南北朝~杣山城の瓜生保&義鑑兄弟と強き母
延元二年・建武四年(1337年)1月12日、足利軍の攻撃を受けている金崎城の後方支援をすべく動いていた瓜生兄弟が敵に迎撃され、兄の瓜生保と弟の義鑑が討死しました。
(注:亡くなった日づけに関しては8月説もあります)
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後醍醐(ごだいご)天皇の建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)(12月11日参照>>)は、湊川の戦い(2007年5月25日参照>>)で楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃に追い込み(2011年5月25日参照>>)、京都合戦(6月20日参照>>)にて新田義貞(にったよしさだ)に勝利して京を制圧しました。
一旦比叡山へと逃れた後醍醐天皇は、尊氏側に三種の神器を渡して降伏する(11月2日参照>>)一方で、義貞に皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を託し、北陸へと落ち延びさせたのです(10月13日参照>>)。
極寒の木ノ芽峠で多くの凍死者を出しつつも、何とか敦賀を経て、延元元年(建武三年・1336年)10月13日のに越前(福井県)の金崎城へと入城した義貞・御一行・・・
ここで、総司令官となる義貞は、この金崎に留まりつつ、息子の義顕(よしあき)を越後に、弟の脇屋義助(わきやよしすけ)を瓜生(うりゅう)兄弟の守る杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)へと派遣し、兵の分散を計る作戦に出ます。
翌14日に3000騎の軍勢を引き連れて杣山城に向かった義助と義顕は、瓜生保(うりゅうたもつ)・重(しげし)・照(てらす)・義鑑(ぎかん)ら瓜生兄弟から厚いもてなしを受けるのですが・・・
『太平記』によれば・・・
その直後、杣山城に義貞討伐の綸旨(りんじ=天皇の命令文書)が届くのですが、実はコレは尊氏の放ったニセモノの綸旨・・・
そうとは知らない保は、早速、義貞を討つべく出立し、足利方の斯波高経(しばたかつね)に従って金崎城を包囲する軍勢の一人となります。
一方、残った弟たちは、
「事の次第が解れば、兄はきっと戻って来ます。
それまで、俺らがここに留まって、金崎の後方支援しますよって…」
と・・・
弟たちの行動が本心なのか?否か?
・・・結局、彼らの言葉を信じる事にした義助は、13歳になる息子の義治(よしはる)を杣山城に残し、出立・・・
しかし、いつ逃走したのか?その頃には手元の軍勢が250騎ほどに減っており、
「これでは、とても越後まで行く事はできない」
と、義助・義顕ともに、再び金崎城へと戻ります。
こうして、金崎城籠城戦が開始されました。
囲む足利の大軍が度々攻撃を仕掛けて来るも、それに耐える金崎城・・・と、しばらくの間、一進一退の攻防が続きました。
と、そんな時、天皇の綸旨を携えた使者が海を泳いで金崎城へと潜入し、にわかに騒がしくなる金崎城内・・・
そう、その綸旨は、あの後醍醐天皇が吉野へと脱出し(12月21日参照>>)、そこには散り々々になっていた楠木正行(まさつら=正成の嫡男)(5月16日参照>>)らの忠臣も続々と集まっているという知らせ・・・城内は喜びに沸き立ちます。
そんなさ中、その金崎城を囲む側にいた瓜生兄弟の兄・保は、杣山城に残った弟らが、脇屋義治担いで城に籠り、挙兵する機会をうかがっているとの情報を耳にします。
弟らの事が気にかかる保・・・兄弟が敵味方に分かれて戦う事を何とか避けたい彼は、すぐさま足利軍を離脱し、杣山城へと向かったのです。
かくして11月8日、義治を大将に掲げて挙兵した瓜生兄弟・・・この知らせを聞いた反足利の者が集まり、軍勢はまたたく間に1000余騎となりました。
それを迎え撃つのは北陸担当の高師泰(こうのもろやす=高師直の兄もしくは舎弟)・・・しかし、瓜生勢は、これを奇襲攻撃で蹴散らし、さらに勢いを増します。
「このまま、瓜生勢を進ませてはならん!」
とばかりに、斯波高経は防御のため、新善光寺城(越前市)に立て籠りますが、瓜生勢は、ここも一日一夜にして落城させてしまったのです。
高経の首こそ逃したものの、士気あがる瓜生一族・・・しかし、その一方で、心配なのは大軍の攻撃に耐えている金崎城の事・・・
「ならば!」と、延元二年・建武四年(1337年)1月12日、その勢いのまま金崎城の後方支援をすべく、瓜生勢は、急きょ金崎城へと向かったのです。
しかし、その途中・・・足利軍の待ち伏せに遭い、兄の保と弟の義鑑が壮絶な討死を遂げます。
大将の義治を守りつつ、なんとか、命からがら再び杣山城に戻った瓜生兄弟の弟たち・・・そこに待っていたのは、瓜生兄弟の老いた母でした。
もはや、老婆と呼ぶにふさわしい年齢の母は、戦い敗れて戻って来た息子たちに酒をふるまいますが、当然の事ながら、空気は沈み、文字通り(保と義鑑が死んでますので…)お通夜のような酒宴・・・
すると母は、義治に向かって・・・
「保や義鑑は亡くなりましたが、弟たちはこうして生きております。
我が息子たちが、必ず、殿をお守り致しましょう!」
少し目をうるませながらも、力強く、義治に酌をする老いた母・・・この気丈な老婆の姿に、その場の暗い空気が、一瞬にして変わったのだとか・・・いつの世も、母は強し!
さて、一方で、この杣山城からの後方支援も、もはや望めなくなった金崎城・・・その運命は3月6日のページでどうぞ>>
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コメント
茶々様
いつの時代も、「偽勅」に「偽綸旨」、君側の奸の出す「院宣」…。
「綸旨」…これは、親王および、天皇の皇子の「命令文」ではありませんでしたっけ?
ちょっと、私が勘違いしているかもしれません。
投稿: 鹿児島のタク | 2014年1月13日 (月) 07時46分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
親王や皇太子の出す文書は、確か「令旨」だったと思います。
「綸旨」は天皇の意をメモした物を側近が文書化した命令文書で、それに、もっと沢山の側近や朝廷を通過して発行されるのが「宣旨」で、上皇が出すのが「院宣」だったと思います。
「正式な違いは?」と聞かれるとややこしいですが…
投稿: 茶々 | 2014年1月13日 (月) 12時33分
茶々様:「親王や皇太子の出す文書は、確か「令旨」だったと思います。」…確かにそうでした。
「令旨」としては、平家打倒の以仁王の「令旨」が有名ですね。
投稿: 鹿児島のタク | 2014年1月14日 (火) 03時51分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
そうです!そうです!
以仁王の「令旨」は一昨年の大河にも出て来ましたね~
投稿: 茶々 | 2014年1月14日 (火) 16時13分