足利義満VS山名氏清・満幸~明徳の乱への道
元中八年・明徳二年(1391年)12月23日、山名氏清・満幸らが室町幕府に対して起こした明徳の乱において、両者が京に向けて出立しました。
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今回の明徳の乱を引き起こす山名氏清(やまなうじきよ)と満幸(みつゆき)の山名氏は、上野(こうずけ)の多胡郡山名郷(群馬県高崎市)を出身で、源氏の流れを汲む新田氏の一族でしたが、早いうちから足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)に属して、ともに鎌倉討幕(5月7日参照>>)に活躍しました。
その後、尊氏が、後醍醐(ごだいご)天皇に反旗をひるがえした時(8月19日参照>>)も、そのまま尊氏に従い、北朝勢力として戦いますが、その北朝が分裂した観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)では、尊氏と対立した弟=直義(ただよし)に味方にするも、その直義が死ぬと、あっさりと帰参して後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)との八幡合戦(3月24日参照>>)にて活躍・・・
しかし、その恩賞の件で佐々木道誉(どうよ)と対立するやいなや南朝へと降り、亡き直義の養子となっていた尊氏の息子=直冬(ただふゆ)を担いで、南朝側の武将として京へと攻め昇りました(6月9日参照>>)・・・
この頃の山名氏の惣領が山名時氏(ときうじ)・・・ところが、その京への進出から10年後の正平十八年・貞治二年(1363年)に、またまた北朝=幕府へと戻ります。
実は、この時、山名と同時に周防(すおう=山口県南東部)の大内弘世(おおうちひろよ)も幕府側に寝返っているのですが、この時に幕府の出した条件が所領の安堵・・・周防と長門(ながと=山口県西部)の2ヶ国を領する弘世と、因幡(いなば=鳥取県東部)・伯耆(ほうき=鳥取県中西部)・美作(みまさか=岡山県北東部)・丹波(たんば=兵庫県北東部と京都府中部)・丹後(たんご=京都府北部)の5ヶ国を領する時氏に、
「所領を安堵するから北朝=幕府に来てよ」と・・・
ご存じのように、大内と山名は西国の二大巨頭・・・正平十三年・延文三年(1358年)に亡くなった父・尊氏の後を継いで室町幕府2代将軍となっていた足利義詮(よしあきら)は、彼らを味方にする事で、もうウンザリな南北朝の動乱を、とにかく終わらせたかったのです。
おかげで南朝は虫の息となり、事実上争乱は治まったわけですが・・・
しかし、この義詮の采配は、ず~っと幕府側についていた武将からは不満を買い、また、何となく「将軍が折れた」感じにも見えなくもないわけで・・・
こうして、その全盛期では、一族を合わせれば11ヶ国もの領地を持っていた山名氏・・・当時の日本全国が60ヶ国ほどであった事から「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」=つまり、全国の6分の1を持ってると言われたほどの盛隆を誇ったのです。
そんな中、応安元年(正平二十三年・1368年)に、義詮の死を受けて、わずか11歳で3代将軍となったのが、息子・足利義満(よしみつ)です。
そう、この時、将軍に就任した義満には、強大になり過ぎた守護大名を弱体化させ、自らの将軍権力を確立させなければならないという使命があったのです(12月30日参照>>)。
そんなこんなの義満が目をつけたのが、決して一枚岩ではない山名一族の現状・・・
実は、かの時氏が、
建徳二年・応安四年(1371年) に亡くなっているのですが、この時、その所領は、息子たちに、ほぼ均等に分配されます。
武家の相続と聞けば、兄弟の中で能力があって、当主となる一人が継いで・・・とイメージしますが、この頃は、ちょうど、そのシステムの移行時期で、それが確立するのは、もう少し後の戦国時代。
さらに江戸時代になると能力に関係なく長男が相続・・・って事になるのですが、この時期は未だ、各家々でそれぞれ違っていたわけです。
・・・で、この時の山名の場合は兄弟それぞれに分配されて丸く収まったのですが、その父の死からわずか5年後に長男の師義(もろよし)も亡くなってしまった事で、盤石だった山名一族が揺るぎはじめるのです。
そうです・・・領地は、なんだかんだで分割してでも丸く収める事はできますが、一族のトップとなる惣領というのは一人です。
この時、亡くなった師義の息子たちが、まだ年少だったため、とりあえず、弟の時義(ときよし)が中継ぎの惣領となりますが、その時義が、次期惣領に師義の次男・氏之(うじゆき)を指名したのです。
これは、長男の義幸(よしゆき)が病弱だったからなのですが、この決定に不満を抱いたのが、長兄の義幸を、代官としてサポートしていた四男の満幸・・・
彼は、その病弱な兄に代わって、その職務のほとんどを代行してうまくやっていたわけですが、それが「病弱だからダメ」と言われると、自分のやって来た事が「ダメ」と言われているに等しいわけで・・・
そんなこんなの元中六年・康応元年(1389年)、その時義が亡くなり、その所領は息子である時熙(ときひろ)と、養子となっていた氏之に分配されます。
(ちなみに、この時熙さんが、応仁の乱の西軍大将で有名な山名宗全(そうぜん=3月18日参照>>)のお父さんです)
一方の満幸も、この頃は、すでに病弱な義幸から、その所領を継承していたのですが・・・それでも、その不満は未だ解消されず・・・
・・・で、この不穏な空気をすかさず察した義満・・・
「アイツら、なんか最近、将軍の俺をナメてるような態度とりよんねやんか・・・一発、やったってくれへんかな」
と、満幸と、その義父(娘が満幸と結婚)である氏清に、時熙と氏之の討伐を命じるのです。
果たして元中七年・康応二年(1390年)3月・・・氏清は時熙を、満幸は氏之を攻め、見事彼らに勝利したのです。
ところがドッコイ、その後、すぐに義満は、あっさりと時熙と氏之を赦免・・・二人を京に呼び戻したばかりか、今度は逆に満幸に、後円融(ごえんゆう)上皇の荘園を横領した疑いをかけ、京から追放したのです。
「なんじゃ?そら!」
「何やってくれとんねん!o(゚Д゚)っ」
と、満幸じゃなくとも思うはず・・・
かくして元中八年・明徳二年(1391年)12月23日、娘婿の強い求めを受けて謀反を決意した氏清が領国の和泉(大阪府南西部)を出立・・・一方の満幸も、隠れ住んでいた丹後を出立し、京へと向けて軍勢を進めたのです。
これが、世に言う明徳の乱(内野合戦とも)ですが、この続きのお話は、戦闘が開始される1週間後・・・12月30日のページでどうぞ>>m(_ _)m
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コメント
茶々さあ。
この辺りの歴史の流れは複雑で、実は、よく知りません。
戦前の教科書等では、もっと詳しく取り扱っているのでしょうか?
室町時代の「武士」・・・は、明らかに「鎌倉武士団」と異なりますよね。
一言とで言ってしまえば、「南北朝時代」だからでしょうか。
武士団も「鎌倉時代」の「一所懸命」さ、総領を中心としたものから明らかに変わっている。
私にとっては、難しい時代です。
鎌倉幕府と異なり、室町幕府は・・・軍事力を持っていないですよね。この時代になると「銭の病」と言って、「ご恩と奉公」の主従関係も崩れてきているとか・・・。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年12月24日 (火) 03時07分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
ホント、このあたりはよくわかりませんね~
歴史の授業でも、あんまり印象ないし、ドラマなどにも、あまり描かれないので、なかなかつかみ難いです。
投稿: 茶々 | 2013年12月24日 (火) 14時22分
茶々さん、こんにちは。
足利義満を主人公に、大河ドラマは無理ですかね。あまり取り上げられていない時代なので、目新しくて、面白いと思うけど…
投稿: いんちき | 2013年12月24日 (火) 16時50分
いんちきさん、こんにちは~
ホントそうですよね。
その先の結果をあまり知らないぶん、ワクワクドキドキで楽しめる気がするんですが…
やっぱり戦国でないと多くの人が喰いつかないのかも。。。
投稿: 茶々 | 2013年12月24日 (火) 17時18分