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2014年1月17日 (金)

犬山衆・謀反~織田信秀と信長と信清と…

 

天文十八年(1549年)1月17日、織田信清織田寛貞とともに織田信秀の直轄領・柏井に侵入して放火しました。

・・・・・・・・・・

そもそも、尾張の国(愛知県西部)8郡から成っていて、上の郡(こおり)の4郡では、守護代の織田信安(のぶやす)が周囲の武将を味方につけて岩倉(愛知県岩倉市)という場所に居城を構えていました。

あとの半国=下の郡の4郡では、その上の郡と川を隔てた清州城(きよすじょう=清須市)に尾張国の守護・斯波義統(しばよしむね)を住まわせていた守護代の織田達勝(たつかつ)が、守護の世話をしつつ、自分も清州に住んでおりました。

・・・で、この達勝の奉行を勤めていたのが、織田因幡守.・織田藤左衛門織田弾正忠の3人・・・平素は、この3人で、様々な実務を処理していたようですが、この3番めの織田弾正忠というのが、信長の父・織田信秀(おだのぶひで)です。

この頃の信秀は国境に近い勝幡(しょうばた=稲沢市~愛西市)に居城しておりましたが、なかなかに優れた人物であった彼は、家中の有能な人物たちと交流を持ち、徐々に仲間に引き入れていきます。

そんなこんなのある日、尾張の中央部に位置する那古野(なごや=名古屋市中区)に赴いた信秀は、ここに堅固な城を構築する事を命令し、完成したその城には嫡男の吉法師(信長の事です)を住まわせて、自らは熱田(あつた)近くの古渡(ふるわたり=名古屋市中区)に城を築いてそこに移りました。

やがて天文十一年(1542年)9月の小豆坂(あずきざか)の戦い(9月19日の冒頭部分参照>>)を皮切りに、三河(愛知県東部)松平広忠(当然ですが家康の父)を援護する駿河(するが=静岡県中部)今川義元(いまがわよしもと)の軍勢が、この小豆坂(愛知県岡崎市)周辺へと、度々侵攻するようになって来ます。

天文十五年((1546年)には、13歳になった吉法師が元服し、織田信長と名乗るようになりますが、実は、その少し前から、信秀は美濃(みの=岐阜県)にも軍勢を出しており(9月23日:井ノ口の戦い参照>>)、この頃の織田軍は、今月は美濃、来月は三河と、大忙しの合戦三昧だったわけで・・・

とは言え、ご存じのように美濃は、マムシと呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん)(1月13日参照>>)の国・・・信秀は度々の攻撃を蹴散らされますが、それでも諦めず・・・

天文十六年(1547年)には、越前(福井県)の戦国大名・朝倉氏や道三が滅ぼした土岐氏の残党を味方につけた事で、信秀は、いよいよ本格的に道三の本拠=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜市)への攻撃を開始するのですが、これまた、手痛い敗北を喰らってしまうのです。(9月22日:加納口の戦い参照>>)

さらに、その勝利の勢いに乗った道三は、近江(滋賀県)からの援軍を得て、大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)近くまで攻め寄せます。

これを見た信秀は、すかさず、船で木曽川を渡り、大垣を攻めようとする美濃勢を背後を脅かそうと画策・・・おかげで、美濃勢は稲葉山城へと戻りますが、この信秀の留守中に、尾張では織田清州衆織田信友(のぶとも=達勝の後継者)らが、古渡城下に火を放つという敵対行動に出ます。

この時は、織田家の重臣であった平手政秀(ひらてまさひで)(1月13日参照>>)が、清州衆の家老たちに、何度となく停戦を呼びかけ、何とか、翌・天文十七年(1548年)の秋に、両者の譲歩による和睦が成立・・・いち時の平穏を取り戻しますが・・・。

・・・と、このように、未だ尾張の国内でもゴタゴタがある中での対・道三・・・もちろん、あの三河周辺を巡っての今川とのゴタゴタも・・・

考えた信秀は、ここに来て、道三と和議を結ぶ事に・・・そう、自身の息子・信長と、道三の娘・帰蝶(きちょう・濃姫)との結婚です(2月24日参照>>)

今回も、かの平手政秀の尽力により、なんとか婚姻話が成立しますが、そんなこんなの天文十八年(1549年)1月17日尾張犬山城(愛知県犬山市)主の織田信清(のぶきよ=信長の従兄弟・信安の後見人)が、楽田城(がくでんじょう=犬山市)主の織田寛貞(ひろさだ)とともに兵を挙げたのです。

春日井原(かすがいはら=春日井市)を駆け抜け、竜泉寺(りゅうせんじ=名古屋市守山区)下、柏井口(かしわいぐち)へと攻め寄せた犬山&楽田の軍勢は、あちこちに放火してまわり、あたりは炎に包まれます。

この時、信秀は、すでに古渡城を取り壊して末森(末盛・すえもり=名古屋市千種区)という場所に作った山城を居城としていましたが、その知らせをを聞いて、すぐさま出陣・・・出会いがしらに一戦を交えて、またたく間に切り崩し、数十人を討ち取りました。

この電光石火の攻撃にビビッた犬山&楽田勢は、崩れるように、もと来た春日井原を引き返していったとの事・・・

♪やりなはを 引きずりながら ひろき野を
 遠ぼえしてぞ にぐる犬山 ♪

「リードを引きずった犬が、遠吠えしながら犬山に逃げて行きよったで!」

周辺には、この敗戦で、槍を引きずりながら逃げていった犬山&楽田の軍勢の事をあざ笑う、誰が書いたかわからない立て札が、あちこちに立ててあったのだとか・・・

と、信秀さんの大活躍ですが、残念ながら信秀さんは、この2年後の天文二十年(1551年)、42歳で病死してしまいます(3月3日参照>>)

Odanobunaga400a ご存じのように、その後は、かの信長が信秀の後を継ぐ事になりますが、この信清の犬山城を重要拠点と考えた信長は、自身の妹(もしくは姉)と信清の結婚を実現させ、味方につけます。

それから後の信清は、信長の仲間の立場となり、後の尾張統一に一役買う事になるのですが、そのお話は11月1日のページでどうぞ>>
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コメント

茶々様

信秀のことは、実はあまり知りません。

信秀の抑えていた尾張の国は、この時期、海上交通による「税」での利益を得ていたようですね。…もっと後(信長の時代)?

信秀は、朝廷や幕府にも、かなりの“献金(御所の修理)”を出しているようなので、経済的には、余裕があったのでしょう。

それにしても、信長が道三の娘(濃姫)と政略結婚をしたことは有名ですが、その後の歴史に、濃姫はあまり出てこないですね。どうしちゃったんでしょうか

投稿: 鹿児島のタク | 2014年1月18日 (土) 04時48分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

駿河に行くはずだった家康を尾張に連れて来た時に田原城主の戸田康光が船を利用してますし、そんな彼を寝返らせたのはお金ですから…信秀にとって海上交通もお金も重要だったでしょうね。

濃姫は…
以前のページ>>にも書かせていただきましたが、道三との縁が切れた時点で殺されたのでは?との噂があるくらい史料に出て来ませんからね~
ホント、どうしちゃったんでしょうね

投稿: 茶々 | 2014年1月18日 (土) 10時09分

寛政重修緒家譜に詳しいのですが、三河湾から遠江沿岸の諸豪族(遠州の松下加兵衛-渥美半島遠州灘の畔田-幡豆の小笠原-碧海郡の本多、都筑)は互いに姻戚関係にある事が判ります。
彼らは間違いなく海上交易という共通の利害を以て結びついた一群ですね。
そして、渥美半島全域と知多半島の三分の一を所領に治め、そのボトルネックを押さえる形でこの内海を支配していたのが田原戸田氏です。

その辺りを考慮すると、当時の戸田家の経済力は弾正忠家のそれと比べてそう引けを取る物ではなかったのではないかと思われます。

そもそも15世紀半ばに松平氏を山間僻地から平野へと導いて以来、共に三河に覇を唱えて来た戸田氏です、たかが銭一千貫に目が眩み一族を滅亡の淵に追いやる様な愚挙に容易く応じる物でしょうか?
恐らく、当主戸田康光は、松平氏を巻き込む事で尾張半国と東西三河勢力を糾合し、恒常的に東三河に圧力をかけ続ける今川氏の圧力を排除、更には曾祖父宗光が果たせなかった遠州侵攻による経済圏の拡大まで思いを巡らした上で、竹千代強奪という行動に出たのではないかと推察いたします。

投稿: 野良猫 | 2014年1月18日 (土) 23時56分

野良猫さん、こんばんは~

そうですね。
おっしゃる通り…複雑な力関係が絡み合ってるのが現状で、実際には、そんなに単純な物ではないのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年1月19日 (日) 01時55分

茶々様 遅れましたが、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
犬山、楽田、岩倉となじみのある名前ばかりです。
犬山城は毎日見てますね。
楽田城、岩倉城は遺構がないのでさっぱりわかりませんが、犬山城は北側の防御は堅いですが、南側は弱いと思います。
堀とかあったんですかね?

濃姫に関しては、その後諸説あるようですが、いずれも決定打ではないようですね。

投稿: エアバスA381 | 2014年1月22日 (水) 08時56分

エアバスA381さん、こんばんは~

江戸時代に幕府に提出された絵図には堀が描いてありますが、それ以前の戦国時代の犬山城の規模については不明みたいですよ。

投稿: 茶々 | 2014年1月22日 (水) 18時26分

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