歳代/男性/愛知)
「800年に渡り続いてしますから…」
崇徳天皇 タイトルから崇徳天皇しか思いつきませんでした。
「そうですね…まず、このお名前を思い出すかも」
崇徳天皇 この百人一首の歌好きです。(30歳代/女性/大阪)
「♪瀬を早み~♪私も好きです」
菅原道真 ぞっとはしないけど。現代にいたるまでの(影響)力の強さでは一番。怖いのはお岩さんかな。(40歳代/女性/埼玉)
「天神様のご利益という点でも影響力アリです」
崇徳天皇 やはり天皇家を祟った年月の長さでしょうか。(40歳代/男性/愛知)
「やはり…対・天皇家ですね
牡丹燈籠 初めての内容でしたので、新鮮な驚きでした(40歳代/女性/岩手)
「聞くところによれば、今年公開された『クロユリ団地』なるホラー映画も、このお話をモチーフにしているとか…」
平将門 だって第二次大戦後の現代にまで祟っちゃうとか、どんだけパワーあるんだよと言うか…(40歳代/女性/福岡)
「今現在も…ですもんね
崇徳天皇 やはり崇徳天皇でしょう。「皇を取って民とし民を皇となさん…」、実際その通りになってる!?し、菅原道真さんは、神として昇華してる感じが…(40歳代/男性/大阪)
「魔界の王ですからね~
姫路城の七不思議 崇徳院さまも魅力的ですが、播州に生まれ育った身なれば、これを外すわけにはまいりません。姫路城にも何度も行っていますから、霊にも会ったかも?・・・(^^ゞ(40歳代/女性/兵庫)
「やはり地元のお話は外せませんね」
崇徳天皇 皇室の繁栄は日本の繁栄、皇室の衰退は日本の衰退・・・その皇室を現在に至るまで脅かしてる存在ですから(40歳代/男性/兵庫)
「危機迫る物を感じますね
崇徳天皇 タイトルを見た時点で崇徳さんだと思ってました。恨みの強さでいえば断然この人だと思います。(10歳代/女性/東京)
「やはり最初にお名前が浮かびますね」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧ください)
崇徳天皇 (ティッキーさん)
四谷怪談 (ティッキーさんのお母様)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、イイ感じのお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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