松尾芭蕉…最後の旅
元禄七年(1694年)10月12日、江戸前期の俳人・松尾芭蕉が亡くなりました。
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ご存じ、超有名な江戸時代の俳人=松尾芭蕉(まつおばしょう)さんについては、ブログを始めたばかりの2006年のご命日の日に、その生涯について、サラッとご紹介してはいるのですが(2006年10月21日参照>>)、今回、改めて、その人生最後に迫ってみたいと思います。
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松尾芭蕉が、その最後となる今回の旅に出たのは元禄七年(1694年)5月の事でした。
旅に付き添っていたのは、その生涯で唯一芭蕉が愛した女性とされる晩年の同居人=寿貞尼(じゅていに)の息子の次郎兵衛(じろべえ)・・・彼は、一説には、その寿貞尼と芭蕉の間にできた子供とも言われ、ここのところ、芭蕉の身の廻りの世話をしていた人です。
もちろん、この頃の芭蕉は、すでに『奥の細道』を完成させ、多くの弟子を持つ大先生だったわけですが、春先頃から、今回の旅を計画していたものの、かの寿貞尼の病気や、自身の体調の悪さもあって、なかなか出発できていなかったのです。
ただ、その旅の目的地は西国全土という大きな志しでした。
本当は、九州・長崎にまで行く予定だったとか・・・
しかし、5月に江戸を発って名古屋へと向かい、さらに故郷の伊賀上野に入った5月28日には、自分自身が肉体の衰えを痛感するほどの苦しい旅路だったと言います。
それでも、伊賀を発って大坂へと向かった芭蕉たちでしたが、その途中に、寿貞尼の死の知らせが舞い込んで来ます。
芭蕉は、再び故郷の伊賀上野に戻って、寿貞尼を偲びながらお盆を過ごし、お盆明けに再度、大坂に向けて伊賀を発ちます。
その頃には、その体調の悪さから、すでに最初の目的であった西国全土=九州への旅はあきらめて、「とりあえずは伊勢参りをしよう」という、大幅な予定変更をしていたのですが、大坂へは、どうしても行かねばならぬ用事があったのです。
それは、大坂における芭蕉の弟子たちの対立・・・この頃の大坂の弟子たちは、「酒堂一門」と「之道一門」という大きな二つの派閥に分かれてしまっていて、これがけっこうな険悪ムード・・・
どうやら、このモメ事が、芭蕉の心痛となり、その体調の悪さに拍車をかけていて、この頃には頭痛や発熱にも襲われていたようですが、大先生の大坂へのお出ましで、二つの大集団が合同で会合を開く事となり、なんとか両派閥をまとめる事に成功したようで、こころなしかホッとする芭蕉・・・
その後は、少し体調が良くなったので、近隣の弟子たちのもとを何軒が訪問した芭蕉でしたが、その中の一人、女弟子の園女(そのめ)宅で行われた俳句の会に出席した時が、そろそろ限界だったようで・・・
その直後の9月29日の夜から、ヒドイ下痢に襲われるようになって病床につく事になります。
それでも、まだ、この頃は、周囲もさほど深刻には思っておらず、「しばらく養生すれば、また快復されるのでは?」と弟子たちも思っていたようなのですが、10月3日頃から、容態がますます悪化・・・
治療に専念するために、御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に、その身を移し、弟子たちによって手厚い看病がなされます。
10月8日には「病中吟」と称して、有名な
♪旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる♪
の一句を詠みます。
そして、もう一つ
♪清滝や 波に散り込む 青松葉♪
(清滝川沿いの芭蕉の句碑→
見え難いですが、上記の清滝の句が記されています)
後者は臨終の3日前という事ですので、おそらく9日に詠んだ・・・なので、ギリ、「清滝」の句の方が、「旅に病んで…」より後に詠んだ事になるようなのですが、
芭蕉の句碑周辺の清滝川(句碑は写真の手前左側に建っています)
実は、この清滝の句も、単に嵯峨野の情景を詠んだだけではなく、自身を青松葉に例えて、波に散ると表現している、なんとも悲しい内容のようで・・・
どちらも、死期が近い事を悟った辞世の句のように思いますが、実は、厳密には、芭蕉には「辞世の句」というのは無いのだそうです。
それは、芭蕉自身が、すべての句を辞世の句として詠んでいたからだと・・・
一方では、先の句を詠んだ翌日の10日には、しっかりとした遺書を残す・・・つまり、彼にとって俳句という物は、決して現実=プライベートな自分ではなく、俳人:芭蕉としての世界に満ちた、ある意味、本当の自分とは違う別世界の物だったという事なのでしょう。
10月11日には、意識はしっかりしていたものの、もはや飲食もままならない状態になってた芭蕉でしたが、翌・12日、昼ごろに目をさました時には、前日よりは気分が良かったのか、お粥を少々、口にしたのだとか・・・
その日は、雲ひとつない晴天のさわやかな日だったという事ですが、ハエがうるさく芭蕉の周りを飛び交うので、弟子たちが、手に手に鳥もちのついた竹棒を持って、それを追いまわしていたところ、その様子がツボにハマッたのか、芭蕉は声に出して笑っていたのだそうです。
しかし、その声が突然止み・・・そう、それが芭蕉の臨終の時でした。
元禄七年(1694年)10月12日・夕刻、享年:50歳・・・多くの弟子たちに見守られての死出の旅路でした。
翌々日の14日に埋葬された義仲寺(滋賀県大津市)には、300人以上のファンが訪れたのだそうです。
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コメント
茶々様、こんにちは。
ある意味ステキな亡くなり方です。
全ての句が辞世の句と言う心意気も素晴らしいです。
歴史に残る人は、最後も素晴らしいですね。
平和な時代の偉人としてですが。
投稿: エアバスA381 | 2013年10月12日 (土) 12時22分
お久しぶりです。
わたしは上野市(現・伊賀市)出身なので、芭蕉さんは身近に感じてしまいます。
小学校の頃は夏休みには俳句を宿題に出され、命日の式典で入賞作は自ら読みあげる、ということがありました。芭蕉さんの歌もありましたし。
が、今回の茶々様の記事の大部分は初めて知ることで、改めて自分の無知を知りました。
芭蕉さんが九州に行かれたら、どんな句を詠まれたのでしょう。
投稿: やんたん | 2013年10月12日 (土) 17時10分
エアバスA381さん、こんばんは~
>ステキな亡くなり方…
そうですね。
多くの弟子たちに見守られて…
投稿: 茶々 | 2013年10月13日 (日) 00時40分
やんたんさん、こんばんは~
>芭蕉さんが九州に行かれたら…
ホントですね。
九州の名所の数々…芭蕉さんなら、どんな風に表現されたのか?
その点は、少し残念ですね。
投稿: 茶々 | 2013年10月13日 (日) 00時42分
>享年:50歳
( Д) ゚ ゚ ヘ?
ワカッ!Σ( ̄ロ ̄lll)
勝手に70代だと思っていましたよ。今の今まで...orz
だって、教科書の挿絵が、ねぇ...(ごまかし)
また勉強になりました。m(_ _)m
エアバスA381 様
ホントにそうですね。
残される人たちにとっても、
「笑って逝ったよ」
というのは、救われる思いでしょうね。
投稿: ことかね | 2013年10月13日 (日) 15時55分
一度訪ねた義仲寺は、窮屈なほどすきがなかったように想い出しました。弟子がたくさんおられますが、それぞれは師とどのように向き合っていたのか、興味のあるところです。野ざらしを心に風のしむ身かな(野ざらし紀行)、この歌が今なぜか身につまされます。
投稿: 樹美 | 2013年10月13日 (日) 17時55分
ことかね様
同意いただきありがとうございます、
そう伝えられていることが、救いですね。
事実だったと信じます。
投稿: エアバスA381 | 2013年10月13日 (日) 22時06分
ことかねさん、こんばんは~
教科書とかの挿絵は、お爺ちゃんっぽいですよね~
でも、芭蕉に限らず、昔の人の肖像画って、かなり年上に見えます。
投稿: 茶々 | 2013年10月14日 (月) 03時04分
樹美さん、こんばんは~
やはり常に辞世の句の感覚ですね~
投稿: 茶々 | 2013年10月14日 (月) 03時07分
芭蕉は晩年、痔を患っていたそうです。確か手紙の中で痔がキツイと言っていたと思います。西国の旅の断念の一つともされています。
投稿: ヒトシWCCF | 2013年10月15日 (火) 22時28分
ヒトシWCCFさん、こんばんは~
旅を断念するくらいですからね~
かなり、おツラかったのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年10月16日 (水) 00時41分
芭蕉さん、痔疾でなくて、直腸癌だったかも。
当時は、遠山金四郎も痔疾で病休を取ったとあるので、重病だったかもしれませんね。
投稿: やぶひび | 2013年10月20日 (日) 12時42分
やぶひびさん、こんばんは~
遠山の金さんの痔の話は、何かで聞いた事があります。
投稿: 茶々 | 2013年10月21日 (月) 01時35分