室町幕府VS楠木正行…住吉・阿倍野の戦い
正平二年・貞和三年(1347年)11月26日、京へ迫ろうとする楠木正行軍と、それを撃滅すべく派遣された室町幕府軍とが戦った住吉合戦がありました。
・・・・・・・・・・・
正平二年・貞和三年(1347年)9月17日の藤井寺の戦い(9月17日参照>>)の続きのお話ですが…
簡単に経緯をお話しますと・・・
建武の新政(6月6日参照>>)に反発して都を制圧した足利尊氏(あしかがたかうじ)(6月30日参照>>)の北朝=室町幕府は、延元元年・建武三年(1336年)11月7日に、武家政権の樹立宣言とも言える『建武式目(けんむしきもく)』を制定(11月7日参照>>)して、政権を握った事を確信・・・
一方、幕府の幽閉から逃れた第96代後醍醐(ごだいご)天皇が、吉野にて南朝(12月21日参照>>)を開き・・・と、ここから始まる南北朝時代・・・
しかし、後醍醐天皇軍の主力として、ともに鎌倉幕府を倒した楠木正成(くすのきまさしげ)は、とうに亡く(2007年5月25日参照>>)、延元三年・建武五年(1338年)5月には、東北から駆けつけた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が(5月22日参照>>)、続く7月には、正成とともに初期から活躍していた新田義貞(にったよしさだ)が(7月2日参照>>)と、南朝が不利な展開になる中、北朝の尊氏は、その8月に征夷大将軍に就任(8月11日参照>>)・・・
しかも、ここ来て南朝方の軍事を一手に担う形となっていた亡き義貞の弟=脇屋義助(わきやよしすけ)もが、四国にて病死してしまい・・・
と、そこに南朝の一縷の望みの如く活躍するのが、湊川の戦いに向かう父=楠木正成と涙ながらの決別=桜井の別れ(5月16日参照>>)をした、あの息子=楠木正行(くすのきまさつら)でした。
ここのところ、配下の軍勢を従えて、度々、住吉や天王寺の方面に撃って出る正行の動きを警戒した室町幕府は、総勢3000余騎の軍を、河内(大阪府南部)へと差し向け、正平二年・貞和三年(1347年)9月17日、両者は藤井寺にて合戦に及びますが、この戦いに南朝=楠木軍は見事勝利!(9月17日参照>>)・・・勢いに乗って、そのまま、京都周辺へ進出しようとします。
・・・と、ここまで
※さらにくわしい経緯は『足利尊氏と南北朝の年表』でどうぞ>>
・‥…━━━☆
この楠木軍の動きに対して、何らかの作戦を練らねばならない幕府軍でしたが、11月に入ってから、この冬の寒さ厳しく、行軍中に手がかじかんで動かなくなる兵士が続出・・・
とは言え、何もせずにはいられない状況の幕府軍は、11月23日、軍議を開いて、山名時氏(やまなときうじ)と細川顕氏(ほそかわあきうじ)を軍司令官とする6000余騎の追討軍を編成し、住吉・天王寺方面に向けて派遣したのです。
なんせ、その顕氏は、先日の藤井寺の戦いで敗戦を喫しており、以来、同僚からは散々にコケにされた、この2ヶ月余り・・・
今回の合戦への思いはハンパなく、遠く四国からも新たな兵をかき集めて来ていたのです。
「今度も、前みたいなカッコ悪い事になったら、どんだけ笑われるかワカランぞ!
皆、気ひきしめて…絶対に雪辱を果たすからな!」
とゲキを飛ばせば、
配下の者は、すぐさま500騎ごとの3隊のグループに分かれて、それぞれが旗を掲げて、「この戦いは生きて帰るな!」とばかりに決死の思いを秘め、水盃を交しての行軍開始・・・やがて、大手の山名軍は住吉へと着陣し、搦手(からめて)の細川軍は天王寺に陣を構えます。
この幕府軍の動きを知った正行・・・
「このまま、天王寺に城でも構えられたら、神仏に弓を引く事になるかも知れん」
との不安を抱き、
今のうちに搦手の住吉の軍に攻撃を仕掛けて追い払えば、天王寺の敵は戦わずに退くはず・・・とばかりに、正平二年・貞和三年(1347年)11月26日、正行は500余騎の手勢とともに屋敷を出立したのでした。
まずは住吉の敵を潰すべく、石津(いしづ=堺市堺区)の民家に火を放つ一方で、瓜生野(うりゅうの=大阪市東住吉区瓜破)の北から、5隊に分けた部隊で以って一気に敵陣に押し寄せます。
急襲して来た小勢の楠木軍の様子を見ていた本隊の山名時氏は、楠木軍を取り囲むように4方向に手勢を配置すべく、800余騎を住吉浦の南に出して浜辺を防御し、3000余騎を阿倍野の東西に陣取らせます。
本隊のこの動きに対し、搦手の顕氏は、あえて前へ出ず、先駆けの交代要員として天王寺で控えます。
やがて、時氏自ら率いる本隊が、まさに馬煙をあげながら、猛烈な勢いで瓜生野の東を駆け抜けると、その馬煙の様子で、敵が4方向から囲んでいる事を見抜いた正行・・・すばやく、先ほど5手に分けた軍勢を再び1手にまとめて、1点集中で全面突破する作戦に切り替え、瓜生野に撃って出ました。
このあたりは広い野原で妨げになる物が何も無い事から、両者は全面からぶつかって、矢が、鬨(とき)の声が縦横無尽に飛び交う死闘となります。
そんな中、楠木軍からは、若武者の和田源秀(わだげんしゅう)と、法師武者の阿間了願(あまのりょうがん)が敵陣に躍り出て大暴れ・・・源秀が小脇に抱えた長刀を鼻歌まじりに降り下ろせば、了願が長さ一丈(約3.3m)にも見える槍をブンブンと振り回し、見ている間に36騎ほどをメッタ撃ち・・・
もはや、一騎撃ちは不可能と後ずさりする幕府兵に、
大将・時氏が
「(大勢で)囲め!囲め!」
と声をかければ、
正行が
「和田を討たすな!続け!」
と命じます。
太刀(たち)の鍔(つば)音が天に響けば、
汗馬(かんば)の足音が地に響く・・・
お互いに退く者もない激戦となりますが、やがて、圧され気味の幕府軍には、入れ替えの兵も到着せず、疲れが見え出した頃、歩兵たちが、後陣の天王寺の兵を合流すべく、天王寺方面へと退きはじめます。
これを見た楠木軍は活気づき、追うように攻めたて、その混乱の中で、大将・時氏が重傷を負うという事態に・・・
やむなく、約300騎が、第2陣として阿倍野の南に駆けだして、しばらくは防戦しますが、やがて、これも破られ、この陣も天王寺へと退きあげました。
こうして、1陣&2陣が敗れると、浜辺の防御についていた住吉浦隊、天王寺で待機していた細川隊もヤバイ・・・
なんせ、住吉浦は文字通り後ろは海だし、この頃は、かの天王寺も後ろは川だらけ・・・(当時の大阪は川だらけの湿地帯でした【信長VS本願寺の「天王寺合戦」の図・参照(別窓で開きます)>>】戦国時代でもこんなです)
「敵に橋を落とされたら、生きては帰れん!
まずは、橋を警固せよ!」
とのゲキが幕府軍に飛び交いますが、お察しの通り・・・
その勢いで細い橋の上に差し掛かった大軍は、退いてんだか押してんだか解らぬ状態で大混乱・・・さらに、重傷を負っていた大将の時氏は、ここで馬も斬られて万事休す・・・
「もはや、これまで!」
と、時氏は橋の際で切腹しようと決意しますが、河村山城守なる武将が、たた1騎で返して防戦する中、安田弾正にうながされて、何とか橋を渡りますが、その間にも、橋から落ちて溺れる者多数・・・
もはや父子の安否、主従の安否もわからない混乱のまま、幕府軍は真夜中の道をひた走り、京へと戻るのです。
こうして、住吉合戦は、南朝=楠木正行軍の大勝利となりました。
ちなみに・・・この時、極寒の淀川に落ち込んだ幕府軍の兵士の幾人かを、正行らが救いだし、敵味方の区別なく手厚く治療した事から、このあと、正行軍に身を投じる者も少なく無かったのだとか・・・カッコイイなぁ~正行さんo(*^▽^*)o
まぁ、今回のお話は『太平記』のお話なので、話半分という気構えも必要ですが・・・
とは言え、強大な室町幕府・・・このままであるはずがありません。
この後、満を持して、総大将に任命されるのは、あの幕府最強執事(しつじ)=高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟・・・なのですが、そのお話は1月5日の「四条畷の戦い」でどうぞ>>
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コメント
今日のお話は実家の近くの話が多くて(たぶん?今と同じ地名ですかね?)懐かしいです。なぜか、楠木を応援したい雰囲気になりますね。
投稿: minoru | 2013年11月27日 (水) 08時57分
正行、この次で敗死するので、最後の勝ち戦ですね。
結末を知っていても、四條畷でも勝たせてあげたくなります。
投稿: エアバスA381 | 2013年11月27日 (水) 21時45分
minoruさん、こんばんは~
そうですね。
大阪難読地名で有名な喜連瓜破のあたりが瓜生野と呼ばれていたくらいで、あとは、ほぼ同じ地名ですね。
あのあたりで戦が行われたなんて、今では想像し難いですが、知ってる場所だと力が入りますね。
投稿: 茶々 | 2013年11月28日 (木) 02時01分
エアバスA381さん、こんばんは~
おっしゃる通り、ついつい正行を応援したくなっちゃいますね~
室町幕府も、そこまで悪の権化では無いのですが…
投稿: 茶々 | 2013年11月28日 (木) 02時03分