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2014年1月23日 (木)

新しい時代を担う後継者を育てたい~新島襄の思い

 

明治二十三年(1890年)1月23日、明治初頭の宗教家で教育者・・・最近では、昨年の大河ドラマの主役であった新島八重さんの旦那さんとして知られる新島襄がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

天保十四年(1843年)、江戸の上州安中藩江戸屋敷にて、安中藩士・新島民治(たみはる)の息子として生まれた新島襄(にいじまじょう=本名は七五三太(しめた))は、13歳から蘭学を学び始め、ある時、『連邦史略(れんぽうしりゃく・連邦志略)という書物に出会います。

これは、アメリカの地理や歴史をわかりやすく紹介した、言わばアメリカの入門書のような物で、アメリカの牧師さんが書いた物を中国語に訳したもの・・・

後に彼が
「脳髄がとろけ出るほど驚いた」
と語っているように、襄少年は、この書物にてアメリカを知り、人生の転機となったのです。

そうです・・・まさに、彼が、この本を読みふけっている時に起こっていたのが、嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)に始まる幕末の動乱・・・

天皇の許可なくアメリカとの条約を結んだ大老の井伊直弼(いいなおすけ)(10月7日参照>>)は、安政六年(1859年)に、それに反発する攘夷派を押さえこむ安政の大獄を実施・・・しかし、その直弼は翌年の3月に桜田門外の変で暗殺され(3月3日参照>>)・・・

と、佐幕派(幕府寄り)尊王攘夷派(外国を排除)に真っ二つに分かれ、命がけで日本の明日を模索する志士たち・・・

そんなさ中の元治元年(1864年)、襄も、彼らのように命をかける決意を固めるのですが、それは佐幕だ攘夷だと言うのではなく、その目でアメリカを学ぶ事・・・襄は、その理想を日本の外に求めたのです。

当時は、外国への渡航はもちろんご法度・・・それを、脱藩して、さらに密航という形で外国へ行くというのは、まさに、命をかけた旅立ちでした。

函館に停泊していたアメリカ船に忍び込み、日本を飛び出した襄は、途中で乗り換えた船でボーイとして働き、ここで「Joe(ジョー)と呼ばれた事から、以後、自ら襄と名乗るようになりました。

旅の途中、上海やら香港やらを経由する中、彼が見たのは欧米列強の下で負け組となってしまっていた東洋の姿・・・この状況を見て、おそらくは日本の未来を憂いたであろう襄は、自身が持っていた日本刀を船長に売ります。

それは襄にとって、古い日本との決別であった事でしょう。

そして、その得たお金で聖書を購入・・・こうして襄は、キリスト教の教えを通じて、外国の事を学びはじめるのです。

やがてボストンに上陸した彼は、乗って来た船の船主であるA.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学し、アカデミー卒業後は、名門のアマースト大学に進学し、ここも見事、卒業・・・

この間に、日本は維新を迎えるわけですが、そんなこんなの明治5年(1872年)、アメリカに派遣されていた岩倉使節団(10月8日参照>>)の通訳を頼まれます。

あの木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)が襄の語学力に目をつけたのです。

しかし、官費で語学力を身につけた他の留学生と違って、自分は、言わばフリーランス・・・抵抗もありましたが、一方では、これは、日本の首脳陣に、ナマの外国を自身の言葉で紹介できる絶好のチャンスでもありました。

快く引き受けた襄は、通訳のかたわら、自らが見聞きした外国のすばらしさを使節団に厚く語ったと言います。

また、一方で、この通訳の一件から、襄は、日本へ戻る事を考えるようになります。

それは、後世へとつなげる人材育成・・・単に、外国の進んだ制度を学んで導入するのではなく、彼は、そんな進んだ制度を構築した人物に目をつけ、日本において、そんな人材を育てたいと思うようになっていたのです。

Niizimazyo400 こうして、アンドーヴァー神学校を卒業した後、明治8年(1875年)には宣教師志願者の試験に合格し、宣教師として日本に帰国した襄・・・

当初は大阪にて、人材育成のためのキリスト教の学校を設立しようと奮闘した彼でしたが、ご存じの通り、未だ日本では、キリスト教は邪教扱い・・・周囲の猛反対でなかなかうまく行かず・・・

やむなく、京都での開校を目指していたところ、京都府知事槇村正直(まきむらまさなお)京都府顧問山本覚馬(やまもとかくま)(5月13日参照>>)の賛同を得る事に成功し、明治八年(1875年)、晴れて同志社英学校を開校する事ができたのです。

大河ドラマをご覧になった方は、よくご存じでしょうが、覚馬の妹の八重さん(6月14日参照>>)と出会って結婚するのもこの頃ですね。

そして、ドラマにもあったように、その後の襄は、宣教師として伝導活動を続けるかたわら、同志社を大学にするべく奔走する事となるのですが、一方で、その一所懸命さゆえに、知らず知らずのうちに無理をしていた体が、徐々に悲鳴をあげはじめるのです。

やがて医師から、彼が心臓病であり、余命がそう長く無い事が告げられるのですが、それでも大学設立のための募金活動をやめようとしない襄に対して、心配する八重は度々キレるのですが、そんなこんなの明治二十二年(1889年)、温暖な地で療養に励むべく、神奈川県大磯の百足屋旅館の離れで静養する事となりました。

この時、本来なら片時も離れたくなかった奥さんの八重さんですが、襄が「80歳になる母の面倒をみてほしい」と頼んだ事から、彼女は同行しませんでした。

ところが・・・
年が明けて間もなくの正月19日午後・・・京都にいる八重のもとに「新島危篤」の電報が届くのです。

早速、翌日の朝一の電車に飛び乗り、午後10時頃大磯に到着した八重に向かって、襄は、
「今日ほど、あなたを待つのが長かった一日は無かったですよ」
と・・・

この襄の言葉には、あの気の強い八重が、ひと目もはばからず泣きじゃくったのだとか・・・

やがて同志社の卒業生や学生が集まる中、死期を悟った襄は。
「私はまもなく天に召されます」
と言い、後述筆記にて30もの遺書を残します。

八重には
「私の死後に記念碑など建てないでほしい…1本の木に『新島襄の墓』と書いておいてくれれば十分です」
と・・・

こうして、明治二十三年(1890年)1月23日の深夜・・・
「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
との最期の言葉を残した新島襄は、愛する八重さんの手を枕に、その48歳の生涯を終えたのです。

奥さんの八重さんをはじめ、彼の志しを継ぐ、残された人々にとっては、それこそ、まだまだ続く苦難の道が多々あった事でしょうが、襄の残した同志社大学が、この平成の世に、関西屈指の名門大学として名を馳せている事が、襄の抱いた志しが、今も現在進行形で受け継がれているという証だと言えますね。
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コメント

茶々様

NHK大河のおかげで、同志社大学の受験性が多くなったんじゃないかあ~。

投稿: 鹿児島のタク | 2014年1月24日 (金) 05時36分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

>受験性が多く…

私もそう思います。
だからって、簡単に入れないですけどね(/ー\*)

投稿: 茶々 | 2014年1月24日 (金) 10時22分

茶々さま、お久しぶり。
私の知り合いのお嬢さんに、お祖父様が新島穰の弟子という人がいます。お家には新島先生からの書簡とかあるらしいですよ。新島先生と同じ安中の出身ですけどね。

以来、三代に渡って聖職者を輩出していますが、キリスト教は日本では絶対少数ゆえに、他人の財産や組織に依存しなくて良いよう自立した職業を持つ、というのが一家のポリシーで、ちなみに彼女はヴァイオリニスト、お父上は建築家、叔父様が牧師です。普通のサラリーマンとかはいない一族ですね。

遠く新島先生の教えが今も生きているようです。

投稿: レッドバロン | 2014年1月24日 (金) 16時53分

>お祖父様→曾祖父様の間違いでした。

訂正いたします。

投稿: レッドバロン | 2014年1月24日 (金) 17時07分

レッドバロンさん、こんばんは~

ステキなご一家ですね。
「新島先生の教え」ですね。

投稿: 茶々 | 2014年1月24日 (金) 18時18分

茶々さま、こんにちは。
「八重の桜」毎週録って、貯めまくって観ていました。
大河にありがちな「主人公は聖人君子」でなく、新島先生も史実に基づき「疲れがたまって不機嫌になる」というシーンもあって、人間味あふれるいいドラマになっていたように思います。八重さんへの愛情表現も温かくて、素敵でした。
あのように臨終の時に教え子に囲まれるという状況だけでも、彼の偉大さや生徒たちへの愛が感じられます。

投稿: やんたん | 2014年1月25日 (土) 13時14分

やんたんさん、こんにちは~

>臨終の時に教え子に囲まれる…

そうですね。
それが新島先生のお人柄…ですね。

投稿: 茶々 | 2014年1月25日 (土) 14時01分

茶々さん、こんにちは。いつも楽しく読ませていただいています。
私の通っていた大学では、毎年同志社大学との合同ゼミ合宿があり、東京・京都交代で合同ゼミをしていたのですが、初めて京都の同志社大学に行ったとき、黒板に大きく新島襄の似顔絵が書いてあり、「ようこそ同志社へ」と歓迎のメッセージが書いてありました。明治の初期に創られた大学を2校経験しましたが、今でも学生からこんな風に想われている創設者はいないと思いました。でも彼の生き方を知るとなんとなく納得がいく気がします!

投稿: めい | 2014年1月27日 (月) 13時15分

めいさん、こんにちは~
コメントありがとうございます。

>今でも学生からこんな風に想われている創設者はいない…

ホントですね。
やはり、お人柄による物でしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年1月27日 (月) 14時56分

茶々さま、こんばんは。
前からちょくちょく見させていただいていたのですが、久しぶりに拝見させていただいたら、母校の創立者が取り上げられていたので思わずコメントしてしまいました。
実は私は同志社を出て、牧師をしています。新島襄は人間らしい愛すべき欠点もありますが、それ以上の尊敬すべきところがある人として今でも学生、卒業生、関係者に愛されている人物です。

投稿: さっきー | 2014年2月22日 (土) 18時58分

さっきーさん、こんばんは~

>新島襄は人間らしい愛すべき欠点もありますが…

たぶん、そこが1番の魅力なんでしょうね。
学生さんにとっても、創始者と言えど、雲の上の偉人ではなく、愛すべき先生なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年2月23日 (日) 01時32分

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