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2014年1月29日 (水)

織田信長の夢半ば~安土城下の事…

 

天正六年(1578年)1月29日、織田信長が国元に残っていた家臣の妻子を安土へ移すよう命じました。

・・・・・・・・・

事の起こりは、天正六年(1578年)1月29日織田信長御弓衆だった福田与一なる人物の家から出火した火事でした。

『信長公記』によれば、この日、火事が起こった事を知った信長が、
「これは、本国に妻子を置いたままで、未だ安土に引っ越しをさせていない(なので火の始末が不十分な)ためでは?」
と考え、すぐに菅屋長頼(すがやながより)を奉行に任命し、名簿を作って調査させたところ、

御弓衆:60名、御馬廻り衆:60名の計120名が、未だ妻子を安土に引っ越させていない事が判明し、これらの者を一斉に叱責したとの事・・・

その後、岐阜にいた息子の信忠(のぶただ)に命じて担当者を尾張(おわり=愛知県西部)に派遣し、その者たちの邸宅を焼き払い、宅地内の木を伐採・・・

焼け出された妻子たちは、とる物もとりあえず、安土へと移り住んだのでした。

・・・てな事ですが、信長さんヒド~イ、家を焼いちゃうなんて!(≧ヘ≦)
てのはナシですよ。

そもそもは、先に、信長の「妻子とともに安土へ」という移動命令があり、今回の120名は、その命令に違反してたわけですから、戦国の時代、殿様の命令に従わない場合は、こんくらいの罰は、他の武将でもある事なのです。

しかも、信長さんの場合、この後、彼ら120名に城下の南の入江に新道を建造するというボランティア活動?を命じ、道路が完成したところで、全員を許したとの事なので・・・

と、かの『信長公記』の第11巻にこの記述がある事から、信長は、自分の拠点とする城の城下に家臣の屋敷を建てて住まわせることで、彼らを土地から切り離し、兵農分離を進めたとされて来ましたが、お察しの通り、最近では異論・・・というより、この時点での兵農分離については否定的な意見が多くあります。

今回の命令にしたって、処罰の対象となったのは、御弓衆や御馬廻り衆の120名・・・彼らは信長の側近であり、親衛隊とも言えるエリート家臣なのですから、信長が居る城下にいてあたりまえです。

逆に言えば、彼らより下っ端の兵士たちは、未だ安土には来ていないだろうし、そんな末端の兵士たちまで兵農分離されていたとは考え難いわけで・・・

しかも、この「家臣を城下に住まわせる」という方法は、信長のオリジナルではなく、すでに朝倉氏もやっていたらしい・・・

また、以前お話させていただいた城割(しろわり)(8月19日参照>>)も、信長以前に畿内を支配していた三好氏(5月9日参照>>)がやっていたとの話もあります。

ただ、私としては、朝倉氏のソレや三好氏のソレにならって、より計画的に、かつ、より大規模に、この時点での最先端の城割を行って兵農分離していたのが信長ではなかったか?と思います。

Dscn8481a800_2 もちろん、この時点では、あくまである程度で、まだまだ完成形にはほど遠かったかも知れませんが・・・
(安土城内の伝羽柴秀吉邸跡→)

・・・で、信長が志し半ばで倒れた後、豊臣秀吉検地刀狩(7月8日参照>>)で兵農分離を、より完成形に近い形にし、徳川家康の、あの一国一城令で城割も完成させる・・・つまり、完成形を見るのは、江戸時代になってからって事ですね。

もし、信長が本能寺で倒れていなければ・・・と、様々な妄想をしてしまいます。

なんせ、今回の家臣の大移動にも垣間見えるように、信長さんの安土城下の発展に対する思い入れは並々ならぬ事がうかがえますから・・・

天正四年(1576年)に安土城が完成(2月23日参照>>)した翌年の天正五年(1577年)=つまり、今回の火事騒ぎの前年の6月に、信長は『定(さだめ) 安土山下町中(さんげちょうじゅう)という13ヶ条にわたる掟書を発しています。

第一条
「当所中楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、悉(ことごと)く免許の事」・・・と、有名な『楽市楽座』の宣言で始まる文書です。

その楽市楽座宣言に続く第2条では、上海道(かみかいどう=中山道の事)を往来する商人たちに、安土を経由する事を求め、第3条では普請役第4条では伝馬役を、町人に免除する特権を与えています。

第5条火事に対する決まり事、第6条罪人の匿いについて規制し、第7条では臓物の売買に関する規定・・・

さらに、第8条で、他の場所での金銭貸借関係を安土内では破棄する事を約束し、第9条では、他の地方からの転入者も以前からの居住者と同等に扱う事を保証するとともに、信長の家臣はもちろん、「家臣だ」と称して臨時に課税する事を禁止しています。

第10条ではケンカや口論、また、押し売りや押し買い(相手が納得してないのを無理やり売ったり買ったりする事)を禁止し、続く第11条で、そのモメ事に対する警察権裁判権について規定し、

第12条では棟別銭(むねべつせん・むなべつせん=家屋にかかる税金)を免除する事で安土城下への転居を推奨し、次の第13条馬市を開く事ができるのは安土だけ!と、軍事的に必要だった馬の流通を安土が独占する事で、人が集まるようにした・・・と

もちろん、最後には
「右の条々、若(も)し違背(いはい)の族(やから)有らば、速(すみや)かに厳科(げんか)に処せられるべき者也(なり)
と、これらに違反すれば罰せられる事を明記・・・

つまり、この掟書は減税と流通改革を一挙に行って経済の中心を安土に持ってきて、そこに集まる人々の安全や治安維持を約束するというもの・・・まさに先進的な都市法の原型だったわけです。

ただし、それを実現するまでには、少しばかりの時間を要するわけですが、ご存じの通り、信長は、この4年後に・・・(6月2日参照>>)

Dscn8520a1000
安土城本丸跡から琵琶湖方面を望む

ゆえに、現在の安土町地域自治区(2010年に近江八幡市と合併)には、かつての城下町の面影はほとんど見られません。

面影だけでなく、ここには、他の一般的な城下町にみられる職業別の地名という物もほとんど残っていないのだとか・・・それこそが、信長の安土における城下町構想が、未だ、夢半ばであった事を物語っているように思います。
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2014年1月23日 (木)

新しい時代を担う後継者を育てたい~新島襄の思い

 

明治二十三年(1890年)1月23日、明治初頭の宗教家で教育者・・・最近では、昨年の大河ドラマの主役であった新島八重さんの旦那さんとして知られる新島襄がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

天保十四年(1843年)、江戸の上州安中藩江戸屋敷にて、安中藩士・新島民治(たみはる)の息子として生まれた新島襄(にいじまじょう=本名は七五三太(しめた))は、13歳から蘭学を学び始め、ある時、『連邦史略(れんぽうしりゃく・連邦志略)という書物に出会います。

これは、アメリカの地理や歴史をわかりやすく紹介した、言わばアメリカの入門書のような物で、アメリカの牧師さんが書いた物を中国語に訳したもの・・・

後に彼が
「脳髄がとろけ出るほど驚いた」
と語っているように、襄少年は、この書物にてアメリカを知り、人生の転機となったのです。

そうです・・・まさに、彼が、この本を読みふけっている時に起こっていたのが、嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)に始まる幕末の動乱・・・

天皇の許可なくアメリカとの条約を結んだ大老の井伊直弼(いいなおすけ)(10月7日参照>>)は、安政六年(1859年)に、それに反発する攘夷派を押さえこむ安政の大獄を実施・・・しかし、その直弼は翌年の3月に桜田門外の変で暗殺され(3月3日参照>>)・・・

と、佐幕派(幕府寄り)尊王攘夷派(外国を排除)に真っ二つに分かれ、命がけで日本の明日を模索する志士たち・・・

そんなさ中の元治元年(1864年)、襄も、彼らのように命をかける決意を固めるのですが、それは佐幕だ攘夷だと言うのではなく、その目でアメリカを学ぶ事・・・襄は、その理想を日本の外に求めたのです。

当時は、外国への渡航はもちろんご法度・・・それを、脱藩して、さらに密航という形で外国へ行くというのは、まさに、命をかけた旅立ちでした。

函館に停泊していたアメリカ船に忍び込み、日本を飛び出した襄は、途中で乗り換えた船でボーイとして働き、ここで「Joe(ジョー)と呼ばれた事から、以後、自ら襄と名乗るようになりました。

旅の途中、上海やら香港やらを経由する中、彼が見たのは欧米列強の下で負け組となってしまっていた東洋の姿・・・この状況を見て、おそらくは日本の未来を憂いたであろう襄は、自身が持っていた日本刀を船長に売ります。

それは襄にとって、古い日本との決別であった事でしょう。

そして、その得たお金で聖書を購入・・・こうして襄は、キリスト教の教えを通じて、外国の事を学びはじめるのです。

やがてボストンに上陸した彼は、乗って来た船の船主であるA.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学し、アカデミー卒業後は、名門のアマースト大学に進学し、ここも見事、卒業・・・

この間に、日本は維新を迎えるわけですが、そんなこんなの明治5年(1872年)、アメリカに派遣されていた岩倉使節団(10月8日参照>>)の通訳を頼まれます。

あの木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)が襄の語学力に目をつけたのです。

しかし、官費で語学力を身につけた他の留学生と違って、自分は、言わばフリーランス・・・抵抗もありましたが、一方では、これは、日本の首脳陣に、ナマの外国を自身の言葉で紹介できる絶好のチャンスでもありました。

快く引き受けた襄は、通訳のかたわら、自らが見聞きした外国のすばらしさを使節団に厚く語ったと言います。

また、一方で、この通訳の一件から、襄は、日本へ戻る事を考えるようになります。

それは、後世へとつなげる人材育成・・・単に、外国の進んだ制度を学んで導入するのではなく、彼は、そんな進んだ制度を構築した人物に目をつけ、日本において、そんな人材を育てたいと思うようになっていたのです。

Niizimazyo400 こうして、アンドーヴァー神学校を卒業した後、明治8年(1875年)には宣教師志願者の試験に合格し、宣教師として日本に帰国した襄・・・

当初は大阪にて、人材育成のためのキリスト教の学校を設立しようと奮闘した彼でしたが、ご存じの通り、未だ日本では、キリスト教は邪教扱い・・・周囲の猛反対でなかなかうまく行かず・・・

やむなく、京都での開校を目指していたところ、京都府知事槇村正直(まきむらまさなお)京都府顧問山本覚馬(やまもとかくま)(5月13日参照>>)の賛同を得る事に成功し、明治八年(1875年)、晴れて同志社英学校を開校する事ができたのです。

大河ドラマをご覧になった方は、よくご存じでしょうが、覚馬の妹の八重さん(6月14日参照>>)と出会って結婚するのもこの頃ですね。

そして、ドラマにもあったように、その後の襄は、宣教師として伝導活動を続けるかたわら、同志社を大学にするべく奔走する事となるのですが、一方で、その一所懸命さゆえに、知らず知らずのうちに無理をしていた体が、徐々に悲鳴をあげはじめるのです。

やがて医師から、彼が心臓病であり、余命がそう長く無い事が告げられるのですが、それでも大学設立のための募金活動をやめようとしない襄に対して、心配する八重は度々キレるのですが、そんなこんなの明治二十二年(1889年)、温暖な地で療養に励むべく、神奈川県大磯の百足屋旅館の離れで静養する事となりました。

この時、本来なら片時も離れたくなかった奥さんの八重さんですが、襄が「80歳になる母の面倒をみてほしい」と頼んだ事から、彼女は同行しませんでした。

ところが・・・
年が明けて間もなくの正月19日午後・・・京都にいる八重のもとに「新島危篤」の電報が届くのです。

早速、翌日の朝一の電車に飛び乗り、午後10時頃大磯に到着した八重に向かって、襄は、
「今日ほど、あなたを待つのが長かった一日は無かったですよ」
と・・・

この襄の言葉には、あの気の強い八重が、ひと目もはばからず泣きじゃくったのだとか・・・

やがて同志社の卒業生や学生が集まる中、死期を悟った襄は。
「私はまもなく天に召されます」
と言い、後述筆記にて30もの遺書を残します。

八重には
「私の死後に記念碑など建てないでほしい…1本の木に『新島襄の墓』と書いておいてくれれば十分です」
と・・・

こうして、明治二十三年(1890年)1月23日の深夜・・・
「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
との最期の言葉を残した新島襄は、愛する八重さんの手を枕に、その48歳の生涯を終えたのです。

奥さんの八重さんをはじめ、彼の志しを継ぐ、残された人々にとっては、それこそ、まだまだ続く苦難の道が多々あった事でしょうが、襄の残した同志社大学が、この平成の世に、関西屈指の名門大学として名を馳せている事が、襄の抱いた志しが、今も現在進行形で受け継がれているという証だと言えますね。
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2014年1月17日 (金)

犬山衆・謀反~織田信秀と信長と信清と…

 

天文十八年(1549年)1月17日、織田信清織田寛貞とともに織田信秀の直轄領・柏井に侵入して放火しました。

・・・・・・・・・・

そもそも、尾張の国(愛知県西部)8郡から成っていて、上の郡(こおり)の4郡では、守護代の織田信安(のぶやす)が周囲の武将を味方につけて岩倉(愛知県岩倉市)という場所に居城を構えていました。

あとの半国=下の郡の4郡では、その上の郡と川を隔てた清州城(きよすじょう=清須市)に尾張国の守護・斯波義統(しばよしむね)を住まわせていた守護代の織田達勝(たつかつ)が、守護の世話をしつつ、自分も清州に住んでおりました。

・・・で、この達勝の奉行を勤めていたのが、織田因幡守.・織田藤左衛門織田弾正忠の3人・・・平素は、この3人で、様々な実務を処理していたようですが、この3番めの織田弾正忠というのが、信長の父・織田信秀(おだのぶひで)です。

この頃の信秀は国境に近い勝幡(しょうばた=稲沢市~愛西市)に居城しておりましたが、なかなかに優れた人物であった彼は、家中の有能な人物たちと交流を持ち、徐々に仲間に引き入れていきます。

そんなこんなのある日、尾張の中央部に位置する那古野(なごや=名古屋市中区)に赴いた信秀は、ここに堅固な城を構築する事を命令し、完成したその城には嫡男の吉法師(信長の事です)を住まわせて、自らは熱田(あつた)近くの古渡(ふるわたり=名古屋市中区)に城を築いてそこに移りました。

やがて天文十一年(1542年)9月の小豆坂(あずきざか)の戦い(9月19日の冒頭部分参照>>)を皮切りに、三河(愛知県東部)松平広忠(当然ですが家康の父)を援護する駿河(するが=静岡県中部)今川義元(いまがわよしもと)の軍勢が、この小豆坂(愛知県岡崎市)周辺へと、度々侵攻するようになって来ます。

天文十五年((1546年)には、13歳になった吉法師が元服し、織田信長と名乗るようになりますが、実は、その少し前から、信秀は美濃(みの=岐阜県)にも軍勢を出しており(9月23日:井ノ口の戦い参照>>)、この頃の織田軍は、今月は美濃、来月は三河と、大忙しの合戦三昧だったわけで・・・

とは言え、ご存じのように美濃は、マムシと呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん)(1月13日参照>>)の国・・・信秀は度々の攻撃を蹴散らされますが、それでも諦めず・・・

天文十六年(1547年)には、越前(福井県)の戦国大名・朝倉氏や道三が滅ぼした土岐氏の残党を味方につけた事で、信秀は、いよいよ本格的に道三の本拠=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜市)への攻撃を開始するのですが、これまた、手痛い敗北を喰らってしまうのです。(9月22日:加納口の戦い参照>>)

さらに、その勝利の勢いに乗った道三は、近江(滋賀県)からの援軍を得て、大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)近くまで攻め寄せます。

これを見た信秀は、すかさず、船で木曽川を渡り、大垣を攻めようとする美濃勢を背後を脅かそうと画策・・・おかげで、美濃勢は稲葉山城へと戻りますが、この信秀の留守中に、尾張では織田清州衆織田信友(のぶとも=達勝の後継者)らが、古渡城下に火を放つという敵対行動に出ます。

この時は、織田家の重臣であった平手政秀(ひらてまさひで)(1月13日参照>>)が、清州衆の家老たちに、何度となく停戦を呼びかけ、何とか、翌・天文十七年(1548年)の秋に、両者の譲歩による和睦が成立・・・いち時の平穏を取り戻しますが・・・。

・・・と、このように、未だ尾張の国内でもゴタゴタがある中での対・道三・・・もちろん、あの三河周辺を巡っての今川とのゴタゴタも・・・

考えた信秀は、ここに来て、道三と和議を結ぶ事に・・・そう、自身の息子・信長と、道三の娘・帰蝶(きちょう・濃姫)との結婚です(2月24日参照>>)

今回も、かの平手政秀の尽力により、なんとか婚姻話が成立しますが、そんなこんなの天文十八年(1549年)1月17日尾張犬山城(愛知県犬山市)主の織田信清(のぶきよ=信長の従兄弟・信安の後見人)が、楽田城(がくでんじょう=犬山市)主の織田寛貞(ひろさだ)とともに兵を挙げたのです。

春日井原(かすがいはら=春日井市)を駆け抜け、竜泉寺(りゅうせんじ=名古屋市守山区)下、柏井口(かしわいぐち)へと攻め寄せた犬山&楽田の軍勢は、あちこちに放火してまわり、あたりは炎に包まれます。

この時、信秀は、すでに古渡城を取り壊して末森(末盛・すえもり=名古屋市千種区)という場所に作った山城を居城としていましたが、その知らせをを聞いて、すぐさま出陣・・・出会いがしらに一戦を交えて、またたく間に切り崩し、数十人を討ち取りました。

この電光石火の攻撃にビビッた犬山&楽田勢は、崩れるように、もと来た春日井原を引き返していったとの事・・・

♪やりなはを 引きずりながら ひろき野を
 遠ぼえしてぞ にぐる犬山 ♪

「リードを引きずった犬が、遠吠えしながら犬山に逃げて行きよったで!」

周辺には、この敗戦で、槍を引きずりながら逃げていった犬山&楽田の軍勢の事をあざ笑う、誰が書いたかわからない立て札が、あちこちに立ててあったのだとか・・・

と、信秀さんの大活躍ですが、残念ながら信秀さんは、この2年後の天文二十年(1551年)、42歳で病死してしまいます(3月3日参照>>)

Odanobunaga400a ご存じのように、その後は、かの信長が信秀の後を継ぐ事になりますが、この信清の犬山城を重要拠点と考えた信長は、自身の妹(もしくは姉)と信清の結婚を実現させ、味方につけます。

それから後の信清は、信長の仲間の立場となり、後の尾張統一に一役買う事になるのですが、そのお話は11月1日のページでどうぞ>>
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2014年1月12日 (日)

南北朝~杣山城の瓜生保&義鑑兄弟と強き母

 

延元二年・建武四年(1337年)1月12日、足利軍の攻撃を受けている金崎城の後方支援をすべく動いていた瓜生兄弟が敵に迎撃され、兄の瓜生保と弟の義鑑が討死しました。
(注:亡くなった日づけに関しては8月説もあります)

・・・・・・・・・・・

後醍醐(ごだいご)天皇建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)(12月11日参照>>)は、湊川の戦い(2007年5月25日参照>>)楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃に追い込み(2011年5月25日参照>>)京都合戦(6月20日参照>>)にて新田義貞(にったよしさだ)に勝利して京を制圧しました。

一旦比叡山へと逃れた後醍醐天皇は、尊氏側に三種の神器を渡して降伏する(11月2日参照>>)一方で、義貞に皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を託し、北陸へと落ち延びさせたのです(10月13日参照>>)

極寒の木ノ芽峠で多くの凍死者を出しつつも、何とか敦賀を経て、延元元年(建武三年・1336年)10月13日のに越前(福井県)金崎城へと入城した義貞・御一行・・・

ここで、総司令官となる義貞は、この金崎に留まりつつ、息子の義顕(よしあき)越後に、弟の脇屋義助(わきやよしすけ)瓜生(うりゅう)兄弟の守る杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)へと派遣し、兵の分散を計る作戦に出ます。

翌14日に3000騎の軍勢を引き連れて杣山城に向かった義助と義顕は、瓜生保(うりゅうたもつ)(しげし)(てらす)義鑑(ぎかん)瓜生兄弟から厚いもてなしを受けるのですが・・・

『太平記』によれば・・・
その直後、杣山城に義貞討伐の綸旨(りんじ=天皇の命令文書)が届くのですが、実はコレは尊氏の放ったニセモノの綸旨・・・

そうとは知らない保は、早速、義貞を討つべく出立し、足利方の斯波高経(しばたかつね)に従って金崎城を包囲する軍勢の一人となります。

一方、残った弟たちは、
「事の次第が解れば、兄はきっと戻って来ます。
それまで、俺らがここに留まって、金崎の後方支援しますよって…」

と・・・

弟たちの行動が本心なのか?否か?
・・・結局、彼らの言葉を信じる事にした義助は、13歳になる息子の義治(よしはる)を杣山城に残し、出立・・・

しかし、いつ逃走したのか?その頃には手元の軍勢が250騎ほどに減っており、
「これでは、とても越後まで行く事はできない」
と、義助・義顕ともに、再び金崎城へと戻ります。

こうして、金崎城籠城戦が開始されました。

囲む足利の大軍が度々攻撃を仕掛けて来るも、それに耐える金崎城・・・と、しばらくの間、一進一退の攻防が続きました。

と、そんな時、天皇の綸旨を携えた使者が海を泳いで金崎城へと潜入し、にわかに騒がしくなる金崎城内・・・

そう、その綸旨は、あの後醍醐天皇が吉野へと脱出(12月21日参照>>)、そこには散り々々になっていた楠木正行(まさつら=正成の嫡男)(5月16日参照>>)らの忠臣も続々と集まっているという知らせ・・・城内は喜びに沸き立ちます。

そんなさ中、その金崎城を囲む側にいた瓜生兄弟の兄・保は、杣山城に残った弟らが、脇屋義治担いで城に籠り、挙兵する機会をうかがっているとの情報を耳にします。

弟らの事が気にかかる保・・・兄弟が敵味方に分かれて戦う事を何とか避けたい彼は、すぐさま足利軍を離脱し、杣山城へと向かったのです。

Uryutamotugikan600 かくして11月8日、義治を大将に掲げて挙兵した瓜生兄弟・・・この知らせを聞いた反足利の者が集まり、軍勢はまたたく間に1000余騎となりました。

それを迎え撃つのは北陸担当の高師泰(こうのもろやす=高師直の兄もしくは舎弟)・・・しかし、瓜生勢は、これを奇襲攻撃で蹴散らし、さらに勢いを増します。

「このまま、瓜生勢を進ませてはならん!」
とばかりに、斯波高経は防御のため、新善光寺城(越前市)に立て籠りますが、瓜生勢は、ここも一日一夜にして落城させてしまったのです。

高経の首こそ逃したものの、士気あがる瓜生一族・・・しかし、その一方で、心配なのは大軍の攻撃に耐えている金崎城の事・・・

「ならば!」と、延元二年・建武四年(1337年)1月12日、その勢いのまま金崎城の後方支援をすべく、瓜生勢は、急きょ金崎城へと向かったのです。

しかし、その途中・・・足利軍の待ち伏せに遭い、兄の保と弟の義鑑が壮絶な討死を遂げます。

大将の義治を守りつつ、なんとか、命からがら再び杣山城に戻った瓜生兄弟の弟たち・・・そこに待っていたのは、瓜生兄弟の老いた母でした。

もはや、老婆と呼ぶにふさわしい年齢の母は、戦い敗れて戻って来た息子たちに酒をふるまいますが、当然の事ながら、空気は沈み、文字通り(保と義鑑が死んでますので…)お通夜のような酒宴・・・

Uryuuhaha600 すると母は、義治に向かって・・・
「保や義鑑は亡くなりましたが、弟たちはこうして生きております。
我が息子たちが、必ず、殿をお守り致しましょう!」

少し目をうるませながらも、力強く、義治に酌をする老いた母・・・この気丈な老婆の姿に、その場の暗い空気が、一瞬にして変わったのだとか・・・いつの世も、母は強し!

さて、一方で、この杣山城からの後方支援も、もはや望めなくなった金崎城・・・その運命は3月6日のページでどうぞ>>
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2014年1月 7日 (火)

大河ドラマ:軍師官兵衛・第1回「生き残りの掟」の感想

 

今年も始まりましたね~ 大河ドラマ・軍師官兵衛・・・

王道とも言える、1番の見せ場を初回の最初に持ってくる手法・・・

茶々も、全部覚えてるワケではありませんが、確か、タッキー『義経』の時は、あの『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』(2月7日参照>>) でしたし、天地人の兼続は、黄金の茶室で、主君の景勝とともに秀吉と面会するところ、昨年の『八重の桜』は、まさに会津若松城での奮戦(8月23日参照>>) でしたね。

・・・で今回の官兵衛は、あの小田原征伐(7月5日参照>>)での開城要請のシーンでした。
(官兵衛さんの小田原での話は、まだブログに書いてませんが…(*´v゚*)ゞ)

たった一人で敵中に入り、雨のように降り注ぐ矢が1本も命中しないのは主役の特権(カッコ良く頬をかすめるww)ですが、何よりもびっくりしたのは、10年ほど岡田君の実年齢より高い設定のためか、チョットだけ老けメイクをした岡田君の官兵衛が、映画『清須会議』での寺島さんの官兵衛にゲキ似・・・(笑)

寺島さんと岡田君って、そんなに似てたっけ??
と思いつつ・・・

そこで、官兵衛が、小田原城に向かって放つ言葉が
「命を粗末になさるな。生きられよ~~!!」

そして、この第1回のタイトルが「生き残りの掟」・・・て事で、この大河は、乱世での生き方&生き残る事がテーマとなるのでしょうか。

何となく、またまた、戦を避ける平和主義的な香りが漂っておりますが、時代劇において、「命を大切に」「戦争を避ける」的な現在の価値観を描くのは、かなり難しい事だと思います。

たとえば、このブログでは、書くタイミングを逃してしまって、書けずじまいになってしまった、昨年の『八重の桜』の最終回ですが、

最後の最後に、八重は、会津戦争での自分の姿を思い出し、
「今の私なら、その最後の弾を、どこに向けて撃つだろう?」
と考えて想像し、想像上の自分が最後の1発を天高く放つ事で、戦争への批判的なメッセージを送っていたように思いますが、実際の新島八重はそうではありません。

彼女は、亡くなる1ヶ月ほど前になっても
「戦はオモシロイ」
と言ってます。

「もう死ぬかと思いながらも、ちょっと先の方で誰かが戦っているところを見てると面白いものです」
と・・・

もちろん、このオモシロイは声を出して笑うようなオモシロイではなく、気が高ぶる=高揚するという意味のオモシロイなのでしょうが、そこには、会津戦争を経験し、日清・日露でも看護婦として傷ついた戦士を目の当たりにした彼女にも関わらず、「戦争は嫌だ」という雰囲気は感じ取れません。

これは、八重が悪人だという事ではなく、現代に生きる私たちとは価値観が違うのだと思うのです。

それこそ、本当に死を目の当たりにし、自分も死ぬかも知れない戦いに巻き込まれたら、生き残るためには「嫌だ」とか「悲しい」とか「避けて通りたい」とか言ってられない・・・むしろ、戦う事に高揚感を味わって、「よっしゃ!やったるで!」という人でないと生き残れないという事なのだと思います。

しかし、かと言って、深夜番組やBSのマニアックな番組とは違い、日曜のゴールデンに家族揃って見る番組で、主人公が「戦はオモシロイ」って言っちゃうワケにはいかないわけで・・・

そこンところを、どう描くかが、今回の官兵衛でも、難しいところ・・・

ただ『八重の桜』の場合は、実際の新島八重との相違はともかく、ドラマとしてつじつまは合ってましたし、あの最後の場面は良かったと思いますので、今回の官兵衛さんも、史実がどうとかよりも、平和主義にするならするで、そういう観点で見事に成長していく武将の生涯を描いていただきたいと思います。

くれぐれも、いつかのアレのように、口先だけの平和を叫んで、ヤバい事は避けてばっかりにならないようお願いしたい・・・スタッフさんの力量に期待します。

とにかく、第1回めは、なんかほのぼのした感じのホームドラマ的な雰囲気もありましたが、未だ主人公の子供時代ですから、それもアリ・・・テンポも良く、楽しく見ていられる第1回でしたので、これからも楽しみにしております。

PS:5年も前のページではありますが、2008年11月29日【黒田如水~ジッチャンの目薬で先を見る目を養った?】>>も合わせてご覧いただくとありがたいです。
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2014年1月 3日 (金)

あけおめ~日本史の新発見&発掘…2013年総まとめ

 

謹賀新年

皆様、あけましておめでとうございますm(_ _)m
本年も、「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いします。

2014blog

・・・て事で、新年、1発めの今日は、昨年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、独自の歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県明日香村「飛鳥寺西の石敷き広場内「樫の木の広場」を確認大化の改新(6月12日参照>>)の立役者=中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)が蹴鞠で飛ばした沓(くつ)中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)が拾って手渡した事で人が出会ったとされる「樫の木の広場」と思われる場所を確認。
奈良県奈良市「薬師寺の発掘調査」で、14世紀には失われていたと思われる「300人は収容できる大きな食堂跡」が発見され、平安時代に書かれた「薬師寺縁起」の内容が裏付けられる事に…。
大阪市中央区難波宮跡の「後期難波宮の発掘調査」回廊跡出土…ここに、『東南新宮』(12月11日参照>>)のような格式の高い建物があった可能性が高くなりました。
2月 邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡で、大量の柱穴発見…狭い場所に何度も建物を建てたり壊したりした跡が見てとれる事から卑弥呼(ひみこ)祭祀を行った場所では?との声も…。
堺市北区ニンザイ古墳謎の柱穴列発見…宮内庁の管理のため、その実態がほとんどわかっていないニンザイ古墳で、前例が無いほとの多数の柱穴が見つかり、祭祀用の舞台か?橋の跡か?と話題になりました。
3月 奈良市JR奈良駅北側の平城京跡から、破棄されたとおぼしき埴輪の破片が発見されました…おそらくは平城京の造営のために、少なくとも、3基以上の古墳群が破壊されたとみられています。
4月 日英共同研究チームが、北海道や福井県などから発見された縄文式土器の焦げ跡に調理の跡を発見した事を発表…焦げ跡にはサケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれており、これまで「農耕が始まる前の土器は食糧の貯蔵のための器だった」という定説がくつがえされ、それ以前から、すでに魚を料理をして食べてした事が明らかとなりました。
神戸市灘区深江北町遺跡から、東大寺の大仏鋳造の寄付を示す木簡発見都以外の地方で、奈良時代の大仏鋳造の寄付を示す木簡が発見されたのは初めてで、地方の役人が、寄付の集金業務に関わっていた事が明らかとなりました。
5月 滋賀県長浜市長浜城歴史博物館が、賤ヶ岳の戦い(4月20日参照>>)におけるの羽柴(豊臣)秀吉指示書が見つかった事を発表…内容は、賤ヶ岳の戦いの時に、最前線の砦のそばに造った野営のための小屋を取り壊す際のダンドリを弟の秀長に指示した物で、これまで、軍記物の記述でしか確認できなかった賤ヶ岳の合戦の砦の存在が裏付けられる貴重な史料となりました。
京都市伏見区伏見城跡の発掘調査で、巨大な土橋や豪壮な石垣などが確認されました…同じ場所に明治天皇陵がある事から、これまで研究が進んでいなかった伏見城跡に、宮内庁の許可を得て大規模な発掘調査がされ、幻の伏見城の全貌解明に一歩近づくかも…。
6月 大阪府八尾市亀井遺跡で約30年前に発見されていた弥生時代の石製品が、てんびん用の分銅であった事が解明されました…当時貴重だった赤色顔料=朱が付着しており、この朱の配分で厳密な重さを計っていたとみられ、もちろん、日本最古の分銅です。
京都市中京区貴族の邸宅跡から30年前に発見されていた土器に、いろは歌の全文が書かれていた事が判明…一昨年の新発見のまとめでも、「最古ののいろは歌が書かれた土器が…」というのを取り上げましたが(2012年12月27日参照>>)、今回も最古…しかも、今回は、そこに全文が書かれていたとの事です。
7月 京都市歴史資料館が保存する資料の調査で、夫の葬儀の参列者に宛てた新島八重の直筆書状を発見…その年に大河ドラマ関係の資料が新発見される事がよくありますが、歴史好きにとってはウレシイ副産物ですね。
8月 滋賀県高島市上御殿(かみごてん)遺跡から弥生時代~古墳時代初めの短剣の鋳型を発見…そのデザインが中国・華北や内モンゴルの物に酷似している事から、これまで、朝鮮半島を通じて九州へのルートだと考えられていた銅剣の伝来が、日本海を通じて大陸から直のルートで伝来した可能性が浮上。
9月 京都市上京区桃山時代の大名屋敷跡から金箔の貼られた瓦片が100枚以上が出土…中には橘の家紋をほどこされた豪華な物もあり、豊臣政権時代の五奉行の一人・前田玄以(げんい)(5月7日参照>>)の屋敷跡ではないか?とみられます。
奈良県明日香村蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)(6月12日参照>>)父子の邸宅があったとされる甘橿丘東麓遺跡で、7世紀半ば頃と思われる建物跡を新たに発見…彼らの邸宅が広範囲に広がっていた事が確認されました。
10月 奈良市興福寺境内平安時代の将棋の駒を発見「桂馬」「歩兵」とともに発見された、現在の将棋では使用されない「酔象」の駒は、これが日本最古の物となります。
11月 京都市東山区方広寺大仏殿跡(7月26日参照>>)巨大な柱穴4個を新たに発見…これで、方広寺の大仏殿が、伝承通り、東大寺大仏殿を上回る日本最大の木造建築だった事が、ほぼ確定となりました。
奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(えんち)全容が判明した事を県立橿原考古学研究所が発表…宮廷庭園跡として発掘調査されて来た中、大垣に囲まれた中に池を配置した日本庭園のルーツと言える庭で、万葉歌を詠むにふさわしい美しい庭園であった事が判明しました。
12月 京都市上京区相国寺光源院黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)(3月20日参照>>)荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)に宛てた手紙の写しを発見…コチラも、今年の大河ドラマの主役という事で、この1年、官兵衛がらみの発見が増える事が期待されますね。
ご存じのように、村重の有岡城に官兵衛が長期幽閉されるという悪しき因縁(10月16日参照>>)のあるこのお二人ですが、手紙の内容は、「何かあったら姫路に来てね!」と、幽閉の一件があった後も、お互いに交流をしていた事がうかがえるイイ内容となっているようです。

・・・と、こうしてみると、昨年1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも茶々いち推しのニュースは、4月に発表された日英共同研究チームによる縄文式土器調理の跡!!

聞くところによれば、この縄文式土器の調理跡は、現在のところ「世界最古の調理の痕跡」なのだそうですが、奇しくも、昨年は日本人の伝統的な食文化である「和食」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されましたよね。

そう、つまり、この世界最古の調理跡に日本人が受け継いで来た和食の原点があるという事になるのですよ!

日本人の祖先の縄文人が、世界で初めて、食品を調理して食べていた・・・まさに、和食の誕生!!

まぁ、いずれまた、世界のどこかで新たな発見があるのでしょうが(*´v゚*)ゞ、それまでのしばらくは、そんな夢に酔ってみるのも良いかもしれません。

という事で、本年も、我がブログに、チョコチョコ遊びに来てくださいませ。
よろしくお願いしますm(_ _)m
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