織田信長の夢半ば~安土城下の事…
天正六年(1578年)1月29日、織田信長が国元に残っていた家臣の妻子を安土へ移すよう命じました。
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事の起こりは、天正六年(1578年)1月29日に織田信長の御弓衆だった福田与一なる人物の家から出火した火事でした。
『信長公記』によれば、この日、火事が起こった事を知った信長が、
「これは、本国に妻子を置いたままで、未だ安土に引っ越しをさせていない(なので火の始末が不十分な)ためでは?」
と考え、すぐに菅屋長頼(すがやながより)を奉行に任命し、名簿を作って調査させたところ、
御弓衆:60名、御馬廻り衆:60名の計120名が、未だ妻子を安土に引っ越させていない事が判明し、これらの者を一斉に叱責したとの事・・・
その後、岐阜にいた息子の信忠(のぶただ)に命じて担当者を尾張(おわり=愛知県西部)に派遣し、その者たちの邸宅を焼き払い、宅地内の木を伐採・・・
焼け出された妻子たちは、とる物もとりあえず、安土へと移り住んだのでした。
・・・てな事ですが、信長さんヒド~イ、家を焼いちゃうなんて!(≧ヘ≦)
てのはナシですよ。
そもそもは、先に、信長の「妻子とともに安土へ」という移動命令があり、今回の120名は、その命令に違反してたわけですから、戦国の時代、殿様の命令に従わない場合は、こんくらいの罰は、他の武将でもある事なのです。
しかも、信長さんの場合、この後、彼ら120名に城下の南の入江に新道を建造するというボランティア活動?を命じ、道路が完成したところで、全員を許したとの事なので・・・
と、かの『信長公記』の第11巻にこの記述がある事から、信長は、自分の拠点とする城の城下に家臣の屋敷を建てて住まわせることで、彼らを土地から切り離し、兵農分離を進めたとされて来ましたが、お察しの通り、最近では異論・・・というより、この時点での兵農分離については否定的な意見が多くあります。
今回の命令にしたって、処罰の対象となったのは、御弓衆や御馬廻り衆の120名・・・彼らは信長の側近であり、親衛隊とも言えるエリート家臣なのですから、信長が居る城下にいてあたりまえです。
逆に言えば、彼らより下っ端の兵士たちは、未だ安土には来ていないだろうし、そんな末端の兵士たちまで兵農分離されていたとは考え難いわけで・・・
しかも、この「家臣を城下に住まわせる」という方法は、信長のオリジナルではなく、すでに朝倉氏もやっていたらしい・・・
また、以前お話させていただいた城割(しろわり)(8月19日参照>>)も、信長以前に畿内を支配していた三好氏(5月9日参照>>)がやっていたとの話もあります。
ただ、私としては、朝倉氏のソレや三好氏のソレにならって、より計画的に、かつ、より大規模に、この時点での最先端の城割を行って兵農分離していたのが信長ではなかったか?と思います。
もちろん、この時点では、あくまである程度で、まだまだ完成形にはほど遠かったかも知れませんが・・・
(安土城内の伝羽柴秀吉邸跡→)
・・・で、信長が志し半ばで倒れた後、豊臣秀吉が検地や刀狩り(7月8日参照>>)で兵農分離を、より完成形に近い形にし、徳川家康の、あの一国一城令で城割も完成させる・・・つまり、完成形を見るのは、江戸時代になってからって事ですね。
もし、信長が本能寺で倒れていなければ・・・と、様々な妄想をしてしまいます。
なんせ、今回の家臣の大移動にも垣間見えるように、信長さんの安土城下の発展に対する思い入れは並々ならぬ事がうかがえますから・・・
天正四年(1576年)に安土城が完成(2月23日参照>>)した翌年の天正五年(1577年)=つまり、今回の火事騒ぎの前年の6月に、信長は『定(さだめ) 安土山下町中(さんげちょうじゅう)』という13ヶ条にわたる掟書を発しています。
第一条が
「当所中楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、悉(ことごと)く免許の事」・・・と、有名な『楽市楽座』の宣言で始まる文書です。
その楽市楽座宣言に続く第2条では、上海道(かみかいどう=中山道の事)を往来する商人たちに、安土を経由する事を求め、第3条では普請役、第4条では伝馬役を、町人に免除する特権を与えています。
第5条で火事に対する決まり事、第6条で罪人の匿いについて規制し、第7条では臓物の売買に関する規定・・・
さらに、第8条で、他の場所での金銭貸借関係を安土内では破棄する事を約束し、第9条では、他の地方からの転入者も以前からの居住者と同等に扱う事を保証するとともに、信長の家臣はもちろん、「家臣だ」と称して臨時に課税する事を禁止しています。
第10条ではケンカや口論、また、押し売りや押し買い(相手が納得してないのを無理やり売ったり買ったりする事)を禁止し、続く第11条で、そのモメ事に対する警察権や裁判権について規定し、
第12条では棟別銭(むねべつせん・むなべつせん=家屋にかかる税金)を免除する事で安土城下への転居を推奨し、次の第13条で馬市を開く事ができるのは安土だけ!と、軍事的に必要だった馬の流通を安土が独占する事で、人が集まるようにした・・・と
もちろん、最後には
「右の条々、若(も)し違背(いはい)の族(やから)有らば、速(すみや)かに厳科(げんか)に処せられるべき者也(なり)」
と、これらに違反すれば罰せられる事を明記・・・
つまり、この掟書は減税と流通改革を一挙に行って経済の中心を安土に持ってきて、そこに集まる人々の安全や治安維持を約束するというもの・・・まさに先進的な都市法の原型だったわけです。
ただし、それを実現するまでには、少しばかりの時間を要するわけですが、ご存じの通り、信長は、この4年後に・・・(6月2日参照>>)
ゆえに、現在の安土町地域自治区(2010年に近江八幡市と合併)には、かつての城下町の面影はほとんど見られません。
面影だけでなく、ここには、他の一般的な城下町にみられる職業別の地名という物もほとんど残っていないのだとか・・・それこそが、信長の安土における城下町構想が、未だ、夢半ばであった事を物語っているように思います。
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