室町幕府の誕生?「建武式目」の制定
延元元年・建武三年(1336年)11月7日、室町幕府の施政方針を示した建武式目が制定されました。
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ともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇の建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が(8月19日参照>>)、湊川の戦い(5月25日参照>>)に勝利した後に京都を制圧(6月30日参照>>)したのが延元元年・建武三年(1336年)6月末・・・
続く8月には、かつて院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を発して(4月26日参照>>)尊氏側の正当性確保に一役かってくれた光厳(こうごん)上皇の弟・豊仁親王を光明(こうみょう)天皇として即位させ(8月15日参照>>)、光厳上皇の院政を開始しました。
もちろん、院政と言っても、もはや政治の実権は尊氏の手の中にあったわけですが・・・
一方の後醍醐天皇側は、主力の一人である新田義貞(にったよしさだ)が後醍醐天皇の皇子たちを連れて10月11日に北国落ちし(10月13日参照>>)、11月2日には、その後醍醐天皇自身が三種の神器を光明天皇に渡して(11月2日参照>>)事実上の降伏・・・
これで、尊氏の擁立する光明天皇が正式な天皇となり、まさに、尊氏の世となったわけです。
かくして、この状況を受けた尊氏が、延元元年・建武三年(1336年)11月7日、当面の施政方針を明らかにする『建武式目(けんむしきもく)』という2項17ヶ条からなる式目(箇条書き形式の制定法)を制定したのです。
ちなみに、鎌倉幕府や江戸幕府と同様に「何を以って開幕とするか?」には諸説ありますが、尊氏の室町幕府の場合は、この「建武式目の制定」か、もしくは2年後の「尊氏の征夷大将軍就任」(8月11日参照>>)かを室町幕府の成立とする事が多いようです。
まぁ、「武家政権の樹立」という観点から見れば、将軍就任より、今回の式目制定の方が、ちと有力かも知れませんが・・・
・・・で、その内容は、幕府の所在地についての検討と、当面の施策17ヶ条を、中原章賢(なかはらののりかた=是円)ら8人の有識者の意見という形で制定された物ですが、どちらかと言えば、「これからの基本方針」みたいな感じで、現実にすぐさま実施できる具体的な項目は少ないようです。
まぁ、現代でもよくある「○○に就任直後の所信表明演説」てなところで、あくまで「こんな感じでやって行きたいと思います」ってな事でしょうか?
なので、あまり拘束力が無かったとも言われますが、一方では、あの『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』(8月10日参照>>)と並んで、この後の戦国武将たちの分国法などにも、少なからずの影響を与えている存在でもあります。
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第一項(幕府の所在地を鎌倉にするか否か)
- 鎌倉は、あの頼朝さんが拠点を置いたとこやし、引き継いだ北条が承久の乱に勝利した縁起のええ土地やけど、その北条も、結局はおごり高ぶって滅亡してしもたさかいに、要は、拠点がどこにあるかや無くて、その場所で行う政治のよしあしが大事やねん。
まぁ、鎌倉から移りたいって言う人が、よーけおるんやったら、移してもええんちゃいますか。
第二項(政道の事)
- これについては、時代に適した法律制度を造らなアカンね。
日本にも中国にも様々な法があって、どれがええんか悩むところやけど、武家政治の全盛期(鎌倉幕府の時代)の事を踏まえて、そこから改善せなアカンところは改善して行く事になるけど、幸いな事に、鎌倉時代の人がまだまだ健在やよって、情報は得やすいやん。
昔から「徳はこれ嘉政、政は民を安んずるにあり(徳とは良い政治の事、政治の基本は民の安定)」って言うさかいに、早いこと全国民の悲しみが無くなるよう、早急に処置せなアカンね。
ほな、その大雑把な要点について、以下に書いときますわ。
- 倹約を行はるべき事
最近、「婆佐羅(ばさら)」とかなんとか言うて、ハデハデな贅沢三昧すんのがハヤっとるみたいやが、そんなんしてたら世の中がすたれる一方やで・・・厳しく取り締まるさかいにな - 群飲佚遊(いつゆう)を制せらるべき事
大勢が集まっての酒盛りでも、「どうやねん」って思うのに、最近では、そこで多額のギャンブルをしとるっちゅーやないかい、嘆かわしいのぉ~ - 狼藉を鎮めらるべき事
強盗殺人とかひったくりとかが多発してるらしいから警戒を強めんと - 私宅の点定(てんじょう)を止めらるべき事
民家の差し押さえをやめよう。 - 京中の空地、本主に返さるべき事
京都市中の空き地は、ちゃんと捜査して、元の持ち主に返還せなあかんな。 - 無尽銭(むじんせん)・土倉(どそう)を興行せらるべき事
質屋の営業を盛んにして景気回復せなね。 - 諸国の守護人、ことに政務の器用を択ばるべき事
今は、武功で役職が決まったりするけど、合戦の恩賞は荘園とか与える事にして、守護職には政治力のある者を登用しましょ。 - 権貴ならびに女姓・禅律僧の口入を止めらるべき事
特権階級の人や女性&僧の口出しや干渉は止めてね。 - 公人の緩怠を誡めらるべし。
政治家や貴族が怠けるのは許さへんで。 - 固く賄貨を止めらるべき事
ワイロはあかんで~ - 殿中内外に付き諸方の進物を返さるべき事
上の者がすると、必ず下の者もするさかいに、プレゼントのやりとりはひかえましょうね。 - 近習の者を選ばるべき事
部下の態度見たら、だいたい、その上司もどんな人物かわかる・・・って言うさかいに、部下を雇う時は気ぃつけてな。 - 礼節を専らにすべき事
礼節は重んじなアカンで~上下関係をしっかり! - 廉義(れんぎ)の名誉あらば、ことに優賞(ゆうじょう)せらるべき事
ええ事した時は褒めてあげましょ…もちろん、悪い時は諌めなアカンけどね。 - 貧弱の輩の訴訟を聞(きこ)し食(め)さるべき事
弱者の訴えをちゃんと聞こな…裁判は公正に - 寺社の訴訟、事によつて用捨あるべき事
寺社の訴えは、時には突っぱねてもええ…権威を振りかざす場合もあるし - 御沙汰の式日・時刻を定めらるべき事
怠けて遅なってもいかんし、早すぎて、徹底調査できひんかってもアカンさかいに、裁判の日時は
ちゃんと決めよな。
以上の17ヶ条、だいたいこんな感じとピックアップさせていただきましたけど、私=是円は、法律家の家の出身ではありますが、今は単なる一般人・・・とは言え、今回は、恐れ多くも、政治についての意見を聞かれたので、昔からの教訓なんかを踏まえて、まとめてみました。
未だ、戦乱は治まって無い世の中ですさかいに、政治には気を引き締めて当たらんといけません。
古くは延喜・天暦の時代、最近では北条義時&泰時父子の治世をお手本にして、国民皆が従い仰ぐような政治を行う事が、ひいては国に平和をもたらす事になるんやろと思い、以上の事を申し上げました。
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以上、恐れ多くも単なる一般人の茶々が、とりあえずは要約してみましたが、途中でしんどくなって来たので、おそらく間違ってる箇所もあるかと思いますから、受験生の皆さまは、今一度、調べ直してくださいね。
で、文中の最後にお手本として出て来た北条義時(ほうじょうよしとき)ですが、彼は、あの北条政子(7月11日参照>>)の弟で鎌倉幕府の第2代執権、泰時(やすとき)はその息子で3代執権ですが、ともに、鎌倉幕府の初期の頃の人です。
ご存じのように、源氏の流れを汲む足利家なので、未だ、源氏の色濃い鎌倉幕府の初期の頃を手本にしたいという事ですね。
また、一方で、「延喜・天暦の時代」を並べていますが、これは、世に『延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)』と賞賛される醍醐・村上両天皇の治世時代の事で、実は、かの後醍醐天皇が建武の新政の時に目指していた物・・・
つまりは、未だ鎌倉幕府の要人が生き残ってる中で、源氏である足利家が鎌倉幕府を継承する事を主張する一方で、「延喜・天暦の時代」を出して、後醍醐天皇の派閥も取り込んでしまおうという戦略のような気がしますね。
とにもかくにも、こうして室町幕府は発足したワケですが、ご存じのように、後醍醐天皇の降伏は、いち時しのぎのポーズだったわけで・・・
この日から、わずか2ヶ月足らずの12月21日、幽閉先から脱出した後醍醐天皇が吉野にて朝廷を開き、あの南北朝へと突入する事になるのですが、続きのお話は2012年12月21日【後醍醐天皇が吉野へ…南朝の誕生】でどうぞ>>
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コメント
茶々様、こんにちは。
室町幕府というと最初から脆弱な感じでイメージ悪いんですけど、建武式目はそこそこまともですね。
江戸時代の三大改革と違って、一応景気振興なんて言ってますし。
でも、ここから動乱になっちゃったんですよね。
投稿: エアバスA381 | 2013年11月 7日 (木) 13時40分
エアバスA381さん、こんばんは~
無尽銭・土倉は、今で言う金融機関ですから…
>ここから動乱に…
ハイ、吉野に脱出した後醍醐天皇が、「アッチに渡した三種の神器はニセモノだ」と言いだして南北朝になっちゃいます。
投稿: 茶々 | 2013年11月 8日 (金) 00時59分
茶々さん、こんにちは。室町幕府にも、いつからかという話があるんですね。知りませんでした。
投稿: いんちき | 2013年11月 8日 (金) 08時04分
いんちきさん、こんばんは~
「幕府」というくくりは、後世の人が考えた物なので、なかなかに定義が難しく、研究しだいで考え方も変化したりするのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年11月 9日 (土) 01時18分
>「幕府」というくくりは、~
「幕府」という言葉自体は“将軍の政府”なので、将軍就任からでいいような気がします。
誰がいつ名付けたのかは知りませんが、武家政権の正当化がねらいだと思うので。
それまでは暫定政府ってことでも、よさそう。
投稿: ことかね | 2013年11月11日 (月) 17時53分
ことかねさん、こんばんは~
そうですね。
将軍就任か政権の樹立か、はたまた幕府組織の完成形なのか…
考え方によって違うでしょうね。
今回の「室町幕府」の場合、その「室町」は「花の御所」のあった場所の事で、そこに“将軍の政府”が置かれるのは3代将軍の足利義満の時代になってからですし、終わりは終わりで、足利義昭が追放されてもしぶとくなんやかや…と、さらに定義がややこしい気が…(゚ー゚;
投稿: 茶々 | 2013年11月11日 (月) 18時25分
家康も知っていた古代年号
最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、紹介したいのですが。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本での布教のため、日本語から日本文化まで幅広く聞き取り、収集し著した、「日本大文典」という印刷書籍です。
広辞苑ほどもあるような大部です、家康の顧問もしていました。
興味深いことにこの本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人により聞き取られた、日本の歴史が記載され、倭国年号から大和年号に継続と思われるものが記載されていることです。この頃の、古代からの日本の歴史についての考え方を知ることができるの タイムカプセル でしょうか。もう既に見ていますでしょうか。
倉西裕子著
『「記紀」はいかにして成立したか』
これもどうでしょうか、日本紀と日本書紀は違うようです。
よろしくお願いします。
投稿: いしやま | 2013年12月15日 (日) 07時12分
いしやまさん、こんにちは~
ジョアン・ロドリゲスという人物については、多少存じておりましたが、「日本大文典」は、まだ読んでおりません。
彼の著書は、いくつか訳本が出ているようですので、機会がありましたら挑戦してみたいと思います。
また、日本紀と日本書紀は同じ物で、どちらが古い言いまわしなのか?という論争だと思っていましたが、二つは別の物だという考えもあるのですね?
ありがとうございます。
今後、調べてみたいと思います。
投稿: 茶々 | 2013年12月15日 (日) 09時01分
ありがとうございます。
江戸初期まであった倭国の年号522年からのものが、明治時代には天皇説により、なくされてしまったようです。家康は王朝交代を知っていたということになります、当時の常識でしょう。大化は作文だった。
日本書紀は813年頃成立と論証されています。
よろしくお願いします。
投稿: いしやま | 2013年12月17日 (火) 08時58分
いしやまさん、ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
投稿: 茶々 | 2013年12月17日 (火) 09時50分