明徳の乱~山名氏清の最期
元中八年・明徳二年(1391年)12月30日、京都に侵入した山名氏清の手勢と、室町幕府軍との間で合戦の火ぶたが切られ、明徳の乱が勃発しました。
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室町幕府初代将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って徐々に力をつけ、山名時氏(ときうじ)の時代には近畿・山陰・山陽の広範囲に渡る11ヶ国もの守護となり、「六分一殿(ろくぶんのいちどの=日本全国の6分の1を持ってる)」とまで、呼ばれる勢力を持った山名氏・・・
しかし、その時氏の死後に表面化した内部分裂を、すかさず見てとった第3代将軍=足利義満(よしみつ)は、山名氏の弱体化を画策・・・その命令によって、山名氏清(やまなうじきよ)と娘婿の満幸(みつゆき)が、時熙(ときひろ)&氏之(うじゆき)兄弟(氏之は養子)を攻撃し、彼らの領地を奪い取りますが、
すぐさま手のひらを返した義満は、時熙&氏之を許して、逆に満幸を京から追放・・・かくして、不満ムンムンの満幸は謀反を決意し、娘婿に誘われた氏清も挙兵をします(くわしくは12月23日参照>>) 。
元中八年・明徳二年(1391年)12月23日、それぞれの地を発って京に向かった氏清と満幸・・・
その噂を聞きつけ、義満についていた家臣の中からも氏清らを支持する者が現われ、彼らは続々と京を出て、氏清らの軍勢と合流していきます。
この状況を見た幕府側では、12月25日に軍議を開き、果たして「合戦に挑むべきか」、はたまた「説得して柔軟は対応をすべきか」の論議が交わされます。
しかし、かの義満はかなり強気・・・
「こうなったら、この足利と山名と、どっちが強運なんか、天に任せてみようや!」
と、決戦あるのみを主張し、幕府の姿勢は、「京に向かってくる氏清らを迎え撃つ」という事に決定します。
しかも義満は、合戦に有利な要害の地を選ぶ事無く、あえて都での市街戦を選び、そのいでたちも、伝家の鎧を着けず、簡易な防具を着用・・・
「敵なんて呼べるほどでもない単なる下僕の退治には、これで充分や!」
と意気込みます。
かくして12月29日夜から、山名勢は続々と京都に集結し、それを受けた幕府勢も、京都市内の要所々々に軍勢を配置・・・義満は内野に陣を張ります。
なので、この明徳の乱は内野合戦とも呼ばれます。
現在の千本通押小路上がる東側にある朱雀門跡の碑…かつては、ここから北(写真奥)が内野と呼ばれた場所でした(くわしい場所は、本家HPの京都歴史散歩「平安京の遺跡を巡る」でどうぞ>>)
内野(うちの)とは、平安京の宮殿のあったあたりの事で、以前書かせていただいたように(2010年10月22日参照>>)、平安時代の火災によって大極殿などが焼失し、それ以来再建される事もなく、周辺は荒れる一方で、はじめは宴の松原あたりの呼び名だった内野が、鎌倉時代頃から後は、宮城一帯が内野と呼ばれていたんですね。
そして、いよいよ元中八年・明徳二年(1391年)12月30日早朝、氏清の弟・山名義数(よしかず)らの軍勢が二条大宮より侵入・・・幕府側の大内義弘(おおうちよしひろ)(12月21日参照>>)の軍勢とぶつかり、合戦の火ぶたが切られたのです。
4時間ほどの激戦の末、山名の不利を見てとった義数は、果敢にも義満本陣への突入を試みますが、あえなく討死・・・
・・・と、その頃、丹波口から侵入して来た満幸率いる軍勢は、幕府側の細川頼之(ほそかわよりゆき)・畠山基国(はたけやまもとくに)・京極高詮(きょうごくたかのり)らの軍勢と衝突し、ここでも激しい戦闘が開始されます。
一方、義数の軍勢と相対していた大内勢の交代要員として控えていた赤松義則(あかまつよしのり)の軍勢は、次に北上して来た氏清勢と対決・・・
やがてその戦闘の激しさから、お互いに多数の死傷者が続出・・・ここに来て、義満は自らの馬廻(うままわり)勢=親衛隊を投入し、満幸勢を市街の西へと後退させ、満幸は丹波に向けて逃亡します。
この時、渦中の一人である時熙は、義満の馬廻の中にいましたが、
「この戦いは、もともと俺らの戦い…そこへ義満さんが参戦してくれたおかげで、こうして迎え撃つ事ができてるんや!」
と、俺がやらんで誰がやる?とばかりに手勢50騎余りを引き連れて駆けだし、氏清の本陣へ突入・・・しかし、氏清勢は強く、またたく間に手勢を失い、家来たちの犠牲によって、何とか生還しました。
こうして、しばらくは強い氏清勢に悩まされる幕府側でしたが、その後、一色詮範(いっしきあきのり)や斯波義重(しばよししげ)らの援軍を投入し、さらに、義満自らが、待機していた堀川の一色邸から馬に乗って戦場に向かい、いつしか形勢逆転・・・
不利な展開を察した氏清は、一旦落ち延びようとしますが、いつしか一色勢に囲まれてしまいました。
『忠義士抜書』によれば、この時、氏清のかたわらには、未だ17歳の山名小次郎丸なる武者がいたのだとか・・・
彼は、山名と名乗って一族の一人となってはいますが、実は氏清の本当の息子ではなく、ある出来事で将軍義満に反発した実父が討たれてしまったため、その後、氏清のもとで養育されていた少年・・・
もはや、軍勢は散り々々となり、死を悟った氏清は、未だ年若い小次郎丸を不憫に思ったのか?
「お前は残った者を連れて落ち延びろ!
合戦は、この戦いだけやないねんから、ここは命を大事にして、後に態勢を整えて10倍返しやったれ!」
と、言います。
しかし、小次郎丸は
「それはお受けできません。
皆でともに逝くほうが、心安らかに逝けますがな。
皆が大将の周りに寄り添っていれば、計略にハメられてやられたんやなと思てもらえますが、ここで僕らだけが落ちたら、臆病風に吹かれて逃げやがったと人は思うかも知れません。
卑しい身分の僕を、ここまで立派に育ててくれはった恩、ここで報いなどないしますねん。
お供してこそ本望ですわ」
と・・・
果たして、一色勢との数度のぶつかり合いの後、体中に傷を受けた小次郎丸は、「もはやこれまで!」と自害する氏清を見送った後、
「こうなったら、何のための命でもあれへん」
と、彼も見事な自害を遂げたという事です。
結局、その氏清の首を取ったのは一色詮範・・・首実検で、その首を確認した義満は
「神も許さん謀反人の成れの果てを、お前ら、よぅ見とけ」
と、その場にいる者に示したとか・・・
こうして、明徳の乱は幕府軍の勝利となったのです。
『明徳記』によれば、その戦死者は、山名方が879名、幕府方も160名以上だったとか・・・
で、この後、開けて正月4日に、戦後の事についての評定が行われるのですが、
乱に加わりながらも、戦いに積極的でなく、途中で降伏して謝りまくった山名氏家(うじいえ)の因幡(いなば=鳥取県東部)こそ安堵されたものの、当然の事ながら、敗走した満幸、戦死した氏清らの領地は勝組の物となるわけで・・・
ところが、これが・・・
満幸の領地の中では伯耆(ほうき=鳥取県中西部)のみが氏之の物になっただけで、残りの隠岐(おき=島根県隠岐)と出雲(いずも=島根県東部)は京極高詮の領地に、丹後(たんご=京都府北部)は一色詮範の領地として与えられました。
氏清の領地も、但馬(たじま=兵庫県北部)だけが時熙に与えられ、丹波(たんば=兵庫県北東部と京都府中部)は細川頼元(ほそかわよりもと=頼之の弟で養子)、山城(やましろ=京都府南部)は畠山基国に、和泉(いずみ=大阪府南西部)は大内義弘に・・・
さらに、実際には領国の紀伊(きい=和歌山県と三重県南部)を動かなかったにも関わらず、氏清からの出陣要請にOKの返事を出していたとして、氏清の弟・義理(よしただ・よしまさ)の領地を没収し、紀伊を大内義弘に、美作(みまさか=岡山県北東部)を赤松義則に与えたのです。
ちなみに、さすがに義理も黙ってはおれずに抵抗しますが、大内と赤松に攻められて敗走し、最終的に出家してます。
つまり、この合戦後に山名に残ったのは、因幡と伯耆と但馬の3ヶ国のみとなってしまったわけです。
まさに義満の作戦成功・・・見事、山名を弱体化させた事になります。
そんな山名を、再び「六分一殿」に戻すのが、時熙の息子・持豊=山名宗全(やまなそうぜん)なのですが、宗全については、そのご命日の3月18日のページでどうぞ>>
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コメント
I hope you will have a great year 2014!
投稿: 夏原の爺い | 2014年1月 1日 (水) 01時18分
茶々様…。
あけましておめでとうございます。今年もブログ更新楽しみです
足利義満といえば、ライバル大名家のお家騒動…、陰謀・挑発などで…倒していくという、ある種の「悪いイメージ」…歴史を「よい・悪いで見てはいけませんが…。」
江戸幕府のようなに、「天領」も持っていたのでしたっけ?
でも「足利氏」と言えば、明治以来、天皇に刃向かったとのことで、悪者扱いされてきましたが、最近の研究では、復権しつつあるようですね。
…研究は基本的に「批判」ですから…時間がたてばそのようになるのかな~。
投稿: 鹿児島のタク | 2014年1月 1日 (水) 07時53分
夏原の爺いさん、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2014年1月 2日 (木) 02時54分
鹿児島のタクさん、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
>「天領」も持っていたのでしたっけ?
室町幕府も天領は持ってたと思いますよ。
ただ、戦乱が多くて不安定でしたから、どのくらい管理しきれていたのが微妙だと思いますが…
>最近の研究では、復権しつつあるようですね。
大河ドラマで尊氏を主役に太平記をやるくらいですからね~
投稿: 茶々 | 2014年1月 2日 (木) 03時08分