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2013年11月 1日 (金)

庄内転封騒動~天保義民事件となった三方領地替

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天保十一年(1840年)11月1日、江戸幕府より、庄内藩主・酒井忠器のもとに、越後長岡藩への転封命令が発せられました。

・・・・・・・・・

徳川幕府が江戸時代を通じて、何度か行った『三方領地替(さんぽうりょうちがえ=三方領知替え)という手法があります。

Aという藩をBという領地に、そこにいたB藩をCの領地に、最後のC藩を最初のAの領地に・・・三つ巴のテレコテレコで転封させるという物。

ちなみに、4つの藩がからむ『四方領地替』というのもあります。

いずれも、幕府が有利なように、複数の藩に同時に国替えを命令するのですが、幕府にとっては、それぞれの藩が、引っ越しのための財力を使うので、その藩の財政を削ぐ事ができるとか、領主と領民が親密な場合には、その関係を引き離す事ができるなどというメリットがあったわけです。

そんな中での今回の天保十一年(1840年)の三方領地替・・・

武蔵国(埼玉県)川越藩主の松平斉典(なりつね)出羽国(山形県・秋田県)庄内へ、庄内藩主の酒井忠器(ただかた)越後国(新潟県)長岡へ、長岡藩主の牧野忠雅(ただまさ)を、先の川越へ転封しようとしたもので、三方領地替の中では最も有名な一件で、この時の三方領地替は『庄内転封騒動』と呼ばれています。

そもそもの発端は、川越藩主の松平斉典・・・

この時の川越藩は大変な財政難に陥っていたのです。

実は、先に書いたように幕府にいくつかのメリットのある三方領地替ですが、もう一方では、財政難に陥った藩が裕福な領地への転封を願い出るという藩の方からアプローチをかける国替えもあったわけで・・・今回の庄内転封騒動の場合は、コチラだったのですね。

・・・で、文政八年(1825年)に、貧乏藩からの脱出を決意した川越藩主の松平斉典は、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の51番目の子である紀五郎斉省(なりやす)を養子に迎えたり、その斉省の生母である以登(いと)の方や老中・水野忠邦(ただくに)に、せっせと金品を贈って根回しを始めます。

この時、斉典が狙っていたのは、以前に領地とした事もある姫路(兵庫県)だったと言われていますが、残念ながら、まったく効果なし・・・

1年経ち、2年経ち・・・何の音沙汰もなく・・・もはや、あきらめていた天保十一年(1840年)10月、すでに将軍は12代の徳川家慶(いえよし)が就任していましたが、かねてからのアプローチがやっと効いたのかどうなのか?、突然、出羽庄内藩への転封の内命を受けたのです。

そして翌・天保十一年(1840年)11月1日正式に庄内藩への転封命令が申し渡されたのです。

もちろん、先に書いた通り、庄内藩だけではなく、3藩が絡んだ三方領地替命令です。

もともとの言いだしっぺである川越藩主の松平斉典にとっての庄内藩は、希望していた姫路に勝るとも劣らない期待以上の藩でした。

なんせ、ここは、第7代藩主の酒井忠徳(ただあり)によって行われた藩政改革が見事に成功していた藩で、その後を継いだ息子の現藩主・酒井忠器も評判の善政をしいていて、まれに見る豊かな領地だったのです。

んん??・・・って事は??

そうです。
いきなり転封を命令された現在順調の庄内藩にとっては、晴天の霹靂!!藩主も家臣も衝撃です。

なんせ、当時の庄内藩は14万石と言われる中、一方、転封先の長岡藩は、当時7万石ほど・・・しかも、上記の通りの改革の成功のおかげで、実質20万石ほどまで増やす事に成功と言われていましたから、とてもじゃないが納得いかない・・・

とは言え、命令が出ちゃった限りは、従わねば謀反・・・って事になるわけで・・・

ところが、黙っていなかったのは庄内の農民たちでした。

藩主が善政をしいている=農民たちも、現在の状況に満足しているわけですが、そこへ、いきなり、貧乏な藩からの藩主がやって来る・・・

ウソかマコトか
「今度の藩主=松平斉典の税の取り立ては激烈を極める」
なんていうウワサも飛び交い、早くも、この正式発表から半月後の11月15日、農民たちによる転封阻止運動が開始され、翌年の1月20日には、その農民の代表者が江戸を訪れ、大老の井伊直亮(なおあき)や老中の水野忠邦に嘆願書を提出する事態に・・・

当然ですが、直訴はご法度・・・嘆願書を手にした彼らは、もちろん、死罪を覚悟しての提出だったのですが、これが意外にも寛大に受け止められます。

そう、実は、大名たちの間にも、引退しながらも未だに権力を持ち続ける先代=家斉の大御所政治に不満を持っていた者が少なからずいたわけで、何の落ち度も無い今回の庄内藩の長岡への転封には同情的だったようなのです。

そんなこんなの天保十二年(1841年)閏1月7日、その大御所・家斉が亡くなり(1月7日参照>>)、不満は一気に表面化して来ます。

特に外様大名からは、今回の国替えの理由を幕閣に追及したり・・・中には、今回の転封命令は撤回すべきとの意見を、ハッキリと述べる大名まで出て来ます。

そうなると、庄内の農民たちの士気はますます上昇・・・各地で開く集会は、開くたびにその参加人数が増え、反対運動はどんどんと大きくなり、この閏1月の中旬に、藩主の忠器が江戸に向かうと知るや、それを阻止すべく、『百姓と雖(いえど)も二君に仕えず』のムシロ旗を掲げての大集会にまで発展します。

この一連の反対運動は、『天保義民事件(てんぽうぎみんじけん)と呼ばれ、これがあった事で、この天保十一年(1840年)の三方領地替は、江戸時代を通じての三方領地替の中で、実際に領地替えが行われなかったにも関わらず、最も有名な三方領地替となっているのです。

・・・と、今、結果を言っちゃいましたが・・・そう、結局、今回の三方領地替は実現されなかったのです。

今回の農民たちの運動は、もはや全国に知れ渡る出来事となりましたが、さすがに、「幕府が決定した以上、くつがえる事はないだろう」というのが、皆の思うところでしたが、なんと!将軍・家慶は、騒動勃発から半年後の7月6日、三方領地替の中止を発表したのです。

Mizunotadakuni400 ところが、その決定に「待った!」をかけたのが、老中の水野忠邦・・・

続く10日に、
「流言等御採用は御座あるまじく…」
=ウワサにまどわされたらあきまへん!

といった内容の建白書を提出し、転封命令の中止は、一旦、延期されてしまいます。

しかし、家慶は、事の次第=反対運動が本当に流言(ウワサだけ)なのかを自ら調査する事を決意・・・直属の密偵:2名を現地に派遣したのです。

約1ヶ月後に、彼ら密偵から提出された報告書を読んだ家慶は、天保十二年(1841年)7月正式に、三方領地替の中止と川越藩(斉典)への2万石の加増を決定したのです。

かくして、この騒動・・・
幕府の決定を農民運動がくつがえすという大騒動でありながら、訴えた農民側にも何の処分もなく、無理くりで推し進めようとした忠邦も処分されず、何となく玉虫色的な結果になった気がしますが、この頃、同時進行で行われていたのが、有名な天保の改革(3月1日参照>>)・・・

四方丸く収まった感のあるこの決定は、なかなかうまく進まない改革に対する不満を避ける意味もあった?のかも知れませんね。
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コメント

うわっ泥棒だ!
と、思ったので調べてみると、なんか名君っぽいことが書いてある...
う~~~ん...幕府が悪いな!

国替えのメリットに疑問を感じますねぇ。
なぜなら、大藩は動いていないから。
長州とか、薩摩とか、加賀とか、仙台とか。
動かしようがないと言えばないんですが。

賞罰とか贔屓が、本当のところじゃないのかなと、思います。

投稿: ことかね | 2013年11月 2日 (土) 12時54分

ことかねさん、こんにちは~

そうですね。
国替えのメリットについては、ごく一般的に言われている理由をご紹介しましたが、私自身、疑問が無いワケでは無いです。

他の三方領地替を見ても、絡んでるのはほとんど身内みたいな藩がばかりですからね。

>長州とか、薩摩とか、加賀とか、仙台とか…

おっしゃる通り、これらの大藩は、さすがに動かせなかったんじゃ無いでしょうか?

今回の三方領地替が勃発した時にも、トップを切って幕府に反対意見を提示したのは仙台藩の伊達斉邦でしたしね。

投稿: 茶々 | 2013年11月 2日 (土) 13時30分

茶々様こんばんは、
幕末が近くなって、幕府の強権も通じなくなった感じですね。
民意も、威力上がってたんですね。
将軍の英断で、いい結末になったのは救いを感じます。
天保の改革、好きじゃないので。

投稿: エアバスA381 | 2013年11月 2日 (土) 21時18分

エアバスA381さん、こんばんは~

そうですね。
この先の事を知っているからなのか?幕府にも陰りが見えた感があります。

投稿: 茶々 | 2013年11月 3日 (日) 02時13分

>長州とか、薩摩とか、加賀とか、仙台とか・・・

皆様ご存じの如く、転封による大名の鉢植え化は荻生徂徠の策にて、簡単に取り潰せる外様大名のあらかたは17世紀中に除かれてるし、残りの大大名家も関東から遠く離れた辺境にある上、そのどれもが徳川とは縁戚関係となっている。

となると、勢い三河、遠江の古層が力を持つ事を妨げるのが主目的となるのも又道理。
太平の世にあっては譜代の大大名本多、榊原など武辺の者の減封は既定路線。因って、最も警戒すべきは政務を司る譜代の血縁者とななります。

そもそも、徳川家が松平の頭目を誇ったところで清康以前には松平の本流を名乗れたかは些か疑念を抱かざるをえない上、水野、戸田、牧野、奥平などは元を辿れば独立領主で、何時権力の簒奪を図らんと謀を巡らしその挙に出るとも限らない。
そんな不安定要因を排除しつつ、支配体制(社会)の平準化で閣内勢力の均衡が図れるのならば、その作法に則る限り、その時々で権勢を誇るものが己が利便を図り、理不尽にも不利益を被るものが生じようとも構わないと言ったところなのでしょう。


斯くの如く、支配の及ばぬ遠国は捨て置き、徳川国と言う疑似中央集権体制の安定化を図る事に徹した策が三方所替えと言えなくはないでしょうか。

投稿: のらねこ | 2013年11月 4日 (月) 16時13分

のらねこさん、こんばんは~

そうですね。
なんだかんだで1番気をつけねばならないのは、身内かも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2013年11月 5日 (火) 02時35分

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